第4章 『大学時代:Fire Flower』
みんな、お母さん以外の、何があっても受け入れてくれる存在を求めている。
人間が最も興味を抱くものは、宝石でも、食物でも、景色でもない。
人間が最も興味を抱くのは、人間である。
“誰でもよかった。”
通り魔は、殺人の動機をこう述べた。
誰でもよかったけれど。
人間でなければならなかったのだ。
誰かにとっての誰かになれなかったから、誰でもいいから殺そうとしたのだ。
“愛してくれるのであれば、誰でもよかった。”
ダイエットもする。勉強もする。一生懸命働く。
オナ禁も、風水占いも、恋愛おみくじも信じる。
だから、その代わり、誰か俺を好きだと言ってくれ
第4章 『大学時代:Fire Flower』
誰でもいいから、誰かの一番になりたい。
心理学の講義で配布された年代別の交際経験割合の表を見て吐き気を覚えながらも、卒業までには自然と恋人ができると思っていた元大学生へ。
/
男「遅いよ。いつまでかかってんの?」
「大変申し訳ございません……」
男「ほら、食べ終わった皿片付けてよ。気が利かないなぁ」
ファミレスで1人で食事をとりながら、男は店員に文句を言っていた。
最近行っていた、度胸を以て愛嬌をふりまくという習慣は、完全に絶たれてしまった。
女と会う以前と同様に、いやそれ以上に、自分と関わるもの全てに無愛想な態度を貫いた。
高校生の頃に、”こんな彼氏はNG”というものがネットで出回った。
とりわけ多かったのが、店員へ横暴な態度を振る舞う彼氏という意見だった。
あの頃の自分達は素直にそれをかっこ悪い男だと感じたし、店員の人に対しては気持ちの良い対応を行おうと心がけることもできた。
無駄に丁寧過ぎる感謝を述べる若者でいられた。
でもそれは、学生、つまり常にお金を払う側のお客様でいられたからだった。
社会人になって、規律の厳しい組織に属すと、学生の頃は許された大雑把さ、緩さ、適当さが、犯罪行為のように糾弾される経験をする。
上司や取引先から、今までの人生にはなかった”厳しさ”の基準を与えられる日々が続いた結果。
自分もその厳しさを、周囲の人間に求めるようになった。
社会”人”とはよくいったもので、未来人、宇宙人、異世界人同様、全く別の生き物なのだ。
自分がお金を払う側の人間になった時に、いい加減な態度でいる店員を許せなくなった。
自分が命をすり減らして稼いだお金を渡しているというのに、それを安易な態度で受け取られたら、それこそ命の一部を奪われたような気分になった。
男「お金を大切に扱わない人間が悪なんだ。それは店員に細かい注意をつける客ではなく、客に細かい注意を向けない店員なんだ」
乱暴な独り言をいってから、男は苦笑した。
男「1時間の会話に1万円払ってでも、また会いたいと思わせるような立派な店員がいて。
ずるをしてその店員の裏側を覗き見て、勝手に不満を抱えている客はどうなるんだろな」
男「ほら、最初に警告したとおりだろ」
男「君にとっての良い彼氏にはなれそうにないって」
男「ただの、ひねくれた金蔓さ」
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残高明細
ジドウキ 60,000円
ジドウキ 40,000円
ジドウキ 40,000円
男「現金の出金履歴が多すぎる。ほとんど毎日あの子と会ってたせいだ。このままじゃ金の実のない蔓になるな」
男は携帯電話で預金口座の残高を確認していた。
男「馬鹿かよ。このままじゃこの数年間の労働が消えてなくなるぞ。失業手当の支給までまだ2ヶ月はかかるし」
男「何やってんだよ。馬鹿かよ俺。実家に帰って、就職活動でもしろよ」
男は吐き気を催した。
男「餓死の原因が、女の子と手をつなぎたかったからなんて、これは良いお笑い種だ」
/
女「もうすぐ花火大会ですね」
こんにちは、の挨拶もなしに、いきなり女は満面の笑みを向けてきた。
今日の女は私服姿だった。
女は男と手を繋いだ。
男は反射的に、昨日の男性と繋いだ手なんだなと思った。
男「そうなのか?」
女「ええ。今度の土曜日です」
男「へえ……」
女「男さん」
男「な、何だ?」
女「もうすぐ花火大会ですね」
女は再び、満面の笑みを向けてきた。
男「さっき聞いた」
女「平成最後の夏ですよ」
男「そうだな」
女「平成最後の夏の花火ですってば」
男「言いたいことはわかってるよ。いや、言わせたいことはわかってるよ」
女「ほほう、なんでしょう?」
