第十七話 天文十二年七月上旬『鳳雛と虎が企むは?』
「しっかし、松平とは休戦中だってのに、すっかり周りはきな臭くなってきたわねー」
信秀兄さまがお帰りになり、はるの淹れてくれた抹茶ミルクをすすりつつわたしは言う。
その水面下の陰謀に一役買ってるわたしが言うものでもないのかもしれないが、生き馬の目を抜くこの戦国乱世、無策でのほほんとするわけにもいかない。
しっかり前もって手を打っていかないと、後で困るのは目に見えているのだから。
「ですな。北のほうでも斎藤道三殿が戦支度を進めているとのことですし」
下座で年の頃は三〇ほど、細目が印象的な温和で理知的な印象の青年がうむと頷いた。
この清須城の一番家老にして、政務の大半を取り仕切っている実質的な城代、林秀貞殿である。
「ええ。土岐を美濃から追い出したばかりだと言うのにねぇ、さすがは貪欲な蝮、といったところかしら」
わたしも頬杖を突きつつ、やれやれと嘆息する。
これも木猿からの報告である。
美濃を平定し、狙うは越前か近江といったところか。
わたしの知る史実では、信秀兄さまに大垣まで侵入され、美濃一国を手中に収めるのにまだ四苦八苦していた時期であり、とても他国に侵攻する余裕などはなかった。
こんなところでも歴史が変わってきている。
自業自得と言えばそれまでなんだけど、ほんと先が読めなくなってきたなぁ。
「これは……計画を早める必要がありそうね」
コトリと湯呑を置きつつ、わたしは真剣そのものな顔で言う。
そのうちになんて思っていたが、そう悠長なことは言ってられなさそうである。
「計画……でございますか?」
秀貞殿がいぶかしげに眉をひそめる。
ああ、そう言えばこの事は、まだわたしの胸の中で温めていただけで、秀貞殿には伝えていなかったっけ。
わたしは重々しく頷き、
「ええ、市江島と西三河のりょこ……じゃなかった、領内視察を可及的速やかに行わねばなりません」
危ない危ない。
つい旅行したいって本音が漏れそうになってしまった。
清須城代という立場上、わたしってあんまり安易に城を留守にできないのよね。
まあ基本、インドア派なのでそこまでの不満はないんだけど、それでもずっと城の中というのは息が詰まるものである。
たまにはわたしだって遠出してぱぁっと羽を広げ、気分転換したいのだ!
とは言えそんな浮ついた理由で、任されている城を長期不在するわけにもいかない。
それで思いついたのが領内視察である。
やっぱり世の中、建前って大事だからね!
「ふむ、新たな知行となった市江島はわかりますが、西三河も、ですか?」
よしよし、とりあえず秀貞殿は、わたしの漏れかけた本音より、そっちのほうが気になったらしい。
わたしもここぞばかりに力強く頷き、
「ええ、やっぱり直にこの目で見ないとわからないこともありますから。『山林・険阻・沮沢の形を知らざる者は、軍を行ること能わず。郷導を用いざる者は、地の利を得ること能わず』です」
それっぽく畳みかける。
意訳すれば、山林や険しい要害の地、沼沢地の地形などを把握してないと、軍を進めることもできない。道案内を用いないようでは、地の利を得ることもできないと言ったところか。
秀貞殿はほうっと目を瞠り、
「孫子ですか。その年でそらんじられるとはお見事」
「それほどでもありませんよ」
孫子は兵法書では最も有名なメジャータイトルである。
前々世で大ポカしたのはトラウマだっただけに興味はあったし、ビジネスにも応用ができると評判なので、何度も周回して読み込んでいたのだ。
まさかまた戦国時代に舞い戻るとは夢にも思ってなかったけどね。
「いやいや、さすがは守護代様より女孔明とまで称されるお方です。なるほど、わかりました。西三河は松平との係争の地。確かに直にその目で見てこられるべきでしょう」
よし! 許可でた!
わたしは心の中でガッツポーズする。
戦国時代に舞い戻って以来、初めての旅行である。テンション爆上がりにもなろうというものだった。
「ふむ、そうですな。では護衛に勝家も連れていくとよいでしょう」
「へ? 勝家殿を?」
うむと頷き提案する秀貞殿に、わたしはおもわずきょとんと目を丸くする。
なんでいきなりその名が?
