276話 朝這い? 前編
◇◇◇
お父様との会合から早くも2日が経った。グランドルへと訪れた御要人達はそれぞれが帰るべき場所へと戻り、いつもの日常へと戻っていった。
僅かとはいえ、久方ぶりともいえる平穏? な日々はそれまでの過酷すぎた時間を癒すように、俺達の心へと浸透していった。
所謂、束の間の休息と言えただろう。
その日に御要人達と約束し、俺が記憶に留めたものは数多い。
あの日、俺は今の自分達の状況と世界の実情を全てお父様とトウカさんに話した。これは誠意を見せるというわけではないが、自分の娘達が想像もつかない状況下に置かれていることを、その親に伝えないことが俺には出来なかったためだ。
間違いなく、親父と母さんが同じ立場だったらそう思うはずだと思えたから。
後ろめたさがある中で今後行動したとしても、それは俺の心の不安としてずっと枷になると感じた。
知らない方がいいこともある……その選択もあっただろう。だが、俺はそれを選べなかったんだ。その選択が正しかったのか、それとも悪かったのかなんて分かるはずもない話であるが、お父様とトウカさんの言葉を聞く限り、少なくとも悪くはなかったのだと思う。
……極論、選択すること事体が違っていたのかもしれない。
お父様からはアンリさんを必ず守るという大役を。トウカさんからは、俺の進む道に後悔がないようにとの助言を頂いた。
ただ、アンリさんの持つ秘密については結局何も分からなかったが。もしかしたらお父様が隠し事をしていて何か知っているのではという淡い期待があったのだが、そんな都合の良いことなんてなかった。
分かったのはお父様が不治の病レベルの親バカであることだけだ。……正直この情報はいらない。
ちなみにだが、東のその後の経緯をトウカさんに聞いたところ、思った以上に悪評や噂は立っていないとのことだった。
ヒナギさんが助けた女の子の証言により、決して俺達が悪人ではないことが少なからず伝わったのだとトウカさんは述べていたが、トウカさんの力添えがあったのだと俺は思っている。
あの時疑いを晴らす余裕すらなく、何も言わずに逃げるように去った俺達は、東に住む人ならば誰でも怪しく思わないわけがないからだ。
だからトウカさんの尽力には感謝しかない。本当に良い人に出会えたことを、心の底から今ここで感謝したい。
だというのに――。
「っ……くっそぉ……!」
「待ちなさいっ!」
感謝の心永遠に、私の安寧も永遠に、だ。うん、これ格言にしてもいいかも。
いやぁ早速ピンチですわー。
ちとやらかしt……いややらかされてしまいまして、神に今追いかけられております。そんで、今丁度追い詰められてしまいました。
私の回想による前振りがやけに長いと思った良い子の皆々様、あなた達は非常に察しがいいですな。俺がこんな思考になる時は大体こんな非常時に限られますからね。
……はい? そんなのいつもだろって? アハハ、細かいこと気にしてたら禿げますよ? そう思った人達はきっと悪い子なんですね。
一気に上がった緊張感と心拍数によって、身体には汗と熱がじんわりと滲んでいる。内から込み上げるそれはすぐに身体に表れ、瞬時に体温を上昇させて吐息の熱に拍車をかけている。
二階から一階まで一気に駆け降り、『安心の園』のフローリングを蹴り、摩擦で焦げ目が付きそうな急カーブを決めた俺は、目の前の部屋へと一目散に飛び込む。ドアを蹴破るように無理矢理抉じ開けたせいで大きな音が響くが、そんなことは気にしていられない。ドアがもし変形してしまったのなら申し訳ないが、今は取り敢えずお咎めは勘弁被りたい思いである。
転がるようにして入った部屋には、一つの丸い形をしたテーブルが置いてある。少しでも遮蔽物に隠れたい一心であったため、迷わずに机の裏手へと回り込んで守りを固める。
そして俺がテーブルに回り込んだ時だった――。
「追い詰めたよ?」
「っ……!?」
間髪入れずにという表現はまさに今使うべきかというタイミングで、ドアに人影が追随してくる。こちらもまたキレイに急カーブを決めたらしく、見事な身のこなしかたと言えよう。
言わずもがな、俺がいつも逃げている人である……彼女さんであるアンリさんだ。
相変わらず早いっスねぇ、地球だったら間違いなく地上最速なんですが……。
し、しかし……どうすれば!?
「ふふふ、今回ばっかりは絶対に逃がさないからね」
ひぃっ!? こ、こえーっ!?
