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第2章 『中学時代:Cycling』

夏休み明け、地獄の巣窟への登校日を迎えても自殺をしなかったのは、好きな人が1人いたから。


女の子にとってはたったそれだけのことが、男の子にとっては全てだったりする


恋といじめは本能で発生する。


全校生徒が恋をしない中学校が存在するのと同じ確率でしか、いじめの一切ない中学校は存在しない。


長期的に見れば非合理的な選択だとしても、いじめへの加担という選択を取ってしまう14才は少なくない。


心優しくない者も、心優しき者も、ヒエラルキーのより上に立ちたいという欲望を持っている。


自分の背中を押して貰える人間を目指す者もいれば、他人の足を引きずり下ろす人間を目指す者もいる。


いじめは、いじめた方が悪いのではない。


いじめは、いじめられた方が悪いのでもない。


いじめは、傷つけた方が悪い。


概して、初めに相手を傷つけた方に、いじめられっ子が多いという話だ。


場所を変え、時を変え、両者が入れ替わり続けるだけである。


第2章 『中学時代:Cycling』


上手に漕げる自信がなければ、押して歩いてもよかった。


人を傷つけるような自分だったことをいつまでも後悔している元中学生へ。


/


女「こんにちは」


女は教室に入るなり、男の手を握ってきた。


男も仕方なく握り返した。


男「こんにちはじゃないよ」


女「こんばんは?」


男「そうじゃなくて。なんだよその格好」


女は学生服を着ていた。


女「この年で中学生の制服は痛いですかね?」


男「別にそうは言ってないけど」


女「あら、昨日の今日で成長したじゃないですか。昨日までのあなたならきっと」


女「学生卒業したババアが俺様の崇める神聖な学生服を着るんじゃないだに!」


女「って頬を赤らめながらも強がって言っていたと思いますよ」


男「もうその俺気持ち悪すぎるだろ」


女「コスプレじゃないですよ。実際に私が当時着ていたものなんですから」


男「まじか。何年前?」


女「何年前だと思います?」


男「うーん……」


/


男「あんたの年齢、よくわかんない。若くも見えるし大人びても見えるし」


女「褒め言葉として受け取ってもいいんですよね」


男「年齢あてって最悪のゲームだよ。低く言い過ぎてもからかってると思われるし、高く言うと不機嫌になるし」


女「あてるのが正解じゃなくて、相手を気分良くさせるのが正解ですからね」


男「思ってることって何でも口にしてはいけないらしいからな」


女「よくご存知で」


男「口に出すべきでないものを口に出す俺のような奴に限って、口に出すべきものを口に出さないんだよな」


女「下ネタは追加料金ですよ」


男「今のを下ネタだと解釈されたことに対して値引きを適応してもらいたい」


女「年齢あてへの対処は難しいですね」


男「おほん。ねえねえ、俺何才に見える?」


女「平成3年10月31日生まれの26歳に見えます」


男「そこまで当てられたら喜ぶしかないな」


/


女「じゃあ、今日は中学校の復習をしましょうか」


女はそういうと、学生カバンをごそごそと探り始めた。


男「何探してるんだ?」


女「あなたのノートです。おかしいな、見つからないですね」


女はごそごそと物を外にほうり始めた。


何冊かの教科書に混じって、ガラパゴス携帯、年賀状、受験票など、何に使うのかわからないものまで出てきた。


男「ちょっとなんだよこいつら、気になるんだけど」


女「あっ、ありました!」


女は真っ黒いノートを取り出した。


男「また出たよ。いい加減見せてくれ」


女「個人情報なので」


男「またそれか」


女「……ふむふむ」


女「なるほど、わかりません。さあ、あなた自ら過去のトラウマをさらけ出してください」


男「まじかよこの主治医」


女「本物の病院だって、患者さん自ら症状を話すじゃないですか。それと同じことです」


男「はいはい。わかったよ」


男「中学時代の失恋の話をすればいいんだろ……」


何から話し始めようかと、考えていると。


女のカバンから出ていた、ゲームのコントローラーが目に入った。


その瞬間、男の心に、暗い影がずしりと落ちた。


/


男「ゲームで、最下位のやつが坊主だ」


女「えっ?」


男「4人対戦のゲームが流行っていた。それで、ビリになった人が、床屋にいって坊主にするっていう罰ゲームをすることになったんだ」


男「俺はそのゲームが得意なはずだった。でも、他の3人は明らかに俺を集中的に攻撃してきたんだ。それで俺は負けた」


女「坊主にしたんですか?」


男「坊主にしちゃったんだよ」


女「しなくてもよかったのに」


男「それは大人だから言えることだよ。中学生は、狭い牢獄に閉じ込められた囚人の共同生活でしかなかった。口約束は厳格に守るべき規則のようなものだった」


男「クラス替えで気の合う友達がみんないなくなって、威圧的なクラスメートと一緒になった。俺が他者を傷つけたことがあるのと同様、他者が俺を傷つけるのも当然許容しなければならなかった。傷つける程度の大きさが違ったとしても」


男「あんまり語りたくないから語らないけどさ。人生で一番つらかった時期だよ」


男「だけどさ、そんなクラスでも一つだけ救いがあって」


男「好きな女の子が出来たんだ」


/


男「違う地区の小学校から、同じ中学にあがってきた女の子だった」


男「毎日必ず声をかけてくれた。笑顔を向けてくれたし、俺のバカバカしい冗談でよく笑ってくれた」


男「その子はなぜか俺のことを面白いからかい相手だと思ってくれて、毎日話しかけてくれた。俺が全然似合わない坊主になっても爆笑してくれた。持久走で50番目くらいになっただけで褒めてくれた。休み時間に時々俺を呼んでは、勉強を教えてほしいと言った」