男「一緒に花火を観に行くか」
女「えへへ、楽しみです」
男「あのなぁー」
/
今日は強気の態度でいようと、今朝固く誓っていたのに。
彼女の笑顔を前にして、手を繋がれると、従う他なくなってしまう。
彼女が創り上げてくれている幻想を壊さないように、自分も演者になってしまう。
17時30分以降の料金は1.5倍。
3時間一緒にいるとしたら、45,000円。
大金だ。
サラリーマンとして、苦痛に顔を歪めながら働いて得たおよそ一週間分の金だ。
馬鹿げていると思った。
かつて、キャバクラに注ぎ込む親父や、アイドルのCDを何十枚も買う人達を見て、どうかしていると思っていたように。
だが、いざ自分がその立場になると。
一生で今しか買えない特別な時間を目の前にすると。
どうしても、手に入れずにはいられないのだった。
/
女「今から楽しみですね」
男「でも、土日なのにいいのか?おやすみじゃなかったっけ」
女「今回は特別です」
男「それはどうも」
女「夏祭りは苦手じゃないですよね?」
男「嫌いだと自分には言い張ってきた」
女「そうなんですか。わたあめも、射的も、型抜きも、花火も、どれも素敵じゃないですか」
男「正確には、夏祭りが嫌いなんじゃない。夏祭りに楽しむことのできない人生しか送れなかった、自分が嫌いなんだ」
女「私と一緒でも夏祭りを楽しめませんか?」
男「そんなことはないけど。女が本物の彼女だったらな」
女「本物ですよ。三次元です」
男「時間になったら帰るのに?」
女「シンデレラに憧れているのだと思って」
男「お金も払うのにか?」
女「かぼちゃの馬車の乗車賃を奢ってるのだと思って」
男「前も聞いた。排気ガスを出すかぼちゃの馬車か」
女「本当に行きたくないですか」
男「……ううん。行きたい」
女「ふふ。私もですよ」
/
男「さっきから気になってたんだけど。どうして私服姿のワンピースなの?」
女「大学生ってみんな私服姿じゃないですか」
男「もう高校時代を語り合うのは終わりってことか」
女「制服姿がもう見れなくて残念ですか?」
男「そ、そういうわけじゃないけど。過去の心地よい記憶をなぞっただけで、結局何も乗り越えてないような気がして」
女「男さんにとって乗り越えるっていうのは、何を指すんですか」
男「なんだろうな。あれはいい思い出だったと、気持ちを片付けることかな」
女「まさにそれをやってきたんじゃないですか。美しい思い出は、トラウマと表裏一体です。手に入らなかったことを嘆くより、垣間見えたことに感謝できれば充分だと思います」
女「何もかも乗り越えなければ前に進めないなんてこともないですしね」
男「それもそうか。そうだな。中高の復習も終わらないまま受験に突入して、強引に大学生になったのと同じだな」
女「今日は大学時代の思い出について教えてください」
男「そうするよ」
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女「大学に入ってからのあなたも反動形成のかたまりだったんですか?」
男「変わろうとしたんだ。昔の自分を捨てて、新しい自分になろうとした。昔の悪い癖を全て消そうと意識した。かわいく言えば、大学デビューってやつだ」
女「かわいく言わなければ、自分を殺そうとしたんですね」
男「そうだな。確かに、昔の自分は死んだ。でも、新しい自分にはなれなかった」
男「好きな人に嫌いだと言わない壁を超えた。でも、好きな人に好きだと伝える壁は、遥かに高かった」
女「そして青春ゾンビになったんですね」
男「ゾンビになった。いろんなコミュニティに入ったけど、心は独りの大学生活を送るようになった」
女「つらかったですね。気分転換に、今流行りの青春映画でも観に行ってもいいですよ」
男「ナメクジに塩をふるようなことを」
女「ドラキュラににんにくを食べさせるようなことともいいます」
男「ゾンビだけどな」
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男は大学時代の自分について語り続けた。
語りながら、時々女にぼおーっとしてると指摘され、少し寝不足だと嘘をついた。
本当は、昨日の男がどうしても脳裏にちらついていたのだった。
そうして時間が過ぎ、夕焼け小焼けのメロディが流れた。
女「それでは、今日もありがとうございました」
男「こちらこそありがとう」
男は女に料金をわたした。
女「また」
男「またな」