アンリさんは袋のネズミとなった俺を見て黒い笑みを浮かべると、机を盾にしている俺へと近づいてくる。すると瞬く間に俺達は机越しに対面し、お互い動けない状態になってしまう。
この距離感、目の色まで鮮明に確認でき、なおかつ些細ともいえる表情の変化を察することのできる相対は……アレだ、なんというか面接に近い。
ほぅほぅ、面接官の人ってこんな気持ちで普段観察してるんですね。私なんだかオシッコチビりそうなんですけど。
ま、まぁいいや……ハイッ! では面接を始めますね!?
趣味はなんですか?
「逃げられると思った?」
……ほぅ? 追いかけっこですか、可愛らしくていいですねぇ。
では特技は何ですか?
「無駄な足掻きはよしてよね」
アハハ! ホントですかぁ? ディフェンスに定評があると……とてもそうには思えないですよ。
……あ、ちょ、俺の動きにべったり張り付いてんじゃないよ。鏡を相手にしてるみたいだぞちょっと!?
「観念したかな?」
こ、これにて面接終わりまーす。合否の結果は後日お伝えします、退室してよろしいですよ? てかお願いしますマジで帰って。
「最近さ、ちょっとオイタがすぎるんじゃない?」
「いやいやいやいやっ!? だから不可抗力なんですって!?」
ちっとも笑っていない表情で言われるこのお言葉におぞましさは感じつつも、手を横に何度も振って反論はハッキリとさせてもらおう。今回も俺はむしろ被害者なんですが……。
アンリさんが掴んでいる机部分が軋む。木製のやや年季の入った机はパキパキと音を立て、表層から少しずつその身をすり減らしていく。勿論、比例して俺の平常心もすり減っていく。
大変ご立腹である様子が伺えるわけだが、今一度冷静に状況を考察してみよう。
だがその前に、何故こうなってしまったかの経緯を一から省みることにしてみるべきかもしれん。
□□□
5分前――。
「う~ん……もちもち……」
「んっ……!」
具体的に覚えてはいないが、何かしらの夢は見た曖昧な記憶の残る中朝目が覚めると、いつもとは違う感触がまず最初手に伝わった。
あはん? なんだこの感触……ずっと触っていたいような魅惑的なモノだなぁ。
掌に少し圧力を加えてみると、それはゆっくりと押し潰すことができた。
指と手がずぶずぶと沈み込むとでも言うべきか、まるで極上のクッションみたいである。それでいて人を駄目にしてしまうような……新鮮とも言えるハリがあって……どことなく硬さも感じたり……。
「んぁ? …………Oh…………」
その感触の伝わる部分に目を向けてみると、どうやら白い布地に俺の手は収まっているようだ。布地の内側の膨らみによって隆起した部分にすっぽりと。
しかもそれ以前に、自分だけでは味わえぬ温もりがほぼ全身に伝わってきてもいるらしい。先程からいつも朝起きてすぐに感じるはずの肌寒さを感じないのはそれが影響しているのだろう。
だが、それも当然だったのだ。これらの原因……実態を目の当たりにし、俺は唖然としてしまう。
普段は和服を着用し、就寝時には寝間着としていつも白装束を身に纏っているヒナギさんが、すぐそこにいたのだから。
静かな寝息に少し丸くなったような無防備な姿。長く伸びている黒髪が少し乱れており、エロスな雰囲気が麻薬のように俺の欲望を直接刺激してきてしまう光景である。
「……」
要は俺は今、寝ているヒナギさんの胸に手を当てていたのだ。なんだよこのラブコメ展開は。
女性の胸に触れたことはあれど、こうして自分自身にすら言い逃れの出来ぬ明確な触れ方をしたのは初めての経験であったため、焦りに焦る。まともな思考など出来る訳がなく、グルグルと目まぐるしく思考がぐちゃまぜになって……当然、脳が麻痺して意味不明な脳内妄想を展開するのも無理はなかった。
『フォッフォッフォ、戸惑っているようじゃな? お主の疑問には儂が答えようぞ』
『ろ、老師!? これは一体……!?』
現実にそこにいるわけではないが、ベッドの傍らには髭を生やした俺が、状況判断おぼつかなぬ俺に妙に年寄りな口調で語り掛けてくる。身体は薄っすらと透けていて、俺にしか見えていない存在であるのは間違いないようだ。(当然だが)
自分の妄想だと分かってはいながらも、俺はまんま自問自答を今この場で老師へとぶつけていく。既に分かっていることも含め、全て……。
