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何もないお姫様

作者: ここもと

*****


糸を紡ぐの

誰も来ないように

誰にも触られないように


*****






「リーナとの婚姻を解消し、アンナを私の新しい婚約者とする!意義があるなら今すぐせよっ!」




 過去最高の繁栄をもって国を治めると呼び名の高い、13代目国王、キラン・ヒーデロッテ。彼は貴族達が集まるホールの中央に立ち、年を重ねてより磨きのかかった端正な顔立ちを歪めた。怒りか、あるいは悲しみか。馬鹿な息子など既に眼中にはない、気にするは儚げに立つ婚姻を一方的に破棄されたリーナのみ、これが本意ではないと王の顔はありありと語っていた。


 王はサイラスが肩に抱くアンナをチラリと見つめ、すぐに視線を外した。その瞳のなんと無関心なことか。

 これから先、王が退位しても、キランがアンナを正妃として見ることはないだろう。そう腹心達は確信した。



「サイラス様」


 リーナは、王子に向かって深く頭を下げた。

 ここにいる全ての人間が、リーナが言葉を固唾を飲んで見守っている。


「おめでとうございます。どうぞ、お幸せに」


 顔を上げたリーナは優しく微笑んだつもりだったのだろう。しかし、その表情はいびつに歪んでいた。顔を真っ青にし、唇を食いちぎらんばかりに噛み締め、ぶるぶると震える手を必死に抑えるように両の手を強く合わせていた。華奢な体は今にも倒れんばかりだった。

アンナはそんなリーナに貴族たる余裕を感じさせる笑みを溢し。たっぷりと塗られた赤い唇で、どうもありがとう、とお礼を返した。優越感を隠そうともしていないその笑顔のなんと醜いことか。一方、サイラスは顔を真っ青にしたまま、アンナに促さるように袖を引かれ――ぎこちなく頷いた。


(自分は、とんでもない間違いをおかしたのでは?)



サイラスはようやく、この状況に気づいた。リーナに対して非常な仕打ちをしているのではないかと。周囲にリーナとの離縁、アンナとの婚姻を知らせる必要があっても、リーナをこの場に呼ぶ必要はなかった。アンナだけを紹介し、リーナの件は後で知らせるだけでよかったのだ。リーナは権力者ではない、その子供でもないのだ。婚姻の破棄を退ける力もなければ、刃向う権利も持ち合わせていない。それに優しい子だ、アンナに嫌がらせなどするような子ではないと自分が一番知っていたではないか。愛せないと言った自分に、それでもいいと言ってくれたのは誰だ。子が出来ないことで矢面に出されても、一度だってサイラスを責めることなく隣で手を握ってくれたのは誰だった。

アンナに唆されるまま、愛はなくとも大事だったリーナを1人この場に立たせ、酷く傷つけたことにサイラスは絶望した。



 王はそれを見て声には出さずため息をついた。気付くのが遅いと――


「あの…私、気分がすぐれないので、これで失礼させていただいても。後のことは…」

「私が代わりに話を進めておこう、悪いようにはしないと約束する。ゆっくり休め」


 王の小さな頷きを明確に読み取り、宰相はリーナに退席を促した。リーナがお礼を言おうと顔を向ける前に、アンナの父親である大臣が苦言を呈する。


「宰相!勝手なことをするな!」

「大臣、それではあなたは――この状況で傷ついた娘をそのままにしておけと?貴殿の娘の鼻高々な尊顔を見続けろとおっしゃるか!!!いい加減にしろ、冗談にしても笑えぬぞ!」


 王は、宰相がリーナを幼少のころから可愛がっていたことを知っていた。子の出来ぬ妻も自分の娘のように可愛がり、長い休みには一緒に旅行に連れて行くほど親交も厚い。

 宰相の反応は当然だった、むしろ今までよく黙っていたと感心すらしている。もちろん、少なかれリーナを可愛がっていたのは、王もまた同じだった。


「貴様、平民上がりでなんて口をっ!」

「宮殿において上官同士の身分の圧力を禁ず――しきたりをお忘れか?」

「このっアンナが婚姻すれば貴様なんっ!」

「そこまでだ。大臣、まず我が息子と貴殿の娘、アンナの婚約を祝福しよう。婚姻は時間が経ってからになるだろう。しかし…貴殿は多かれ少なかれ、我が国のしきたりを覚えていないのは事実。リーナが退席した後、今一度ご一緒に確認してもらおう」

