第六一話 天文十二年三月下旬『第六天魔王の覚醒』
「なんと! 守兵二〇〇〇かそこらだけで、万を超える一向宗を壊滅したと申すか!?」
後詰の準備を整え、今まさに出撃しようとしていた斎藤道三は、使番からの報告に思わずギョッと目を剥く。
戦は基本、兵の数で決まる。
寡兵が大軍を破ることもあるにはあるが、五倍以上ともなれば極めて稀である。
さすがに耳を疑わざるを得なかった。
「はっ、佐屋川の氾濫により、一向宗の大半は呑み込まれたとのことです」
「ふむ、嚢沙の計か」
確かに大軍を一掃するとなれば、それぐらいしか策はないからそこに違和感はない。
だが、一向宗もそこまで馬鹿ではない。
多少の警戒はしていたはずである。
その警戒をかいくぐって大技を決める布石を散りばめていたはずだ。
凡夫は派手なほうにばかり目を向けるが、実際に策にハメるのに重要なのはこの布石のほうである。
「織田の鳳雛の名は、やはり伊達ではなかったらしいのぅ」
「ちっ」
道三が感嘆の声を漏らすと、隣からはなんとも忌々しげな舌打ちが響いてくる。
件の織田家の跡取り、吉法師(信長)である。
その眼を憤怒に燃やし、苛立たしげに下唇を噛み締め、不機嫌を露わにしている。
(才気煥発なれど、まだまだ青い、か)
おそらく自分と同年代で、自分より上に立つ存在が許せないのだろう。
初見の印象でも、全て自分の思い通りにする、しなければ気が済まない。そんな傲慢さを道三は顔つきからだけで看破していた。
その傲慢さは上手く働けば統率力、決断力となるが、悪く働けば思い通りいかないことへの癇癪として表出し、人望を損なう諸刃の剣でもある。
「吉法師殿」
「なんでしょう?」
「人の上に立つ者がそう容易く感情を表に出すでない。つけ入られるぞ」
「っ!」
吉法師がハッと何かに気づいたような顔になる。
やはり賢い。
今の一言で、感情を表に出すことの愚に気づいたらしい。
次いで悔しそうに顔をしかめるが、それもまた感情である事に気づいたのだろう。 ふうっと大きく息を吐き、平静を装う。
だが、道三から見ればまだ甘い。
「ふっ、激情をまだまだ抑えれぬか。要鍛錬、じゃなぁ」
「ぐっ!」
吉法師がまた悔しそうに表情を険しくする。
「また出たのぅ。そんなに悔しいか」
「~~っ!」
ますますその顔が真っ赤になり、険しさが増す。
憤怒、悔しさ、恥ずかしさ、そしてなにより、感情を制御できぬ自らへの苛立ちが今、吉法師の中で渦巻いているのだろう。
そしてなんとか押し殺そうとはしているものの上手くいかない。
それが手に取るようにわかる。
だからこそ、よろしくない。
国を統べるという事は、駆け引きの連続である。
君主たる者が、そう簡単に他者に心の内を読まれてはならぬのだ。
「吉法師殿、そなたは大きな心得違いをしておる」
「なにっ!?」
吉法師が気色ばむ。
やはり否定されることがとにかく気に食わぬらしい。
「織田弾正忠家の嫡男として、思い通りに行くことが多かったのじゃろう。だがな、世の中も他人も、思い通りには動かぬ。よいか? 動かぬ方が当たり前なのじゃ」
「思い通りに動かぬ方が当たり前……ですか」
道三の言葉を、吉法師はオウム返しする。
あまりピンときていない様子である。
やはりか、と道三は苦笑する。
身分の高い家に生まれた者によくある傾向だった。
物心つくかつかないかの頃から人が自分に従うのだ。思い通りに動いてくれるのだ。願った事が叶うのだ。
さらに言えば、この男は頭もすこぶる良い。
なおさら全てが思い通りにいくような、そんな全能感を持っていたのだろう。
無理もないことではあると思う。
だが、実際の現実は違う。
「そうじゃ、考えても見よ。おぬしは今、己の心一つ、思い通りにできておらぬではないか」
「っ!」
「己さえ御せぬのに、他人が、世の中が御せると思う方がおかしいのよ」
「……なるほど。つまり、まずは己を御せ、ということか」
こちらの言ったことを咀嚼し、吉法師は唸るように言う。
それも広義としては、あるいは最終的には間違っていない。
いないのだが、
「違う。まず御せぬ事を知れ、と言うておるのじゃ」
あえて、道三は否定する。
彼が伝えたいのは、あくまで他人や世の中は思い通りにいかぬ。
ただその一点に尽きた。
「……義父殿の言っている事は矛盾している。武家の当主たる者、他者を御さねば立ち行かぬではないか!?」
吉法師は納得がいかないように眉をひそめて返す。
それはその通りである。
道三も頷き、
「然り。だが、十全に御せると思うことが誤りよ。思い通りになることなどせいぜい三割、七割は思い通りになどゆかぬ。美濃の国主たる儂でさえ、な」
くくっと自嘲じみた笑みをこぼす。
美濃の蝮とまで言われた彼をもってしても、美濃一つ思い通りにならない。
上辺では従っていても、成りあがりである彼を疎む者も多い。
尾張へと追放した旧主土岐頼芸は、妻の実家である六角定頼を頼って近江に渡ったと聞く。
定頼とともに捲土重来を画策しているに違いない。
大桑城とその支城には、道三の美濃支配を認めぬ土岐頼純一派が籠もる。
まったくもって安泰からは程遠い状況だった。
「……義父殿でさえ三割……か。ならば俺など一割以下だな」
「そうじゃ。良いか、吉法師殿。思い通りにゆくと思うておるから、いかぬ時に腹が立つのよ」
「……つまり、何事も思い通りにゆかぬのが当たり前と思っていれば腹も立たぬ、と?」
「然り」
道三はうむと頷く。
たとえば後ろから大声で驚かすにしても、接近に気づかずいきなり大声をあげられれば人は大層驚くものだが、その接近に気づきかつ驚かそうという意図を知っていれば、何一つ心揺らぐことはない。
言うなれば先に心構えさえあれば、心は平静が保てるのである。
道三が吉法師に伝えたかったのは、まさにここだった。
「さらに言えば、思い通りにゆかなかった場合を無数に想定し、その一つ一つに対策を講じよ。想定の範囲内ならば、心は全く動じん。これぞ明鏡止水の極意よ」
「っ! なるほど!」
蒙が拓けたとばかりに、信長が目をかっ開いて頷く。
奇しくも道三が語った言葉は、つやが勝家に語った言葉と似ていたが、神ならぬ彼らがそれを知る由もない。
そしてこの薫陶の後、吉法師の癇癪は劇的になりを潜めていく。
だが、気性が大人しくなった、というわけでは決してない。
負の感情に振り回されることがなくなったことで、その激情は指向性を得る。
人が変わったように勉学に励み、武芸にのめり込むようになった。
また多種多様な人たちと交わり、人の使い方、心の掴み方を学ぶようになった。
戦国の覇王は静かに雌伏し、その力を着々と蓄え始めたのである。