『この手に伝わる柔らかさは?』
『これは人知を超越した柔らかさを誇る……数値化できない代物じゃ。いちいち語ることもあるまい』
『この温もりは?』
『確かにそこに生きている証じゃよ。悲しき独り身の者が手を伸ばす、作られたまがい物……アダルティーな物とは違う本物じゃ。どうじゃ? 本物の人肌は凄かろう? 温もりを持つからこそこれの価値は爆上がりになり、お前の心拍も爆上がりさせられてしまうんじゃ』
『この手が離れてくれないのは何故なんでしょう?』
『ふむ……一説によると急な事態に脳からの信号が上手くお主の身体に伝達しないからとのことじゃが……気にするな。お主の場合は煩悩と欲望が邪魔しておるだけじゃ、このスケベ』
『最後に……なんでヒナギさんがここに?』
『知るか』
俺の自問自答にここまで僅かばかりの時間付き合ってくれた老師ではあったが、早くも全く興味がなさそうな顔をしてその役目を終えてしまったようだ。見えてはいけないものは、本当に見えなくなってしまう。
……ま、そんなその場凌ぎ程度の老師のことはさておき。
本当になんでヒナギさんがここにいるんですかねぇ? 昨日お休みーって言って確かに別々に寝たはずなんだけど。つーか部屋一緒じゃないから当たり前だ。
昨晩を思い返してみてもヒナギさんと一緒に寝たという記憶はない。そもそも、俺はポポとナナと今日は久々に一緒の部屋で寝ていたはずなのだ。……何故か今はいないみたいだが。
部屋を見渡してみても、いつも感じるポポとナナの姿は見当たらない。ナナは布団の上に寝転がっていたり、布団にもぐっていたり、夢の中で魔法を使って現実でも使ってたりするのですぐに分かるが、部屋に置いてある置物の止まり木にポポの姿すらないとなると……この部屋にはいないということだろう。
感覚を頼りに探ってみると、恐らくセシルさんの部屋に集まっていると思われる。
余談であるが、ポポは基本的に鳥らしい寝方をする方が多く、イーリスの時にアルも含めて身を寄せ合って寝るような事体は非常に珍しかったりする。
あれ? でもそれって普通じゃね? もうよく分かんね。でもナナは普通じゃないのは流石に俺でも分かる。寝ぼけて魔法使うのだけはマジでやめてほしい。
朝起きて天井に氷柱がぶら下がってるのは鳥肌ものだった記憶がある。それに室温も無茶苦茶下がるし、いつか風邪ひきそうで困るんだよな……アレ。純粋な寒さ的な意味でも、他には菌的な意味でも……。
なんにせよ、ポポとナナが俺の部屋にいたというその記憶に間違いはない。昨夜は酒も飲んでいたわけではないし、記憶があやふやになるわけがないのだから。
確証に近い憶測になるが、ポポとナナはヒナギさんが部屋に来たことを察して夜中移動した。もしくは、共謀して今に至るかのどちらかになるのが濃厚だろう。
だって考えてもみて欲しい。万が一、俺とヒナギさんが仮にちょめちょめなことをしようとしたとする。そんな時、第三者の目がある中で決行するだけの度胸が俺にあるだろうか? ……ないない、あるわけないわー。
そんなこと出来る程に度胸あるならこの歳で童貞じゃないし、イーリスの時に手ぇ出しててもおかしくないもの。
ただ、さっきから冷静に状況分析しようとしている雰囲気の中非常に申し訳ないのだが……やはり欲望には勝てない表明をここでさせてもらいたい。
俺の手、まぁ右手だけなんだけど……未だにヒナギさんの胸に触れたままなんです、グスン。凄く……温かいッス。
これは手がどうしても離れてくれないから離せないだけであって、俺はすぐにでも離したいのだが……中々難しくて。誰か俺を助けてくれ、殴ってくれても今は構わない。
俺のふしだらな素行はともかくとして、寝ている間に結構ピンポイントで胸を触ってる俺の手ってどんだけ執念深いまでの欲に塗れてたんでしょうか? ハハッ、これは流石にギルティーですわ。
でもさ、こんな俺だけどギルティーじゃないジャスティーな部分もあることを一応お伝えしたい。
最初は無意識に……というか仕方なく揉んだりしてしまったわけだけど、今は触れているだけで揉んだりはしてないんです。これ、マジだからね? これがどれだけ凄いことか分かりますか?