男は女に手を振った。
数分の時間を置いて、男は季節外れのマスクをつけた。
そして、自転車に乗って、市内へと向かった。
男「ばれたらばれたで、もういいよ」
/
スーパーの前に立っている若者がいた。
ジャージ姿でクロックスを履いている。一人暮らしの大学生に見えた。
黒塗りの車がスーパーの前に到着すると。
浮気の達人、否、女が降りてきた。
服装は、先程着ていた私服ではなく、これまたジャージ姿であった。ただしエコバッグを肩からかけていた。
若者は途端に笑顔になり、女に手を振った。
女は若者に駆け寄ると、笑顔を向けて手を繋いだ。
どうやら、俺以外の他の客のようだ。
その日の尾行は1時間で終わった。
二人はただスーパーで買い物をして、その後公園に寄ってブランコに乗り、お酒をちびちび飲みながら話しているだけだった。
通学がどうの、サークルやゼミがどうのと話していたから、きっと大学生なのだろう。
何か変わっていたことといえば、女が時々黒いノートをエコバッグから取り出しては、いたずらっぽい笑みを浮かべながら読んでいることくらいだった(その度に若者は少し照れていた)。
黒塗りの車が迎えに来ると、若者は紙幣を2枚取り出して女に渡し、さよならを告げた。
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距離をあけながら、男は通行人を装い徐々に若者に近づいた。
すれ違いざまに相手を捉えた時、手首を見て驚いた。
見た目のズボラさとは裏腹に、そこら辺の学生では逆立ちしても手に入らないほどの高級な腕時計を身に着けていた。
営業マンとして新卒で働き始めた時に、何かの役に立つかもしれないと高級腕時計のブランドや歴史を一通り頭に叩き込み、商談の際の話題作りに利用していた時期があったので間違いはないはずだ。
若者は、駐車していた車に乗り、その場を去っていった。
/
別の日。
また女と別れを告げた後、公園へと向かった。
公園には若い小太りのサラリーマンがおり、そわそわしながら立っていた。
しばらくすると、黒塗りの車から女が降りてきた。OLスーツ姿でビジネスバッグを持っていた。
サラリーマンは出会った瞬間からおどおどしていたが、女はやさしく笑った。
サラリーマンは財布からお札を二枚取り出すと、女に渡した。彼は先払いをするタイプのようだ。
二人は手を繋ぎ、しばらく歩くと、ゲームセンターに入って行った。
音楽ゲームの筐体の前で止まると、サラリーマンは荷物を地面に置き(すぐに女が持ってあげた)、鬼の形相で手を動かし始めた。
あまりに必死に叩くので、近くにいた女子高生の二人組がくすくす笑って見ていたが、女がじっと二人を見つめると、足早に去っていった。
ハイスコアを出し、汗をぐっしょりかきながらも興奮しているサラリーマンに、女は拍手をしてハンカチで汗を拭ってあげた。
サラリーマンは自信をつけて、女と二人で色んなゲームを楽しんだ。
二人で協力するゲームなんかをやっても、女が最初に死んでしまい、サラリーマンだけライフを保たせながらぐんぐん進んでいくことが多かった。
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さきほどプレイした音楽ゲームのところに戻ると、女が提案をしていた。
“縛りプレイをやってみましょうよ。私と会話をしながら、どれだけ点数が取れるのか”
サラリーマンはその提案に戸惑っていたが、挑戦心が湧いたのか、コインを投入した。
女は食べ物の話題やアニメの話題を振っていた。
2つのことを同時処理することの難しさのせいか、それとも元々会話が得意じゃないせいかわからないが、サラリーマンは会話内容も曖昧でゲームミスも連発していた。
先程のスコアとは比べようもないほど低い点数を取っていたにもかかわらず、サラリーマンはとてもうれしそうな表情をして、もう一度やりたいと申し出た。
二人は1時間丸々ゲームセンターで過ごした。
サラリーマンは女にお札を言い、笑顔でさよならを告げた。
別れ際、女は言った。
“次も、私と会話しながらゲームをしてもらいますからね。宿題ですよ“
女の出した夏休みの宿題に、サラリーマンはまいったという表情を浮かべたが、嬉しそうに頷いたのだった。
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田舎の地域では遊ぶ場所が限られていた。
