前世の私は稀代の悪女?
「愛していますよ、私のベル」
「ベルナデッド、今度こそお前を放さない」
「やっと見つけた……僕のリトルレディ」
誰だそれ。
そう言いたい気持ちを抑え、私はにこりと微笑んで首を傾げた。
「誰かとお間違えでは?」
そもそも私は、ベルでも、ベルナデッドでも、リトルレディなんてこっ恥ずかしい呼び名でもない。
そそくさと逃げようとする私の手を、3人の手ががっしりと掴んだ。
「間違えるわけがありません」
「誰が間違えるか」
「間違えてなんて、ないよ?」
ーーーいや、間違いですって!!!
*****
私の名前はセシリア・グレイフォード。父は伯爵位を賜っており、国の南東に領地を持つ。グレイフォード伯爵家が古くから治めるその地で、伯爵家第二子にして長女として生まれた私は、幼い頃から異端とされていた。
「私の可愛い小さなシシー。貴方は前世、どこのお嬢様だったのかしら?」
その発端はというと、物心ついた時に母から発せられたこの質問。これに、私はうまく答えられなかったのだ。
前世? なにそれ? どこにあるの?
そうのたまった私に、母は驚愕。慌てて呼ばれてきた父も青褪め、遅れてやってきた5つ年上の兄も呆然。侍従や侍女もまた然り。
その反応で、ようやく私は自分の方がおかしいことに気づいたのだ。
その後に皆から聞かされた話で、この世界、エフゲニアの人々は皆、前世の記憶を持って生まれてくるのだと知った。物心つく頃を始めとして、自分が男だったか女だったか、どんな人物だったか、というところから徐々に思い出していき、成人するときには前世の記憶を多方把握しているようになるらしい。前世をはっきりと覚えている人もいれば、ぼんやりとしか覚えていない人もいるけれど、濃かれ薄かれ、皆が記憶を持っているのだと。
そんな世界で、私は殆ど前例のない、異端児だった。
記憶を持たない私からすれば、前世の記憶があるのによく現世の自分を維持できるな、と不思議でならない。しかし、大体の人は前世の自分を『いつか存在した、もう1人の自分』や『1番の理解者』などとして自分の中で消化し、上手く付き合っているのだと。よくそんな器用なことができるな。
もちろん、前世の伴侶が同じ時代に生まれ変わっていることだって存在する。そんな彼らがまた互いに惹かれあい、人生を共にするのかというと、答えは否だ。私はそれを、幼なじみの行動によってよく理解した。
領地が近いために幼なじみとして育ってきた、フランツ・シュルナー男爵子息は、10代始めに前世の妻と再開した。いつものように遊びに来たフランツが見知らぬ年上の女性(それもどう見ても一回り以上年上)を連れてきたと思えば、「この人が僕の妻だよ、前世の」と言われた私の衝撃といったらない。びっくりして後ろに転け、頭をうち、気を失い、侍女たちを大騒ぎさせた。
目を覚まし、傍で様子をうかがっていたフランツにさっきの女性は誰だ、婚約するのかと尋ねたところ、奴はけろっとしてこう答えたのだ。
「まさか。だって彼女はもう結婚してるし、僕も他に好きな子がいるもの」
ぐわん、と鈍器で頭を殴られたかのような衝撃だった。
仮にも前世で愛を誓い合っただろう妻、あれこれ情を交わしたであろう妻(前世の記憶があるため、この世界の人々は皆早熟だ。そんな中にいたら、記憶のない私だって耳年増になるというもの)。
その妻と再開しても何ともないのか、この世界の人々は!
