400話 海神①
遅くなりすみません。
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どれぐらい落ちただろうか? 或いは潜った? 少なくとも重力に従った時間が暫く続いた。
周りには何も見えてこない。視覚的情報は一切なく、あるのは自分の身体が落下しているという感覚のみである。それさえもなければ方向感覚も分からない暗闇に閉ざされて途方に暮れていたことだろう。
なんだか物凄く早く落ちている気もするし、滅茶苦茶ゆっくり落ちる……というより沈んでる気もする。これで呼吸が出来てるってのも不思議なもんだけど、さっきから夢でも見てるみたいな変な感覚しかしないなぁ……。
「……っ!」
今自分のいる場所が本当にこの世に存在する場所なのかどうか。それさえ疑いそうになってしまう。しかし、やはり罠に嵌められたのではないかと疑心に駆られる間際に下から微かに明かりが見え始める。
お? 着いたのか……?
光は次第に大きくなっていき、点の凝視から俯瞰へと変わった。光源があるだけで微かに周囲の状況も確認でき、確かにここが海の底であることを匂わす光景が広がっていたのも合わせて確認できた。
「おおっ!?」
底に直撃するのは避けなければいけないと思い落下する速度を緩めようとしたのも束の間、それよりも前にゆっくりと減速する力がどこからともなく与えられてその必要はなくなり、急な事態には若干戸惑った。
まるで誰かに手を添えられて誘われるままに……。この感覚の体験を不思議に思っていると、周りが珊瑚の檻で囲まれ、鈍く眩く光る蛍光色が散りばめられた海の底へと俺は自然体で降り立っていたようだ。
「すっげ……。神秘的ってこういうこと言うのかなぁ」
目を奪われる光景を目の当たりにすると言葉が無意識の内に漏れていたようだ。落ち着いていられない状況なのは分かっているが、それでも息を飲む気持ちは押さえられそうもない。
底は一定の感覚を置いて所々が線を浮き出すように青く光っていた。まるで人の脈のように……それは海が一つの生き物として鼓動しているかのようであった。
俺がいるこの海の底には、なんだか人知れずに生きて存在した自然の揺り籠があるように思う。
『中々に見事だろう? 見せる相手がいないのが残念だが自慢の我が家だ』
「この声……!」
『ご足労に感謝する。よくいらしてくれた『守護者』よ』
何かの気配を感じ取ると同時に、あの声が脳内ではなく直接聞こえてくる。聞こえてくるのは薄暗い視界の先だが姿はなく、見えていてもおかしくない距離感と思った分やや不自然に感じた。
『守護者』? 俺のことか……?
でもどこだ……一体どこにいる……。
『此度の試し、こちらの都合で唐突に始めさせてもらったことをまずお詫びする』
「……っ!」
目を凝らしながら腰を落として身構えつつ、背負った大剣の柄に手をかけて相手の出方を伺っていると突然視界を塞がれた。
足を踏みしめている海の底から大量の泡が勢いよく噴き出したのだ。正面を完全に塞ぐ程の泡の数はとても数え切れず、そして鬱陶しい。やがて泡の噴出が減り切れ目から反対側が見え始めると、とある輪郭が微かに浮かび上がった。
「っ……!? 人……? いや、モンスター……なのか……?」
完全に泡がなくなった先には、薄っすらと青い皮膚と鱗を持った人型の何かが現れていた。身長はかなり高めで二メートルはあるだろうか? 厳かな宝飾を彩る三又の槍を手に持ち、俺を待ち構えるように仁王立ちしている。
いよいよお出ましになった事実は喜ばしい。しかし獣人、魔族、エルフ……多種多様の種族がいるわけだが、奴がどれに当てはまるのか俺には見当もつかない。近しいであろう種族は魔族……でもこのような見た目の魔族はイマイチピンとこないためそれも怪しい。どちらかというと人というよりもモンスター寄りな印象を覚える。
『フフ……驚いているな? 人以外の獣がまさか会話を用いるとは思わなかっただろう。あまり刺激しないよう形も其方ら基準にしてみたのだが……察するに私のような存在と話すのは初めてだったようだな?』
「初めて、だな……。どんな反応したらいいのかも分かんないわ」
どちらかというと俺は声の主については人であると予想していた。俺自身これだけの力を持っている身である。それならあの天変地異を引き起こした力の対比……鎮められる力を持った俺が人であるという時点で人ではないという断言はできなかったし、まだ予想としては現実味があった。
ただ、こうして本人から人ではないと宣言された上で俺に合わせて配慮までしているときた。これでは現実味のない現実でも受け入れる他ない。
人ではない存在と話せていると思うと、何だか傲慢極まりなくも奇妙な気になってくる。
『私の名はオルディス。其方達人の子らが語り継いできた歴史とお伽噺に出てくる内の一体……言わば神獣に属する存在だ』
へー、そうですかそうですか。俺無知だから歴史とか知らんけどね。
まぁあれだけのことができるんだから神獣とか言われても不思議じゃなさそうだわな。確か海の悪魔とか揶揄されてもいたし。
『理解が早くて助かる。……私の位を知って尚怖気づくことすらしないのは流石であるな』
は? いやいや、怖いよ? 何言ってんですか。アンタの見た目事体結構ホラー要素強めですから。心霊現象で出て来そうな肌色とか恐怖以外のなにものでもないですし。
