第二部終幕② 天文十二年三月下旬『トラウマ』
「信光兄さまがっ!?」
信秀兄さまと別れて一足早く清州に戻り、戦の疲れを癒していたわたしの下に、勝家殿が悲報を伝えてくる。
殺しても死なないような人だっただけに、正直耳を疑った。
「本当、なの?」
「はっ。どうやら間違いないようです」
勝家殿の返しに、わたしの歯がカチカチと鳴る。
身体の震えが、止まらなかった。
「わたしの、せいだ」
「つや姫様のせいではありませぬ。つや姫様は尾張におられました。いかな素戔嗚の巫女と言えど、どうしようもない事だったかと」
「……そうね」
勝家殿の慰めにわたしは頷きつつも、気はまるで晴れなかった。
確かに客観的に見れば、わたしのせいでは全然ない。
だが、どう考えてもわたしのせいだった。
信光兄さまが亡くなるのは、まだ一〇年以上先だったはず。
それが今亡くなったということは、わたしが歴史に干渉したからに他ならない。
わたしが変な干渉さえしなければ、彼がここで死ぬような事はなかったはずなのだ。
(ごめんなさい、信光兄さま……)
ズキズキと胸が痛む。
兄妹といっても同腹というわけでもないし、年も離れている。
さほど交流があったわけではない。
でも血はつながっているのは事実だし……
脳裏に半年ほど前に守山を訪れた時の事が蘇ってくる。
抱き上げてくれた時の温もりが、今でも思い出せる。
だがもう二度と、それを感じる事は出来ないのだ。
戦国乱世、誰も死なずになんて思っていなかったけれど、いざ身内が死ぬと……やっぱりつらいなぁ。
それもわたしのせいで、なんだから。
(確か……信光兄さまには子が何人かいたはず。せめてもの償いに、その子たちには出来る限りのことをしていこう)
起こってしまった事は、変えられない。
これで許されるとも思っていないが、わたしに出来る事はもうそれぐらいしかなかった。
「今回の事はちゃんと教訓にしないといけないわね」
曇り空を見上げつつ、わたしはつぶやく。
人間一人の力なんて高が知れている。
わたし一人が何かしたところで、大勢に影響はない。
無意識にそんな風に思っていたところがある。
だが、違うのだ。
信秀兄さまの守護代就任に、濃尾同盟、織田包囲網、一向宗の早すぎる蜂起。
すでに大きく、歴史は変わっているのだ。
他でもないわたしが投じた一石によって。
……あ~、いや、もう三つ四つ投げているかもしれない。
そしてそれによって生じた波紋は、どんどん大きくなっていっていると見るべきだろう。
もうわたしの知っている歴史は、当てにはならない。
予想外の事、想定外の事はこれからどんどん起こっていくはずだ。
そういう前提で、物事に当たっていこう。
「差し当たっては織田包囲網かしら、ね」
「はっ、なかなかに厄介と言うしかありませぬな」
勝家殿も厳しい表情で頷く。
将来の織田四天王筆頭だ。
その戦略眼には、今の織田を取り巻く状況の厳しさがちゃんと見えているのだろう。
願証寺御院は美濃、尾張、伊勢の三ヶ国の一向宗門徒たちを束ねる立場であり、万単位の門徒を失ったのは大痛手ではあるのだろうが、まだまだその動員力は侮れない。
命令系統こそ違うが、西三河の一向宗たちも呼応しており、せっかく奪った領地ではあるが、西三河の統治は一筋縄にはいかなそうである。
より東に目を向ければ、今川、武田、松平、吉良、戸田の五ヵ国同盟が立ちはだかる。
一向宗という背後の敵を抱えた今の織田家の戦力では、これを打ち破り三河を奪るというのは厳しいだろう。
逆にまたぞろ一向宗と連携して、大攻勢を仕掛けてくるなんて可能性も十分にあり得る。
(史実より織田は明らかに強く大きくなっているのに、逆にむしろピンチ、か)
本当、外交関係というやつは難しい。
出る杭は打たれると言う事なのだろう。
こんなの想定外もいいところだ。
「っ!」
ぶわっとフラッシュバックするように、前々世の岩村遠山家の家臣たちの面々が脳裏を過ぎり、わたしは思わず顔をしかめる。
岩村城の戦いは、忘れたくても忘れられないわたしの最大のトラウマだった。
わたしの判断ミスで、全員が死んだのだから。
あ~、これちょっとヤバい。
普段はなるべく思い出さないようにしているんだけど、信光兄さまのこともあり、どうしても考えずにはいられない。
わたしが余計なことをしたせいで、織田家が滅びることになったら?
じぃ、ゆき、はる、成経、牛一、長近、秀隆、小猿……前々世とは面子は違うが、今生もかわいい家臣たちがいっぱいいる。
勝家殿に秀貞殿、季光殿などの寄騎の人たちとも、交流を持ってしまっている。文字通り、同じ釜の飯を食う仲だ。
信秀兄さまの事も嫌いじゃない。面と向かっては言いたくないけど、もう父代わりともいえる大事な兄だ。
「はあ……はあ……」
動悸が一気に激しくなり、呼吸が乱れる。
ガタガタと身体の震えが止まらなくなる。
大切な彼らが、わたしに憑いた死神によって次々とその命を刈られていくのではないか。
過去のわたしの夫たちのように。
岩村遠山家の家臣たちのように。
そして今回の信光兄さまのように。
それがとにかく怖かった。
怖くて怖くて仕方なかった。
「ご無礼」
「えっ!?」
不意に勝家殿が歩み寄ってきてしゃがみ込み、ポンポンッとわたしの頭に手を置く。
壊さないようにおそるおそる、でもとても優しく。
「か、勝家殿!?」
「お叱りは後で受けましょう。ただ尋常なご様子ではなかったので。そういう時は誰かの温もりが心を落ち着かせるものです」
「あ、ああ、なるほど」
得心がいき、わたしもようやく状況を理解する。
確かに、心が落ち着いてくるのがわかった。
大きく、タコでゴツゴツした手だった。
温もりもそうだけど、その力強さになんとも言えない安心感があった。
「素戔嗚の巫女と言えど、つや姫様はまだ九つの身。血を分けた兄上が亡くなられたのです。心の均衡を崩すのは致し方ないこと。ご無理をなされますな」
「あ、ありがとう、ございます」
その優しい言葉に、お礼を言うわたしの声が涙ぐむ。
結婚回避の為、仕方なかったことではあるのだけど、正直、『素戔嗚の巫女』という立場を重く感じていた。
前々世と前世で長く生きて、現代知識がある分、チートできているだけ。
本来のわたしは、織田家の命運なんてものを背負えるほど、大層な人間ではないのだ。
前々世なんて、最悪の大失敗をやらかしているし。
なのに信秀兄さまは劔神社なんてものまで建立して神格化するし。
政治・戦略的に意味があることというのはわかるけれど……。
それでもやっぱり、皆の期待や責任が、重かった。
自分が歴史を変えたせいで亡くなった信光兄さまの死も悲しく、強い罪悪感を覚えずにはいられない。
だからこうして、素戔嗚の巫女ではなく、まだ九つの子供なんだから仕方ないと、子ども扱い、引いては人間扱いしてもらえたことに、涙腺が保たなかったのだ。
そして一度決壊した涙の堤防は、そう簡単には止まらない。
後から後からあふれ出てくる。
「う、うう、ううううううううう!」
気が付けばわたしは、勝家殿の襟を掴み、声を押し殺して泣いていた。
そんなわたしに勝家殿は何も言わず、ただ背中をずっと優しく叩いたり撫でたりし続けてくれたのだった。