253話 『宴』:ヒナギ③
「カミシロ様……」
「っ……!」
身に覚えた衝撃に、身体は硬直して解けてはくれない。ヒナギさんは熱っぽい視線を俺へと向けてきており、俺はそれを一心に受け止めることしかできない。
でも……ちょ、ちょっと待って、何でこんな空気になってんの? そもそも俺達が今していることは何だ? ……そうだよ、逃走中ですよ。想いを確かめ合う愛の逃避行中とかでは断じてない。
落ち着け餅つけ腰つけ俺。いや、餅はつきたいけど腰をついてる暇はない。ならば算数で一度平常心を取り戻そう。
1+1は2、2+2は4、3+3はサンタさん。よし、いつも通り平常運転、脳内感度はバッチグー。
奇想天外それが俺。うんうん……大丈夫だ、問題しかない。
ならやることは一つじゃないか! さっさと逃げよう、そうしよう。群衆から、そしてこの空気から逃げましょう、そうしましょう。
ヘイ! カモン信者達。今俺達棒立ちしてるんで、早く怒号でもなんでもいいからこの金縛りの力を持った空気を破壊しておくれ。
逃げねばならないのに来てほしい、来て欲しいのに逃げてしまいたい。そんな矛盾した要求を心で俺は訴える。
とても……この空気の中に居続けるだけの余裕は俺にはなかったのだ。俺は一応はヒナギさんに対するそれだけの覚悟を持ったとはいえ、まだまだ身体と心がついていけてはいない。アンリさんの時の余裕な振る舞いは一体何処に行ったのかと疑問に思いたくなるほど、俺はヒナギさんに対してこの一時は余裕ではいられなかった。
やはり他力本願、俺は自分の力で動けない。なんて情けない奴なんでしょうね?
毎度毎度周りのものを利用してその場から逃げる……それが俺の悪い癖と言ってもいいかもしれない。
「――追いついたぞ!」
「キャー! ヒッナギッ様~!」
俺の願い、いやむしろ当然なのだが、背後から俺達へと標的を定めている群衆が近づいてきて声を張り上げた。
よし来た……これはチャンスだ――!
「ヒナギさん! 走りますよ!」
「っ、は、はい!」
また再び、ヒナギさんの手を引いて走り出した。熱っぽい瞳をしていたヒナギさんは若干反応が遅れていたが、すぐさま意識を戻して状況を理解したようだ。後れを取ることなく足を動かす。
要は俺は、自発的に動けないチキンって奴だ。何かに便乗する形で動く小心者と言えばよいか。
ただ、動けてしまえばこっちのものだ。今さっきは動き出す口実が必要だっただけで、この逃走劇にもう付き合うつもりはない。さっさとヒナギさんを連れてこの場から強制的に離脱するに限る。
「ヒナギさん、ちょっと失礼します!」
「えっ!? か、カミシロ様何を……ひゃっ! ちょっ――!?」
「掴まってて……!」
「っ――!?」
俺は引いていたヒナギさんの手を自分へとより強く引き寄せ、ヒナギさんを抱き寄せる。そしてすぐさまヒナギさんの首下から肩にかけてを右手で抱え込み、左手で両膝の裏を掬い上げた。
――所謂、お姫様抱っこと呼ばれるやつだ。
地上には安息な場所など最早ない。それならば前人未踏の空へと逃げてしまえばいい。
『エアブロック』を発動し、思い切り俺は地を蹴った。階段を昇るように少しずつ、だがそれでいて小気味良い速度で空を昇り、地上から離れていく。
「それは反則でしょう!?」
「ほ、本部! ヒナギ様が空に連れ去られました、これ以上追えません!」
『なんだとぉっ!?』
先陣を切っていた信者達が揃って後ろで悲痛な声をあげているが、これで撒けたことだろう。
空に来れる奴はそういない。万が一『エアブロック』の発動を見抜いて追いすがろうものなら、不可視の足場に恐怖を抱きつつ、更には俺がいつ足場を消すかも分からぬ状況へと身を投じることになるのだから。流石にそこまで猪突猛進ではないと思いたい。
『くっ……仕方ない。全員一旦帰還しろ、体勢を立て直す』
「「「了解!」」」
「「……」」
下から信者達と通信による声が小さくだがハッキリと聞こえてくる。
猪突猛進ではないようであるが、未だ冷め止まぬ信者魂は健在であるらしい。今後も警戒は必要になること必至なのは確かだ。
まぁ、少なくともようやく戦線は離脱できたと見てよいと思われる。でも、念のために警戒区域外まで逃げておくことにしよう。
なんというか……信者達とは今は物理的に距離を置きたい。近くにいたら何かの拍子に手を上げそうになりそうで怖いし(俺が)。