無職でいくらでも時間のある男は、女が行きそうな場所を特定して尾行することができた。
自分以外の様々な男性客とデートをする女を見ていても、不思議と嫉妬心も虚しさも沸かなかった。
それ以上に、女がいかにレンタル彼女としての才能に溢れているかに感動するばかりであった。
男性側が投げかけた話題がどんなに平凡なものでも、奇抜なものでも、全身で興味を示して受け答えをするのだった。
あらゆる分野の話題への知識を有しており、バカバカしい冗談を混ぜながらも、相手の求める会話を見事に提供していた。
彼女といる時間、男性は様々な勘違いを起こす危険性が高い。
自分は話し上手だという勘違い。
自分は教養があるという勘違い。
自分は笑わせ上手だという勘違い。
自分には、彼女しかいないという勘違い。
いや、勘違いではないのかもしれない。
彼女といる時間は、紛れも無く、そうと確信できるほど、居心地の良い時間が過ごせるのだから。
かつて叶わなかった恋の幻想がもしも叶っていたらこんな時間を過ごせていたのではないかと、僕も何度思わされただろうか。
/
男は待ち続けた。
友に尾行を頼んだ日から、彼女を見る目が変わった。
自分以外の客とどんな時間を過ごしているかなど、今では大した問題ではなかった。
あれほどまでに完璧な少女が、お金を出してまで獲得しようとする時間にこそ興味があった。
そして、その日は訪れた。
日曜日のことだった。
腕時計を何度も確認しながら立っている女に、1人の男が近づいていった。
遠くから眺めているはずなのに、良い香りが漂ってきた気がした。
制服を着た女子学生も、買い物袋を両手に抱えた主婦も、すれ違ってから数秒の間を置いて振り向いた。
小さい女の子でさえ、その彼の顔をじっと見つめるのだった。
彼が女の前に立つと、手を差し伸べた。
はっきりと、嬉々とした女の声が聞こえた。
女「5分も早く来てくれたんだ」
女は封筒を取り出すと男に渡した。
女「別れ際にわたすと寂しくなっちゃうからさ。今日もよろしくね」
女「ほら、はやく行こ」
女は満面の笑みで言い、自ら腕を組み歩き始めた。
100%の男性と共に。
/
・・・
夜を照らすものは少ない。
月。星。LED蛍光灯と灯台。そして、花火。
昼に衣服を纏うように、夜には裸で暗闇を纏う。
誰にも見られないからこそ、安心してさらけ出せる。
告白するのがいつも夜なのは、心が裸の時にしか告白ができないからだ。
でも、真っ暗闇だとお互い相手が判別できなくなってしまうから、薄明かりが発明された。
永劫たる太陽にも、提供できない時間がある。
月だけが与えてくれる時間。
輝夜姫。
彼女が月を見ては泣いていたのは、月に帰りたくなかったからだけではない。
地球から見る月が、あまりにも美しかったからだ。
次回『星見日和の直射月光』
明けない夜はないという希望があるように。
明けないで欲しい夜も明けてしまうという、絶望がある。
/
女「おまたせしました」
待ち合わせ場所に着くと、女は浴衣姿で登場した。
約束の時間より少し早かった。
男「5分早めに来てくれたのか」
女「今日は特別な日ですからね」
男「今日は最初にお金を渡してもいいかな?別れ際に渡すと寂しいからさ」
女「ええ。いいですよ」
女は少し不思議そうな表情を浮かべたが、特に気にするそぶりも見せずに現金を受け取った。
金額は45,000円。17時30分から20時30分までの3時間分。
花火大会の時刻は19時00分から20時00分の予定だ。
大金を払ってもいいと思っていた。
今日を最後の日にするつもりだった。
無謀だとわかりきっていながらも。意味がないとわかりきっていながらも。
男は、彼女に告白するつもりだった。
もう付き合っているはずの彼女に、付き合ってくださいと、好意を伝える決意を固めていた。
/
この地域では、夏祭りと、花火大会が同日に行われる。
打ち上げの時間が来るまで、二人は出店で食べ物を買ったり、射的や型抜きをして時間を過ごした。
男「大学時代に好きになったのは、途中でサークルに入ってきた女の子だった」
女「学園祭実行委員のサークルに入ってらしたんですよね」
男「ああ。規模が大きくて、何百人もサークル員がいてさ。チームがいくつにも分かれてるんだ。2年生の途中にうちのチームに入ってきたのがその子だった」
男「花火大会にも毎年行ってて、お酒の買い出しなんかは1年生が中心に行くんだけどさ。上級生も何人か面倒見役でついていくんだ」
