第三七話天文十二年七月中旬『身から出た錆』
「まさか渡河してくるなんて、ね」
「ど、どうしましょう、叔母上」
信広殿が慌てた様子で問うてくる。
それは正直、わたしも誰かに聞きたいところである。
こうならないって思ってたから、陣代を引き受けたというのに。
とはいえ、総大将になったからには迅速に決断は下さないといけない。
わたしはしばしの黙考し、
「ここはどう考えても籠城一択でしょう。早晩、信秀兄さまが大軍を率いて後詰めに来てくださるはずですし」
そう結論づける。
市江川の戦いでは津島を守らねばならなかったため、仕方なかったが、野戦で五倍以上の敵を相手どるなど、本来は無謀の極み。
わざわざそんな危険なことをする意味も、今回はない。
信秀兄さまとて、せっかく獲得したばかりの安祥城を取り返されたくはないだろう。必ず後詰めを出してくれるはず。
待っていれば状況は確実に好転するのだから、安心堅実に行くのが一番である。
「な、なるほど。冷静になって考えれば確かに仰る通りですね。想定外の注進に恥ずかしながら頭が真っ白になってしまいました」
信広殿が照れたように苦笑いを浮かべる。
「わかります。そういうことってありますよね」
「叔母上でもですか!?」
「はい、直近では先日の剣神社での神楽奉納なんて、緊張と焦りで覚えた踊り、全部吹き飛んじゃいましたよ。覚えていた敦盛を咄嗟に踊って誤魔化しただけで」
今から思い返してもあれは背筋が凍る。
信長の踊っていた舞があまりに強く印象に残っていたから、なんとかかんとかあの場を切り抜けることはできたが、もしあのままぼったちしてたらどうなっていたことか。
「ええっ!? あ、あの時の舞はそうだったのですか!?」
「し、信じられません。そのあまりの見事さから、鳳雛天臨の儀と語り草になっているほどなのに」
「はいっ!? 鳳雛てん……!?」
わたしの知らぬ間に、そんなこっぱずかしい中二病チックな名称つけられて語り草になってんの、あれ!?
本気で勘弁してほしいんですけど。
「しかし……なるほど。臨機応変こそ名将の証。頭が真っ白になっていてさえ、咄嗟の機転で一万の兵をあそこまで沸かせる。やはり叔母上に陣代を預けて正解でした」
いや、勝手にうんうんと納得しないでほしいんですけどね。
「わたしの事なんかより、詰めねばならぬことがありましょう」
コホンっとわざとらしく咳払いして、とっとと話題を元に戻す。
これ以上話題を広げられたら、たまったもんじゃないからね。
「ははっ、時間があればその辺り詳しくお聞きしたいところではありますが、左様でございますね。ふむ、父上はいつ頃参られると思います?」
「……そうですね」
口元に手をあて、わたしは考える。
現在の織田家は、北の斎藤家とは同盟関係にあり、西の一向宗は今、絶賛内輪揉めの真っ最中である。
後方に憂いはなく、この安祥城に援軍を大規模に送るのを躊躇う要因はない。
ただまあ、敵の数が数だ。
万単位の動員となると、一~二日はかかるだろう。
本拠地の鳴海から安祥城までの行程も、徒歩で一~二日と考えると、
「早くて二日、遅くても五日もあれば必ず」
「俺の見通しでもそれぐらいですね。つまり五日守り切れば良い、ということですな」
信広殿の顔から、安堵の笑みがこぼれる。
安祥城は深田と森に囲まれた堅城だからね。
それぐらいなら全然耐えられると思ったのだろう。
わたしも同じ見立てだ。
だが、だからこそ違和感を覚えずにはいられない。
「ただこの程度のこと、あの太原雪斎もわかっているはず。にもかかわらず西岸に乗り込んできた。それが不気味です」
信秀兄さまを迎え撃つのなら、矢作川東岸のほうがいいはずなのだ。
補給もしやすいし、矢作川を防壁としたほうが織田方の攻勢を凌ぎやすい。
敗色濃厚となれば、退路も確保しやすい。
「矢作川東岸から織田の勢力を排除し、すでに上々の戦果を挙げています。こんな乾坤一擲の強攻策を仕掛けてきたのか、意味がわかりません」
信秀兄さまの本隊を撃破し、安祥城も奪えればそりゃ万々歳だが、状況的に見て勝率二割、いや一割あればいいほうじゃないか?
今川領に侵攻されたわけでもない。所詮は対岸の火事じゃないか。
史実ではあれほどまでに慎重居士だった太原雪斎が、なぜこんな無茶無謀な賭けに出てきた?
そういえば、遠江の制圧も、史実より三年以上早い。
よくよく考えれば、信秀包囲網だって史実にはなかったものだ。
雪斎はいったい何をそこまで焦っている?
「意味ですか。……ふむ、一つだけ心当たりがありますね」
「えっ!? な、なんでしょう!?」
信広殿のつぶやきに、わたしは驚きの声とともに彼の顔を見上げる。
信広殿は苦笑とともにスッとわたしを指さし、
「叔母上、貴女です」
「……へ? わた……し?」
「雪斎ほどの男です。安祥の周辺にも草を忍ばせておりましょう。そしてこの安祥に叔母上がいることをつかみ、千載一遇の好機と見たのではないでしょうか?」
「ははは、信広殿、こんな時に冗談……」
はやめましょう、と言いかけて、信広殿があまりに真剣な顔をするので止まってしまう。
今世が史実と違う歴史を歩み始めているのは、まあ間違いなくわたしの巻き戻りが原因なわけで。
わたしの存在が織田家の勢力を急拡大させ、結果、雪斎に重大な脅威と判断され、焦燥感を募らせた?
確かに、まあ、辻褄が合うと言えば合う。
でも、しかしそんなまさか……ねぇ?
思わず否定したいが、背筋を冷たい汗が伝う。
あんな大物にそこまで目の敵にされるとか、本気で勘弁してほしいんですけど!




