戯作三昧
足元で枯葉が音を立てた。見ると枯葉の隙間から黄色い花が小さな顔をだし、風に揺れていた。
私は立ち止まって一息つくと、頬をつたう汗をタオルでふいた。すっかり春である。木漏れ日が新緑の間を縫い、山道ににまだら模様を作っていた。
「ほら見てみろ!」
私は振り向くと叫んだ。
「なんだい」
遅れてやってきた男は息も絶え絶え言った。
「花が咲いている」
「そうだな」
男は両手を膝について息を整えている。花には関心は無さそうだ。
「どうしたんだ、この程度で根を上げて。まだまだ歩き始めたばかりだぞ」
私は言った。
「そんなこと言ったって、私は君みたいに体力のあるほうじゃないんだ。どちらかといえば思索に向いている。いきなりこんな山に連れ出されたらこうもなるさ」
「だから誘ったんだよ。毎日部屋に引きこもってるんじゃ体に悪い。たまには自然と触れ合わないと」
「ならばもっとほかに場所があっただろ。少なくともどこかの公園とか。平地でよかったんだ」
「それじゃあ運動にならん」
「私は運動なんて求めてない」
男はそういって腰を下ろすと、リュックから水筒を取り出して水を飲み始めた。
私はやれやれと思いながら男の隣に座った。
「それにしても奇麗な花だな。これはなんだろう」
「スイセンだ」
私は耳を疑った。
「即答だな。君が花に興味があったなんて初耳だな」
「興味がなくても知ってて当たり前だ、知らないほうがどうかしてる」
「そうかい」
私は懐から煙草を取り出すと火をつけた。男が一本くれといったのでやった。
二人で煙をくゆらせていると鳥が歌いながら木々から木々へと飛び移っていった。平和な自然の一風景である。
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」
男が言った。
「なんだねそれは?」
私は言った。
「東洋の小説の一文さ」
「随分と厭世的だな」
「しかし嘘ではないだろ?」
「まあ、間違ってはいないだろうが、そんなことをいちいち考えていたら生きてはいけないさ」
「みんな君みたいに短絡だったらどんなに人の世が生きやすくなるか」
「お褒めに預かって光栄だね。できるだけシンプルに、それが私の人生哲学さ」
「ケセラセラ」
「セラビ」
「君はだからこんな自然が好きなのかもしれないな。生まれては死に、また生まれては死ぬ。シンプルで残酷ゆえに力強いシステムだ」
「そんな単純なものか? 私にはもっと複雑に思えるが」
「それは君が物事に同情的だからさ。自然は君が思っているほど情緒的ではない」
「別に星菫派を気取るつもりはないが、どうにも頷けないな。ならばシンプルであろうとする私と矛盾するじゃないか」
「物事に同情的であることと出来るだけシンプルであろうとすること、別にそれらは矛盾しないさ」
「その理屈は分らんが、君に言わせると私は自分で気づかないうちに冷血漢になっているということか?」
「だからそうじゃないさ。そうだなあ、君は人を殺すことに対してどう思う?」
なんだか面倒くさくなってきたな、と私はため息をついた。私はただこの男と楽しくハイキングをしたかっただけなのに。
「あいにくサイコパスではないんでね。人殺しも人を傷つけるのもまっぴら御免だ。血なんて見たくはない」
「ならばこれならどうだ? 君が売った車が何度も転売され、巡り巡って最終的に少し頭の鈍い男の手に渡ったとしよう。男は不注意で橋の欄干に突っ込み不幸にも帰らぬ人となってしまった。このとき、君は罪を感じるか?」
「そこまで行ったら私の責任なんてどこにもないじゃないか。そりゃ多少は同情もするが、だからといってこちらがそれ以上思ってやる必要はない」
「それがシステムだ」
「偶然の連続の結果誰かが不幸になっただけの話なのにどこにシステムがあるんだ」
「事象そのものが問題ではない。物事の細分化が問題なんだ。わかりやすく段階を踏めば踏むほど、人々の中から罪の意識が消える」
