第二四話 天文十二年七月中旬『織田家の長男』
「叔母上、ようこそおいでくださりました!」
鳴海を後にしたわたしが翌日訪れたのは、西三河の要衝、安祥城である。
出迎えてくれたのは、この城の城主、織田信広殿――
信秀兄さまが側室に産ませた長男であり、わたしにとっては年上の甥であり、そして実は前々世の岩村城では色々とお世話になった相手でもある。
……それにしても、若いなぁ。
三〇半ばの姿を知っていると、ちょっと感慨深いものがある。
「ささっ、叔母上、上座に」
信広殿がそそくさと立ち上がり、城主が座すべき上段の間を降りそこへと促してくるが、わたしは慌ててパタパタと手を振る。
「いやいや、下座でけっこうです。信広殿は織田宗家の長男であらせられます。叔母とは言え、年下の女子の下座に甘んじるものではございません」
「叔母上はただの女子ではないでしょう? 素戔嗚の巫女ではございませんか。今の織田弾正忠家の繁栄は叔母上の貢献あってこそ。俺ごときが下に置くなどとてもとても……」
「わたしとしても、織田宗家のご長男を下に置くなど畏れ多いです」
「長男と言っても、所詮は庶子。吉法師に勘十郎と嫡出の男子はすでに二人もいますけどね」
「それでも、です。それが君臣の別というものかと」
卑下するように苦笑する信広殿に、わたしはきっぱりと言い切る。
確かにこの時代、家の後継ぎとなれるのは、庶出、すなわち妾の子より、嫡出――正妻から生まれた子のほうである。
長男と言えど、信広殿が織田弾正忠家の家督を継ぐ可能性はほぼない。
……ないのだが、前々世、わたしが城主を任された岩村城の実質的な統治を行ってくれていたのは、彼と川尻秀隆だった。
織田家が四面楚歌に陥り、信長の命で離れることになりはしたが、親族としてわたしのことを案じ、気にかけてくれていたのはよく覚えている。
その恩を忘れ、居丈高に接するなど、わたしの矜持が許さなかった。
「ふむ、とは言えやはり、素戔嗚の巫女を下に置くのは畏れ多い。ではこうしましょう」
言って信広殿は上段の間にあった座布団を手に取り、部屋の真ん中あたりへと置く。
わたし用の座布団とは、上段の間から見て等距離。
つまりは対等の立場で接しようという事だろう。
ふふっ、こういうところ、昔と変わらないなぁ。
「お気遣い、ありがとうございます」
笑顔でうなずき、わたしも座布団に腰を下ろす。
こっそりとわずかではあるが、座布団を上段の間から離すのも忘れない。
いくら対等でいいと言ってくれても、やっぱり宗家のご長子様だからね。念には念をである。
信広殿もふわりと座布団に座ってから、
「改めて。安祥まで御足労、痛み入ります、叔母上」
拳を畳に突き、深々と頭を下げる。
ほんとそんな頭下げなくてもいいんだけど、これ以上その辺を言っても話が進まない。
わたしも三つ指を突き、
「いえ、こちらこそご多忙の中、こうして面談のお時間を頂きありがとうございます」
畳すれすれぐらいにまで頭を下げておく。
こすりつけるまでいくと、あっちも色々気にしそうだし、これぐらいが丁度いい塩梅だろう。
「叔母上とお話しするためならば、時間などいくらでも開けますとも!」
頭を上げた信広殿が、憧れに満ちたキラキラとした瞳で断言する。
あ~、なんかちょっと嫌な予感が……
「市江川での鳳凰の羽ばたき一閃! この機会にぜひとも詳しくお聞きしたく!」
やっぱりかぁ。
なんか世間一般では最近、わたしが手を振ったら、洪水が起こって一向宗を呑み込んだとか、まことしやかに言われてるらしいんだよなぁ。
噂には尾ひれはひれがつくものだけれど、本当勘弁してほしい。
「別にあれは上流で堰を造り、切っただけです。神通力の類ではありません」
「ええ、それは存じ上げております。ただ嚢沙の計は敵も当然、警戒していたはず。それをかいくぐり、見事、策にハメた手練手管をご教授頂きたく」
「なるほど」
頷きつつも、わたしは驚きに目を瞠っていた。
思ったよりも玄人な見方をしている。
初心者ほど派手な動きを好みそこに目を奪われがちだが、上級者ほどそこに持っていくまでの過程、相手の心理の隙を突くことを重視するようになっていくものだ。
織田宗家の長男として、しっかり戦略戦術の要諦は傅役から叩き込まれたのだろう。
とは言え、それを差し引いても、一六の少年としてはかなり分別がついている。