男「その日はほとんどその子と二人で行動をしてた。大人しいけど見た目は可愛くて、こちらがわかりづらい冗談を言ってもちゃんと理解して笑ってくれる子だった」
男「高校が全国的に有名な進学校だったらしいんだけど、受験に失敗してうちの大学に来たって言ってた。やさぐれてるうちにサークルに無所属のまま2年生になっちゃって、このままじゃよくないって思ってうちのサークルに入りに来たって言ってた」
男「1年目の学園祭の日には大学に来なかったくらいだから、2年目は開催する側に回ろうって決めたらしいんだ」
男は花火の時間が来るまで、淡々と過去の思い出を語り続けた。
もはや、彼が大切にしまっていた大学時代の思い出は、切ない記憶を呼び起こしながらも、今では時間つぶしの話題に過ぎなかった。
/
男が一通り話し終えると、今度は女が夏の思い出を語り始めた。
聞いているそぶりを見せながらも、男は時計を何度も見ていた。
1分過ぎるごとに、250円が失われている。
2分経てば、今手に持っているこのやきそば等、屋台で売られている全ての食べ物をどれか1品買うことができる。
少し場所を移動したり、トイレに行ったりするだけで、5分、10分とあっという間に時間は経過していく。
大学時代に、何かの授業で教授が言っていた。
うちの大学の授業一コマ分の時間は、授業料から換算すると3000円ほどの金額になるからさぼってはいけないと。
そんなことを言われたところで、授業料は親に払ってもらっていたし、自分が大学に通うのは大学生としての身分を貰って4年間のモラトリアムを謳歌することが目的だったので、講義に価値など見出さなかった。
けれど、今のこの時間は違う。
新卒として社会に出た自分が、吐き気を催すストレスフルの毎日と引き換えに得たお金を、1人の女の子と会話する時間への対価として直接的に支払っている。
彼女から、正確には彼女を雇っている組織からしてみれば。
26年間、たった1人の異性にも振り向いて貰えなかった男と一緒にいる時間は、1分間につき250円絞り取っていいだけのものということなのだろうか。
男は胸中で何を思っているか見せないように笑いながら、女の話に相槌を打ち続けた。
/
ドーン。
パチパチパチ。
ドーン。
オレンジ色、茜色、緑色、ピンク色。
様々な色の花火が夜空に打ち上がった。
女「わぁー!綺麗ですね!」
女の横顔を見た。
はしゃいでいる子供のような笑顔を浮かべていた。
もしも、あの日の夜、黒板に書かれた電話番号にかけていなかったとしたら。
今、自分は、1人でどこにいたのだろうか。
今、こうして。
自分の過去の青春の傷口に寄り添ってくれる、浴衣姿の美しい女の子と、二人で手を繋ぎながら。
花火を見る時間以上に、価値のある時間を過ごすことができたのだろうか。
金銭の報酬と引き替えの疑似恋愛だの、散々嫌味を言っていたくせに。
結局のところ、俺は彼女に、どうしようもないほど救われてしまっていたのだった。
肩を並べて、黙って花火を眺めている時、男は思わずつぶやいた。
男「ああ、いやだな」
/
女「どうしたんですか?」
男「好きな人ができたんだ」
女「良いことじゃないですか」
男「なあ、女」
女「はい」
男「好きだ。付き合ってほしい」
女「もう付き合ってるじゃないですか」
男「ほらな、告白さえ許されない」
女「だって付き合ってるんですもの」
男「おかしくなりそうだ。君を殺してしまうかもしれない」
女「好きなのにですか」
男「好きだからだよ」
女「一人ぼっちになりたいんですか」
男「君といると余計に孤独を感じるからだよ」
女「それじゃあ私と別れますか」
男「別れたくない」
女「それじゃあ、このまま手を繋いで、花火をずっと見ていましょうよ」
流れが変わり、とめどなく花火が打ち上げられた。
女は小さな歓声をあげながら眺め続け、男はうつむきながら泣き続けた。
男が頭を女の肩に預けても、女は何も言わなかった。
ふと、懐かしい匂いに包まれ、男の意識は沈んでいった。
/
『場違いなこと言っていい?』
花火があがっている途中、隣にいた女子大生は男に尋ねた。
男『何?』
『私、星を見るのが好きなの』
男『そうなの?』
『うん。そして今日はね、絶好の星見日和なんだ』
男『今日ほど、みんなが空を見上げながら、星を見てない日もないと思うけど』
『うん。灯台下暗しだよ。そこら中明るいけどさ』
男『あのさ、俺、全然星座とか詳しくなくてさ』
『いいよ、教えてあげる。でも、花火見なくてもいいの?』