「そんなこと言ったって、人は一人で生きられない。仕方がないことじゃないか」
いちいち結果を気にしていたら何もできないではないか、私はそう続けそうになって、案外自分も冷たい人間なのではないかと思った。
「なにも私は、そういったことを正当化したいわけじゃない。ただ……」
「そう気に病むことはないさ。それに私は別に君を責めたいわけじゃない。誰だって無辜の人間であ理続けるのは不可能なんだから。なにより、僕らは生まれながらにして原罪を抱えているのだからね」
「フォローになってないな」
「私は器用な人間じゃないんだ。許してくれ」
「君の軽口の結果、私は傷ついた。これも君の言う細分化かな?」
「構造としては全く一緒だな。私には罪の意識はこれっぽちもない」
「よく本人を目の前にしてどうどうと言えるよ」
私は呆れていった。
「シンプルでいいだろ?」
「そうだな」
私は二本目の煙草に火をつけた。一息吸って口をすぼめると、木漏れ日に向かって煙を吐いた。汗はすっかり引いていた。
「ただし気を付けなければならないのは」男は立ち上がると伸びをした。「それを特定の目的のために意図的に使ってくる輩がいるということさ」
「酷い奴もいるもんだな」
「冗談じゃないんだぜ。歴史を振り返ってみろ」
私は少し考えてみた。
「ジェノサイド」
「そうだ。有名な収容所なんてその典型だ。多くの人は君と同じように暴力を嫌う。まして殺人なんてまっぴら御免だ。そんな世間の良心という名のストッパーを壊すにはどうする? 金か? 女か? 地位や名誉か? そんなものでは駄目だ。どこかで止まってしまう。何故なら、世間はまともだからだ。ならばどうするか、システム、細分化だ。目の前のランプが光ったらボタンを押す。ベルトコンベアから流れてくる瓶が倒れていたら起こす。穴を掘っては埋めさせる。そんな一見不毛な行為を積み重ねる。その結果、人の血が流れる。だが、人々は罪の意識を感じない。何故ならば、自分たちはただただ不毛な行為を繰り返しているだけだからだ。自身の行動の結果などには目がいかない。ただひたすらボタンをし続けるまでだ。勿論これはたとえ話だが、現実はもっと緻密でシステマチックだ」
「目的の喪失」
「不条理さ。その根幹とはつまり、人は自由を求めないということだ。群れ社会である人間の本質をついてくるのだね。古今東西のインテリが求めた自由など、所詮は枠組みの中の選択にすぎない。自分にとって都合の良いものを並べただけだ。少し数が多いから自由だと勘違いしてしまんだな」
「嫌なものだね」
「ああ、実に嫌なものだ。それにシステムで正当化できるの殺人だけじゃない。あらゆる詐欺行為で可能だ。なんでもない風車を化け物だと思わせるだけでいい。一つの仮想敵をつくるのだ。三十かそこらの途方もなく醜怪な巨人どもが姿を現したではないかってなもんだ。自然災害だろうが病だろうがなんだっていい。嘘は大きければ大きいほどいいのだ。まさか、という常識をつく。そしてそこでシステムを構築する。その結果、金儲けが出来る。他人の自由や人生と引き換えにね」
「それは言いすぎじゃないか。世間の人間はそこまで頭は悪くないぞ」
「だったら何故オカルトは今でも力を持てる? 宗教がいまだに大きな顔をしているのは何故だ?」
私は言い返そうと思ったが、何も浮かんでこなかった。あきらめて頭を降ると、ごまかす様に煙草をくわえた。
「なんというか、君もやっぱり、暴力は嫌いなのかい?」
私はもごもごと言った。
「嫌だね。だって私には勝ち目がないじゃないか。御覧の通り、君の尻を追うのでも精いっぱいだ。そんな私が誰かと戦えるとでも?」
私は笑うと、立ち上がってズボンを払った。
「そろそろ行こうか。まだ三分の一も来ていないのにこんなに日が高くなってしまった。こりゃ途中で引き返すことになるかな」
「せっかく来たんだ、行けるところまで行こう」
そういうと男は私の前を大股で歩き出した。すぐにばてるというのに暢気なものである。