もっと言えばこんな有り得ない場所で初めて会う奴の得体も知れてないのに恐怖がないわけないっしょ。だから最初は来ることに躊躇してたんだっつーの。
ただ、それでも俺は恐怖があってもここには来ない訳にはいかなかっただけだからここにいるんだ。あんな目に遭って何も知らないまま残りの日数を船の上で過ごすことの方が恐怖だっただけにすぎない。
「――で? そんな神獣様とやらが俺をここに呼んで一体何の真似だ? ……要はあれか? 昼間の続きを直接やろうって腹かよ」
手にかけていた大剣を前に突き出して牽制する。人の姿であることにやや抵抗はあるが、その実態が人ではないのであればまだマシだ。押し殺せば害獣同様に斬り伏せられる。
相手が神獣だろうが知ったことか。やってることがただの害獣と変わらないなら同じく駆除対象みたいなもんだ。
『い、いや待て待て、そう早まるでない!? 別に其方と争う気は微塵もないぞ?』
どの口が言うんだかな。信用ならんわ。
天使みたいに心の声まで読み取れるくせに、こっちの了解なしに仕掛けてきた分際で説得力の欠片もない。
俺の行動に慌てふためく姿に対し逆にこっちが取り乱すことはない。言い分は無視して言葉ではなく態度で俺は示した。
『……ま、まずは其方の疑問に答えるべきだな。その読心についてだが天使程自由に聞くことができるわけではないぞ。其方だから私は聞くことができ、伝えることもできただけだ』
「俺だから……? それはどういう意味だ」
『一般の者達とは違って其方の存在はかなり異質であり特別だ。私達神獣と同様に世界の枠組みから外れている故……其方とは例え相まみえなくとも見えぬ繋がりがあるのだよ。今も、この先も……。例えこの時世とは違えどな……』
あん? 何が言いたいんだ一体……。
「……? 言ってることの意味が分からん。もっと分かりやすく言えないのか?」
『……』
耳を右から左に通り過ぎる語りに大した理解は得られなかった。遠回し的な言い方がじれったくて単刀直入な説明を求めてはみたものの、それをオルディス? は首を横に振って答えるのだった。
この態度には正直一瞬腹が立った。ならなんでわざわざ語り出したのかと。
しかし、よく考えてみればどこかその対応は不自然にも感じられる。一応こちらに何かを伝えようとはしているわけで、それが単純であるのか複雑であるかの違いでしかないのだ。そこで敢えて単純を選べないというのは些か引っかかる。
伝えやすい言い回しが出来ないとかか? ……なにそれ。よー分からんけど。
お茶を濁すみたいでハッキリしない…のはまるで何かを欺いてるみたいだな――。
『――言葉は全てが『言霊』となり得る。軽々しく口にして良いものではないのです――』
「っ!? ぁ……!?」
――身体がグラついた。見えているはずなのに、目を開いたままのはずなのに、自分は正面を向いているはずがあらゆる方向に目を向けているような錯覚に憑りつかれる。
ふと疑問に思った次の瞬間には頭の中が誰かの言葉で一気に埋め尽くされていた。どこからこの言葉が生まれ、また俺の思考に湧き上がったかすら分からない。俺の意思に関係ない言葉が突然湧き上がったことで集中は途切れ、向けていた切先を向けるのをやめて思わず構えを解いてしまう。
なんだ今の……!? 銀髪の天使の女性……? 見たことない人が今……!?
セシリィ以外の天使を俺はまだ見たことが無い。にも関わらず俺の記憶の中で一人の天使の女性の姿がフッと現れ、そしてその姿をしっかり何度も思い出せるようになっていた。それと同時に何故オルディスが遠回し的な言い方をしてきたのか。それも確証はないがここで一気に納得できるような気がした。
「もしかして……あれか? まさか誓約とやらが関わってんのか?」
『左様』
「成程。あぁ……これが『言霊』ってやつか。意味はまだよく分からんままだけど……なんとなく察したよ」
そうだ……言葉には、それぞれ重みがあるんだ。
これは上手く伝えられないんじゃなく、上手く伝えちゃいけないことなんだきっと。恐らくオルディスにとってはそれだけ重要なこと……俺がというよりも以前に、それ以上に大きなものを守るために必要な処置だったのか。
オルディスに対する俺の警戒心はここで一気に落ち着いた。
自分が明確な理由も確証もないことに納得できているというのはおかしいと思う気持ちはある。ただ、自分に対して説明がつかない話だがそれでもこの遠回し的な言い方は仕方ないと思えている自分が既にいるのはどうしようもないのだ。理屈ではなく感覚的な問題で。
自分のこの感覚には嘘をつくことはできそうになく、割り切るべきものとして定着させるしかなさそうであった。
「――分かったよ。話せる範疇で話せることは全部話してくれ。なんでこんな真似をしたのか、誰の指示で動いたのかも全部、な」
『御意』
ここで俺の記憶がほんの一部とはいえ解放されたことは偶然とは思えない。そして思い出したという内容がオルディスの話そうとしている内容に関わっているのであればこれはもう願ってもないチャンスである。
『私が許された語りは恐らく其方が願っている程多くは無い。それでもよろしいか?』
「構わないさ。どうせ何もかも忘れて知らないゼロの身だ。一つ知るだけでも俺にとっては百に近い」
自分を知る機会が思ってもいない状況で巡ってきたことに感謝し、俺らは互いに武器を納めて身体を楽にした。




