第三一話 天文十二年七月中旬『三十六策、走是上計』
一夜明け、しっかりと休息と朝餉を取った今川軍が再び進軍を開始した矢先の事である。
「雪斎様、手の者より知らせが」
「ほう」
スッと音もなく現れた頭巾の男に、雪斎は興味深げに目を瞠る。
男の名は鵜飼孫六。
鵜飼家は甲賀五十三家に数えられる忍びの名家である。
長享元年(一四八七年)と延徳三年(一四九一年)の二度にわたって行われた室町幕府は六角征伐、長享・延徳の乱での彼ら甲賀の忍びの活躍は、今も語り草となっている。
彼らの神出鬼没さに幕府軍は翻弄され、戦線は膠着し、ついには撤退に追い込まれたのだ。
この共闘以来、甲賀衆は六角氏と緊密な関係を築き、他家に使われることは基本あまりないのだが、最近、今川家に従属した戸田家の伝手で雇い入れることが出来、上和田城方面への偵察を任せていた。
「なにか動きでもありましたか?」
問いつつも、雪斎にはある程度、予測がついていた。
まだ信秀率いる本隊が来るにはまださすがに早すぎる。
と言うことは、安祥城の織田信広が救出に動いたといったところか。
やはりまだ若い、と雪斎は内心ほくそ笑んだものだったが、
「はっ。上和田城の者どもが、城を捨てて西へと遁走いたしたとのことです」
「……西へ?」
孫六の報告に、雪斎はいぶかしげに眉をひそめた。
兵たちの大半は、農民である。
ゆえに武士のように命尽きるまで戦うなどということはなく、敗色濃厚になるや兵たちが蜘蛛の子を散らすように守るべき城から逃げ出すというのは、よくあることである。
だが、それなら逃げた先は、自分たちの住む村のはずだ。
「なぜ自分たちの村を捨てて、西、矢作川の西岸の織田領へ逃げ込もうとする?」
松平家の圧政に耐えかね、戻るのを嫌がった?
いやしかし、そんな話は聞いた覚えがない。
いったい……?
「逃げたのは雑兵ではなく、どうも城主松平忠倫自らのようでして……」
「なにっ!? どういうことです!?」
「逃げた者の中に、その装束から明らかに身分の高い者がいたそうです。馬廻りと思しき者たちにも囲まれており、松平忠倫と見て間違いないかと」
「な、なんと……」
太原雪斎の声は驚きに満ちていた。
これは彼をもってしても、想定外もいいところだったのだ。
この時代、裏切りは横行している。
だが、一度裏切った者はまた裏切るものだ。
だからこそ、寝返った者は危険な最前線に送られ、その忠誠を求められるのが常だった。
それが敵と一度も交戦せずに逃げ出した? しかも織田領に?
降伏するにしても、衆寡敵せず、織田の後詰めもないのでそれもやむなし、という体裁を立ててやるものである。
戦略的にも士気的にも問題行動の極みであり、武士の風上にも置けぬ臆病者として処断されてもおかしくない行動だ。
普通に考えて、本来なら起こり得ない事象であった。
「い、いったいなにゆえ!?」
「そればっかりはあっしも……ただ一つ、気になる情報が……」
「なんです!?」
「手の者の知らせによれば、今、安祥城にはつや姫が滞在している、と」
「なっ……!? ま、まさかこっちの動きをすでに察知していたのか!?」
さすがの雪斎も、これには動揺を隠せなかった。
沈着冷静、数十手先まで見通す千里眼とまで謳われる彼にしては、極めて珍しい事である。
必勝の策をもって先手を打って袋小路に追い詰めたつもりが、まさか自分が敵の手のひらの上で転がされていただけなのでは?
そんな疑念が脳裏を埋め尽くさずにはいられない。
「さ、さすがにそれはないでしょう。遠江、東三河の主要な街道は先に手を回して封鎖しております。今川勢に付いていた敵方の間者は遠回りせざるをえず、今、鳴海に知らせが届いたかどうかというところかと」
「確かにその通りではあるのですが、かの者は神託を受けてるそうですから、ね」
ぶわっと戦慄の脂汗を顔中に滲ませつつ、震える声で雪斎は言う。
恐ろしい。
これほど恐ろしいと思った相手はいなかった。
今こうしてる間も、素戔嗚が高天原から自分たちを覗いているかもしれない。
そしてそれを鳳雛に伝えているのでは?