私がもし前世の旦那様を思い出して、その人にすでに愛する奥様がいたら、なんとなくもやもやするだろうと思うのに。
もちろん、前世の夫婦が現世でも夫婦になることもある。だが、そんなに確率としては高くないのだと。
あくまでも前世の自分は、『いつか存在した、もう1人の自分』や『1番の理解者』であり、今の自分とは関係がないのだ。
前世の記憶がない私には、そういった存在がいない。いないから、時々皆の会話についていけない。
それを時々悲しみもしたけれど、10代になるころには吹っ切れていた。前世の自分をすんなり受け入れるような人たちだから、異端児の私も「そんな人もいるんだねぇ」と殆どが軽く受け入れてくれたおかげでもある。
けれどやっぱり、初対面の挨拶は「あなたの前世は?」なので、その度に驚かれるのには少し、ちょっとだけ、僅かだけどーーーやっぱり、落ち込む。
そういった理由で、私はほとんど社交界にも出ずに領地に引き篭っていた。断じて、人付き合いがめんどくさいとか、遠くに行くのが疲れるとか、人混みが嫌だとか、そんな理由でない。うん、違う違う。
そんな私も、とうとう社交界のデビューを迎えてしまった。王都のタウンハウスまで来ておきながら、行きたくない行きたくないとごねる私を、母厳選の侍女たちーーーつまり、私を甘やかさない侍女たちーーーが裸に向き、全身磨き上げ、内臓が出るくらいに腰を締め、ドレスをかぶせ、髪を引っ掴み引っ張り結い上げ、顔に粉を叩いて、あれよあれよという間に馬車に詰め込んだ。向かいには、エスコートをしてくれる兄と、鬼の形相の母。ギリギリもギリギリまで社交界に出るのを拒んでいた私に、母の怒りのメーターは振りきれる寸前だ。扇で隠したその口元、絶対笑っていませんよね、お母様。怖い。
そんなこんなで逃亡を諦めた私は、王城へ向けて大人しく馬車に揺られていった。勝てない戦はしない主義である。
果たして到着した王城は、記憶の中よりもきらびやかだった。今回の舞踏会は王妃様主催の大規模なものである。デビューするにはぴったりだと母も喜んでいたけれど、実は私にとっても喜ばしい。こんなに人が多ければ、きっと私なんて目立たないはず。よし、人に埋もれてこよう。壁の花どころか壁の模様の一部にでもなっていよう。
いざ出陣、と兄にエスコートされて入城した。やはり最初はグレイフォード伯爵令嬢のデビューとあって、良くして頂いている貴族の方や、その知り合いの方々に声をかけられることもあった。
初対面の方にはお決まりの前世を聞かれ、その度に驚かれたけど、笑っていなす。中には哀れみの目を向けてくる人もいたけれど、「前世は無くとも、優しい父母や兄、使用人や領民たちに恵まれて、わたくし、誰よりも幸せだと思っておりますの」と微笑んでおけば、なんと健気なと好感度アップだ。
どうだ、こちとら前世ない歴16年だぞ、舐めないでもらおう。
義務として数曲を踊った後は、優良物件としてご令嬢に囲まれる兄からそそくさと逃げ、予定通り壁際へと逃げる。実の兄は、身内の欲目を抜きにしても、顔が整っている。おまけに伯爵家嫡男、婚約者なし。誘蛾灯に誘われる蛾のように、お相手探しに目をぎらつかせたご令嬢も寄ってくるというものだ。兄よ、頑張れ。
壁際でちびりちびりとグラスを煽りながら、会場を眺める。兄の他にもご令嬢の山が、後4つ5つほどできているのが見受けられた。あの中心にいるのは誰だろう。そう思っていると、傍で休憩を始めたご令嬢たちからタイミング良く情報を得ることができた。
「ねぇ、あそこをご覧になって。先ほどわたくし、あのアミルカーレ様と踊っていただけたの。もう、この手袋はずっと抱いて眠るわ」
「あちらにはクロード様がいらっしゃったわ。アズナヴール公爵ともお話出来ましたし、クロード様にも微笑んでいただけたと思うの。わたくし、もうだめ、天にも昇れそうよ」
「天といえば、あちらにいらっしゃるリオネル様よ。今夜も天使の様に麗しくいらっしゃって、あの方の周りだけまるで別世界のようだったわ」
ご令嬢たちのはしゃぎようからして、この3名が今夜の目玉といったところか。いくら社交界に疎い私でも耳にしたことのある方々だ。
アミルカーレ・ベルマディ伯爵子息。
クロード・アズナヴール公爵子息。
リオネル・クレティエ侯爵子息。
3人とも由緒ある家柄のご子息であるにも関わらず、婚約者がいないと聞く。これは優良物件だ。まぁ、私には関係ないけれど。私は領地を出る気はないし、穏やかな人と穏やかな家庭を築くのだ。あくまで予定だが。
未だきゃあきゃあとはしゃぐご令嬢方の隣で、尚も話に耳を傾ける。ご令嬢方も、前世の記憶がお有りだろうに、よくもまぁ現世でこうもはしゃげるものだ。前世に旦那様はいなかったのだろうか。
なんて、ぼんやりしていたのがいけなかったのか。ご令嬢方とは反対側から誰かがぶつかってきて、その反動でグラスに入っていたジュースがこぼれ、私のドレスを染めた。
「きゃっ」
「これはこれは……! レディ、大変失礼を致しました。素敵なお召し物が、このような有り様に……なんとお詫びすれば良いのでしょう」
ぶつかってきた男性が私に頭を下げる。内心は、白いドレスに! 赤いジュースが! どうしようお母様に殺される! と穏やかではなかったけれど、男性があまりにも申し訳無さそうに眉を下げるので、慌てて微笑んで見せた。
「お気になさらないで。まるで白いキャンパスに、赤い花が咲いたかのよう。世界に1つの素敵なドレスになったと思われません?」
にっこり、男性の目を見て微笑んだ途端。
この場の空気が、一瞬固まった。
それは本当に一瞬だったため、皆が皆、何かおかしいと思ったようだけれど、すぐに元のざわめきが戻ってきた。目の前の男性も何か異変は感じたようだけれど、少し首を傾げた後、何事もなかったかのように朗らかに私に話しかけてきた。
「なんともお優しい。このような素敵なレディと言葉を交わせた今夜は、私の記念すべき夜となるでしょう」
「まぁ、お上手ですこと」
「しかし、いかに素敵なドレスといえども、そのままにはしておけません。さぁ、どうぞこちらへ。代わりの物を用意させます」
男性との距離が近づいたかと思うと、するりと腰に手が回される。
あれ、これは何かがおかしい。
「いえ、本当にお気になさらず」
「そうはいきません。私の気が済みませんので、どうか哀れな男に弁解する機会を頂けませんか」
言いながら、男性が私の腰を掴んだまま誘導していく。だめだ、これはだめな展開だ。
こんな時に兄は、と思ったけれど、遠くでご令嬢に囲まれているのが見えた。あの兄、使えない!