「……もう少し高い所でゆっくりしましょうか」
ある程度の高さまで昇りつめた所で足を止めて下を見下ろしていた俺は、信者達のしぶとさに呆れながらヒナギさんへとそう伝える。お姫様抱っこの影響で顔が更に赤く、そして近くなったヒナギさんは非常に俺の欲をそそり、見惚れてしまうくらいに綺麗だった。
「へっ? あ、あのでもまずはその……お、降ろしていただけます、か……?」
ヒナギさんと俺は、また目が合った。しかしヒナギさんは気恥ずかしそうに視線を逸らしてしまい、どこか明後日の方を向いてしまう。そしてまずは下ろして欲しいと、まごまごしながら要求してくるのだった。ただ、その手は俺の胸部分の服を掴んだままだ。
当然――。
「嫌です」
「……え?」
ヒナギさんの要求を俺は拒否した。ヒナギさんは期待外れな返答に面食らったように反応が遅れ、ピタッと一瞬固まる。目だけが何度も瞬きし、それ以外は一切行動らしい行動をしていない。
先程味わった恥ずかしみと情けなさはまだ内に残っている。だが、いくら恥ずかしかろうと、例え情けなかろうと、俺は今この行動をしてみたいししてあげたい気持ちがあった。
今俺がお姫様抱っこをしたことで感じているこの恥ずかしさは自身の情けなさからくる恥ずかしさではない、照れによる恥ずかしさである。それならば……いくらでも耐えられる。ヒナギさんも今同様のものを感じているはずだ。
だからか、ヒナギさんは俺がやることなら嬉しく思ってくれるし許してくれるはずだと……その確信しかなかった。
そして今ヒナギさんが俺の服を掴んだままでいること、これはヒナギさんの真の欲求の表れなのだと俺は捉える。
「もう周りには誰もいません。遠慮しなくて……いいんですよ?」
「ぁ……」
服を掴んでくる手の力が、一瞬緩まったかと思いきや更に強まった。明後日を向いていたヒナギさんの顔はいつの間にか俺に向き直っており、期待を込めた眼差しが奥に光っている。
普段要求らしい要求のないヒナギさんにも、まず間違いなく俺が先程感じた欲求があるはずだ。そしてそれは、俺以上の感情を向けてくれていたヒナギさんならばもっと大きく、そして抑えがたい欲求となっていると思われる。
なら俺は……それを今理解してあげるべきだ。俺なんかを愛してくれている人を目一杯甘えさせて、普段吐き出せない気持ちを全て受け止めてあげるべきだ。今この時が、丁度良い機会である。
「いつも……それとさっきもですけど、我慢ばかりさせてゴメンなさい。『宴』を楽しんだりはできないかもしれないけど、今なら2人きりで一緒にいることは出来ますから……」
「カミシロ、様……」
「あ、ヒナギさん律儀なんで言っておきますけど、あの約束にカウントしなくていいですからね? というか、これから先もカウントなんて要りません。何度だって二人きりになりたいのは……俺も一緒だから」
この前2人で交わした約束事、それに一応念を刺しておく。ヒナギさんなら冷静になった後で、きっとそう考えそうな気がしたためである。正直俺も今冷静かと言われたら、自身が無いのが実情なのだから。
でも案外、空に逃げ込んだのは功を成したと言ってもいいのかもしれない。
ヒナギさんは何も答えなかったが、表情で何を考えているのかはこちらへしっかりと伝わってくる。そのまま続けて俺は話した。
「ヒナギさんの気持ちの大きさを俺は今さっきまで分かってなかった。――だから、ちゃんと向き合います。それに応えることとして、今は目一杯ヒナギさんに甘えて貰いたい」
「っ――!」
これで今までの自分の行いを帳消しにしたつもりは微塵もない。俺はただ、ヒナギさんのしたいことを汲み取って、それを俺が促してあげたいのだ。
ヒナギさんは奥手で遠慮がちな性格なのは多分これから先変わらないだろう。それならば、俺が引っ張ってあげるしかない。
ヒナギさんは俺にこれ以上ないくらいの想いを示してくれた。なら俺は何ができるというのか? ……その答えの一つとして、まずはヒナギさんの手を引いてあげられる奴に俺はなりたい。
そう言えば、一緒に調査に出かけた時も周りから言われて二人きりになったんだっけか……。
なら、今日という日は俺にとって大切な日になりそうだ。
「……っ!」
「……」
――そして、すぐに大切な日になることが確定した。
