第九話 天文一〇年一〇月中旬『賦役・佐々成宗』
領地を与えると言われた翌日の事である。
わたしが机と紙を前にあれをやろうこれをやろうと今後の計画を練っていると、はるがトタトタと駆け寄ってきた。
「姫様、殿の遣いの方がきております」
「信秀兄さまの? すぐにお通しして」
昨日の今日で忙しないなと思いつつ、了承する。
しばらくして、
「失礼する」
挨拶とともに、白髪の老人が現れた。
おそらくは戦で負ったのだろう、右目は縦一文字に刀傷で潰れ、左腕も失っているのか袖が不自然に垂れている。
なんとも痛ましい姿だが、弱々しさは微塵もない。
残ったもう一つの目は鷹のように鋭く、表情も険しく怖い。
まさに歴戦の古強者といった風格だった。
老人はどしっとその場に胡座をかき、小さく会釈する。
「お初にお目にかかる。それがし、井関の元領主で、佐々成宗と申す」
「織田信秀の妹で、おつやと申します」
挨拶を返しつつ、わたしは小さく目を瞠っていた。
つくづく今世のわたしは名将に縁があるようらしい。
佐々と言えば、信長の親衛隊、黒母衣衆筆頭を務めた佐々成政の家名である。
成宗はその父親の名だった。
「この度、姫様は殿より領地を賜るとのこと。ただ姫様はまだ幼く、不慣れなことも多かろうと、それがしが傅役を任され、参上つかまつった次第」
ああ、なるほど。
傅役ってのは、いわゆる貴人の子の教育係兼後見人である。
有名所だと、信長の傅役の平手政秀とかかしら。
確かに七つの子供にいきなり領地経営をしろって言っても普通は難しいもんね。
その補佐役を用意してくれたってことだろう。
「確かにわたしはまだ右も左もわからぬ若輩者。経験豊かな佐々様にお力添えして頂けるのは本当にありがたいですわ。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
わたしはスッと畳に指を突き、頭を下げる。
「ほう、殊勝な心がけですな。けっこうけっこう。それがしもかれこれ三〇年、井関の地を治めてきた身。色々教えられることは多いかと」
「まあ、そうなんですか!? 三〇年なんて凄い! さすがは佐々殿。頼もしいです」
「ふふっ、それがしに任せておけば万事安心、大船に乗ったつもりでいてくだされ」
「はい、頼りにさせて頂きますね、佐々殿」
「佐々殿など他人行儀な。お気軽にじぃとでもお呼び下され」
すっかり打ち解けた感じで、そんなことを言い出す。
なんというか最初の厳しい印象はどこへやら、ニコニコと相好が崩れてご機嫌である。
……いやぁ、しかし、ここまでうまくいくとなんか申し訳なくなってくるな。
さすが。知らなかった。凄い。センスある。そうなんだ。
いわゆる「男を喜ばすさしすせそ」である。
まさかここまで効果があるとは思わなかった。
まあ、実のところわたし、前々世では二年ほど領主代行してた時があって、そこそこ経験はあったりするんだよね。
とは言え領地経営なんてめんどくさいのも事実。
特に今のわたしは七つの子供だからね。どうしても年齢で舐められたり信用されなかったりしやすい。
やりたいことは別にあるし、この際、せっかく助けてくれるというのだから力を借りない手はなかった。
この程度のお世辞で気分よくお仕事代わってくれるなら安いものである。
別に嘘を言ったつもりもないしね。
その道三〇年のベテランは、実際頼りになりそうだもん。
「それで、わたしの領地ってどのあたりになるんですか?」
お世辞ばかり並べていても歯が浮くし、相手としても空々しくなってくるだろうし、そろそろ本題に切り込むことにする。
「下河原村です。この古渡城より北西へ二里(約八キロ)ほど行ったところにある村ですな」
ん? なんかその地名、聞き覚えあるんですけど。
一応、確認してみるか。
「えと……もしかして、庄内川……じゃなかった、枇杷島川と五条川が合流する辺りにある河川敷、ですかね?」
「おおっ、幼いのによく勉強なさっておられる。そのとおりです」
「ああ、やっぱり」
とりあえず勘違いじゃなかったようだ。
実に、そう実に懐かしく、馴染み深い場所だった。
前世ではそれこそ毎日のように、よくその辺りには通っていたものだ。
なぜなら――
「温泉もありますよね! いやぁ、楽しみです」
キラキラとわたしは目を輝かせる。
だってねぇ、この時代ってまだ基本蒸風呂なのよ!
だがやはり、二一世紀を知る身としては、たっぷり張った湯舟に身体をつからせて、その日の疲れを癒したいというのが人情である。
かといってこの時代では、燃料的な問題で難しいし。
温泉なら、その問題が一挙に解決である。
しかも美肌効果もある。
これで毎日温泉に入れる!