女「その子はかわいかったですか?」


男「あのさ、それはもうわかりきってることでしょうよ」


男「小学生と、中学生が好きになる異性なんて、容姿以外の判断なんてありえない。男も女も、お互いの顔や身長だけで判断して相手を好きになるんじゃないか」


女「でも、それは必ずしも、クラス一番の美女を好きになるということではありませんよね。顔だけが判断材料なら、全員アイドルに恋をしていますもの」


男「うん。そこが不思議なとこなんだ。たしかに好きになる異性っていうのは、容姿が優れているんだけどさ」


男「必ずしも、一番かわいい子、美しい子ではないんだよな」


男「そこに、自分に対するやさしさが含まれて、初めて恋に落ちるんだ」


男「あの子がいなかったら、俺はさ、苦痛なだけの日常に絶望してさ」


男「不登校になってたか、あるいは……」


男「…………」


女「男さん」


女「今日はプール日和ですよ。せっかくだし歩きましょっか」


/


男「プールだ。懐かしいな。水が入ってないけど」


女「好きな子の水着姿を覚えていますか?」


男「それがさ、その子いつも見学してたんだよ」


女「なんででしょうね」


男「女性の日くらい俺だって知ってるよ」


女「一度も入らなかったんですか?」


男「ああ、そうだな」


女「それなら単に水着姿になるのが嫌だったのかもしれませんね」


男「俺ができることは、日陰で体育座りしているその子を、水上からゴーグル越しにじっと見ていることだけだった」


女「なるほど、普段はなかなか直視できないですもんね」


男「そこは気持ち悪がるリアクションをしていいよ」


女「おうぇええええうげっぇえええええ!!!」


男「ごめん、やっぱ聞き流して」


/


女「夏といえば、プールの消毒液の匂いですよね」


男「女の子も同じ感覚なんだそれ」


女「さあどうでしょう。男の子が、これぞ青春、と思っているものを脳内で暗記して、それっぽく言ってるだけかもしれませんよ?プロのレンタル彼女として」


女はわざとらしく、男と繋いでいない方の手で持っていた黒いノートを見やった。


男「確かに、男が夏に感じる強烈な憧憬を、女の子も同じ強さで抱いているイメージはわかないからな」


女「男さんにとってのこれぞ青春ってなんですか?」


男「やっぱりプールの消毒液の匂いだよ。他には熱せられたアスファルトの道路。白いワンピースを着た、線路の上を歩く女の子」


女「最後のはいかにもって感じですね。実際それやってる人みかけたら、踏切の非常ボタン押しちゃいますよ」


男「それにあんたは黒いワンピース派だしな」


女「太陽の熱を一身に吸収して、いつかビームを出そうと企んでいるのです」


男「どこに向かって発射するの?」


女「過去に決まってるじゃないですか」


女はピピピピピ、と言いながら、繋いだ手の指をてっぽうの形にして撃ち出した。


/


夕焼け小焼けのメロディが流れた。


男「あれ、もう時間か」


女「そうですね」


男「はい、1万円」


女「毎度ありです」


男「恐ろしい勢いで金が減ってくな」


女「彼女の前でそんなこと言うのはいけませんよ。それは結婚指輪を買ってプレゼントして、これさえ買わなければ給料三ヶ月分あったのになぁ、と言ってるようなものですよ。真逆効果です」


男「わるいわるい。あんたといる時間は、ダイヤモンドみたいなものだからな」


女「うーん、まだまだキザ度が足りませんね」


男「せっかく言ったのに」


女「嬉しいですよ。もっとキザになって、女たらしになってください。そのうえで私だけの彼女でいてください」


男「はいよ」


女「それではまた明日」


男「明日も呼ぶとは限らないけどな」


女「明日は呼ばないんですか?」


男「……呼ぶとは限らない」


女「絶対呼ばないんですか?」


男「…………」


女「それでは、また明日!」


男「決めてないって!!」


女は笑顔で教室を去り、校庭に駐車されていた黒塗りの車に乗り去っていった。


/


女「こんにちは」


男「こんにちは」


女「今日も呼んでくれてありがとです」


男「まったく……」


今日も女は制服姿で現れた。


すぐさま男と手を繋いだ。


女「今日もいい天気ですね。快晴です」


男「ああ。暗い過去を振り返るにはぴったりだ」


女「あっ、それいいですね。どんよりとした天気の日に振り返ったら、それこそ鬱になっちゃいますもんね」


男「皮肉のつもりだったんだけど」


女「今日の心の天気予報は、くもりのち鬱です」


男「過去を振り返るのは大変だ」


/


女「中学時代に好きになった子の話、聞きたいです」


男「特にエピソードがあるわけでもないんだよな」


女「見た目が好きになって、日々目にする笑顔に心を打たれていたとかですか?」


男「まぁそんな感じ」


女「好きな人ができるという感覚がわからないという人もいますからね。男さんの人生には好きになれる女の子がいてよかったですね」


男「俺、惚れやすいんだよ。言っておくけどさ、小学校、中学校、高校、大学と、それぞれ1人好きな人がいたんだ。全部片想いで終わっちゃったけどさ」


女「選ばれし4人がいたのですね。社会人になってからはどうだったんですか?」


男「会社の同期は80人くらいいたんだけど、支店配属で皆散り散りになっちゃったし、そもそも同期にうまく馴染めなかったからなぁ」


男「彼女いない歴年齢のやつなんてほとんどいなくてさ。今まで付き合った人数の話題になった時に、くだらないと内心思いながらも、2人しかいないんだよねって嘘ついちゃったよ。0って言ったときの周りの反応を考えると嫌だった」