ヒナギさんが気持ちを抑えきれなくなったのか、それとも俺の要求に応えてくれたのかは分からない。……まぁ別にそんなことはどうでもいいのだ、というかどちらも同じことである。
ヒナギさんは猫のように媚びる、或いはそれに近い小動物のようなじゃれつきを俺に見せ、胸部分を掴んでいた手で身体を手繰り寄せて密着を強めたかと思うと、目を閉じてグリグリと頭を押し付けてきた。『安心の園』の抱擁の時よりも激しく。
これは、間違いなく甘えだった。
恋人になったばかりのあの日、その当時もうこうして胸に顔を埋めるようなことはあった。だが甘えるというよりかは、気持ちを確かめるといった具合だった気がする。でも今は想いも通じ合っている中でのことなわけで、これが甘えというやつなのだと思う。
これが……ヒナギさんの甘え。
「少し、このままでいさせてください……」
「(っ――!?)……はい」
これを裏付けることとして、今までに聞いたこともないヒナギさんの声を俺は間近で聞いた。
アンリさんとはまた違った、大人の魅力満載の甘え声だ。また、ドクン――と、身体が胎動した。
こ、こいつぁヤバいぜ……。これをギャップと言うんでしょうかね? そしてそれを見せてくれるのが俺だけにっていうのがまたエグイ。
満たされていく独占欲に、心を占拠していた嫉妬の感情は知らず知らずのうちに俺の心の何処かへと消え去っていた。
あれこれ複雑に考えながら、俺は場所を移したのだった。
◆◆◆
「――と、こんなことがありまして……」
「そうだったんですか……」
場所を移し終えた俺達は、更に高い高度でオルヴェイラス全体を見渡しつつ、『エアブロック』で作った足場に腰掛けて並ぶ形で会話をしていた。一見すると足場がそもそも見えないのであり得ないホラーみたいな光景なのだが、よく目を凝らしたとしても肉眼ではまともに見えない高度なので問題ないだろう。
今の状況はかつてグランドルでヒナギさんから叱咤を受けた上空での出来事を彷彿とさせるものの、当時とは全く異なるシチュエーションだ。気分は明るいし、そんな空気にもなりそうになかった。
そして実に快適である。上空ともなると流石に風が強いことが懸念される。個人的には風に晒されるのは別にいいのだが、雰囲気的に今回それは要らない要素だと考えて徹底的に排除してみた。様々な魔法を駆使して快適な空間を追求した結果、地上にいる時よりも快適な空間を作り上げることに成功した具合である。一応、イーリス特有のあの清涼な匂いが薄まってしまっているのは仕方がないが、あれもあったら最早完璧とさえ言っても過言ではないだろう。
……まぁ、それはさておき。
「あの人達どうしてくれましょうかねぇ……」
一通り、ヒナギさんが何故追われていて、そしてイベントを逃げ出したのかについての経緯を聞き終えたわけだが……そりゃ逃げるわと俺は言いたくなった。
というのも――。
『ヒナギ様! 俺頑張りましたよ! だからご褒美ください!』
『へ? ご褒美?』
『言ってたじゃないですか、あの日……頑張った人にはご褒美くれるって』
『あ、あれはそういう意味で言ったんじゃ……』
『え?』
『え?』
『……えっと、その……ちょっと席を外させて頂きますね!?』
『あっ、ちょっとどこ行くんですか!? ヒナギ様!』
――とのことらしい。
要は握手してたらそれだけじゃ満足できなくなっていって、信者達がエスカレートしたようだ。ヒナギさんならなんでも言うことを聞いてくれる……そう思ったのだろう。
なんでもオルヴェイラス防衛戦の時、ヒナギさんが頑張った人にはご褒美をあげる的な発言をしてしまった事実もあったらしく、それを真に受けた信者達が今回事を起こしてしまった……というのが聞いて分かった事実である。
勿論、ご褒美についてをヒナギさんが持ち前の天然さを発揮して言ってしまったなら一考の余地はあるのかもしれないが、これを進言したのがあのアホだというからもう仕方ない。
親として、子が招いた罪は俺がその尻拭いをするしかあるまい。
ナナへの対応はまぁ当然の如く死刑として、それ以前に信者達は神経図太く身勝手な奴が多いことに俺はビックリだ。どんなご褒美をご所望なのか知らんが、ヒナギさんは俺の彼女さんなんですよ? 何彼氏差し置いてこんな事態に発展させてんのさ。それなら俺だってご褒美欲しいっての。