「リーナ、疲れただろう――ゆっくり休みなさい」


「宰相殿、ありがとうございます」

 顔色はよくないものの、幾分かほっとしたようにリーナは周囲に向かって頭を下げ、騎士が開けた扉に向かうため背中を向けた。弱弱しい背中が去っていくのを見つめ、その場にいた少数のメイド達は小さく、悲しいため息をついた。半分はリーナのため、もう半分は、これからアンナの世話をしなければいけない自分達にだ。メイド長のである妙齢の女も、この時ばかりはメイドに注意をしなかった。


また、1人の男が足を踏み出した。



「この場を、離れてもよろしいでしょうか?」

 凛とした、場に通る声が響く。名はデーム。彼はリーナの専属騎士だった。鎧に包まれた肢体は筋肉で覆われたくましい。しかし、体とは違い顔は非常に理性的な造りをしている。専属騎士といえど、騎士なら王の許可なしにこの場を動くことは許されない。曇りなき眼で王を見据えた。


 王が小さく頷くと、デールは深々と頭を下げ、リーナの後を追うようにその場を後にした。



***




パタン――


 扉が閉まったことを背中越しに感じ、はぁ、とリーナは気疲れしたようにため息をついた。


 1人にして、と部屋の前に待機していたメイドを移動させ。部屋に閉じこもったリーナは複雑に結われた髪をほどき、リボンを机の上に置いてからベットに大の字で寝転がった。バフン、と毛布がリーナの体にそって空気が抜ける。


 


先程とは違う、細く長いため息をまたつきながら、ごろごろと広いベットの左端まで移動し、いよいよ落ちるという所でピタリと止まった。頬に当たるシーツは柔らかく、サラサラした触感でリーナの頬や手を優しく包み込む。リーナは再びため息をついた。


(思い出すタイミングが遅いよ)



 転生して早18年。元日本人、現異世界人のリーナはつい先ほ大臣の娘であるアンナに惨敗し、負け犬として離縁された。離縁を言い渡された瞬間、この世界は乙女ゲームそのままで、リーナは当て馬にもなれない哀れな存在だったことを思い出したのだ。



 仕事帰りに自転車で帰宅中、横から急に飛び出してきた猫を避けたらいきなり森だったのだ。動かない体と覚束ない視力の中、匂いと雰囲気でここは多分森で、自分は赤ん坊だと察した。

帰宅経路に森はなかった。倒れ込んだ先は田んぼの筈だった、泥だらけになる覚悟はしても、赤ん坊になる覚悟などもちろんしている訳がない。けれど適応能力の高いリーナはこの状況を理解することを早々と諦め、これから先どうするかを考え始めた。


とはいっても、赤ん坊の体で出来ることなど乳を飲むか、粗相するか、あともう一つだけだ。覚悟を決めたリーナは、力の限り泣き叫んだ。いま自分は赤ん坊なのだ、恥などない。ないったらない、そう言い聞かせてリーナは泣き続ける。

動物に見つかって食べられたら終わり、人間でも悪い奴なら売られて終わり、見つけられても拾われない可能性もある。


もしかしたらこの体の本当の親が戻ってくるかも、なんて考えもしたが、どこに森の中に真っ裸な赤ん坊を置いていく両親がいるんだという話である。ならば衰弱して、うめき声ひとつあげられなくなる前に己の存在を叫ぶしかない。



その後、運よく鷹狩りに出かけているまだ若き王と宰相に発見された。その魔力の多さと顔のよさ。貴族の煩わしさがない貴重さを買われ、王子の将来の嫁候補として拾われることになったのだ。


貴族の煩わしさ――この国では、王妃に貴族や王族の娘というのはあまり歓迎されない。王妃として嫁いだその瞬間、元の関係は一切断ち切られ、どこどこの娘だったという肩書は使われず“王妃”の立場のみが与えられる。故に、娘の親は王族と親族関係になるかと言えば違う。娘は元々いなかったものとして扱われるのだ。そうは言っても情があるのが人間、生まれた家が破産したと知れば、王妃は家族のために王族の資産を使ってでも助けようとするだろう。夫である王も、貴族の娘を貰っておきながらそしらぬ顔、というのも難しいのが現状であった。つまり、孤児のリーナは王家にとって都合のいい存在であった。





