第十五話 天文十二年五月下旬『合緑奇緑』彦太郎視点
祝! 400万PV突破!
これもひとえに読者の皆様のおかげです。
大感謝!
「「「「「えいえいおー! えいえいおー!」」」」」
夕暮れに橙に染まる金鶏山に、斎藤家の勝鬨が轟き渡っていた。
本丸が落ちた、ということだろう。
土岐頼充の親子二代に渡る美濃守護奪還の夢はここに潰えたのだ。
「勝負は決したようですね」
城壁の壁に背中を預け座りこみつつ、男は嘆息する。
年の頃は二〇代半ばといったところか。
すでにその手には武器はない。
もはや勝ち目はないと、早々に降参し、取り上げられたのだ。
「うむ、これで土岐も終わりじゃな。無念の限りよ。だが、我らはここで終わるわけにはいかぬ。そうだな、彦太郎?」
隣に腰かける叔父――三宅綱朝が問うてくる。
彦太郎は、男の幼名である。
二〇も半ばを過ぎて未だ幼名で呼ばれるのは少々不服だが、どうも昔からの癖が抜けないらしい。
「然り。こんなところで終わるわけにはゆきませぬ」
男――彦太郎も底冷えする声で告げる。
その瞳は憎悪に燃えている。
彦太郎は元々はある名家の嫡子であった。
だが、当時当主であった父が死ぬや、もう一人の叔父光安がまだ彦太郎が幼かったのをいいことに家中を我が物顔で牛耳るようになり、ついには当主の座まで奪われた。
生き馬の目を抜く戦国の習いと言えばそれまでだが、彦太郎からすれば許せることでもない。
あの男に引導を渡すまでは、死んでも死にきれなかった。
「して、これからどうする?」
「そうですね」
彦太郎は思案するように曇天を見上げる。
勝敗が決した以上、そのうち城からの退去を命じられるに違いない。
主である土岐頼充の生死はわからぬが、綱朝の言うように再起はもはや難しいだろう。
今後の身の振り方を考える必要があった。
恨みを忘れて帰農するなどという選択肢は、彦太郎には毛頭ない。
そんなことをするぐらいならば、ここで潔く討ち死にするほうがまだましだとさえ思う。
たった一度の人生だ。
男として生まれたからには、目指すは一国一城の主である。
そしてそれを不当に奪った叔父をのうのうとのさばらせるのは、到底許しがたかった。
「次に仕えるのは、やはり勢いのある家が良いですな」
追放されたところを拾ってもらった恩と義理があり仕えていたが、あのぼんくらのおかげで随分と時間を無駄にしたように思う。
人間五〇年。すでにその半分は過ぎた。
もはや悠長に回り道をしていられる時間はない。
「ふむ、いっそ道三殿に仕えてみるか?」
「いえ、傍系ながら土岐の血を引く我らを、道三殿が引き立てるとは思えませぬ」
下剋上により美濃国主の座を簒奪した道三からすれば、主筋の血統に連なる者など、潜在的な脅威以外の何物でもない。
土岐氏再興の大義名分が成り立つからだ。
仕えたところで力を与えず、飼い殺しにされるのが落ちであろう。
「では朝倉か?」
「朝倉も捨てがたくはありますが……」
彦太郎は眉間にしわを寄せ、難しい顔でうなる。
朝倉家の当主孝景とわずかに話した機会があったのだが、それだけでもその英邁さをひしひしと感じたものだ。
一族の長老として君臨する朝倉宗滴もまた素晴らしい大将であり、その薫陶を受けたい気持ちも強い。
斎藤家とも犬猿の仲であり、復讐の機会にも恵まれそうでもある。
だが……
「今、勢いがあるのはやはり織田かと。頭一つ突き抜けております」
ここ二年の勢いは、凄まじいの一言に尽きる。
当主信秀は元は、尾張守護である斯波家の家臣の家臣、勝幡一帯を支配する一領主に過ぎなかった。
それが弾正忠家の当主に就任するやあれよあれよという間に勢力を拡大、今や尾張と三河の半分を統べるまでになっている。
織田は斎藤と同盟中であり、復讐する機会からは遠のくが、それを優先した結果が今の敗残者の自分である。
とりあえずまずは雌伏し力をつけるのが先決というのが、彦太郎の考えだった。
「なるほど、確かに。巷では『織田の鳳雛』の噂で持ち切りだしのぅ」
「ええ」
彦太郎もその噂の数々は耳にしていた。
いわく、素戔嗚尊の神託を受けた巫女だという。
いわく、農機具に酒、料理の根幹を変える調味料と、次々と画期的なものを生み出し続けている。
いわく、信秀の尾張守護代就任を裏で画策し、清須城をわずか五〇人かそこらの手勢で陥落せしめた。
いわく、一向宗門徒数万をわずか二〇〇〇の兵で壊滅させた。
いわく、それだけのことをしながら、いまだ齢九つであるという。
どれ一つとっても意味がわからない。
あまりに荒唐無稽すぎて、嘘をつくならばもっとマシな嘘を吹聴しろと思う。
だが実際に、つやが生み出したとされる品物は巷で話題になっているし、信秀は正式に尾張守護代の地位に収まっているし、津島に襲来した一向宗が洪水に呑まれ壊滅したのも、これまた間違いのない事実なのだ。
「鳳雛、つまりはいまだ雛。これからさらに飛翔する可能性は高いかと」
噂によれば、知行の急激な拡大に人手不足で、広く人材を募集していると聞く。
新興の家ゆえ、臣下は若い者たちばかりで、出世頭の佐々成経などまだ十代で城を与えられたと聞く。
なんとも夢のある話であった。
「今、鳳雛と言ったか?」
ゾクッ!