女「みんな同じだったかもしれませんよ。その場にいた5,6人が、誰一人交際経験がないのに、みんな嘘ついてお互い苦しみあっているというジレンマです」


男「滑稽な地獄絵図だな」


/


男「中学時代はみんな横並びでスタートしたはずだったのに。いつの間にか俺以外は恋人をつくってたなぁ」


男「俺だけあの頃出された青春の課題に取り組まなかったツケがきたんだな」


女「実際に出された夏休みの課題には取り組んでいましたか?」


男「夏休みの宿題も最終日にやる方だった。高校生になってからはついにやらなくなった」


女「いつだって宿題を提出しないのは男子です」


男「ちゃんと全員宿題を提出する女の子って何者だったんだ。宿題を提出しない女の子などいないせいで、男子は女子に幻想を抱くんだ」


女「男子って賢いのに馬鹿なイメージでした」


男「言い得て妙だな」


/


男「賢いといえばさ。これは自分のことを言うんじゃないんだけどさ」


男「学校の成績が比較的良かったり、読書が好きだったりするやつってさ。見た目も爽やかで、運動神経もよくてもさ」


男「恋人ができるのが比較的遅かった気がする。賢い人に限って、大学時代に初彼女が出来ていた印象がある」


女「どうしてですかね?」


男「理性が強いのと同時に、羞恥心やプライドも強かったのかもな」


男「自分とは恋愛関係になりえないような、美しすぎる子や、肥満の女の子に対しては気軽に話しかけることができたとしても。本命の好きな子に対しては目も見れない」


男「自分の異性への好意が周囲に悟られるのを恥ずかしいと思いやすいんじゃなかったのかな」


男「修学旅行の夜に好きな人を打ち明けられた男子から、恋人ができていったんだろうな」


/


男「はぁー。いい感じに気分が暗くなってきた」


女「予報通りですね」


男「あのさ、突然叫んじゃうことない?」


女「ぎゃああああああ!!!!!!!!!」


女「そういえばありますね」


男「話し合わせるために無理やり事実こさえなくていいから」


女「どんな時に叫ぶんですか?」


男「夜に一人で寝ている時に、過去にやらかした恥の記憶なんかを思い出したとき」


女「どんな記憶ですか」


男「好きな人を傷つけた記憶」


女「だったら思い出して苦しむしかないですね」


男「どうして嫌な記憶ってフラッシュバックしやすいんだろう」


女「脳の復習のつもりなんじゃないでしょうか。他人に危害を加えたこと、加えられたこと、それらの経験を振り返ることで、同じ過ちを繰り返すことがないようにするためとか」


男「苦痛を現実で再現しないために、苦痛の記憶を繰り返すのか」


女「傷つけられたから人の痛みを知ることができるとも言いますが。傷つけたことを自覚したからこそ人の痛みを知ることだって出来るんですよ。加害者の意識を持つことは大切です」


/


女「いじめはいじめるほうが悪いとか、いじめられる方が悪いとか、色々言いますけど。いじめは傷つけた方が悪いんです。最初に相手を傷つけたのが、意外にもいじめられっ子の方が多いというだけなんですね」


男「何もしてないのに、いじめられる場合もあるよ。美人な子が嫉妬されていじめられるとか」


女「生まれ持った容貌の美しさで、周囲の凡庸な女性を傷つけたことには変わりないでしょう」


男「んな無茶な」


女「それがいじめというものです」


男「これっていじめの話なの?」


女「好き避けによって、異性を傷つけたあなたの話です」


男「キモイだとか、ウザイだとか、よく言ってたな俺」


女「かわいいだとか、素敵だとか言うべきでしたね。正解と真反対でしたね」


男「そんなセリフ言ったらそれこそ女子から気持ち悪がられてたよ」


女「あなたは気持ち悪がられるべきでした」


男「嫌だよそんなの」


女「99人嫌がる中で、1人でも喜んでくれていたら、その人があなたの運命の人だったかもしれないのに」


男「好意を示して99人に拒絶されることに耐える強さなんてなかったよ」


女「振り向いて貰えないのは4人が限度ですか?」


男「いや、告白したこと自体がないから」


女「0人が限度ですか」


/


男「良いと思ったことを良いと言える自分だったら、送りたかった青春を送れたのかな」


女「あなたが送りたかった青春とはどのようなものですか」


男「少なくとも性的営みがメインじゃない」


女「否定から入りましたね」


男「ただ純粋に好きな人と手を繋ぐことだけを考えたい」


女「あら、今こうして手を繋いでいるじゃないですか」


男「レンタル彼女とな」


女「彼女は彼女です。手をつなぐって、純粋な望みですね」


男「あんたみたいなモテそうな奴には、冴えない孤独な男の気持ちなんてわからないだろうな」


女「むぅ。まるで私が満たされてるみたいな言い方」


男「青春を憎悪したまま大学を卒業した男友達はいたけどさ。なんか、男に比べて女はそんなに青春を憎んだりしないイメージだ」


女「どういうことでしょう」


男「大学時代に入ってたサークルが、インカレのサークルでさ。かわいい子もたくさんいたけど、彼氏いない歴イコール年齢のまま大学を卒業した女の子もこれまた少なからずいた」


男「やばいとか、彼氏欲しいとかってよくいうけど。女の子は今を嘆いてる気がして。一方、男の子は今までを嘆いてる気がする。女の子が今月だけを嘆いてる時に、男の子は今月に至るようになった過ぎ去りし日々の全てを嘆いてるみたいなさ」


男「女はいいよな。青春に溺れなくて。男を選ぶ側だもんな」


女「……そんなことないですよ。それどころか、幼い頃から恋愛市場で生きてきたのに、彼氏となるべき男性と巡り会えない自分について悩んでいた女子大学生も多いと思いますよ。送りたかった青春について、講義中に思いを馳せる女の子もたくさんいると思いますよ」


/


男「あんたが送りたかった青春ってどんなものなんだ」


女「今日も大好きなあの人と、大嫌いなことを語り合うようなことです」


男「大好きな人といたらきっと大好きなことについて話そうとしか思わないよ」


女「いいえ。一番信頼できる大好きな人にしかこの世に対する恨みつらみや嫌悪は語ろうとしません」


男「確かに、凡人の俺といる時は大嫌いなことについて語ろうとしないな」


女「それは私が、あなたのことが大嫌いだからじゃないでしょうか」


男「えっと、それって、つまり」


女「あなたのことが大嫌いだということです」


男「そのままかよ」


女「今日も大好きなあなたと、大嫌いなあなたについて語り合う」


/


女「あなたの嫌いなものはなんでしたか」


男「学校の次に、夏休みが嫌いだった」


女「それって1年中ほとんど嫌いじゃないですか」


男「幸せな気分で眠りに落ちた夜が1日もなかった気がする」


女「1番好きな人に冷たい言葉を吐いていたあなたでしたものね。当然、2番目以降に好きな人達に対してもろくな言葉を浴びせてこなかったのでしょう」


男「いかにいい言葉を毎日吐くかを意識することが重要だったんだと今になって気づいた。もしかしたらそれは、イケメンだとか、身長が高いとか、運動神経が良いことよりも、大切なことだったんじゃないのかなって」