男『花火は毎年見てるから。星はここ数年1つも見てないんだ』
『ずっと下を向いて歩いてたのかな?それはよくないね。それじゃあ、お言葉に甘えて、説明致します』
彼女は夜空をあちこち指差しながら、天文に関する説明を始めた。
自然科学的な説明も、神話的な説明も、どちらも交えて彼女は話すことができた。
みるみる、彼女の話に惹き込まれていった。
/
『……以上です。ご清聴ありがとうございました』
男『すごいね。こちらこそありがとう』
『バァーっと喋り過ぎちゃったね。何か質問ある?』
男『くだらないことでもいい?』
『どうぞ』
男『うちの大学には天文サークルもあるよね。どうして入らなかったの?』
『1年生の時に見学に行ったよ。でも、雰囲気が合わなくてやめちゃった』
男『どんな雰囲気だった?』
『星目当てで入ってない人が多かったかな』
彼女は苦笑いした。
男『なんとなくわかるよ。恋愛目的の人が多いって聞く』
『星も月も、夜一緒にいる言い訳にもってこいだからね』
男『本当に星を好きな人もいるんじゃない?』
『男子は考えるの。女子は星が好きだから、俺も星を好きなふりをして、女子に好かれよう』
『女子は考えるの。女子は星が好きだと男子は思ってて、星を好きなふりをしてくれるから、私は星を好きになろう!』
『そして女子は本当に星を好きになってしまったのです』
男『それ世間一般の女の子に聞いて納得するかなぁ?」
『してくれるはずないよ。みんな自分が星を好きになった経緯さえ狡猾に忘れているんだから』
『だから私はこうして、花火を観に逃げてきたの』
そういうと、打ち上げ花火を観ながら女は歓声をあげた。
男『結局花火を観るんじゃないか』
『ねぇ、男くん』
男「何?」
『多分、私。このサークルもやめちゃうと思う』
/
ぴく、と身体が動いた。
目を開けると、花火はとっくに消えていた。
女「いい夢は見れましたか」
男「……いいや。悪夢を見てた」
男の頬は涙が伝っていた。
女「どんな悪夢でしたか?」
男「自分が誰かを幸せにさせてあげられなかった物語」
女「その誰かは幸せになれなかったのですか?」
男「いいや。俺がいない場所で、幸せになったって噂で聞いた」
女「だったらハッピーエンドじゃないですか」
男「そうだな。俺が主人公になれなかっただけだ」
女「立てますか」
男「ああ」
女の手を借りて、男はよろよろと立ち上がった。
女「今日もありがとうございました」
女はそう言うと、手を離した。
しかし、男は手を繋ぎなおした。
男「このあと時間あるかな」
/
女「もう約束のお時間ですよ」
男「1時間でいい。市内に行くだけだ」
男はそう言って、現金を差し出した。
女「……今日だけ特別ですからね」
男の不可解な行動の意味を理解するのに、女はしばらく時間がかかった。
男はゲームセンターに入った。
音楽ゲームを1Playした。
男は本屋に寄った、
立ち読みできる漫画を一冊読んだ。
男はスーパーに寄った。
そのあと公園に寄り、さきほど買ったお酒を1缶飲んだ。
/
男の行動の意図に気付き、女は今まで見たことがないような、冷たい表情をしていた。
女「私の定番のデートコースばかりですね。それも、あなたとはまわったことのない」
女「付けていたんですね」
男「付けてた」
女「ストーカーですよ。規約違反です」
男「悪い」
女「もう会えなくなってもいいんですね」
男「誰にも会うな」
女「どういう意味ですか?」
男「もう、俺以外の男とも会うな」
女「彼氏みたいなことを言いますね」
男「俺は彼氏じゃない。あんたも誰の彼女でもないように」
女「何が言いたいんです」
男「私の定番のデートコースって言ってたけど、違うだろ」
男「あの男の、定番のデートコースだろ?」
/
女は、怒りで震えていた。
女「なによ……あの人との時間を見ていたって言うの……」
女「あの人と私の時間にだけは踏み込んでほしくなかった……」
男「平日にお金を稼いで、休日にあの男に貢いでたんだろ。そこら辺のキャバ嬢と一緒だ」
女「ストーカーしてたくせに説教でもするつもりですか」
男「あんただって、虚しさに気付いてるだろ」
女は怒りの形相を浮かべ、男の頭を両手で掴むと、目を覗き込んできた。
女「何様のつもりで言ってるのよ!!レンタル彼女を利用しているくせに!!本物の彼女ができたこともないくせに!!」
女「いい思い出なんて、何もない人生のくせに!!」
視界がくらんだ。
懐かしい臭いが体内に充満した。
