第1章 『小学時代:Blackboard』
猫型ロボットが未来からやってきたのは、結婚相手を変えるというただそれだけの目的だった。
小学生には、好きな人がいる。
好きな人と結婚する以外の、未来なんて描けなかった。
修学旅行の夜に、友達が好きな人を打ち明け合う輪に混ざらない者も、心の中では常に1人を考えている。
けれど、小学生の恋は、ことごとく成就しない。
あれだけ47都道府県に散らばっていた無数の片想いは、成仏しないまま蒸発して消えてしまった。
あの頃は、人を好きになるには単純すぎたのかもしれない。
教室内で一番好きな顔を見れば、世界で一番その人を好きだと思うのに充分だった。
放課後机を見るだけで、ドキドキできた。
第1章 『小学時代:Blackboard』
それにしても、大人という生き物は恐ろしかった。
好きな人には意地悪をせずに、より親切に接するのだから。
アメリカの大統領になることよりも、好きな人と結ばれる方が幸せだと理解していた元小学生へ。
/
翌日。
女「じゃーん!!」
男「……まずいまずい!」
16時30分ちょうど、教室に赤いランドセルを背負い、黄色い安全帽を被った彼女が入ってきた。
同時に男の手を握った。
男「こんなところ見られたらどうするんだって!」
女「男さんが元いた会社の支店長に見られたらどう思いますかね」
男「こんなコスプレして何の真似だよ」
女「小学生の真似です。今日のテーマにふさわしい格好をしただけじゃないですか」
男「何だよ今日のテーマって」
女「恋愛を初歩からやり直すという話です。受験勉強だって、いきなり上級生の問題集は解かないでしょう?」
男「小学生相手に恋愛をやり直すってか。26才無職、小学生趣味、逮捕。俺の人生終わらせる気か」
/
女「いいですか、女の子相手にしなくたって恋愛はやり直せるんです。するべきことは、小学生だったあなたの過去の復習です」
女「男さんは返ってきた答案用紙のバッテンがついたところを、復習しないままゴミ箱に捨てていたのです。だから、それを拾い出して、正しい回答を確認しようという試みをするのです」
男「ある意味それは毎日俺が継続して苦悩していたことじゃないか。あの時ああしていれば、人生変わったかなって、過去に悶々とする日々のことじゃないのか?」
女「何か小学生時代にエピソードがあったんですか」
男「まあな……。一旦、廊下に出てもいい?」
女「ええ」
二人は廊下に出た。
自分から言いだしたものの、リハビリなんてしたくないな、と男は思った。
/
男「小学校5年生のときの話だ」
男「ある雨の日、何かの委員会の手伝いをしてたのか、俺は放課後遅くまで残ってたんだ。用事も済んで帰ろうとした時に、下駄箱でうろついてるクラスメートの女の子がいてさ」
男「それは俺が大好きだった子だった。傘を忘れたと言っていた。適当な置き傘でも持ってけばいいじゃんって言ったけど、その子は嫌がってさ」
男「俺は自分の傘を貸そうとしたけど、それじゃあ俺が濡れちゃうからって、結局相合い傘をすることになった」
男「緊張してまともに話せなかった。傘もほとんどその子の上で持ってたから俺濡れまくってたし。でも、その子の家の近くまでついて、ありがとうって言われたときには、もうこれ以上ないってくらい爆発しそうな気持ちだった」
男「それで、次の日。こうやって、教室に入るとさ」
男はドアを開けた。
男「黒板の真ん中に、相合い傘が書かれていたんだ。その下には、俺と彼女の名前が書かれていた。誰かに目撃されてたみたいだった」
男はそういって、ハートマークと、三角形と、女の子の名前と自分の名前を書いた。
女「相合い傘、ですか」
男「ああ」
女「今でもその子の名前覚えてるんですね」
男「俺さ、小学時代のクラスメートのフルネーム、全員覚えてるんだよ。みんなに驚かれる」
女「すごいですね」
男「2年生の時に転校してきたんだけど、早く学校に馴染むために校歌と名簿だけは家で必死に覚えたんだ」
女「真面目な小学生ですね」
男「話が逸れたな。俺は、このあと、この相合い傘をどうしたと思う?」
/
女「うーん、ちょっとまってください」
女は赤いランドセルから、黒いノートを取り出した。
女「あっ、一箇所間違えているみたいですね」
そういって彼女は、相合い傘の上のハートマークに、目と口を書き足した。
女「これでよし」
男「なんだそりゃ。そんなのあったかな……」
女「それで、あなたはどうしたんですか?」
男「なんだよ、そのノートに書かれてないのかよ」
女「あててみますね。黒板消しで消した!」
男「ハズレ」
女「女の子の手を引っぱって、教室を出た?」
男「そんなこと出来てたら後悔してないよ」
男はそういうと、赤いチョークを手に持った。
男「こうしたんだ」
男はすごい勢いで、女の子の名前上をガリガリと線で塗りつぶした。
女「…………」
男「好き避け、っていうには、あまりに残酷過ぎるだろ」
/
【用語解説:好き避け】
好きな人に冷たい態度を取ってしまうこと。
自己防衛行動の一つで、自分にとって重要な意味を持つ対象に直面した時に、本心とは逆向きの行動や意識を取ることで精神の均衡を保とうとする心の働き。反動形成。ツンデレ。
/
男「恥ずかしさとか、パニックとか、そういうのに耐えきれなくなった。自分がこの子を好きだという気持ちが、この子や周囲の人間に決して伝わってはいけないと、不明な恐怖心に襲われた」
男「女の子は泣き出した。それ以来まともに口を聞いてもいないよ」
男「あの時あんなことをしなければよかったのに」
