第十六話 天文十二年七月上旬『女孔明の深慮遠謀』
「井伊谷の井伊家も衆寡敵せずと降伏したとのことでございます」
「そう、つまりこれで遠江の内乱は終結、今川義元はこれで名実ともに太守となったってわけね」
下河原織田家御庭番衆棟梁、下柘植木猿の報告に、わたしはやれやれと嘆息する。
太守とは、二国の守護を務める者に与えられる尊称である。
まあ、それ自体はいいんだけど……
「想定よりも随分と早いなぁ」
「はっ、太原雪斎、坊主とは思えぬ戦上手です。まさか挙兵から一月足らずで遠江を平定してのけるとは……」
「……そうね」
頷きつつも、実はわたしが早いと言ったのは別の事だったりする。
今川義元が遠江の平定に動き出したのは、北条家との抗争、第二次河東一乱を制して和睦を結び、後顧の憂いを絶った天文一五年からだったはずだ。
今は天文一二年。実に三年も早い。
おそらくはわたしの巻き戻りによって起きた織田家の急拡大に危機感を覚え、多少のリスクを負っても、早急に遠江を平定するべしと判断したといったところか。
「これはけっこう想定外かも」
扇子を口元に当てつつ、わたしは考え込む。
織田家と松平家の間には一年の休戦協定があるが、それでも今川家が三河に出兵できるようになるなるまで後二年はあり、信秀兄さまと今の織田家の力なら、その間に松平家の勢力を切り崩せるだろう、と踏んでいたのだ。
しかし実際は、今川家はすでに三河に安全に出兵できる状況となっている。
まさかわたしの巻き戻りが、そんなところにまで影響を与えるとは、我ながらびっくりである。
「つやーっ! おるかー!?」
玄関のほうから大声が轟いてくる。
同時にドタドタドタと荒々しい足音が響き近づいてくる。
まあ、この傍若無人ぶりからして、誰かはもはや言うまでもないだろう。
「一大事じゃ! 遠江が今川の手に落ちたぞ!」
パァン! と障子戸が勢いよく開かれるともに、開口一番、信秀兄さまが気炎を発する。
その迫力に、ゆきはるがちょっとビビっている。
お茶目な面もあるっちゃあるけど、これでも一代で国一つ半を治めるまでになった傑物だからね。
その覇気や威圧感は、並々ならぬものがある。
そんなのが声を荒げてるんだから、そりゃ怖かろうというものだった。
「話が違うではないか!? どういうことじゃ!?」
やはり、そのことか。
今川家の遠江平定、及び第二次河東一乱あたりの情報は、すでに信秀兄さまに伝えてある。信秀兄さまが侵出している三河情勢に大きく関わる事だからね。
それに合わせて戦略も練っていたはずで、三年も違えば、そりゃ文句を言いに乗り込んでこようというものだった。
「らしいですね」
「なんじゃ、驚いとらんのう。新たな神託でもくだったか?」
「いえ、先程、そこの木猿から報告を受けましたので」
「ふん、なるほど。なかなか良い家臣を抱えておるではないか」
「恐縮です」
神妙に頭を下げつつ、わたしはにんまりする。
家臣を褒められるのは、悪い気はしない。
特に下柘植一族は裏方の、縁の下の力持ちだからなおさらだった。
彼らのもたらす情報は、速いし正確だし、ほんと重宝しているのだ。
「まあ、ならば話は早い。その相談をしにきたのだ。どうしたら良いと思う?」
「ん~、そうですね。とりあえず北条と早急に盟を結ぶべきかと」
「ふむ。やはりそうなるか」
信秀兄さまが淡々と頷く。
どうやら信秀兄さまも同じ考えらしかった。
そりゃそうだろう、政略と謀略の達人である信秀兄さまからしたら、こんなの割と定石も定石な戦略だろうし、ね。思いついていないはずがない。
いわゆる敵の敵は味方、ってやつだ。