一応あの熱線防いだの俺だしー? ナナの活躍は俺の手柄だしー? 飛行船消したのも多分俺(未来の)だしー? 俺にも当然ご褒美受け取るだけの功績ってあると思うんだけどなー、あなたたちよりも。
だからそういうわけでぇ……謙虚な俺はヒナギさんを独占して甘えて甘えられてまったりとデレデレな時間を過ごすのをご所望します。そして今がその時間なわけです。
君達信者にこれができるというのかね? まずできないでしょうね……だって俺みたいに全然謙虚じゃないもの。
……コホン、さて冗談も程々に。
つまり結論を言うと、ヒナギさんはイベントでそれまで感じていた窮屈さ、それと不穏な空気を感じ取って流石にその場から逃げ出す決意をしたそうな。
だからなんですかね? 満員電車並みに今ヒナギさんとの距離が近い……というか腕組みされてしまっている状況です、今。遠慮のないヒナギさんの大胆さに、俺の胸はさっきから高鳴ってばかりだ。会話は続けられるとはいえ、身体は素直に反応してしまっていて到底隠しきれるものではなかった。多分ヒナギさんには既にバレていると思う。
でも、それは向こうも同じだ。ヒナギさんの体温が高いこと、そして腕に伝わってくる心臓の鼓動の速さと大きさが、俺と似たような状態だということを物語っている。
それが分かっているから気分的にはお互い様である感覚になっていて、むしろその状態が続いて欲しいと思える程だったので、この高鳴りは心地良かった。
……あ、言うまでもないけど胸は当然の如く腕に当たってたりします。なんというか、こう……挟み込まれる的な? さらし巻いてなかったら埋まってるんじゃないかって思えるくらいの重量感と張りに脳天が爆発しそうになる衝撃を覚えましたよ。
物理的に心地良いのも確かだけど、ひ、ヒナギさんも分かっててやってるからいいよね? ね?
俺、悪くない。そういう風に人を作った神が悪い。
「あの、あまり事は荒げない方がいいと思います。多分、あの方々も悪気があったわけではないでしょうし……」
「いや、確かにそうかもしれないですけど、納得はできないというか……」
「フフ……」
ヒナギさんが、信者達に敵意を示す俺を嗜める。優しいヒナギさんここに極まれりというもので、最近の若者が仲直りを知らないことを知らないかの如く、許してあげて欲しいと慈悲深い言葉が投げかけられた。
ただし、その慈悲深さも今の俺には通じないけどn――。
「それに、これからはカミシロ様が……私を独り占めしてくださいますよね?」
「あ、ハイ」
「フフ、それなら……それでいいのではないでしょうか?」
……通じちゃったわー。
下から覗きこむように上目遣いをされ、ヒナギさんはお願いと言う名の命令を俺へとしてくるのだった。
重力に従って垂れ下がった髪の毛を指に引っ掛けて耳へと掛け直す動作が生々しく、命令を強調させてきているようにさえ見えた。
妖艶な笑みと甘え声、この二つで言われてしまったらどうしろと? 受け入れる以外に道はあるというのか……否! 始めから受け入れない道などなかった……そうだろう?
あ~なんかどうでもよくなってきちゃった。信者達のことなんて眼中から消し去ってヒナギさんだけ見てればいい気になってくる。
言葉と視線と感触の3つ、それら全てに篭絡されてしまってフワフワした気持ちになり、俺の頭が不埒なことを考え始めた矢先だった――。
「あ……こうの方が良い、ですか?」
「あぁ、それいいです…………」
腕に伝わっていた感触が、形を変えた。次々と変わっていく感触は全てが魅惑的であり、一生あり得ないんじゃないかと思っていた体験でもあったために、俺はその事実にしっかりと気が付くのが遅れていた。
ほへぇ~気持ちえぇ…………え?
「……ってえぇっ!? あ、今のナシ! 聞かなかったことにしてくださいっ!?」
俺の脳内は覗かれでもしているんだろうか? ヒナギさんは俺の思考のふしだらなさを読み取ったように、胸の押し付け方を変えて来たのである。
ぐにゃりと形を変えたのが分かる胸の感触と形に、一気に焦りと興奮を覚えてしまう。
幻滅される……そう思ってすぐさまあまり意味のなさそうな弁明をすると――。
「フフフ……カミシロ様可愛い」
ヒナギさんの恍惚した顔が、俺の目に飛び込んできたのだった。
次回更新は木曜です。
ヒナギの話は次回で終わります。