どうしようどうしよう、とぐるぐる考えているものの、会場に背中を向けて今にも連れだされそうだ。どうしよう、どう逃げよう。急所を蹴り上げるのはさすがにまずいし、他の方法でーーーなんて、反撃の仕方を考えている私の背後で、ご令嬢たちの悲鳴が上がった。その声に男性の足が一瞬止まる。何が起きたのかと会場を振り返った。
これは好機! と足を振り上げようとした私の肩に、優しく誰かの手が触れる。
誰かの手が、触れる?
そのままくるりと反転させられ、私は大きく目を見開いた。
そこにはなんと、先ほどまでぼんやり話を聞いていた男性が、3人とも揃っていたのだ。
「やっと見つけた」
そういって私を見つめるのは、クロード・アズナヴール様。
「さっきの言葉を聞いた時、まるで雷に打たれたかのようでしたよ。まさかあなたがここにいるなんて」
うっとりと呟くのは、アミルカーレ・ベルマディ様。
「探してた……ようやく、見つけた……」
泣きそうな顔で微笑んでいるのは、リオネル・クレティエ様。
見つけた?
探してた?
誰を?
ーーー私を?
「愛していますよ、私のベル」
「ベルナデッド、今度こそお前を放さない」
「やっと見つけた……僕のリトルレディ」
誰だそれ。
そう言いたい気持ちを抑え、私はにこりと微笑んで首を傾げた。
「誰かとお間違えでは?」
そもそも私は、ベルでも、ベルナデッドでも、リトルレディなんてこっ恥ずかしい呼び名でもない。
そそくさと逃げようとする私の手を、3人の手ががっしりと掴んだ。
「間違えるわけがありません」
「誰が間違えるか」
「間違えてなんて、ないよ?」
ーーーいや、間違いですって!!!
そう叫ばなかった自分を褒めてやりたい。なんだ、この展開は!
この3人とは、誓って今日が初対面のはずである。優良物件の3人が私に甘い言葉を吐き、あたかも知り合いかのように話しかけてきたせいで、ご令嬢の何人かは失神しそうだ。広間は未だざわめきが収まらない。
そんな中、誰かがこう呟いた。
「あの御三方がいまだ婚約者を決めていらっしゃらないのって、同じ理由ではなかったかしら……?」
それとこれと、何の関係が? と思ったのは私だけのようで、ほんの一言の小さな呟きは、瞬く間に大きな波となっていった。
「そうよ、アミルカーレ様も、クロード様も、リオネル様も、前世の記憶をはっきり持っていらして」
「前世から求めている女性を、現世でも探していらっしゃるって話」
「確か、3人が探しているのは同じ女性で」
「その女性って、確か……様々な男を欲しいままにしたにも関わらず、独身のまま生涯を終えたという」
「稀代の悪女、ベルナデッド・シャンテュール」
稀代の悪女?
ベルナデッド・シャンテュール?
誰が?
ーーー私が!?
呆然とする私の手に、3人が3人とも、優しく唇を落とした。途端、ご令嬢たちから地を揺るがすほどの悲鳴があがる。鼓膜がやぶれそう!
自分の前世を知る人に出会えたと思ったら、こんな展開ですか?
私が何をしたっていうんです?
ああ、稀代の悪女か。なんだ稀代の悪女って。もういっそ笑えてくる。
自分に向けられる3人の熱い視線と、ご令嬢たちの人が殺せそうな視線から逃れたくて、私は現実を逃避した。ふふふ、ふふふ、と遠い目をして笑う明らかに不気味な私ですら、3人は愛しい者を見るように見つめてくる。やめてこっちみないで。
ああ、もう、どうなるんだろう、これからの私の現世。
こんなことなら、前世を知らないままで良かったわ!
ーーーこれは伯爵令嬢セシリア・グレイフォードが、稀代の悪女、ベルナデッド・シャンテュールという前世の名前を得た、ある夜のこと。