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河相勇。男。とある市立の高校に通っている。少し目つきが悪いと言われるけど、それ以外特に外見に目立った特徴はない。成績はずばぬけて良いわけでも、すこぶる悪いわけでもなく普通。自分で言うのもなんだが、どこにでもいる模範的な学生だ。
ただ一つ……家族にも仲の良い友人にも言えない秘密を抱えている。それは――。
ついに戻れないところまで来てしまった。けど、来るべきして来たのだとも言える。
夜。午後8時を過ぎた頃。昼間と比べて人気のない公園に佇む一つの影。
背中まで伸びる長髪に、ふんわりとしたブラウスにひらひらとしたロングスカート。そして足元を彩るスニーカー。この暗さではっきりとは見えないだろうが、この光景を見た人は思うだろう。「こんな夜に女性が何をやっているんだろう」と。もしかしたら、「危ないな」と心配してくれる人もいるかもしれない。だが、心配には及ばない。なぜならその女性は、男だからだ。
俺は自分が身に着けている服を見下ろす。その形は男が着るように設計されたものではないのは明らかだった。そして改めて認識する。俺は女装していると。
俺は昔から少し変わっていた。同い年の男子が好む、カッコいいものより、女子が好むような、かわいいものにばっかりに興味を示していたからだった。特に俺は、女子たちが着る服に強く興味を惹かれていた。俺たちが着る服とは違う、女子の特権のような色や形。フリルやリボンなどの装飾にあふれた、ふわふわ、ひらひらとした見た目。それらの服たちは俺を魅了してやまなかった。気づいたらテレビでは出てくる女子の服ばかり見ていて、インターネットではいろんな通販サイトを巡って女性の服ばかり調べていた。その時初めて俺はかわいいものが好きなんだと確信した。
でもまだこの時は見るだけで満足していた。その服を自分で着るなんて考えもしなかった。
ある日のことだった。いつものように服の通販サイトを巡っていた時だった。俺は前から注目していた服がそのサイトで売られているのを見つけた。しかも格安で。
いつもならスルーするところだったのだが、その時ネット通販のやり方を覚えたばかりなのに加えて、小遣いを貰ったばっかりだったのがいけなかった。気づけば俺は購入のボタンをクリックしていた。ずっと憧れだった服を実際に見てみたい、手元に置きたいという一心だった。それ以外には特に何もなかったはず――だったのだが。
服が手元に届き、一通り堪能したその瞬間、違う欲が湧きあがってきた。
――着てみたい。
ここでこの服が着られなかったのなら、今俺はここにいなかっただろう。つまりはそういうことである。そこから俺はまるでジェットコースターのごとく女装にのめりこんでいった。
そして今日、俺はまた新たに扉を開けようとしていた。それは女装のまま外に出るということであった。今まで、女装は家の中で、親がいないときを狙ってこっそりやっていた。誰にも見られたくなかったし、見せようとも思っていなかったからだ。
しかし、長い間続けていると、何故か新しい欲が湧きあがってくるもので。思い立ったら、行動は早かった。手元には新しい服と、それに似合う髪型のウィッグが揃っていた。
とうとうやってしまったなという思いもある。だがそれよりも一種の達成感が俺を満たしていた。
びゅう、と風が勢いよく通り抜け、俺は体を縮めた。だいぶ冷えてきたらしい。
――そろそろ家に帰るか。充分堪能できたわけだし。暗い公園に居続けて、うっかり人にあったりしても大変だしな。
俺は縮めた格好のまま、公園の出口に向かう。今度はもう少し明るい時にでてみるか、なんて呑気に考えながら。
――この時、もう少し周りを警戒しておけば、俺はこの後の惨劇を引き起こすことはなかっただろう。しかし残念なことに、この時の俺は、新しい経験をした嬉しさと興奮で浮かれていた。つまるところ、脳内お花畑状態になっていたのである。だから気づかなかった。自転車がこちらに向かって走ってきていることに。
キキーッという金切音をたてて、俺のすぐ側で自転車が急停止した。
「わっ、すみませ……」
驚いた俺は反射的に謝って、慌てて口を押えた。見た目は一応女子ではあるものの、中身まで女子に変わるわけではない。声を聞かれたら、正体は一目瞭然だった。
とにかく早く去らなければ。俺はうつむきがちに踵を返した。
「河相くん?」
時が止まった。急速に頭が冷え、嫌な汗が一気に出てくる。心臓がうるさいほど大きく鳴り始める。なんで俺の名前を。そのまま無視して行けばいいのに、身体はその場から動こうとはしなかった。そのかわり、頭は正体を追い求めるように、自転車の主を見てしまった。
そこにいたのは見知った顔だった。クラスの学級委員長。織部舞。表情が一貫して崩れないことで有名な彼女だが、今ばかりはわずかに目を見開いて俺のことを見ていた。それはそうだろう。同じクラスの男子が女装して外に出ていたら誰だって驚く。やけに冷静にそう思った。
一瞬――この時は永遠に思えた――俺たちは見つめ合った。これがそれ相応の場面であったのなら恋が始まったかもしれない。しかし、遠くから誰かの声が聞こえた瞬間、俺は弾かれたように走り出した。ロングスカートがめくれるのも構わず、ただひたすらに走った。
ばれた。ばれてしまった。しかもクラスメイトに。
(うわ……うわあああああああ!)
俺は心の中で悶えながら、がむしゃらに走った。今日の日ほど、時間が止まればいいと思ったことはなかった。