息苦しさを覚え、男は自分の首を押さえながら、呼吸をしようとあえいだ。
/
男『……ここは』
大学四年生の男は、中学の同窓会に出席した後、一人暮らしの自室にいつのまにか戻っていた。
男『……やばい、フラフラする。あれ、なんだこれ』
不得意なアルコールを散々煽った。
おまけに、ビンゴゲームで当選してワインセットを貰っていた。
男『馴染めない人生に、疲れたな』
男『顔が、痛いな。行くんじゃなかった』
グループの輪の外から、それでも必死に会話に混じろうとして、卑屈に作り笑いをし続けていたせいだろう。
大の字に寝転びながら、酔った頭で、しかし男は冷静に今までの人生を振り返った。
今日という一日が駄目だったんじゃない。
今までの全ての日が無価値だったということを、今日わかりやすい形で告げられただけだ。
過去に戻りたかった。過去からやり直したかった。
そんなことは不可能だからせめて、勇気を出して同窓会に行った。おしゃれなお店の立食パーティーに。
何かが変わるかもしれないと思った。踏み出すことで、踏み出した自分に勇気を貰えるんじゃないかって。
生まれてから彼女のいない人生だったから。そんな自分が、今までなら絶対取らなかった選択肢を取ったら、人生が好転するきっかけになるんじゃないかと思った。
/
でも、結果は惨めなものだった。
女の子には誰ひとり、話しかけるために近づくことなんてできなかった。
一緒に行った友達は、他の男友達や女友達のところに行って、自分は独りテーブルに取り残された。
携帯電話を必死にいじくるけれど、何も文字なんか頭に入ってこない。
周りを見渡すと、地味な女子のグループも隅でかたまってて、根暗な男の子も隅でかたまっていた。
かたまりにすら入っていないことに焦り、昔はそれなりに話してたイケてるグループの輪に混じろうとした。
全然自分がついていけない人物の話題で盛り上がるのを、必死であわせ笑いをしながら聞いていた。
みんなが二次会に行こうと言う中、明日予定があるからと嘘を言って断った。
頬がまだこわばる。
痛い。痛いよ。
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14才の時の自分が、15才になる自分に押し付けた課題
15才になった自分が、16才になる自分に押し付けた課題
16才になった自分が、17才になる自分に押し付けた課題
男『14才の時の自分が未来に押し付けた課題は、未解決のまま大人になった自分に届けられてしまった』
“彼女をつくる”
高校2年生の時に、小さなメモ帳にたった1つのTODOリストを書き込んだ。
大学に入った後も、持ち続けていたそのカードの四角の枠には、ずっとチェックを入れられずにいたまま、ゴミ箱に捨ててしまった。
男『勇気が出なかった。傷つくのが怖かった』
男『ただ、それだけの理由で、ここまで絶望してしまうなんて聞いてなかった』
男『ねぇ、神様。どうしてこんなに大切なことを、俺が生まれた時に教えてくれなかったんだよ』
男『せっかく俺を、愛しかけてくれた人とすれ違えていた人生だったのに!!』
男『親も、友達も、親友も、学校の先生も!!!』
男『誰も教えてくれなかったじゃねーかよ!!!!』
男『ラノベも、漫画も、アニメも、映画も、綺麗な青春ばっか見せつけやがって!!これ見よがしに、涙を流させるだけの無数の感動をばらまいて!!』
男『俺というたった一人の男さえ、お前ら救ってくれなかったじゃねーかよ!!!』
男『もう、いらねーよ!!!』
男『俺の人生に、物語なんていらないよ……』
/
惨めさに打ちひしがれた。
台所から栓抜きを持ってきて、ワインの蓋を全て開けた。
一本の瓶を手に持つと、グビグビと飲み込んだ。
苦い味が一気に口のなかに広がった。
ワインも。ビールも。サワーも。お酒なんて、大っ嫌いだった。
体質的にアルコールに弱いから、というだけではない。
酒の席では、いつも孤独だったからだ。
咳き込みながら、苦さに耐えながら、既にアルコールのまわっている身体にワインをぐびぐびと注ぎ続けた。
身体が興奮していた。
何でもやってやろうと思った。
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どれほど時間が経ったか。
意識が朦朧としていた。
ズボンからベルトを引き抜き、よろめきながらも椅子を移動させると、カーテンレールにベルトを巻き付けた。
男『グボボボボボ!!!!』
バタバタバタ!!