 拾われたその後は大変だった、マナーに魔術の練習、帝王学の勉強はまだよかった。裁縫も好きだった。ダンスが苦手で、覚えるのにとても苦労した。


 それでも美味しいご飯に綺麗な衣装、講師のレッスン料、全て税金で賄われていることを知っていた。苦手が理由で逃げ出すことなど、元会社員のプライドが許さない。死にもの狂いで勉強した。そしてついに、リーナは深窓の姫君としての確固たる地位と、王子の厚い信頼を手にすることが出来たのだ。

 


 そんな割と可哀想なようで順風満帆だったリーナの日常が、脆くも崩れ去った感想がこれである。それでは聞いて下さい――



【王子、ホモじゃなかった】



 結婚初夜、「俺は女性を愛せないんだ、すまないリーナ」と2人きりの密室、ベッドの上で苦々しく告げたサイラス。

その瞬間、(あっ、こいつホモや)って勘違いをしたリーナを誰が責められようか。いや、責められる筈がない。自画自賛するようで恥ずかしいが、こんなに顔が可愛く、優しい上に人より多い魔力を持っている存在を好きにならないなど、ホモである以外にリーナには説明出来なかったのだ。結局夜は同じベッドに枕を並べ、睡眠のみを取った。

部屋を分けるまでの3カ月、ずっとだ。


しかし、一概にそうとは言えなかったのかもしれない。リーナは今更ながらに考えを改めた。



サイラスとて顔も整っており、優しく、その上教養もある、さらには王族。それでもリーナはサイラスに異性として特別な感情を持ち合わせていなかった。単純に異性としての相性が悪いのだろう。



特別好きではなかった。けれど、自分の全てをかけて隣にいる夫を生涯支えようと、リーナはサイラスの隣、神父の祝福を受けながらそう決めていた。その程度には、サイラスのことを友人としてリーナは愛していた。


(それが全てゲームだったとは、それはいくら私が可愛かろうと無理ね)


乙女ゲームではアンナが悪役令嬢だった。ヒロインを苛め抜き、殺そうとする女。

サイラスルートのハッピーエンドでは、アンナは全員の前で断罪され、最後には唯一の知り合いを頼り僻地送りになる。ラスボス的存在がアンナだ。

反面リーナはシナリオの一部でサイラスの最初の妻として紹介される程度。彼女がその後どうなったのかは描かれていない。生きているのか、死んでいるかすら分からない程、存在が薄いキャラクターだった。


「う、わっ!」


リーナは方向を変え、再びごろごろと転がっていき、右端ギリギリの場所で止まった。が、バランスを崩したリーナは上半身からずり落ち、体勢を整える間もなく、全身をすっぽりとベッドと床の間に埋もらせた。挟まったともいっていい。


ドレスのスカート部分の厚みのせいで、足が思うように動かせない。両手は気をつけの姿勢のままで動く気さえ奪われるほどだ。きっと、侍女が心配して様子を見に来てくれるだろうと、リーナは焦るそぶりをみせなかった。


(私の気遣いは完全に無駄だったわけだ)



リーナの専属騎士、デームならサイラスを任せられると思い、専属騎士にも関わらず社会勉強と称し、ほとんどの時間をサイラスと同行させていた。デームはお堅いし融通も効かない、その上敬語でリーナをよく馬鹿にしてくるが、遠い土地ではあるが領主の息子で頭もよく、非常に優秀な男だ。権力に屈しない男だからこそ、サイラスの相手に最適だと思った。



 だというのに!


リーナは唯一自由に動く手のひらをわきわきと動かして唸った。


(サイラスの相手も出来ず、あまつさえアンナのことも報告しないなんてどういうことなの。会社員の必須項目、ホウ(報告)レン(連絡)ソウ(相談)が出来ていないからこうなるのよ。社会人失格よ!)

