第二九話 天文十二年七月中旬『王手飛車取りの妙策』
ほぼ同じ頃――
今川軍一万は、三河国の山中城にて休息を取っていた。
山中城はこの時代の主要な交通路である鎌倉街道の分岐点を見下ろす要衝、医王山に築かれた、三河国の中でも最大の山城である。
上和田城まで三里(約一二キロ)もなく、半日もあれば到達できる位置にあり、上和田城攻略の拠点とするにはまさにもってこいの場所だったのだ。
「手の者によれば、突如現れた我らに上和田の守兵たちは慌てふためいていたとのことです」
「それは重畳。敵方は今の今まで我々の進軍に気づいていなかったということですからね」
若武者の報告に、太原雪斎は満足げに頷いた。
今回の作戦は、いかに敵に気づかれずに上和田に接近できるかが肝であった。
「はっ、織田家の後詰めが来るまでどれだけ早く見積もっても、五日はかかりましょう。それだけあれば、上和田城を落とすなど造作もありますまい」
若武者もニヤリと口の端を吊り上げる。
その眼光は鋭く、笑みにも雪斎相手にも物怖じしない不敵さがあった。
(さすがは岡部親綱殿のご嫡男。良い面構えをしている)
岡部親綱は花倉の乱において方ノ上城、花倉城を落城せしめた今川家が誇る名将の一人だ。
この若武者からはその父さえ超える才気のほとばしりをひしひしと感じる。
名は確か岡部元信と言ったか。
元服したばかりであるが、実に頼もしい限りである。
ただ、やはり元服仕立てだからか、まだまだ若い。
雪斎は静かに首を左右に振る。
「いえ、上和田城はすぐには落としません。包囲にとどめ置くつもりです」
「っ!? なぜでしょう!? 悠長なことをしていては織田家の後詰めが来てしまいますぞ」
せっかく得た利をなぜ捨てる!? とばかりに元信は詰問してくる。
自分に食ってかかれるとは、やはり大した胆力である。
こういう血気盛んな若者が、雪斎は嫌いではない。
実に教え甲斐があるというものである。
雪斎は楽し気に笑いつつ、
「来させれば良いではないですか。矢作川を越えさせて、ね」
「っ! なるほど。上和田は海老ということですか」
「ええ。どうせ釣るならば鯛でしょう」
上和田城の防備は大したことはない。落とすことなどいつでもできる。
ならばより難敵である織田家に打撃を与える為にこの状況を利用してしまえ、というのが雪斎の考えだった。
臣下の城が攻められた時、主君は後詰め(援軍)を送る義務がある。
川そばでしっかり陣形を整え、今川軍が待ち構えているところへ、だ。
渡河中は当然進軍が遅くなり、前後で部隊が分断されやすく、極めて各個撃破されやすい状況に陥らせることが出来る。
まさに織田軍が救援に来れば、飛んで火にいる夏の虫となるという寸法だった。
「したり。とは言え、信秀も『尾張の虎』とまで言われた男、はたして釣れるでしょうか?」
元信の懸念は実にもっともと言える。
渡河が危険なことぐらい、兵法の基本中の基本である。
また他にも、先に戦場に到達して待ち構えるほうが有利であり、遅れて到達するほうが不利、とも孫子にはある。
歴戦の猛者である信秀がそれらを知らぬはずもなく、こんな見え透いた罠に食いつくとは雪斎も思っていない。
ゆえに――
「釣れなくても良いのです。上和田を見殺しにすることになりますからな」
「なるほど、どちらに転んでも、我らにとって利になるということですか!」
「そういうことです」
雪斎は満足げに頷く。
繰り返すが、後詰めは主君の義務である。
これを怠り上和田城をみすみす見捨てれば、信秀は矢作川東岸の侵略の重要拠点たる上和田城だけでなく、他の臣下の信まで失い、求心力の著しい低下というおまけまで付いてくる。
それはそれで織田家の急激な東進、勢力拡大を阻みたい今川家としては、願ったりかなったりの状況となる。
まさに王手飛車取りとも言うべき、会心の一手であった。
だが、雪斎の奸計にはまだ続きがあった。
「まあ、拙僧としては欲を言えば、鯛は釣れずとも、まだ若い鮭や鰻ぐらいは釣りたいところでしてな」
「若い? なるほど、そう言えば安祥城の城主は織田信広。拙者が言うのはなんですが、元服仕立ての若造、功を焦って、あるいは窮地に慌てて、東岸に乗り込んできたところを、ですか」
「したり。さすが岡部殿のご嫡男。話が早い」
雪斎はニヤリと口の端を吊り上げる。
これは世辞ではなく本心からの言葉である。
この若武者の当意即妙ぶりには、目を瞠るものがある。
先程の海老で鯛を釣ると言い、信広のことと言い、即座にこちらの意を悟り的確な言葉を返してこれるのは、知性の高さをうかがわせる。
「いえ、さすがというなら雪斎和尚のほうです。その神算鬼謀にはこの元信、舌を巻くしかありません。今後ともこの若造に兵法をご教授くださいませ」
その上、向上心も高い。
相手を立てつつ気分よくしゃべらせ、知恵を貪欲に盗もうとする。
こういう人間が、上に行くのである。
「ふふっ、元信殿と話をするのは拙僧としても楽しい。いつでも訪ねてきてください」
雪斎も鷹揚に応じる。
すでに自分も四八になる。
一〇年先、生きてるかどうかも怪しい。
この者ならば、いずれ自分亡き後も今川家を支えてくれるだろう。
ぜひ今の内から鍛えておきたい逸材だった。
鉄は熱いうちに打て、である。
「楽しいと言えば、鳳雛か。さて、かの者はどんな手を打ってくるかのぅ?」
市江川での嚢沙の計の仕掛けは敵ながら天晴と言えた。
かの者が自分の仕掛けにいったいどんな手で応じてくるのか。
謀を巡らす者として、純粋に興味がある。
期待外れなことをしてくれるなよ?
心のどこかで、そう思う自分がいるのを、雪斎は感じていた。
今川家の執権としては少々不謹慎ではあるが。