――ま、分かるハズないですよねぇ? スケベ上級者の私にもまだ完全に分かり切っていないアンヌゥーンな部分ですし。
自画自賛するわけじゃないが、やはり俺の精神力って無駄なところで凄いと思うんですよ。この状態をキープするのがどれだけ辛いか……分かる奴はそういないに違いない。
すぐにでも揉めるこの状況でそれをしない。今脳から命令されてる揉めという指令を、ベクトルの違う俺の欲望が阻害してる感じです。言うなれば、揉めばそれで満足してしまうところを、あえて揉まないことでお預けを食らったような状態を維持するという超高等テクニックを実演してる最中なわけです。
これが理解できた人……アンタは凄い(変態という意味で)。
「「……」」
安らかに眠るヒナギさんを慈しむ眼で見ている私ことカミシロさん。彼は愛する人が隣にいる事実に胸が暖かくなった。そんな彼の右手は……愛する者の胸に真っすぐ伸びている。
あれま、すげぇ台無しじゃないですかヤダなー。最後の言葉一つでここまで酷くなるなんて……言葉って奥が深いですね。
ある意味超上級者なのかもしれないけど、まぁさっさと手ぇ離せよって話ですよねー。
都合の良い変態こそ俺の正義。そしてヴァルダの変態性は無意味に悪だ。くだらん御託を並べて時間稼ぎをしてるだけなのは図々しいのかもだけども……おっと口が滑った。け、けけけ決してそんなこと思ってなんてないんだからね!?
それにしても、流石ヒナギさんだ。『鉄壁』の二つ名は伊達じゃないなと心底思う。
というのも、寝ている時というのは普段はしっかりした人であっても少なからず無防備になるがために、普段の姿からは想像もつかないあられのない姿を俺はぶっちゃけ期待していたのだ。しかし、ヒナギさんを見るとどうだろうか? しっかりした……とまでは言えないものの、服は正常に着ている範疇に留まる程度の乱れしか見せないのは残念極まるところである。
こういうシチュエーションでは服がはだけてて胸チラチャンス到来が定石だというのに……ちっ、くそぅ。中々見えん。アンリさんの時のようにはいかぬのか……!
ただそこで寝ているだけで神聖な雰囲気を振りまいているヒナギさんの横で、欲望に塗れた俺の雰囲気が密かに唸り、対立する。
非常にゲスいが、いっそのこと胸をはだけさせるという暴挙に出ようかという考えが脳裏をよぎるが……だがしかし! 急がば周れという言葉があるように、今は無闇に動くべき時ではない。今は辛抱強く耐え、ヒナギさんの無意識の警戒が更に薄らぐ時を待つのだ。
早く動きたいと思う時こそ、焦らず、敢えてゆっくりと冷静に落ち着く……そんな心の余裕が大切なのです。だからここで待てない人は恐らく早漏の人なんでしょう。
目先の利益ばかりを狙っていては、最終目標である最奥のポッチに届きはしないのだから。
胸チラだけで終わりと思った? いやいや、んなわけないっしょ。俺の欲深さ舐めんな。
ビッグチャンスは不意にやってくると言われているが、ビッグチャンスを自分から作ってみせようではないか。そのために今は待つ、stay一択だ。
人間一度良い思いをすると、もっと欲を抱くというものよ。人の底知れぬ欲望の一端を知った気分になりますなぁ。
「うぅん……」
あれこれと画策していると、ヒナギさんの中々にエロい声が漏れる。普段は綺麗な声に聞こえるはずの声も、寝ているせいでイントネーションが少し変わって印象がガラリと変わっている。
おっと、俺としたことが危機察知能力が疎かになっていたみたいで危なかったな……ふぅ、ちと油断したぜぃ。
だがまぁ、何年俺が変態やってると思ってんだ。警戒態勢は常にトップギア、スーパームッツリチキンな俺ですぜ? そんな俺が目論見がバレるかもしれない重大ミスなんぞ犯すわけなかろう! HAHAHA――!
「ぇ……?」
「……は?」
勝ち誇ったように笑みを浮かべたくなったところで、少し大きく身じろぎしたヒナギさんの方に目を向ける。
すると女神様は既にお目覚めになっていて固まっておられるではないですか。うわぁ~んどうしましょー誰か教えてくださ~い(泣)。
ヒナギさんはさっきの俺同様状況がまだ呑み込めず、硬直しているようだった。
背筋に嫌な汗が再度滲む。これまで何度味わってはいても、この焦りを表に出さないようにするのは無理がすぎる。
ヤバい状況に陥ったのは間違いない。どうやって切り抜ける、俺……!?
今話が前編、次話が後編です。その後ようやく話が進むかと……。
次回更新は3日後、火曜です。早く出来上がれば月曜に投稿しちゃいます。