 

 デームは騎士だ、社会人ではない。

 リーナは力を抜いて白い天井を見つめた。


 実際は全く怒っていない。前世の自分ならそう思うのだろう、そう考えた。

 18年の年月は、リーナの思考を異世界に順応させるには十分な年月だった。


 きっと、恋愛小説ならこの後リーナを好きだった男が表れ、新しい恋が始まって終わるのだろう。

リーナにはそんな人は気配どころか影すら存在しない。ハッピーエンドなど所詮、小説の中だけだ。離縁直後、ベッドの縁に挟まって抜けぬ女などリーナ以外にどこにいる。

 


コンコン


「姫様、入ってもよろしいでしょうか」噂の張本人、デームの声が扉越しに聞こえる。

「今は結構です。下がりなさい」

 壁に挟まったまま厳しい声で告げるリーナ。

 この恰好を異性に見せるのは、いくらリーナであろうと抵抗があった。

「顔だけでもお見せください。皆、心配しております」デームにしては慎重な言葉遣いだ。

「心づかいは嬉しいけれど、今は一人になりたいの」

 早く帰れ、心の中でリーナは祈った。


「――姫様、我儘もいい加減になさいませ!」

「わっ!!?」

「こっちが下手にでればっ」

 しびれをきらし、扉を蹴破ったデームは眉を顰めた。リーナが部屋にいない、しかし声は聞こえた。先ほどの声を頼りにベッドに近づくと、メイドが整えた筈のシーツは皺がより、なによりベッドの隅にピンク色のふわふわとしたものが目に入る。覗き込めば、先程あれほど悲観にくれていたリーナが間抜け面で挟まっているではないか。


「人が珍しく心配しているのになんですその態度は!」

「違うわ!遊んでいるのではないの!動けないのよ!」



 デームはため息をつくとリーナの足元に立ち、屈んでリーナの腰を両手で支えるながら持ち上げた。

 スポッといい音をしながら隙間から取り出されたリーナは開放感で溢れ、デームによってベッドの上に戻された。



「助けてくれてありがとう。お礼にお茶、用意するわね」

「それどころではないでしょう」

「遠慮しなくていいわよ!」


 いそいそとベッドから立ちあがったリーナ、おいしい茶葉があったとウキウキしながら茶器の仕舞ってある棚に向かった。おもてなしが大好きなリーナ、この時にはサイラスのことを忘れていた。




 リーナは自分で出来る範囲のことは自分でする。公の場やどうしても出来ない部分を除き、お茶が飲みたければ自分で入れるし、刺繍がしたければ自分で針を探して勝手に始める。お茶の飲み仲間が欲しければ休憩中のメイドを引っ張ってきたりもした。美味しいお菓子と一緒に宮殿の噂、メイドの恋の話を聞くのはリーナにとって密かな楽しみだった。メイドにとっては窮屈な時間だっただろうが、お菓子を時間給としてほしい。


デームをもてなそうとお茶の準備を始めた。ガラス瓶から陶器に水を移し替え、それを両手で支えながら魔法で熱を作る。すぐにぽこぽこと泡立つお湯が出来た。

 魔法とは便利なものである。リーナは魔力の使い方もうまいようで、大抵の魔法を使うことが出来た。転生して初めて感動したのは魔法だったなと過去を懐かしみ、ティーポットに茶葉と沸いたお湯を合わせ頃合いを見計らい茶器に移し替え、ソーサーを置いてからデームに差し出した。



「ありがとうございます。メイドを呼べと何度も言っているのに…」

「いいじゃない。今回は自信作よ」


 自分の器にも紅茶を入れ、デームの向かいの椅子に腰かけた。

 眉を寄せたデームが器を睨みつけていた。紅茶は気持ちを落ち着かせるもので、人殺しの形相で見つめる物ではない。



「なんて顔してるの」

「…もとよりこんな顔です」

「そんな訳がないでしょう」

「あなたは、どうなんですか?」


 伺うような視線。あっ、とリーナは手を口に当てた。

 離縁されたことを思い出しだしたのだ。


「ええ、もうすっかり大丈夫よ」

「先程まで唇を噛みしめ、己の手を爪で傷つけ、泣くのを我慢しても尚、あなたは大丈夫というのですね」

「あれはっ」


笑うのを我慢していただけだ。自分の勘違いが面白くて、本当なら床をバンバンと手で叩きつけて、その場で笑い転げまわりたかった。厳かな場所でそんな不躾な行為が許される筈がないため、耐えていたのだ。悲しみより笑いを堪える方が辛いことを、リーナはこの時初めて知った。