女「今気づけてよかったですね」


男「人を思いやるのって馬鹿らしいと思ってた」


女「思いやるって、良いことですよね。思いやりのある人は、思いを遣れる人だから、きっと告白する勇気もある人なのです」


男「思いやるって難しいよ。相手に露骨にやさしさを見せなくちゃいけない時もある。そっとさせてあげるべき時があるのと同様、肩に寄り添ってあげるべき時だってあったと思う。それができなかった俺に、誰も寄り添ってはくれなかった」


男「自分を見てくれる異性が、世界でたったの1人もいない。それだけで夏休み全ての日々は台無しになった」


男「自分のことばかり考えて。相手に見てもらうことばかり考えて。はぁー……」


女「死にたい」


男「それはこっちのセリフだよ」


女「差し上げます」


男「死にたい」


/


女「夏休みはどんな風に過ごしてたんですか?」


男「携帯電話をいじって終わってしまった」


女「いきなり下ネタですか。追加料金ですよ」


男「いきなりアダルトサイトだと解釈ですか」


女「ネットサーフィンで何を満たそうとしたんですか」


男「虚無に浸ろうとした。憂鬱な歌詞の音楽を探してひたすら聴いていた。そして、アンダーグラウンドな雰囲気漂う憂鬱なネット小説を読んだ」


男「あと、これは言いづらいんだけど……」


女「私の前では何でもおっしゃってください」


男「俺はさ、ヒロインが最後に死んでしまう物語なんかを好んで読んだ。読み終わった後に、切ない気分に襲われて、まともに立ち上がれなくなった。1週間経っても、そのヒロインが送れるはずだった幸せな日常について妄想をした。そういう時間に浸るのが好きだった」


男「都合の良い偶然で出会った男の子と女の子が結ばれてめでたしめでたしみたいな話はとてもじゃないけど、今も手に取れない。手に入れる喜びを直視できなかった俺は、せめて失う悲しさを物語から得て満足しようとしたんだろう」


女「あなたにとって男女の出会いの物語は、絶望イミーツガールといわけですか」


男「全然うまくない」


女「思いやりのない人ですね」


男「まったくだ」


/


女「根暗な青春時代でしたね。まだアニメキャラに走るほうが健全ですよ」


男「その表現どうなのかね。二次元に走った、ってやつ。まるで自らすすんで二次元コーナーに向かったみたいじゃん。何もせず立ち止まってたら二次元にたどり着いたんだから、二次元に溺れた、って表現のほうが適切だと思う」


女「例文。ぼくは高校2年生の時に好きな人に気持ち悪いと陰口を言われてるのを聞いてしまい、二次元に溺れました」


男「よくできました」


女「溺れるものは姫をも囲う」


男「オタサーの姫を藁に例えないで」


女「オタクも最後は現実の女の子に縋るんですよ。惨事に始まり二次に逃げ、三次元の賛辞に終わる」


/


男「秋葉原に初めて行った時の話してもいい?少し下ネタ入るんだけど」


女「下ネタ用の会話料10円になります。その場で現金払いです」


男「今回は仕方ないか。というか安いな。はい」


女「毎度ありです」


男「秋葉原に初めて行った時にさ。いたるところの広告に二次元の女の子が描かれていて。この街は、性欲を可視化した街なんだと思った」


女「裸に近いきわどい絵が多いということですか?性欲を可視化するというならば、性風俗店の立ち並ぶ歓楽街こそがそうでしょう」


男「露骨な性欲の表現も確かにあるけどさ。この街を生み出した、人間の執念みたいなものに怖れを感じたんだ」


男「サラリーマンなんかが何食わぬ顔で風俗店に入ったり出てきたりするのを目撃した時みたいにさ。みんな何食わぬ顔で生きているけど」


男「この街にあふれるかわいい女の子の巨大な看板や、無数のフィギュアや、本屋に並ぶ女の子との物語で自分の心を満たさないと今日を乗り越えていけないんだなって」


女「みんな何食わぬ顔で生きてますか」


男「心の中がぐちゃぐちゃの地獄で生きてる若者のほとんどは、友達の前では爆笑しているよ」


男「何食わぬ顔って表現は改めてほしいもんだ。何も問題がないように振る舞うのが何食わぬ顔だなんてわかりづらい。何も食べていなかったら、絶望した表情になるだろう?これからは平気な表情をしている人達を、何かは食った顔っていうべきだ」


女「それなら人によって表現を変えるのがいいんじゃないでしょうか。経験人数0人なのに自信満々なオタクは何かは食った顔で、経験人数100人なのに清楚な振る舞いの姫様は何食わぬ顔で生きている」


