第三三話 天文十二年七月中旬『幸か不幸か』
「ぐおおおおおお!」
草木も眠る丑三つ時(午前二時)、織田信秀は自らの居城たる鳴海城の寝所で高いびきをかいていた。
最近の彼は、特によく眠れる日々が続いていた。
理由はつやが掘り当てた温泉のおかげであろう。
この日も信秀は日中は執務に精を出し、日没後には温泉にゆっくり浸かり、ぐっすりこんこんと気持ちよく深い眠りについていたのだが、
「っ!?」
突如、信秀はカッと目を見開き、すかさず枕元に置いてあった愛刀を手に取り、身体を起こす。
信秀は一代で尾張と三河の半分を手に入れた男である。
今は亡き信光ほどではなくとも、ただならぬ気配には敏感なのだ。
「信秀様ーっ!」
間を置かずして、自分を呼ぶ声とともに、ドタドタっと慌ただしく床を踏み鳴らす音が響いてきた。
「何事じゃ!?」
パァン! と障子戸を開け、信秀が叫ぶ。
近習の声の様子からしてもあまりよろしくないことが起きたことはわかる。いちいち形式的なやりとりをしている暇も惜しかったのだ。
「先程、安祥より早馬が! 今川勢一万が西三河に押し寄せてきたとのことです!」
「な、なぬぅっ!?」
寝耳に水とはまさにこのことである。
だが、そこは信秀も一代の傑物であり、政略・謀の達人である。
「ちっ、遠江平定の軍をそのまま進軍させたか」
すぐにその絡繰りに勘づく。
普通なら有り得ないことだ。
新領地の掌握もそこそこにすぐの軍事行動など問題は山積みであり、下手すれば退路を断たれるなんて事にもなりかねない。
とんでもない博打を打ってきたものだと思う。
だがだからこそ、信秀も完全に裏をかかれたともいえる。
「至急、守護代様に拝謁賜りたい、と使番の者が申しております」
「是非もなし。疾く連れて参れ!」
「はっ!」
信秀の命に、近習が弾かれたように立ち上がり、小走りに去っていく。
「……上和田城は諦めねばならぬな」
再び静かになった寝所で、信秀は眉間にしわを寄せ難しい顔でつぶやく。
初動の遅れがさすがに致命的すぎた。
これから今川勢に対抗し得るだけの兵を集めるとなれば、どれだけ早くとも三日はかかるだろう。
最前線の拠点である上和田城に到着するには、さらに二日といったところか。
上和田城は城とは名ばかりの、屋敷に毛が生えたような代物に過ぎない。詰めている兵も一〇〇名かそこら。
一万もの軍勢を相手に五日も持ちこたえるまず不可能だろう。
「いや、上和田城一つで済むならむしろ重畳か」
自分が太原雪斎ならば、上和田城はあえて落とさない。
包囲し、織田軍を釣り出す餌とする。
そして相手の意表を突いて稼いだ時間で対岸に陣を設営し、満を持して織田勢を待ち構えるのだ。
その餌に食いつき渡河してくるならば飛んで火にいる夏の虫と叩き潰せばよく、静観するのならば、城兵たちを惨たらしく殺し、信秀の名声と信望を貶めればよい。
どちらも信秀としては選びたくない選択肢である。
「黒衣の宰相、太原雪斎……か」
つやが随分と高評価していたのを、よく覚えている。
彼女の知る歴史においては、信秀はこの坊主に幾度となく煮え湯を飲まされ続けた、と。
なるほど、先の五カ国同盟による織田包囲網といい、此度の侵攻といい、確かに大した知略の持ち主だと唸らざるを得ない。
そんな智謀の将が、自分が思いついたことに思い至らぬはずもない。
「やれやれ、はなはだ面倒な事態になったものよ」
さてどうしたものかと信秀が苦虫を噛み潰していると、先程よりもうるさく足音が近づいてくる。
近習が使番を連れて戻ってきたのだろう。
「夜分遅くでありながら、拝謁賜り……」
「あー、よいよい。口上はいらぬ。とにかくおぬしが知っていることを話せ」
現れた使番に、信秀はひらひらと手を振って言葉を遮り、単刀直入に訊く。
信秀はあの織田信長の父らしく、合理を好みせっかちな人間である。
この一刻を争う事態に、形式になどこだわって時間を無駄にする性分ではなかった。
「はっ、我が主より書状を預かっております。まずはこちらをご確認くださいませ」
「ほう、信広からか」
「いえ、おつや様です」
「つやっ!?」