 いま気にしなければいけないのは離縁されたことではない、その後のことだ。


 類まれなる容姿と魔力だけしか持っていないリーナ。記憶をこじ開けてもやはり、ゲームのプレイ中にリーナを見たことはない。

 詮索パートのあるゲームでいないということは、王宮内には住んでいないということだ。


「これから、どうなるのかしら…」

「通例であれば、元の家に苗字と共に戻されます」

「孤児だから家なんてないわ」

「宰相殿が娘にしてくれるんじゃないですか?」

「無理ね」

「何故?」

「無理だからよ」


 宰相はヒロインの父親としてゲームに登場する。姉妹がいるなんて話はなかった。ゲームの強制力は先ほどの離縁で実感済みだ。

 そんな突飛な話をデームが信じるなど無理だろう。怪しむデームに誤魔化すように笑えば、あきらめたように紅茶に手を伸ばした。


「まあ、俺も宰相殿の娘になるのは辞めておいた方がいいと思うので、理由は言わなくていいですよ」

「何故?」

「――は?」

「あなたの『は?』は威圧感があるから怖いのよ…わかった、私も理由は聞かないわ」

「それが利口かと。これを飲んだら手の消毒するんで早く飲み終わってください」


 自分の手をみれば、爪の後にそって血が固まった跡がある。

 笑いを我慢しすぎて抓り過ぎてしまったようだ。それより、リーナに対するこの扱いの雑さは一体なんなのだろう。


「デーム…あなた本当に私の専属騎士よね?」

「見てわかるでしょう?」


 最初に専属騎士が付くって知った時はもっと敬ってもらえると思ってたのに、そうじゃなかったなとリーナはデームと最初に出会ってから今までを走馬灯のように思い出した。

 本音が言えない王宮で、本当に砕けて話せるのはデームだけ。今だってリーナの心配をして部屋まで来てくれた。そう思えば、感謝の念が沸いてくる。


「そうね。…ありがとう、あなたは私の自慢の騎士だわ」

「――あんたは本当に卑怯だ」

  

 リーナは目を見開いた。デームがいくら軽口を叩くと言っても限度はある。あんた、なんて言われたのは初めてだった。動揺を隠そうと、震える手をテーブルの下に隠した。


「いまのは…『俺も仕えられて幸せでした』って言う所よ?」

「っ!…何故平気でいられる!あなたは最愛の夫をあの女に盗まれたんですよ?唯一自分の味方であるべき騎士は知っていながら何1つそれを報告せず、俺はあんたが糾弾されても黙って見ていただけだ!」


 デームに叩かれた机は大きく揺れ、口のつけていなかった紅茶は半分以上、零れた。

 透明のテーブルクロスが紅茶の色に、じんわり染まっていくのを、リーナは馬鹿みたいに見つめた。



(折角、うまく入れられたのに)


 フー、フー、と息を荒くするデームはまるで獣だ。

 腹を空かせた、肉食の――ケモノ。


 けれど、今はまだ、リーナのもの、リーナの騎士だ。

 半分になった紅茶を飲み干し、血で薄汚れた手をデームに差し出した。


「手当、してくれるんでしょう?」





ちゃぷ――


デームは布を水に浸し、余分な水分を絞るとリーナの手を取り。血で固まっている部分を丁寧に拭きはじめた。


「言いたくないなら、言わなくていいわ。サイラスとアンナのことろ知っていながら何故私になにも報告しなかったの?」

「・・・」

「そう。…私ね、ここに来てからずっと怖かったの。拾ってもらえて、その上可愛がってもらった、本当に運がよかったし、きっと孤児の誰よりも恵まれているでしょうね。でもね、今でも思うの。私の顔が可愛くなくても、魔力を持ってなくても、拾ってくれたのかなって」


 デームは無言のまま、布を動かし続ける。

 リーナも微笑んで続きを話し始めた。


「怖いけど、努力しないと捨てられそうだから。必死に勉強して…王子に嫌われないようにってずっと緊張してた。そんな気持ちで、王子に好かれるわけがなかったのよ」

「・・・」

「怒らない理由はね、意味がないからよ。仮に報告されても私は何もしなかったわ、アンナを止めることも、王子に好かれる努力もしないでしょうね。私の顔が優れていること、魔力が強いことは王子もアンナも知っていたわ。その上でお互いがいいというなら、私にはどうしようも出来ない」