男「巧みな使い分けだな」


女「ちなみに、男さんは今まで何を食べてきましたか」


男「自分の横を通り過ぎた女性の香りだな」


女「ううう、さっきの10円返します」


男「露骨に嫌そうな顔じゃなくて何食わぬ顔で返してよ」


/


女「私は好きでしたけどね、夏休み」


男「女の子が夏休みにすることって想像つかないな、ちょっと尋問していい?」


女「たった一文から変態臭がしますが、どうぞ」


男「はい、今は夏休み7日目だとします。何時に起きましたか」


女「えーっと、7時30分くらいでしょうか」


男「ほんとに?そんな早いの?」


女「すみません、見栄を張りました。12時に起きました」


男「だいぶサバ読んだな。はい、何をする?」


女「ご飯を食べますね」


男「はい、13時になりました。それから?」


女「テレビを見ます」


男「何時間見る?」


女「2時間くらいでしょうか」


男「はい、今15時になりました。何をしますか」


女「えー……携帯電話をいじりますかね」


男「何を見る?」


女「誰かと連絡を取り合ったり、ネットサーフィンをしたり」


男「どんなやりとりをしてどんなサイトを見るの?」


女「この尋問えぐいですね。これこそ会話料ほしいくらいです。えーと、仲の良い友だちと、何かとりとめもない話をしますかね。内容までは覚えていません」


女「ネットサーフィンでは、女性向けのトピックがたくさんある掲示板を見るとか」


/


男「はい、2時間経ちました。17時です」


女「まだ17時ですか。ええと、じゃあ夕飯まで宿題をします」


男「本当に宿題しますか?」


女「すいません、まだ夏休み7日目なのでしません。見栄を張りました」


男「虚偽の申告はおやめください。はい、17時」


女「ええー、わかんないですよ。私何をして一日18時間近く過ごしていたんでしょう」


男「それが知りたいんだよ」


女「男さんは答えられますか、夏休み1日の過ごし方」


男「尋問していいよ」


女「13時起床しました。それから3時間ゲーム、2時間大人のサイト鑑賞、夕飯、それからまた明け方までゲーム、その間にちょくちょく大人のサイトの鑑賞。はい、それ以外に何をしましたか?どうせ何もしてないんでしょ?」


男「それは尋問じゃなくて処刑だよ」


/


男「他にしてたことがあるよ」


女「何でしょう」


男「過去の後悔と、好きだった人のSNSを読み込むこと」


女「執着するのがお好きですね」


男「好きな人の存在に絶望もしたし、それ以上に救われていた。この人と結ばれたら俺は世界で一番に等しい幸せが手に入ると思った」


男「俺にとってはそんな神様にも近い存在の女の子がさ、その子はその子で日常に苦悩しているんだなって投稿なんかを見て知った」


男「その時の俺は分不相応な思いを持った。俺が、この子を救ってあげたいって」


女「その子は今も苦悩したままなんですかね」


男「まだ結婚はしてないみたいだけど、ペアルックの指輪の写真をSNSのホーム画面に設定してた。仮に苦悩が消えないとしても、苦悩した時に寄り添ってくれる存在が一人いれば、もう苦悩足り得ないと思うよ」


女「あなたは今も苦悩したままですか」


男「うん。ありえたかもしれない青春を想って、今日も1人で過去を生きてる」


女「海でも眺めてたほうがマシです」


男「海眺めるのって3秒で飽きない?」


女「飽きます。空想の過去を眺めるのは飽きませんか?」


男「毎日2時間費やしても足りないよ」


女「青春に溺れてるじゃないですか」


男「二次元で溺れるよりマシだろ」


女「溺れるものは、姫をも掴む」


男「掴んだらまずいよ」


/


女「その子のこと、どれくらい好きだったんですか」


男「ずっと」


女「そうですか」


男「って、言いたいところだけどさ」


女「はい」


男「長年の片想いをしているようなやつってさ、それだけ綺麗な異性から親切にされた経験がないんだよ」


男「だから、メインの長年の片想いの女性はちゃんといるんだけど。その間にも何人もの不特定多数の、ちょっと良いなと思った女性に強烈な恋をしている期間もあるんだよ」


女「浮気性じゃないですか。嫁が何人もいるオタクみたいです」


男「浮気じゃない。何故なら2人同時に好きになることはないし、そもそも彼氏になってない」


女「男さんはヲタクの世界に走ろうとは思わなかったんですか?」


男「現実の女の子を脳内で彼女にしていたからな。これぞ限りなく現実に近い二次元だよ。はっはっは」


女「現実と虚構の区別がつかないのは、ヲタクよりも、現実に囚われた人なのでしょうね……」


/


夕焼け小焼けのメロディが流れた。


男「あれ、もう時間か。それじゃあ、今日の料金」


女「ありがとうございました」


男「こちらこそ」


女「今度は市内にお出かけにでもいきませんか?」


男「えっ、いいの?」


女「もちろんですよ。でも予約の電話は形式上かけてくださいね。平日であれば簡単に予約が取れますので」


男「はいよ」


女「それではまた」


男「ああ、また」


/


女「こんにちは」


男「こんにちは」


二人は市内の小さな公園で集合した。


ショッピングモールには入り口が複数有るため、直接待ち合わせると誤解する可能性があったからだ。


女「さあさ、手をつなぎましょう」


男「なかなか言いづらかったんだけどさ。俺、手汗ひどいけど大丈夫?」


女「大丈夫ですよ。全然気にしません」


男「ほんとに?ありがとう」


女「どういたしまして」


男「それにしても、大丈夫かな、その格好」


女「何がですか?」


男「制服姿じゃん。援助交際だって思われないかな」


女「なるほど、そういうことですか」


男「ん?」


女「お兄ちゃん!」


男「いやいやいや!!妹キャラとか求めてないから!!!」


女「私だって男兄弟いないのにやってるんですから、素直に萌えーと言ったらどうですか。プライドが高いです。頭が高い。控えよ、控えよ」


男「も、萌えー……」


/


男「昨日も電話かけて自動音声案内されたんだけどさ。君の時間って平日の16時30から17時30までの一時間しか取れないの?」


女「会員のグレードによりますね」


男「グレード?」


女「注文すればするほど、時間の指定が可能になったり、一緒にいられる時間が長くなったりします」


男「ポイント制かぁ」


女「実際の恋愛でも同じじゃないですか。最初はカフェから、お食事から。水族館、映画館に行くようになって、遊園地にも行く仲に。行く場所がどんどん増えていきます」


男「デートしたことないからわからないよ。お食事で何時間も女の子と何話せばいいか想像もつかない」


女「でも私とはこうして話してるじゃないですか」


男「それは君がリードしてくれるというか、レンタル彼女という特殊な間柄だからじゃないか」


女「特殊じゃない間柄なんてありませんよ。女の子との出会いは、十人十色、オーダーメイド、オートクチュールです。あなたが恋愛工学的な考え方をするのは想像つかないですし」