その声が耳に届いた瞬間、彦太郎は首筋に刀を突きつけられたような感覚に陥った。
慌てて声のしたほうを振り返る。
まず彦太郎の視界に入ってきたのは禿頭の恰幅のいい壮年の男である。
只者ではない雰囲気をまとっており、一角の人物なのは間違いない。
この人物かと思ったが、
「おい、答えろ貴様! 今、鳳雛と言ったか!?」
声はもっと下からした。
彦太郎が視点を下げると、そこにいたのは鋭い目つきでこちらを睨む少年であった。
視線があった瞬間、彦太郎はうっとたじろぐ。
(っ!? 気圧された!? この俺が? こんな年端もいかぬ餓鬼に!?)
あり得ぬことだった。
男は武芸の腕には自信があった。
だが、この少年の眼光の前には、思わず恐怖を覚え、居竦んでしまうのだ。
「は、はい。つ、次の仕官先はそちらにしようかと」
「~~っ! ちっ!」
彦太郎の言葉に、少年は忌々しげに顔をしかめ、舌打ちする。
ここはお世辞でも斎藤家に仕えたいと言うべきだったか。
先程の言葉が聞かれていたことを考えると、下手にそれを口にすれば逆に心象を悪くするという判断だったが、裏目に出たかもしれない。
「くくっ、多少は落ち着いてきたかと思うたが、つや姫の事だけはまだ、感情を抑えられぬようじゃのぅ、吉法師殿?」
後ろの禿頭の壮年が意地悪な笑みとともにからかう。
吉法師と言えば確か、斎藤家に同盟の質となっている織田信秀の嫡男の幼名である。
とするならば、後ろの禿頭の壮年は――
「っ! も、申し訳ございませぬ。け、決して道三様を軽んじたわけではなく……」
彦太郎は慌ててその場で頭を地面にこすりつける。
隣では綱朝も、失言に気づいたのかガタガタと身体を震わせながら平伏していた。
同盟国とは言え、他国に仕えようというのだ。
国主道三からすれば、面白かろうはずもない。
そして気に入らない奴は殺せる立場に、彼はあるのだ。
「ふふっ、よいよい。気にしておらぬ。織田の鳳雛は今や天下に鳴り響いておるからのぅ」
道三が寛大に笑って、ひらひらと手を振る。
だがその視線は彦太郎より、吉法師の方を向いていた。
「~~っ!」
そんな吉法師は、憤懣やるかたなしと言った顔で奥歯を噛み締めている。
彼と織田つやの間には、並々ならぬ因縁があるのは、想像に難くない。
そして、道三はこの少年をからかうのが楽しくて仕方がないのだ。自分はその体のいい餌にされたといったところか。
「……ふうううううう」
吉法師は自らを落ち着かせるように、大きく息を吐く。
ついで彦太郎のほうを睨み、
「おい、貴様! 俺に仕える気はないか!?」
「は?」
彦太郎は思わず目を瞬かせる。
いきなり何でそういう話になるのか、頭が付いていかない。
「貴様はつやなどより俺に仕えるべきだ」
「おいおい、吉法師殿。感情的になるな。つや殿より自分が上だと示したいのはわからんでもないが……」
苦笑気味の道三の言葉に、彦太郎はようやく得心がいく。
なるほど、そういう嫉妬からの言葉か。
子どもらしいと言えば実に子供らしい。
だが言い換えれば、そんな子どもに仕えるのはまっぴらごめんであった。
馳せ参じるべきはやはりつや姫の……
「その年でボケて目が曇ったか、義父殿?」
「なにっ!?」
「この男もまた臥龍だ。……いや、どちらかといえば義父殿と同じ毒蛇の類か?」
「ほう? 儂と?」
「ああ、凄まじい才気を感じる。そして、全てを憎む激しい憎悪も、な」
「っ!?」
彦太郎は思わずぎくりとする。
ほんの一瞬で、自分の内に宿る激情を見透かされた!?
生まれて初めての経験に、背筋が凍る。
「くくっ、下手すれば主に牙をむき、その毒で殺しかねん。それほどに危険極まりない臭いがする。背筋がぞくぞくする。こんな男は初めてだ」
「そんな危険な男を家臣にする、と? ここで殺しておいたほうがよいのではないか?」
「っ!?」
思わず彦太郎はギクリとする。
自分はこんなところで死ぬわけにはいかないのだ。
しかもそんな、まだやってもいないことで殺されるなど納得いくはずもない。
彦太郎が固唾をのんで見守る中、
「ふん。毒蛇ぐらい御せねば、天下を御すなど夢のまた夢! 噛み殺されるならば俺はそこまでの男だったということよ!」
吉法師が吼えるように喝破する。
実に子どもらしい全能感、大言壮語。
天下を御すなど、現実を知らぬ餓鬼の戯言と言ってしまえばそれまでなのだが、
(案外この少年なら、本当にそれを為すかもしれぬ)
彦太郎には天啓のごとき直観が働いていた。
そう思わせるだけの何かを、この少年は強く感じさせるのだ。
「おい、貴様! 名は何と言う!?」
吉法師が誰何してくる。
これも何かの縁であろう。
自分の直観に、賭けてみるのもいいかもしれない。
自分に才気があると見込んでくれたことも大きかった。
どうせ力を振るうならば、自分を買ってくれている者の下がいい。
彦太郎はそう覚悟を決め、自らの名を口にする。
「明智十兵衛光秀、と申します」