ドタドタドタ!!
ドアガラスが割れた。
カーテンレールがひしゃげた。
生存本能に逆らう状態になると、人間の身体はその状況を乗り越えようと全身で抵抗をする。
心が死を望んだにも関わらず、脳と身体は生き延びようと暴れ狂った。
男『グモモ……!!』
ベルトを首に巻き付けたまま、泥酔していた独り暮らしの大学4年生は床に落ちた。
何のために生きてきたかわからない、23年間だった。
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とめどなく、嘔吐し続けた。
夜食べた物も、飲んだ物も、全て床にぶちまけ続けた。
喉から葡萄の風味が広がった。
胃液を吐いても嘔吐はとまらず、身体は小さな痙攣を繰り返した。
涙がとまらなかった。
嗚咽を漏らしながら、男は独り言をつぶやかずにはいられなかった。
愛されたいな。
認められたかったな。
褒められて、抱きしめてほしかった。
女の子と結ばれたかったな。
好きなだけ身体を、触らせてほしかったな。
女『馬鹿言ってるんじゃないですよ』
黒いワンピースを着た女が、呻く男を見下ろしていた。
女『誰があなたの、彼女になんかなりますか』
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よろけながらも立ち上がり、男は女の両肩を掴んだ。
吐瀉物を避けるように強引に引っ張り、床に押し倒した。
女『放してください』
男「……お前にいくら払ったと思ってる。30万円は超えてるぞ」
女『デート代じゃないですか』
男「恋人代だ」
男は女のワンピースに手をかけた。
男「いくからな……」
男は息を荒げながら脅した。
そわそわと、お腹をなでつけるように手を動かした。
男は女の反応を待った。
しかし、女は何も言って来なかった。
男も、手を微妙に動かすだけで、いつまでも服を脱がせずにいた。
男「どうした。怖くて抵抗もできないのか」
男「俺が、男を教えてやるって言ってるんだよ」
『怖くて何もできないのはあなたでしょ』
やわらかい女の子の声がした。
『さっきから私の目から目をそらして。いつまで逃げ続けるつもり?』
顔を見ると、大学時代に好きだった女の子の顔になっていた。
男「君は……」
『男を教えてやるだなんて、何を勘違いしてるの。女がいないと勃起もできないくせに』
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彼女は冷たい目で男を見つめて言った。
『男の子はね、女の子から自分が男であることを教えてもらうんだよ』
『あなたが私の身体をどれだけ貪っても、あなたは私から、男であることを教えて貰えないの』
『風俗に行っても男性の心が満たされないのはね、女の子が男性に、男を教える気なんてないからなの』
『あなたは女を知らないんじゃないの。自分が男であることを、どの女の子からも教えて貰えなかっただけなの』
『男に生まれながら、自分の中の男を知らないまま、あなたは死ぬのよ』
『ほら、おそってみなさいよ』
彼女は挑発するような目つきで男を見た。
男は震えるばかりで、何もできずにいた。
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『ほらね』
『ひねくれすぎて、自己否定しすぎて気付いてないかもしれないけど』
『あなたは、傷つけられたくなかっただけじゃなくて』
『だれも、もう傷つけたくなかったのよ』
『同時に。誰からも幸せにはしてもらえないと諦めるかわりに』
『自分も誰かを幸せにすることを諦めてしまった』
『これからも、こうやって、一生罵られ続けて生きていきなさい』
『男くんはやさしいひと。男くんはいい人』
『きっといつかいい人が現れる、ってさ』
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朝日で目が覚めた。
男は公園に大の字になっていた。
混乱するような記憶の数々だったにも関わらず。
不思議と、気分は落ち着いていた。
男「そっか」
男「俺はさ。自分が救いようもないクズだって、心底わかっているせいで」
男「自分自身に幸せになっていいって、一度も言ってあげられていなかったんだ」
携帯電話を取り出して、電話をかける。
“おかけになった電話番号への通話は、お繋ぎできません”
男「振られちゃったな」
男「そろそろ、こことも、過去ともお別れするか」