女「…………」
女「今なら、どうしますか?」
男「……こうするべきだったのかな」
男は赤いチョークを手にして。
傘の上に、巨大なハートマークを書き足した。
女「あら、まぁ」
男「やってたらどうなってたんだろうな」
女「気になりますね」
男「気になる人生になってたよな。結ばれることになろうと、結ばれなかろうと。自分自身が結末を気になるような人生を送れていたんだろうな」
男「仮にその時大きなハートマークを書いていたとしても、その子と両思いになって、中学生になって付き合って、今頃結婚してた、なんてことはないと思うよ」
男「でも、その時にハートマークを書けている自分だったら。こんな惨めな人生送ってなかっただろうなって思う」
男「好きなものに好きだといえない人はさ。好きじゃないものだけに囲まれる人生を送ることになるんだ」
女「これが小学生時代に抱えた大きな後悔なんですね」
男「ああ。小学生の時に、一番やり直したかったこと」
女「本気で、やり直せますか?」
男「ああ、今ならな」
女「……そうですか」
男はなんとなく、黒板にぐちゃぐちゃに消されたハートマークを眺めていた。
黒板消しで消そうと、手を伸ばそうとした時。
ふと、懐かしい匂いがした。
/
『ど、どうしよう……』
困り果てた、か細い女の子の声が聞こえた。
男『えっ……?』
幻覚か、幻聴か、誰もいないはずの教室の空間から、一身に注目を浴びているかのような錯覚に陥った。
羞恥心で男は赤面し、足が震えた。
男『な、なんだよこれ……』
『どうしよう……』
男『ど、どうしようって……』
男は黒板の溝から、赤いチョークを手にとった。
男『……し、しらねーよ!!!』
男は赤いチョークで、女の子の名前を塗りつぶした。
チョークを投げ捨て、教室から飛び出した。
/
男「……ここは」
後頭部に柔らかい感触がした。
目の前には、天井と、校庭を眺めている女の横顔が見えた。
女「おはようございます」
男「あれ、俺……」
女「真夏の教室の暑さは異常です。教員志望の大学生にアンケートを取ったところ、教員志望理由の98%は職員室にクーラーがついていたのが子供時代に妬ましかったから、というものだったそうですよ。熱中症と立ちくらみには気をつけてくださいね」
額に手をやると、濡れたハンカチが乗せられていた。
男「なんだよ、さっきの」
女「さっきのとは?」
男「あの懐かしさ。匂いとか、話し方とか、持ち物とか」
男「全部、あの当時のままだった。黒板消しの後悔の日そのものだった」
女「過去の夢でも見てたんじゃないですか」
男「いや、あれは夢なんかじゃなかった」
女「結末はどうなったんですか」
男「結末は……」
女「あの日のままだったということですか」
男「…………」
女「夢にせよ何にせよ。これで確認できてよかったですね。やり直したいと思った過去に戻れたところで、やり直せないとはっきりわかって」
女「当たり前ですよ。過去をやり直せるほどの力を身に着けた人であれば、今をやり直せていますもの。そして、今をやり直せた人は、過去に拘泥しなくなりますもの」
女「過去を憂いている人は、結局過去に戻れたところで、何もできないままなんです」
/
女「起き上がれますか。水分補給しないとですよ」
女は男の上体を起き上がらせると、ランドセルに手を伸ばした。
女「はい、麦茶です。さっき自販機で買ったばかりです」
男「そのランドセルただのコスプレじゃなかったのか」
女「物を入れるのが本来のランドセルの機能ですもの。ほら」
男「うわ、中身ぎっしり入ってるじゃん。教科書ばかり」
女「困った時に戻るべき初歩は、教科書に書いてあるものですから」
女はそう言って、ランドセルから一冊の教科書を取り出した。
男「……高校一年生の時の、現代社会の教科書だ。ランドセルからよくもまぁ出てきたな」
男「そう。教科書なんてものは、幸せに生きていくのに全く役にたたないものだと思っていたけれど。たった1つだけ、この教科書で衝撃の言葉と出会ったんだ」
男は教科書をめくった。
男「『反動形成』」
男「好き避け。好きな人に対して意地悪をしてしまうこと」
男「もっと早くにこの言葉を知っておきたかった。そうすれば、女子に暴言を吐くような自分でいられずに済んだかもしれないのに」
男「黒板事件みたいに、好きが故に傷つけた記憶がいくつもある」
男「好きな人を自ら遠ざけるプログラムが仕込まれてるなんて、人間って訳のわからない機能が実装されているなって思うよ」
/
男「小学生時代はこんなものだ」
女「その子はその後、どうなりましたか?」
男「同じ中学校にあがって、俺の友達を好きになったことが発覚した。でも、その友達は他の女の子が好きだったから、見向きもしなかった。俺もクラスが別になって、次第に気持ちが離れていった」
男「大学生くらいの頃に、たまたまSNSで見つけたけど、昔好きだった面影はなくなっているように見えた」
男「俺の初恋はこれにておしまい」
女「……そうでしたか」
女「でも、男さん、今こうやって振り返ることにはきっと、意味があったと思いますよ」
男「ああ。しょうもない昔ばなしに付き合ってくれてありがとうな」
女「こちらこそ、ありがとうですよ」
女が男に笑みを返したとき、夕焼け小焼けのメロディが流れた。
男「時間だな」
女「はい」
男「ちょっとまってな」
男は財布から紙幣を取り出した。
男「どうぞ」
女は首を振った。
男「えっ?」
女「料金10,120円頂戴します」
男「お茶代自腹かよ!!」