男「何言ってるかよくわかないけど。気になるのはさ、他の会員だとどういう人がいてどんな話しているの?」


女「彼女が浮気しているか気になるのであれば、それなりの巧みな聞き方をする必要があると思いますよ」


男「ただの会話さえ苦手な俺にはハードル高いな」


女「でも、確かに気になりますよね。世の中のカップルは、どんな会話を経て付き合うことに至ったのか。様々な馴れ初め会話をこっそり録音したCDでもあればいいのに」


男「俺らの会話も盗聴されてたりして」


女「トラック1を再生してみてください」


男「はい、再生」


女「君は、デリヘル?」


男「あの時は悪かったって」


/


女「男さんは市内にはよく来るんですか?」


男「普段君と別れたあと、漫画喫茶でシャワー浴びたり、ご飯とか食べに毎日来てるよ」


女「えっ、そうなんですか!寝床はどこにあるんですか?」


男「祖母の家に泊まってる。だけど、訳あって使った痕跡を残したくないんだ」


女「ふむふむ。それにしても、歩いたらかなり時間かかりません?」


男「学校からここに立ち寄って、家につくまでならトータルで2時間くらいはかかるな」


女「ひょえー」


男「時間だけはあるからな。とは言ってもさすがに疲れる。自転車でも買おうかな」


女「買いましょ買いましょ。自転車用品店も近くにあったはずです」


/


しばらく歩き、ショッピングモールの建物が見えた。


横断歩道を渡ろうとすると、青信号が点滅していた。


男「ほら、急ぐよ」


女「急ぎません」


女はぴたりと立ち止まった。


男「赤になっちゃうよ」


女「赤にさせてやりましょう」


青信号は点滅をやめ、赤色へと切り替わった。


夕方の道路は、車は全くといっていいほど通ってこなかった。


男「わたっちゃおうよ」


女「駄目ですよ。渡るなら、青まで待とう、ホトトギス」


男「時間だって限られてるしさ」


女「時間を大切にすることは命を大切にすることですが。それ以上に、命を大切にすることは時間を大切にすることです」


女「今、隣りにいる人を、1%でも危険な目に遭わせたくないという、私の意思表示の表れです」


男「それはレンタル彼女としての、彼氏に対するマニュアル通りの振る舞い?」


女「いいえ。今隣にいる人は、たとえ初対面の人でも、恋人だと思うようにしています。だから、点滅している青信号を一緒に渡ろうとしてはいけないんです」


そのまま二人は、黙って立ち尽くした。


車が一台も通過しないまま、信号は青へと切り替わった。


女は、右を見て、左を見て、右を見て、言った。


女「さっ、わたりましょ!はやくはやく!時間は有限ですよ!」


女はにっこり笑うと、男の手を引っ張っていった。


/


女「こんにちは」


男「こんにちは」


女「昨日はお疲れ様でした」


女は男の手を繋ぐと、校庭にとめられた自転車を見た。


女「乗ってきたんですね」


男「ずいぶん楽だった。文明の利器に頼るのが正解だった」


女「私も乗せられるように荷台付きのにしましたしね」


男「俺が後ろに乗るから漕いでくれよ」


女「わ、わかりました。がんばります」


男「冗談だよ」


女「私は本気です」


男「えっ?」


女「という冗談です」


男「本気の冗談か」


/


男「気になってたんだけどさ。俺と会ってる以外の時間は何してるの?」


女「何をしてると思いますか?」


男「他の男とデートしてるのかなぁって思ったけど」


女「けど?」


男「それならわざわざ一時間、俺だけのために時間を割いてここまでくるのも効率が悪いなって気もした」


女「でも、それこそが浮気の達人の方法じゃないですかね。非合理的な、非効率的な行動をあえてすることで、疑われないようにするという作戦」


男「君は浮気の達人なの?」


女「いいえ、あなたの彼女の達人です」


男「そりゃどうも」


女「でもあれですかね、素人って言ったほうが喜びますかね?」


男「好きにしてくれ」


/


女「さて、今日は何がしたいですか」


男「昨日気分転換もしたし。またあんたの言う、過去と向き合うということをしてみたい」


女「何かやり直したいエピソードがあるんですか」


男「……うーん。前も言ったけど、毎日話していただけだったし」


女「思い出せないだけかもしれませんよ。なにせ中学時代の頃なんですから」


男「忘れるかなぁ」


女「忘れません。思い出さないだけです」


男「何が違うの?」


女「忘れないか、思い出さないかの違いです」


男「禅問答みたい」


女「思い出すまで、自転車に乗りましょうか」


男「乗ってみたいだけじゃないのか」


/


青空の下。


校庭を出て、制服姿の女を後ろに乗せて、男は自転車を漕ぎ出した。


男「なんか、いけないことをしている気分だ」


女「いけないことですよ。二人乗りは禁止されています」


男「そうなんだけどさ」


女「自分以外の生命を背負って運転する気分どうですか?」


男「気を重くさせないでくれ」


女「身体は重くないですか?」


男「全然」


女「よかったです。パンクさせたら申し訳ないですもの」


男「パンク……」


女「今日は快晴。絶好の自転車日和です。張り切って漕いでいきましょう!」


/


快活な女とは裏腹に、男は脳内にひっかかるものがあった。


男「パンク……」


女「どうしたんですか?」