まあ、確かに勝家殿は今や巷間では「市江川の今張飛」なんて勇名を馳せているほどの武勇の持ち主ではあるけれど……
「いやいやいや、大丈夫です。護衛なら成経はじめ馬廻先手衆がいますから」
わたしはぶんぶんぶんっと大きく手を振る。
実際、護衛だけならもう自前でなんとかなるのよね。
馬廻り先手衆は、潤沢な資金に物を言わせて作った職業軍人集団だ。
食事はこの時代二食が普通のところを三食、しかもタンパク質を豊富に摂取させているから平均より一回りは身体が大きい連中が、毎日のように戦闘訓練に明け暮れているのだ。
そんじょそこらの野盗や山賊ごときでは、もはや相手にもなるはずもなかった。
「ふむ、そうですか……。ああ! 松平との戦いが近いなら、なおさらあやつも西三河の地を己が目で見ておくべきでしょう。あやつは守護代様より皆朱の槍を賜った者ですからな」
秀貞殿は残念そうに嘆息した後、名案を思いついたとばかりに言う。
なんかいかにもとってつけた感満載なんだが?
「あの~、もしかしてお二人、実は険悪だったりします?」
わたしが見ている限りにおいては、けっこう仲良さそうに見えたんだけど、二人はこの清須城の一番家老と二番家老。
水面下ではばちばち権力争いをしているとか!?
市江川の戦いで勝家殿、大戦果挙げてるし、自分の地位を脅かす存在として、ちょうどいい機会と追い払おうとしてるとか!?
「は、はい? ……ぷっ、はははははははっ!」
わたしの懸念に、秀貞殿は何を言われたのかわからないとばかりにキョトンと目を丸くし、理解するや腹を抱えて笑い出す。
ひとしきり笑ってから、
「くくくっ、ああ、すみませんすみません。そんなことは一切ありませんよ」
ひらひらと手を振って否定する。
よかったよかった。
清須城の政治と軍事の柱が不仲とか、最優先で対処するべき事案であり、旅行なんて行ってられる場合じゃないところだった。
「まあ確かに最初こそあの強面と圧で警戒もしましたが、いざ付き合ってみれば仕事ぶりも真面目ですし、教えを乞う素直さと熱意もある。少々不器用なところこそありますが、下の面倒見もよく、総じて頼りにもなるし気のいい男です」
おおっ、かなりのベタ褒めだ。
かといって上っ面めいた感じもなく、ちゃんと是々非々で彼の事を本当によく見ているのがよくわかる評だった。
さすがにこれは演技ではなさそうである。
「それは良かったです。正直ホッとしました。でもじゃあなぜあんなに同行させようとしたんです?」
明らかにさっきの薦め方は建前で、裏の理由がある感じだった。
「言葉通り、あやつも見るべきと思ったまでで、他意はありませんよ」
「ほんとですか~?」
「ええ、まあ、強いてあげるならば、姫様は我が織田弾正忠家にとってなくてはならぬお方。あやつが同行してくれたほうが、枕を高くして眠れるといったところですかな」
「なるほど」
う~ん、まだな~んか隠している気はするけど、これほど聞いても答えてくれないのなら、これ以上問い詰めても時間の無駄だろう。
わたしとも勝家殿とも関係は良好なわけだし、悪意から隠しているわけでもあるまい。
信秀兄さまあたりになんらかの密命を受けているといったところか。
わたしの代わりに城代の仕事頑張ってくれてるし、旅行の間もしてくれるのだ。
あまり板挟みにさせるのも忍びない。
ここは騙されといてあげるのが人情というものだろう。
「わかりました。では勝家殿にもご同行願おうと思います」
「おお、そうですか。良かった良かった。留守はお任せくださいませ」
秀貞殿がドンッと力強く自らの胸を叩く。
いや、うん、実に頼もしい限りではあるんだけど、さ。
わたしと勝家殿がいなくなれば、秀貞殿の仕事はけっこう爆増すると思うんだけど……なんでそんな嬉しそうなんだ?
ほんと信秀兄さまからどんな密命を受けているのやら。
俄然、気になってきたんだけど。
秀貞殿はともかく、あっちはまったく信用ならない腹黒狸だからね!