まさかそんな名が出るとは夢にも思わず、信秀は思わず素っ頓狂な声をあげる。
だがよくよく見れば、確かにこの使番は、つやのところでよく見た顔である。
確か名を太田牛一と言ったか。
「……あ~、そういえば先日会った時に、安祥城に向かうと申しておったのぅ」
はたと思い出す。
生まれて初めての遠出にワクワクウキウキしていた様子だった。
だというのに、向かった先でこんな事態に遭遇するとは、なんとも間の悪い娘というしかない。
「ふむ、とりあえず書状を読ませてもらうとしようか」
「こちらに」
「うむ」
巻物を受け取り、信秀はばさっと広げる。
そして読み進めていく内に、くわっと目を見開く。
「な、なんと! まさかそんな手が!」
巻物には、自らの領地半分を質にして上和田城を放棄することを松平忠倫に要請する旨が記されていた。
はっきり言って非常識極まりない策だ。
この時代、武士たちが喉から手が出るほど求めてやまないものが知行(領地)である。
それを起請文まで沿えて半分差し出すなど、はっきり言って正気の沙汰ではない。
他の者ならば、考えつきさえしないだろう。思考の枠外だったはずだ。
知行に執着していない、むしろ煩わしいとさえ感じている彼女ならではの策であり、
「雪斎もいい面の皮よな」
くつくつと信秀は人の悪い笑みを浮かべる。
さすがの太原雪斎もこんな奇想天外な一手は読めなかっただろう。
計画を練りに練り、相当な準備をし実行した会心の策だったはずなのだ。
そして九分九厘、その策は見事に遂行されていた。
それをまさか最後の土壇場で、こんな本来あり得ないような一手で盤面をひっくり返されるなど、もはや敵ながら同情するしかない。
「だが、おかげで助かった。九死に一生を得るとはまさにこの事よ」
信秀はふううっと思わず安堵の吐息をこぼす。
忠倫が上和田城を放棄してくれれば、信秀は敵が万全の布陣を敷いて待ち構えている上和田城に、わざわざ矢作川を越える危険を冒して後詰めをする必要がなくなる。
確かに上和田城は取り返さねばならぬが、敵は遠江制圧からの強行軍である。急がず持久戦に持ち込めば先に根を上げるのは今川方のほうである。
つやの策は、信秀にとってまさに起死回生の一手だったのだ。
忠倫がつやの申し出を受けるかどうかはまだ不明ではあるが、以前会った印象からして、十中八九受け入れるはずだ。
忠倫は粗暴な広忠のことを嫌っていたし、裏切りの報復をいたく恐れていた。
言葉の端々から、戦乱に疲れ果て、厭戦的な気配も感じていた。
知行も戦が絶えず収穫量も不安定な矢作川周辺より、織田弾正忠家に統一された尾張に移れるなら、彼としては万々歳というものだろう。
「さすが戦神の巫女、大した天運よ」
つやが気まぐれで三河を物見遊山しようなどと企てなければ、今ごろ織田弾正忠家としては、かなり不利な状況での戦を余儀なくされていたに違いない。
本人からすればいい迷惑ではあったのだろうが、そんな場に運よく居合わせられるのは、これぞ将器というしかない。
歴史を紐解けば、名将は得てしていざという時の運にも恵まれているのだ。
「牛一、だったな。知りたいことは全て知れた。大義である! つやにも儂が厚く礼を言っていたと伝えてくれ。忠倫の知行も貴様が割譲するまでもなく、儂がちゃんと用意するともな」
「はっ、では自分は清須城にも用がありますのでこれにて失礼致します」
一礼して、牛一は足早に去っていく。
その後ろ姿を見つめつつ、信秀はにやりと笑う。
「ふっ、さすがはつやよ。なかなか良い家臣を抱えておる」
信秀を前に、全く臆する素振りを見せなかった。なかなかの胆力と言える。
夜間、月明りだけを頼りに、安祥から鳴海まで馬を走らせてきた目と馬術も、なかなかに大したものだ。
実に先が楽しみな若者である。
「ただ、少々硬すぎるな。硬いだけでは、脆く折れやすい。そうならねばよいが……」
この辺りは、さすが一代で百万石に相当する勢力を築き上げた男である。
わずかの応対でも、牛一という人間の人となりを的確に見抜いていた。
そしてその懸念は、現実のものとなる。