「…あの女が、憎くないのですか?」


 小さな声でも反応してくれるのが嬉しくて、リーナは満面の笑みで返事をした。


「ないわ!皆はアンナを酷い女だっていうけど、私は嫌いではないもの。もちろん恨んでもいないわ」


 幼い頃、アンナの取り巻きに泥を投げられた。「あんたにはお似合いよ」ってアンナの言葉が、汚いリーナでもいいよって意味に聞こえて、悲しいより嬉しいが勝ってしまった。

 それ以来、いくらアンナが嫌がらせをしようと。その時のことを思い出すと、告げ口する気にはなれなかった。嫌いにもなれなかった。


 そんなことを知る由もないデームは――ふん、と小馬鹿にしたように鼻で笑う。


「随分な博愛主義者だ」

「酷い誤解だわ。私だって大事なものと、そうじゃないものの線引きくらいするわ。大したことではないから怒らないのよ」

「は…?離縁が大したことではないと?」

「その『は?』は割りと好きかも。さ、今度はあなたが手当てをうける番だわ」

 

 赤く腫れたデームの手をとり、くるりと裏返した。





「結構腫れているわね」


 デームはひとまわり小さい手の平に自身の手を置いたまま、動けずにいた。

 こちらが力を込めれば簡単に砕けそうなほど白く、小さな手が己の無骨な手に添い、水と氷を入れたボールに促し、沈めた。


 リーナは簡単に魔法で水を張り、少量の氷を中に入れた。それが当たり前だと思っている。魔法使いを名乗る者でも、簡単には出来ないことをリーナは知らない。


魔法は無限ではない、有限だ。自分の中にある魔力と、自然の力を呪文で組み合わせ、ようやく魔法は使える。簡単な魔法すらも一般人がやれば死にかける。魔法使いとてお湯を沸かすならなら、複雑な呪文を唱えるより。自分で木を切り、薪を汲み入れ、火をおこすのを選ぶだろう。だがリーナは違う、リーナが使う魔法はこの世の理を全て無視してなりたっている。何も唱えず、まるで自然現象のように。


だから王も宰相も大事にした。顔と魔法しかないとリーナは言うが、それがどれほどの価値があるか、本人が一番分かっていない。リーナ1人で1つの国家を潰すことすら容易なのだ。

 サイラス、王妃、身分、そして専属騎士。それらは全てリーナを留める枷でしかない。


サイラスの横に立ち、リーナが王妃としての務めを果たせばきっと、この国は未来永劫破れぬ栄華を極めただろう。今頃いかようにリーナを繋ぎとめるか、元老達は頭を悩ませている筈だ。


 しかし自分には関係のないことだ。アンナを誘導し、サイラスをその気にさせた自分には。どうしても、あの清廉潔白な存在を地獄の底まで突き落としたかった。

 でなければ、デームはリーナの隣に立つことすら許されない。


 しかし結果はどうだ。リーナはこの状況でも尚、白く綺麗なまま佇んでいる。

 汚れなど一切なく。行き場のない怒りで、どうにかなりそうだ。



「私ね」


 冷たい水に手から全身へ、ずぶずぶと水底へ沈む錯覚は、清らかな声と共に呼び戻された。獣を呼び起こすのも、自分の獣を静めるのもまたリーナなのだ。





 リーナは俯いたまま、デームの手にゆっくりと水をかけている。その手は冷え、赤くなっていても気にせず水をすくい続ける。


「サイラスの隣で死ぬ覚悟をしたわ。でもね、反故にされればそれまでの話なの」


リーナの感覚で言えば、会社に身を埋める覚悟をしたにも関わらず、突然解雇されてようなもの。いつまでもしがみ付くほど、リーナは愚かでも執念深くもない。そんな暇があるなら。次に行った方が時間も心も無駄にならない。