そう思うと、我知らず歯をカチカチと鳴らさずにはいられなかった。
「ぐ、偶然でしょう。本当に今川勢の動きを察知していたのならば、既に尾張のほうで動きがあったはず。しかし、そんな報告は受けておりませぬ」
この孫六の言葉は、理に適っている。
常識的に考えれば、その通りだ。そのはずなのだが……
先の市江川の戦いの事を想い返すと、
「それさえ鳳雛の張った遠大な罠やもしれぬ」
「ま、まさか!?」
「うむ、あくまでまさかよ。だが、かの者には常識がまるで通用しない。まったくそら恐ろしい相手を敵に回したものよ……」
仮に本当に偶然だったとしても、今この時に安祥城にいるのは、とんでもない天運の持ち主と言うしかない。
戦場では想定外のことなどいくらでも起こるものである。
同じ状況での同じ人の判断でも、その日の体調、気分によって変わったりするものだ。
だからこそ、運を味方につけた者は脅威なのだ。
いざと言う時ほど、その自分に都合の良い偶然を引き寄せてしまうのだから。
「しかし、なるほど。松平忠倫の逃亡は、彼女の手引きですか」
安祥城に鳳雛がいるというのなら、今回のあり得ない逃亡劇にも得心がいくというものである。
そして、非常識極まりなくはあったが、一方でこの状況にあってこれ以上ないほどの起死回生の一手と言えた。
「まったくやってくれましたね、鳳雛……っ!」
ぎりっと雪斎は奥歯を噛み締める。
敵が待ち構えている死地に後詰めに向かうか、味方を見捨てて臣下の信を失うか。
どちらを選んでも大損という二者択一を織田勢に迫るはずの雪斎の渾身の策が、根底から覆されたのだ。
上和田城の者たちが織田領に早々に避難し、織田勢による救出義務がなくなったことで。
確かに上和田城という橋頭堡は失うが、すでに守り切ることは極めて難しい状況だった。
ならばとっとと損切りをするべきであり、その果断さは瞠目に値する。
なまなかな者にそんな判断は到底できない。
普通ならば、どうしても惜しんでしまう。切り捨てられない。
そして、被害を拡大させるのだ。
敵ながら、大英断と褒めるしかなかった。
「上和田の地で盛大に乱取りを行い、戦わずに逃げた織田勢の弱腰ぶりを喧伝するというのはどうでしょう?」
そう進言したのは、傍らに控えていた岡部元信だ。
乱取りとは、いわば軍による略奪である。
周辺の村々を略奪し、食糧や女子どもを浚い、犯し、売り払う。
非道極まりない行為ではあるが、この時代ではごく普通の事に行われている事だった。
そして、領主には当然、そういう敵の略奪から領民たちを守る責務があり、それを果たせぬとなれば、そしりは免れないのだろうが、雪斎は静かに首を横に振る。
「ここは三河です。上和田城も元は松平のもの。しかもここは松平家の本拠である岡崎城の目と鼻の先。そんなところで乱取りなど大々的に行えば、信を失うはむしろ我らです」
今回の三河侵攻は、上和田城の奪還、及び矢作川東岸から織田勢を排除し、ほぼ従属下にある松平家の領土を安堵することが大義名分である。
救出に来たのに、略奪の限りを尽くしたでは本末転倒もいいところだった。
父清康以来、三河の国主を自認する松平家としても、居城のすぐそばとなれば今後の統治に支障が大きく、乱取りは到底許可できぬに違いない。
強行などすれば、今川家と松平家の同盟にひびが入りかねない。
雪斎としてもそんな愚は犯せなかった。
そして鳳雛としても、当然それは計算ずくの撤退であろう。
「やれやれ、前提をひっくり返された以上、今後の策を練り直さなくてはなりませんか」
難しい顔で、雪斎は首を振る。
もぬけの殻となった上和田城を獲るのは容易い。
その後はそのまま上和田城を本陣とし、集結してきた織田勢と矢作川を挟んでの睨み合いとなるはず。
だが、織田方としてはもう急いで渡河を強行する必要はない。
兵力や兵站的に見て、今川方は不利な戦いを強いられるだろう。
「矢作川を盾になんとか戦いを膠着状態に持ち込み、上和田城を守り通せれば御の字といったところですかね」
一応はそれで、此度の戦は今川家の勝ちということにはなる。
矢作川東岸からの織田勢力の一掃という最低限の目標はとりあえず達成することにはなるのだから。
「だがそれはおそらく、鳳雛の思惑通りの展開……でしょうね」
忌々しげに、雪斎はがりっと親指の爪を噛む。
昨今の織田家の勢いはとにかく凄まじい。
織田家と今川家の国力の差は、日を追うごとに拡大していっている。
上和田城一つ取り戻した程度では、今後こちらがじり貧になるのは目に見えている。
だからこそここで、織田家の出鼻をくじく手痛い打撃を与えておきたかったのだが……
「すでに安祥城に鳳雛がいて睨みを利かせている状況では、なまなかな策は見破られるでしょう。さてどうし……ん? んんっ!?」
雪斎はカッと目を見開く。
自分の紡いだ言葉に、違和感と天啓を覚えたのだ。
自分の将としての勘が告げていた。
ここに光明がある、と。
そしてすぐにその正体に気づく。
「ふっ、ふふふふ、むしろこれは我が今川家にとって、最初で最後の、千載一遇の好機やもしれませんね」
にぃぃぃっと雪斎が凄絶に嗤う。
もはやそこにいたのは、臨済宗の僧侶などでは断じてなかった。
乾坤一擲の覚悟を決めた歴戦のいくさ人の貌だった。