まあ、歴史好きの現代人とかだと甲相駿三国同盟が有名で、今川と北条は盟友みたいな印象あるかもしれないが、天文一二年の現時点では、この二家はばっちばちの敵同士だったりする。
北条家からすれば、今の今川家は、長年の同盟を結んできた仲であり花倉の乱でも義元の当主襲名に多大な貢献をしてやったというのに、北条の仇敵である武田と婚姻同盟を結ぶという恩を仇で返す裏切りをかましてきた、不倶戴天の敵なのだ。
立地的にも、相模(神奈川県)を領土としており、遠江・駿河(静岡県)の今川家を挟み撃ちにできる。
同盟を結ぶのにこれほど最適な相手もいなかった。
「とは言え、正直、それだけでは決め手に欠けるのも事実。今の北条には正直あまり期待はできんからな」
信秀兄さまは顎ひげを撫でつつ、なんともつまらなげに言う。
まあ、言わんとするところは、わたしにもわかった。
「ええ、今の北条はまさに四面楚歌、ですからね」
わたしも頷く。
今の北条家は、今川家、武田家、扇谷上杉家、山内上杉家、里見家とぐるりと四方を敵に囲まれ、衝突を繰り返している。
しかも当主が名君氏綱から若い氏康に変わったばかり。
とてもではないが、守るので精一杯で、今川家に対し攻勢に出る余裕などあるはずもなかったのだ。
「しかも、今川と武田の間には婚姻同盟がある。北条と結んだところで、今川の東部の守りを脅かすことはできまい」
「まあ、でしょうねぇ」
「なんとかならんか、我が孔明よ」
「……信秀兄さま、前々から思ってましたが、わたしを振れば良案をひねり出す打ち出の小槌か何かと勘違いしてません?」
「さすがにそこまでは思うておらぬが、頼りにはしておるぞ、信康が右腕なら、林と平手が両足、さしづめ貴様は頭脳といったところか」
「評価してくれるのは嬉しいんですけど、さすがにちと重すぎるです」
あんまり期待値を上げられても、失望させそうで正直怖さが勝つ。
現代知識と人生経験で色々チートしているだけで、本来のわたしは凡人でしかないのだ。
あんたの息子の「第六天魔王」織田信長や、「風林火山」武田信玄、「軍神」上杉謙信みたいな時代を代表するビッグネームと同レベル扱いしないでほしい。
そんなポンポンと魔法のような打開策が思い浮かぶわけ……ん? 待てよ。
フッと脳裏にある案が天啓のごとく閃く。
え? これ、もしかして結構いけるんじゃないか?
「ふん、やはり打ち出の小槌ではないか。その顔から見るに、なにやら思いついたようじゃな」
信秀兄さまがにやりと口の端を吊り上げる。
なんか信秀兄さまの思惑通りって感じでちょっとムカつく。
なんか今後の期待が上がることを考えると黙っておくべきかとも思ったが、外交方針なんて事が事だけに、黙っておくわけにもいかない。
言うしかないかぁ。
「確実に上手くいく、なんて保証はまったくありませんが……」
そう前置きして、わたしは思いついた策を語る。
聞くや信秀兄さまの眼がくわっと見開き、驚きを露わにする。
「もしそれができるというのならば、今川相手には最高の切り札となろうが、本当にそんなことになるのか?」
「成算は十分にあります」
訝しげに問う信秀兄さまに、わたしも真剣な顔で頷く。
自分で言っていて荒唐無稽だとは思うし、普通に考えればあり得ない事だとは思う。
だが未来を知るわたしだからこそ、わかっていることがある。
それらを総合して勘案すれば、おそらくはいけるはずだった。
そしてこれが決まれば、まさしく今川の喉元に刃を突きつけ、王手をかけることになるだろう。
さあて、どうなるのか、後は仕上げを御覧じろ、かな。