男「い、いや、別に」


女「何もないですか?」


男「う、うん」


女「何も、なかったことにしてるんですか?」


ふいに、懐かしい匂いがした。


/


背中をぽんと叩かれた。


『助かったよー。家まで歩くところだった!』


男『……えっ?』


『自転車は明日お父さんと車で学校まで取りに行くから大丈夫だよ』


男『ぱ、パンクしてたんだっけ』


『帰る時に気付いたんだけどね。誰かのいたづらかな』


男『だとしたら最悪だな』


『困っている私を乗せるために誰かが仕組んだいたづらなら、今なら許してあげるんだけどな』


男は脇を小突かれた。


男『ち、違うって!』


『冗談だよ。男くんはそんなことする人じゃないもんね』


/


男は自転車を漕ぎ続けた。


景色がセピア色になっているように感じた。


自分はさっきまでどこにいたのか。


自分は今何をしているのか。


誰と、話しているのか。


『どうしたの?さっきから黙って』


男『あ、あのさ。俺たちさ……』


『あれ、あっちいるのクラスの男子じゃない?』


男『えっ』


『ふふ。こんなところ見られたらなんて思うかね』


男『……降りて』


『えっ?』


男『降りろって』


『どうして?』


男『いいから降りろって!!』


/


ガシャーン、と、チーン、という音があたりに響いた。


男「うぐっ……!!」


女「大丈夫ですか!」


女は、男の上に乗っていた自転車を除けると、心配そうに男の顔を覗き込んだ。


女「男さん、起き上がって。道路の真ん中です。車が来たら大変です」


男「最低だ……最低だよ俺は……。過去への共感性羞恥で死にたくなる」


男「女の子を守るどころか、傷つけることしかできない……自分でも、どうしてあんなことを言ったのかわからない……」


女「男さん、もう大丈夫ですから。さあ」


男「恵まれていた。全く幸運のない人生ではなかった」


男「与えられてきた幸運を、全部自分の手で潰してきただけだった!!」


男「傷つきたくないから、周りを傷つけたんだ!!」


/


二人は学校の教室に戻った。


男「…………」


女「…………」


男「天才なんだな」


女「……何がですか」


男「懐かしさを呼び起こす天才」


男「過去に放り込まれたかと思った。結局俺は同じ状況におかれて、何もできなかった」


男「なあ、さっきのあれはさ。状況だけが過去に戻っただけなのか?それとも俺自身も、過去の俺に戻ったのか?」


男「もしも状況だけが過去に戻って、俺自身がそのままだったんなら。俺、あの頃から何も成長していないってことになるじゃないか」


女「…………」


男「なんだか酷く疲れたよ。惨めな気分だ」


女「気を落とさないでください。今日はゆっくりしましょう」


男「よく言うよ。そっちが仕掛けてきたくせに」


男「なあ、これはやっぱり、金持ちの道楽なんだろ。俺のことを徹底的にリサーチして、何かの心理学的実験でもしてるんだろ」


男は女の手をほどき、立ち上がり、教室をあるき始めた。


/


女「男さん?」


男「監視カメラがあるんだろ!!俺のことを記録してるんだろ!!」


男「俺の好きだった人の過去の特徴を、動画かなんか見て覚え込んだんだろ!当時の持ち物や映像を、可能な限り再現したんだろ!!」


女「男さん!」


男「楽しいかよ!!誰だよ!!誰がどんな目的でこんな実験してるんだよ!!」


男「人の青春をえぐって楽しいかよ!!青春ゾンビにスポットライトをあてて、溶けていく様を見てみたいのかよ!」


女「男さん!!!」


/


男「…………」


女「つらいなら、やめてもいいんですよ」


女「でもこれは、あなたが幸せになりたいのなら、乗り越える必要のある壁なんです」


男「……乗り越えた先に何があるんだよ」


女「今のあなたには、響かない言葉です」


男「いいから言ってみてよ」


女「『運命の人』ですよ」


男「……虚しいだけだ」


女「未来のあなたにとっても、同じとは限りません」


男「どうすればいいんだろう」


女「どうしようもないんでしょう」


男「なんだよそれ」


女「どうしようも無いときは、寝るのが正解です」


男「じゃあ寝るよ」


女「わかりました」


男「あんたは帰るのか?」


女「残りの時間手をつないだ後、帰ります」


男「金は時間分取るんだろ?」


女「はい」


男「…………」


男「前払いするよ。だから、時間が過ぎたら、起こさず勝手に行ってくれ」


女「わかりました」


/


男「……こんにちは」


女「こんにちは」


男「昨日は、悪かったな」


女「気にしないでください」


男「手、繋いでもいいかな?」


女「ええ、もちろんですよ」


男は女の手を握った。


男「あの、なんていうか」


女「はい」


男「やり直したい」


女「やり直す?」


男「生まれ変わりたい」


/


男「俺はさ、羞恥心が強いんだ。こんなことを言ったら引かれるんじゃないかとか。嫌われるんじゃないかとか。自分への自信のなさのせいだ」


男「実際、色んなことに挙動不審だと思う。慣れてないから、不自然だと思う」


男「でも、変わっていかなくちゃ。もちろん、君のことは実験台なんかとして見ない。ちゃんと彼女だと思って、誠実に付き合ってみようと思う。所詮レンタル彼女だからみたいな、予防線を貼ったり言い訳をするのをやめる」