ふふっ、信秀兄さまも女心のわかった粋なはからいをするじゃない。
「温泉? いえ、そのようなものはなかったと存じますが」
ピシッ!
首をかしげるじぃに、わたしは顔を強張らせる。
嘘……でしょ?
「え? ほら、新川と五条川のちょうど合流するあたりにあるでしょう?」
藁にもすがるような思いでわたしはそう問いかけるも、じぃは申し訳なさそうに首を振る。
「新川? 聞き覚えがありませんな」
「え?」
あ、そっか。この時代にはまだないのか。
まさに名の通り、新しい川なんだから。
「それに、温泉などやはりないかと。もしあるのなら、古渡城より馬で四半刻(三〇分)もかからぬ場所、すでに殿が保養地として庵の一つも設けているかと」
「うっ、た、確かに」
わたしは納得したように呻く。
うん、そんな近くに温泉が湧いたら、わたしが信秀兄さまだったら絶対に保養所作るわ。
ってことはやっぱり、この時代ではまだ掘り当てられていないってことか。
(なら、もうわたしが掘ればいいだけよね)
だいたい場所はわかっているし、そこにあることは未来で確定済みだし、なんとかなるだろう。
ただまあ、先にやらないといけないことは山積みだし、はてさていつになることやら。
正直、ちょっと気が遠くなる。
それまでたらい風呂やサウナだけってのはなぁ。
あっ、そうだ。
「じゃあ、尾張で今、湧いてる温泉を教えてくれる?」
うん、ないならすでにある場所に行けばいいのである。
愛知県にはけっこう温泉施設あったし、どっかあるでしょ。
「いえ、そもそも尾張に温泉があるなどという話、寡聞にして存じあげませぬな」
「マ、マジすか……っ!?」
衝撃の事実に、わたしはその場にがっくりと両手両膝をつく。
そ、そんなまさか……たったの一つもないなんて……。
信じられない、誰か、誰か嘘だと言って。
もうたらい風呂やサウナだけってのはいやーっ!
ちゃんとゆったりと湯船に身体を沈めたいのよぉっ!
天国から地獄とはまさにこのことだった。
上げて落とすとかひどすぎる。
いや、わたしが勝手に上がって落ちただけなんだけど。
あっ、ちょっと待って。
今、もう一つ最悪な事実を思い出したんだけど……。
わたしはおそるおそる問う。
「あの……そういえば下河原って、よく川が氾濫したりしてません?」
「うむ。あそこは枇杷島川と五条川の合流地点ですからな。必然的にどうしても水があふれやすく……」
ちくしょう、やっぱりか!
下河原といえば海抜も低く、二一世紀でもちょっと大きめの台風や豪雨が来たら、ほぼ確実に増水して水浸しになる場所だったのよね。
「よりにもよってそんな場所を押し付けてくるとか! もしかしなくても信秀兄さまはわたしのこと嫌い!?」
「そ、そんなことは……確かに枇杷島川に面した土地はいざという時の遊水地になっているためほとんど使えませんが、五条川方面の土地は多少は使えるかと」
なるほど、まあ、村があるぐらいだしなぁ。
そんなに危険すぎる場所なら、人なんか住まないわよね。
そういえば温泉施設があった場所も五条川方面だし、そこには民家もあった。
なら大丈夫、なのか?
でもやっぱり洪水は怖いなぁ。
「とりあえず聖牛は作ったほうがよさそうね」
「聖牛? なんですかな、それは?」
「ああ、ちょっとした洪水予防になる道具です」
「ほう、そのようなものがあるので?」
「ええ、使い方が難しいので、けっこう慎重に配置しないといけないんですけどね。でもうまく使えばけっこう効果があるはずです」
考案したのはかの武田信玄公である。
そんな彼も今年父親を追放して武田家を継いだばかりで、まだおそらく考え付いてはいないだろうから、まだ日本のどこでも使われていないはずだ。
聖と付いている由来が、大変に効果があったからだって話だし、信秀兄さまの言うソロバン並みのものを三つ作れっていう要求に応えられるものにもなりそうである。
「ん? あーっ!」
「ど、どうされましたか、姫様!?」
「いえ、ちょっと面白いことを思いつきまして」
そうだそうだ、せっかくこんな土地なんだから、アレをやればいいじゃないか。
聖牛がいいヒントになった。
わたしの今後のクオリティオブライフの向上には、決して欠かせぬものでもある。
物は考えようってよく言うけど、そのとおりね。
災い転じて福となす、むしろこの土地でよかったって思えてきたわ。
別にわたし、領地もらったからって米作る気もないし。
そんなのはどこにでもあるんだから、よそ様から買えばいい。
わたしはわたしにしか作れないものを、ここで作るのだ。
よぉし、やったるぞー!