成経なんか顕著だけど、この年頃の男の子なんて、功に焦って猪突猛進なものだからね。
史実では信秀兄さまから安祥城の城主を任されながら守り切れず敗戦し今川家の捕虜となったり、信長への叛旗を翻そうとするも事前察知され失敗したり、最期は長島一向一揆で戦死と、史実では戦場の将としてはいいところがなかっただけに、少々意外だった。
まあでも、戦場では頭の良さよりも、機を読む感性や一瞬の判断力がものをいう所が大きい。
脳筋な成経がうち一番の戦功をあげていることからも、それはわかる。
残酷ではあるが史実の結果から見るに、おそらく彼にはそういう天性のセンスとも言うべきものが致命的に足りないのだろう。
先の安祥合戦では本丸陥落の大手柄を挙げてこそいるのだが、おそらくは史実でも猛将と名高い下方貞清の貢献が大きそうである。
「……ふむ、そうですね」
思案を終え、わたしは今か今かとワクワクして待つ信広殿を見据えて、ゆっくりと口を開く。
「手練手管というほどのものはございません。出来る事ならば使わず済ませたかった。それが運よく功を奏しただけのことかと」
「……ご謙遜を」
あからさまに落胆した様子で信広殿は不満げに言う。
武門に生きる男の子としては、その気持ちはわからないではないんだけど、
「いえ、謙遜ではなく、本当の事です」
事実は事実だしなぁ。
実際、未知の兵器である炮烙玉を警戒し、敵が渡河してこなくなってくれるのが、わたしの中では一番良かった。
その間に信秀兄さまの帰還を知れば敵も引き上げるだろうし、それが一番、人死にが少なくて済むルートだった。
わたしの中では嚢沙の計はあくまで、どうしようもなくなった時の最終手段に過ぎない。
そんなものを出さざるを得なかった時点で、手練手管と言われてもなぁ、である。
「まあ、あえて申し上げれば、わたしの渡河してきてほしくないなぁという気持ちが心の底からの本心だったからこそ、敵は引っかかった、といえるかもしれませんね」
「っ! なるほど、無欲の勝利、というわけですね」
納得したように、信広殿がうんうんと頷き、
「下方……ああ、父上から寄騎として付けられた者に槍を指南してもらっているのですが、いつも若は何を狙っているのか、いつ仕掛けてくるのかわかりやすすぎる、と」
「ふむ」
まあ正直、その指南役の言うことわかるんだよなぁ。
確かに色々と素直なのだ、この子。
顔の造形そのものには信秀兄さまの面影がかなりあるのだが、信秀兄さまや信長に感じる狡猾さや鋭さ、鬼気迫る怖さみたいなものを、信広殿からはまったく感じない。
この戦国乱世の将としては、少々頼りないと言わざるを得ないのも事実だった。
「虚ほど『意』を込め、実ほど『意』を消す。言葉にするだけなら簡単なれど、実際にやるとなると難しく……」
「まだ信広殿は一六。そのうち出来るように……」
「まだ十にも満たぬ叔母上が出来てるではありませんか」
おっと、これは藪蛇だったか。
ついつい年上の感覚でしゃべってしまっていた。
「話によれば吉などわずか七つで出来たという話です」
吉……信長のことか。
へえ、あいつ、そんな事も出来るのか。
いや、後の戦場での大活躍を鑑みれば当然と言えば当然なんだけど、殺気や怒気をまき散らしまくっていたから、あんまりそういうの消せるイメージはないのよね。
……敵意があふれまくっているからこそ、逆に虚にも強烈な『意』が籠り、相手からしたら全部が実に見える、とかあるのかもしれないな。
「父上も、今は亡き信光叔父も、元服前には出来ていたとのこと。それどころか、背後からの殺気にも瞬時に反応できた、と仰っていました」
さすがは二人とも、歴史に名を残した名将である。
彼らクラスになると、その程度は児戯にも等しいのだろうが、
「元服から二年も経つのに、いまだできぬ我が身の不明を恥じいるばかりです」
「できないほうが普通ですから」
わたしはきっぱりと言い切る。
少なくともわたしには出来ないし、二一世紀ではもはや出来る人を見つけるほうが難しいレベルのことだろう。
「それでも! それでも俺は、出来るようにならないといけないんです!」
信広殿は悲壮な顔で言い放つ。
う~ん、これは随分と思いつめてるなぁ。
今は戦国時代、出来たほうがいいのは確かだけど、何かただならぬ理由がありそうだった。