男「俺、人生をやり直したいんだ。今更だけどさ」


女「男さん」


男「うん」


女「かっこいいですよ」


男「かっこいい?」


女「はい。男らしいですよ」


男「初めて言われたな、そんなこと」


女「それは、男さんが今日、生まれて初めての男さんに生まれ変わったからですね」


女「自信のない自分が一番の悪者です。期待には応えなくてはいけませんね」


男「何かしてくれるのか?」


女「ええ。男さんにしてもらいます」


男「俺?」


/


男「はぁ…はぁ…、疲れた」


男は自転車を商店街にとめた。


男「もう時間ほとんどないぞ。何するんだよ」


女「ナンパですよ」


男「なんだよそれ!寝取られ趣味か!」


女「そのツッコミこそなんですか」


女「男は度胸、女は愛嬌って縄文時代から言われ続けているでしょう?それほど度胸は男性に大事なんです」


男「いやいや、それは無理だよ。まじ捕まるって」


女「財布だけ用意してください」


男「何するの?」


女「精一杯の愛嬌で、商店で野菜やお肉を買ってきてくださいな」


男「それのどこがナンパなの?それと必要なのは度胸じゃないの?」


女「どっちもふりまけばいいじゃないですか。さぁ、はやくはやく」


/


店主「いらっしゃいませー」


男「ええーと……」


男「あ、あのー」


店主「はい、なんでしょう!」


男「え、あの、おすすめのお肉……」


店主「おすすめの肉?」


男「あー、えっと、あの……」


「こんにちはー!」


店主「おっ、こんにちは!」


男「なんだ、おばちゃんが割り込んできたぞ……」


「今日も暑いですねぇ」


店主「ほんと、参っちゃうねぇ」


「それじゃあそこの鶏肉ちょうだい」


店主「はい、まいどー!」


/


女「おかえりなさい」


男「ただいま」


女「どうでした?」


男「なんかさ、君といるとさ、些細なことに大きな発見を見出して、その感動を伝えきれないのが悔しいよ」


男「信用金庫の営業マンやってた頃を思い出してさ。あの頃は、知らない人の家に行って突然インターフォンを鳴らして、定期預金の契約なんかを交渉することをしててさ」


男「なのに、なんだろね。俺、八百屋のおじさん相手にはさ、ナンパ一つできないんだなって思い知らされた」


男「何か目的を果たそうとか。情報を交換しようとか。いつも、下心ありきのコミュニケーションだったから。それが無い時に、どうやって話しかければいいかわかんなかった」


男「おばちゃんは最強だね。『こんにちは。暑いですね』。その言葉に何の意味もない。でも、意味のないことを語りかけるからこそ、そこにはただコミュニケーションを取りたいっていう純粋な気持ちが相手に伝わるんだ。だから極自然なんだ」


男「男に生まれたという理由で、俺はそれをずっとさぼってきた」


男「女の子はちゃんと、花の匂いをかいで良い匂いだといい、星を見て綺麗だといい、猫を見てかわいいと言ってきた。俺は、心に思うだけで、口にしてこなかった」


男「テクニックとか、そんなんじゃないんだな。俺の、世界と関わろうとする気持ちが、あまりに希薄なのがいけなかったんだ。女性に対する勇気の出し方とかじゃなくて。俺が、この世界に対して、積極的に関わっていきたいという気持ちが欠けていたのがよくなかったんだ」


男「季節の行事も。皆が熱狂するスポーツも。花や植物の名前も。俺は自分が興味のないものについては、全く知ろうとしなかった」


男「少しずつ、生き方を変えてみるよ。それはきっと楽しいことだと思う。20年前からサボり続けてきた宿題に、いまさらだけど取り組んでみようと思う」


男「だから、見ていてほしいんだ。俺が変わるところ。俺の、青春の先生としてさ」


/


女「…………」


女「先生じゃないですし」


男「えっ?」


女「彼女として、隣で見ていてあげますね」


その時、夕焼け小焼けのメロディが流れた。


女「今日もありがとうございました。お代は1万円となります」


男「おっ、大特価でお安いですねー」


女「ふふ、もってけ泥棒です」


/


8月も幾日か過ぎていった。


その間、男は女と積極的に外に出た。


最初は人前で女と手をつなぐことに躊躇していた男だが(『レンタル彼女を自分の彼女だとみせびらかしている男だと思われたらどうするんだ』)、周囲の目を気にせずに手をつなぐようになった。



そして、ある日。



女の膝の上で、男は目覚めた。


男「……夢を見てた」


女「どんな夢でした?」


男「友達に冷やかされながら、二人乗りを続ける夢」


女「昨日見たのは黒板に大きなハートマークを描く夢でしたね。お疲れ様でした。夢の中で過去をやり直すことができたんですね」


男「過去はそのままだよ。俺が、俺をやり直すことができただけさ」


女「充分です」


/


女「あと二人ですね、男さんが色濃く好きになった人」


男「高校時代と大学時代に好きになった人か」


女「その人達との過去も受け入れる日は近いかもしれませんね」


男「あのさ。ずっと聞きたいことがあったんだ。というより、以前も聞いてはぐらかされたんだっけな」


女「何でしょう」


男「君は、どうしてレンタル彼女を始めたの?」


男「君も何か抱えているものがあるから、この仕事をしているんじゃないかなって思ったんだ」


男「俺だって、幸せな環境で育ってきたのに。たかが恋愛してなかっただけで、どうしてこんなに絶望したんだろうな。早く治療を終わらせたいよ」


女「……男さん」


男「うん」


女「治療の大いなる第一歩は、病名を告げられることなんです」


女「自分にのしかかる正体不明の呪いは既に分類されているものだったと知ることで、さっそく救われるんです」


女は語り始めた。


/


男「古傷に対して『それは古傷です』と言われたところで何も変わらない。もう、治っているんだし、これ以上は治せないんだから」


本当にそうですかね、と試すような表情で女は見てきた。


すると、背中を向けて言った。


女「青春コンプレックスです」


男「何だって?」


女「あなたの診断結果が出ました。症状、青春コンプレックスです」


/


淡々と症状について述べ続ける女に男は言葉を返した。


男「厳しい医者だ」


女「私も患者ですよ」


男「病名は?」


女「まだわからないんです。だから、あなたが診断してください」


男「できるかな。こんな寂れた廃校で、まともな診断なんて」


女「できてください。さもなくば、このまま私は、病気が治らないままなんですから」


17時30分、夕焼け小焼けのメロディが流れた。


/


『からかわれちゃったね。付き合ってると思われたかな』


男『そうかもな』


『いつもみたいに反論しないんだ』


男『反抗期はもう卒業したんだ』


『へー。ねえ男、空』


男『ん?』


『あの雲ハートマークに見えない?』


男「言われてみれば。目と口もついてるように見えるな」


『エニィっていうんだって、知ってた?』


男『そんなキャラクターいるのか、恋のキューピッドか?』


『ううん』


男『じゃあ何?』


『運命の人』

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