教室からの脱出
さて、そろそろ覚悟を決めようか。
オレは思い切って、音を立てて扉を全開にしてみたが、あの赤いヤツは少しも動く様子がなかった。
どうやら、赤いヤツは、物音や人間の気配に反応しているわけではないようだ。
そうなると、外見からは分からないけれど、あのどこかに目があるのかもしれない。
「1,2,3で飛び出すよ」
一番前にいると思われるセツがそう言った。
「に、逃げる時は、押さない! 駆けない! しがみつかない! だっけ?」
「や、やよい、多分、それ、何か、違うわ」
やよいのどこか阿呆な発言に、サツキは突っ込んでいるが、何故か片言の日本語となっている。
足が速くない自覚がある彼女は、かなり緊張しているようだ。
「本来は、喋らない……かな。」
セツが困ったようにそう言った。
だが、今は火事の現場ではないためか、くだらないとは分かっていても、誰も会話を止めようとはしない。
恐怖心を紛らわせるためだろう。
その気持ちはよく分かるが……、いつまでも無駄話をしているわけにもいかない。
「セツ、そろそろ行くぞ」
「うん、分かってるよ」
オレの言葉に、そう答えたセツの声は、いつもほどまっすぐとは思えなかった。
今さらだとは思うが、こいつにかなり嫌な役目を任せてしまった気がする。誰だって最初の一歩は怖いのだ。
今からでもオレが先に行くって言うべきか?
だが、携帯の操作の話に加えて、この中ではオレの足が一番速いのだ。後ろから行かなければ、女子二人を置いていっても気づかない可能性が高い。
でも、それはセツが先頭を切って走れることが元となっている話だ。こいつがその始めの一歩が踏み出せないのならば、意味がない。
「そんなに心配しなくても僕は大丈夫だよ、睦月くん」
オレの心を読んだかのように、そんな声が前方から聞こえた。
「君の提案どおり、僕が先導して睦月くんが最後尾を見張る。この形が最善だと僕も思う。だから、どんな結果になっても僕は君を責めるつもりはない。だから、君がそんなに緊張することはないんだ」
「あ、あたしも! 足、遅いけど、転ばないように頑張るから!」
セツの言葉につられたかのように、サツキが声を震わせながらも気の強さを発揮する。
こいつらとの付き合いは長いんだ。
オレが迷っていることもバレバレだったようである。それが、なんか悔しい。
もっとカッコつけさせてくれよ。
「わたしは結果次第では誰かを責めるからね」
やよいも、ある意味では迷いなく言う。
「誰か一人でも欠けたら絶対許さない。特にムツキ!殿が始めから囮になるなんて考え方してたら部隊は全滅しちゃうから本気でやめてよ。知らない場所、視界が悪い状況で少数の兵をさらに分けることになる作戦は愚策だからね」
「ツンデレかよ」
自分には周りが引くほど正直なのに、他人に対しては素直じゃないヤツだよな。
そんな回りくどい言い方なんかせずに、「皆、気をつけて。無事じゃなきゃ嫌よ」って言うだけで、その可愛らしいと言えなくもない見た目なら、男心をガッシリ掴めるはずなのに。
この女は、中身が本当に残念すぎる。
「事実だよ。だから、しっかりお役目を果たしてね」
からかうようなオレの言葉にも、気を悪くした様子を見せず、さらりと答える。
「分かってるよ。オレだって死にたくはねえ」
できるだけ軽口で答えたが、あることに気付いた。
これまでの会話を思い出せば、この場にいる誰もが、あの赤いヤツに追いつかれた時のことを最悪な状況として考えているのだ。
そして、理由はよく分からないが、オレはアイツに触れられただけで絶対、死んでしまうと思っている。
本当に、何故か分からない。
オレはアイツと初対面のはずなのに、それが決定的だと確信している。
なんの根拠もない勘。でも、アイツを初めて見た時からずっとそう思い込んでいるのだ。
いや、正確にはアイツだけじゃなかった。さっきから視界にたまに入る青いヤツだって無害だとは思ってはいない。
だから、試しに触れてみようとも考えなかった。好奇心は猫をも殺す。
お試し行動で死にたくはない。だが、その考えがどこから浮かんでくるのかは分からない。
日常生活で死を覚悟する機会なんて、猛スピードで真横を通り過ぎる車を見た時とか、階段で足を滑らせて数段一気に滑り落ちる時、あるいは、テーマパークなどでジェットコースターに乗っている時ぐらいだろう。
だが、あの赤いヤツはそれ以上の感覚で死を連想させる。
あの色が血に似ているわけでもないし、炎とも違うことは分かっているのに、あまり長い時間見ていたくはなかった。
オレが思い出せないだけで、アイツらは死に導く存在ってことなのかもしれないけど。
「じゃあ、行くよ」
セツの声で、オレは現実へと引き戻される。
死ぬことを考えているなんてオレらしくもない。
もしかすると、こんなよく分からん世界でオレが気づかない間に精神的にやられてしまったかもしれない。
そんな考えに改めてぞっとする。知らない間に自分の考え方がネガティブ思考となっているのは、かなりの恐怖なのではないだろうか?
そんなオレの考えも、セツのカウントダウンが始まることで、どこかに追いやられた。
そして、「3! 」の力強い言葉とともに、オレたちは一斉に教室から飛び出す。
少し考え事をしていたせいか、入口のドアに肩を少しぶつけてしまった気がするが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
あの赤いヤツが迷わず、オレたちに向かってきたのだから。
「来てる! 走れ!」
オレは力の限り叫んだ。
セツは携帯を左右に振りながら走っているらしい。
オレなら腕の振りに合わせて上下に向けるだけだったと思う。走っている時に周囲を照らす余裕なんてなかったはずだ。
小柄なやよいも、その速さに問題ない。セツが速度を落としていることもあるが、しっかり遅れないようについていっている。
だが……。
「セツ! サツキが遅れてきた。赤いやつとの距離はさっきより離れた。速度をもう少しだけ落とせ!」
やはり、運動が苦手なサツキだけは、少し遅れてくる。
足は長いのに、使い方が悪いのだろうか?
「分かった!」
セツの力強い声。そして、ほんの僅かだけ落とされる速度。
ほぼ直線の廊下に、障害物になるような物はなかった。
廊下を走っていることを注意するような教師も、今はいないため、意外と、携帯のライトだけでも十分、走れている。
「左に曲がるよ!」
セツは明らかに目的を持って走っている。そんな気がした。
やっぱりこいつを先頭にしたオレの判断は間違っていない。
校門や校庭を基準に考えると、この学校の校舎は「H」を横にしたような形だった。
まっすぐ走れば似たような教室が並んでいるだけだが、曲がって渡り廊下を行けば専門教室や職員室がある棟に出る。
図書室や例のPC教室もそこにあった。それぞれの階層が違うから、階段を使う必要はあるのだが。
だが、曲がって渡り廊下を少し進んだ所で、オレは赤いヤツの姿がないことに気付いた。
「止まれ、セツ! あいつがこねえ!!」
「「「え? 」」」
オレの叫びに、三人の声が重なり、その足を止めた。
まあ、止まる際に、少しばかりサツキがバランスを崩した気もするが、止まったことには間違いないから放っておく。
今の場所は普通教室棟と専門教室棟をつないだ渡り廊下の中央部。速度的にはそろそろ姿を見せると思うのだが、あの赤いヤツはその姿を見せない。
「どういうことだ?」
オレはもう何度目になるかは分からない疑問を、口にするしかなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。