「それなら、あなたは何に執着するんです?」

「あなたよ」

「は?」

「デーム、私の騎士。私があなたが何をしても許すわ、だって私のものだもの」


 持ち主が負った責任を持つ。当たり前のことだ。

 前世の部下とは違い、騎士はリーナの私物だ。前世では考えられない感覚は、18年で培わられた。誰の手も触れられない、私のもの。


「私があの女と結婚すると言っても?」


 唇を震わせるデーム。これは怯えなのだろうか。


「その場合。もう私の騎士ではないから興味ないわ」

「しなかったら?」

「私の騎士のままじゃない?なんだか、デームが元気になったみたいでよかったわ」

「ええ。質問を変えましょう、あの女が私に言い寄ってきたらどうするのです?」

「人の物は、奪ってはいけないわね」


 アンナは、なんでも与えられた。欲しいものを好きなだけ、適当につまみ。いらなくなったら捨てればいい。リーナはそれを否定しない、ただし――自分のもの以外であればの話だ。


「デームがその気なら止めない、けれど権力でどうしようもなくなったら、私の全てを使って止めるわ」


 デームは無表情のままだ。リーナには喜んでいるのが分かった、顔に出ないが分かりやすいのだ。


「サイラス様もあなたの物では?」

「いいえ、あれは国のものよ。私のものじゃない」


 すまない、彼がそう謝った時に私のものではないと思った。

 アンナが国のものに手を出そうが、関係が無い。


「私は、あなたのものなんですね?」


 もう一度確認するように。デームは水から出した手をリーナの頬に宛がった。冷たさにビクリと肩を揺らしたが、避ける様子は見せない。



 この感情を、なんと呼べばいいのだろう。


「そうよ、あと少しで違うけれど。最終通告をされるまでは私の騎士、わたしのもの」


 傲慢なまでの独占欲、欲しがる量は違えど、その感情はアンナとさして変わりない。リーナは汚れていないのではない、内側の泥を、顔の美しさ、魔力で隠しているのだ。


「いいえ。私はずっとあなたのものです」

「違うわ。あなたは王からの預かりものだから。離縁されるなら返さないと」


 首を振るリーナに、非常に機嫌のいいデームがひざまづいた。公式の場でしかされたことのない振る舞いに、リーナはベッドから飛び上がった。


「リーナ様————私の主」

「きゅ、急に何?気持ち悪い」

「私、僻地ではありますが領主の息子です」

「え、ええ。知っているわ」

「華やかではありませんが、静かでいいところです」

「そう」

「美しい容姿と膨大な魔力は必要ありません。牛と豊かな自然しかありませんから」

「そこに行ったら私、なんにもないわ」

「俺がいるでしょ。離す気はありませんから、一緒に来てください」


 目を丸くしたリーナは息を呑んだ。


「…あなた騎士を辞めるの?あんなに鍛錬していたのに」

「あなたの騎士なんでしょう?だったら近くにいなくてどうします、鍛錬はどこだってできますよ」

「あっ――——後悔しない?私、王のものだからって一応、遠慮してたのよ?」

「私もあなたの騎士と言えど、身分は領主の息子になります。出来ることも増えるのでたくさん言って構いません」


 リーナの瞳が薄暗く濁る。

 汚れたのではない、元の汚れが滲み出ているだけ。


 リーナは自分の騎士なら、デームでなくてもいい。リーナは、自分以外を信じていない。

 けれど、私のものだと言ってくれた。自分が逃げださなければ、リーナは自分を食べることもなく、糸で体を巻き付けることもなく、大事に大事にしてくれるだろう。


***


 蜘蛛の糸のように薄く、細く張り巡らされた独占欲。

 小さな蜘蛛の精一杯は、人間が人差し指でそっと撫でるだけで破けるほど脆く、弱い。

 取られた糸を取り返すこともなく、新しい巣を作るのみ。


***


 


「私、あなたになにもあげられないわよ?何も持っていないもの」

「いりません。ただ欲しいと、デームが欲しいと言ってください――あなたが望めば、私はあなたのものです」


 右頬に触れるデームの手を、リーナは包み込むように重ねた。

 恥ずかしそうに笑うリーナに、デームは口元を緩めた。


「デーム、あなたが欲しいわ。一緒に連れてって」

「はい、どこまでもお供致します」


 

 こうして孤児と、その騎士は城からいなくなった。




 デームは笑う


   わらう


        嗤う







獲物が蜘蛛を食べないと誰が言った?

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