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2、嵐の森で

春の嵐の中、青子は警官2人とともに桜の森に入った。そこはかつて青子が幼い頃に、1度だけ、入ったことのある森だった。森を歩いているうちに、青子は穴の中に、人が倒れていたことを思い出す。その場所に行ってみると、その穴の中に、弟が倒れていた。周囲は血で真っ赤に染まっていた。

2、嵐の森で


 次の日は朝から暴風雨だった。私たちは合羽を着ると、門の前に停めてあったパトカーに乗り込み、坂を下った。麓でパトカーを降りると、立ち入り禁止の柵に向かって歩いた。

 村人が数人、遠くから私たちを眺めていた。知った顔もあるはずだが、当時子供だった私には、大人の顔の記憶があまりない。見物人のほとんどは老人だった。


その中に一人、黒い合羽を着ている、30代くらいの男がいた。


 風に煽られて、立ち入り禁止の看板が、柵にぶつかって揺れていた。私は重い鉄格子の扉を開けた。ここにも鍵はかかっていない。扉の奥に、痩せた雑木林が広がった。私たちは細い踏み分け道を歩き始めた。しばらく歩くと、桜の森が見えてきた。

満開の桜が強風にしなり、波打っていた。

 私たちは桜の森の中を進んだ。風にあおられた枝が行く手を阻む。小枝が頬に当たると、濡れた花びらが落ちてくる。1列の桜並木を通り過ぎると、また1列の桜並木が現れる。何列も何列も、桜並木が果てしなく続いている。どの列も同じようでいて、少しずつ違う。既視感のような奇妙な感覚が、船酔いのように押し寄せてきた。

 もうすぐ、桜並木の端に、赤い小さな鳥居が見える。何だか、そんな気がした。ふと、左端を見ると、人が這ってやっとくぐれる程の、小さな鳥居があった。

 「思い出したわ。私、この森に来たことがあります。ずっと幼い頃に。」

 私はつぶやいた。

 「もうすぐ、研究所の建物があるはずです。」

 間もなく桜の森の中に、大きな建物が現れた。正面に玄関があり、『桃山 植物研究所』という看板がかかっていた。そう、私はずっと以前にこの建物を見たことがある。

 玄関に続く道の両脇には、まだ若い桜の苗木がたくさん植えてあった。おそらく青い花が咲くように、品種改良された苗なのだろう。整然と植えられ、番号札がついていた。

入り口のドアは開いていた。私たちは中に入った。玄関の左側には研究室が、右側には休憩室があった。

休憩室を覗くと、大きなソファが見えた。ソファの上にはひざ掛けとクッションがあり、まるでつい先ほどまで、誰かが眠っていたようだ。ソファの脇にあるテーブルの上には、冷凍ピザの空袋が置いてあった。だが、室内には冷蔵庫もレンジもなかった。

この休憩室にも、等身大の曾祖父の肖像画が飾ってあった。額縁の左には、こすれたような跡があった。

私たちは研究室に入った。部屋の中には薬品の並んだ棚やパソコンがあった。壁には本棚があり、ぎっしりと本やノートが並んでいた。

研究室の突当りには温室があった。温室のドアを開けると、甘臭い匂いが漂ってきた。青い花がたくさん咲いていた。不気味な形の花を見ていたら、眩暈がした。

「何の花だ、これ。」

近藤がつぶやいた。

「ここに名札があります。トリカブト『四季咲き大魔王』花粉に注意、と書いてあります。」

三瓶が言った。

「四季咲きなんて、聞いたことがない。確か、トリカブトの花は秋に咲くはずだ。」

「品種改良したんでしょう、きっと。受粉しやすいように。」

「なるほど。」

2人の会話を聞きながら、私は温室の外を見ていた。

ふと、頭の中に、大きな穴が浮かんだ。大地が抉り取られたような、巨大な穴。この研究所の、すぐ近くにある。穴のことを思い出したら、足が震えてきた。

 「どうしたんですか。」

 近藤が尋ねた。

「人が倒れている。」

私はそう口走っていた。

「何ですって。」

 「この近くの穴に、人が倒れているんです。」

私はそう言うと、駆け出した。近藤も三瓶もついてきた。

 風雨はますます強くなっていた。森全体が、ごうごうと音を立てていた。

研究所が見えなくなると、森の様子が一変した。今まで見てきた桜の森とは、趣が違っていた。桜の木は古木が多く、幹も枝もごつごつしていて、太かった。

桜の木の下には青い花がたくさん咲いていた。温室と同じ花だ。トリカブトの『四季咲き大魔王』。風が吹くと、時折、青い花弁がちぎれて舞い上がった。花弁はひらひらと飛んで、桜の枝に張り付いた。

 間もなく、ひときわ大きな桜の古木が見えてきた。その古木の下には、屋根の抜けた粗末な小屋があった。そして、その古木のそばに、大きな穴が開いていた。

 「人工的な穴ではなさそうですね。」

 三瓶が言った。3人は近づき、穴の淵に立った。

 穴の底に、何かが見えた。

幅も深さも10メートル程ある、大きな穴の底に、男がうつ伏せに倒れていた。その周囲は血で真っ赤に染まっていた。男の体の上に、桜の花びらが降り積もっていた。死後かなりの時間が経っていることは、素人目にも明らかだった。

「弟さんですか。」

背後から近藤の声がした。

私はうなずいた。不思議なものだ。10年も会っていないのに、一瞬見ただけで、弟だと確信していた。

 三瓶が携帯を取り出した。

 「ちっ。聞こえない。」

 三瓶は研究所に走って戻って行った。

 「どうしてここに弟さんの遺体があることを知っていたのですか。」

 近藤が私に尋ねた。

 「いいえ。知りませんでした。」

 「これは秘密の暴露ですか。つまり、犯人しか知らない遺体の遺棄現場をあなたは知っていた。」

 「違います。」

 着ているビニールの合羽はびしょぬれになって、肌にはりついていた。濡れた前髪から、滴が垂れていた。風が刺すように冷たかった。強風に煽られると体が揺れた。

 「青子さん、自白だと認めた方がいい。罪が軽くなります。あなたの状況証拠は真っ黒だ。そして、あなたは遺体の遺棄現場を知っていた。」

 「私は殺していません。」

 信じてもらえるとは思わなかった。だが、私がそう言うと、

 「そうですか。」

 近藤がうなずいた。それから彼はこう言った。

 「研究所に戻りましょう。少し体を温めた方がいい。」


 研究所に戻り、合羽を脱いで、ポットでお湯を沸かして、お茶を入れた。

熱いお茶を飲み、雨の伝わる窓ガラスを見ながら、私は弟のことを思い出していた。

 記憶の中の弟は、いつも私を指さして笑っている。


~私は3つ違いの弟と話をしたことがない。母に禁じられていたからだ。弟が皿を割った時、私は母に殴られた。弟が失敗しないように、気を配っていなかった私が悪いというのが、その理由だった。弟が風邪を引くと、私は外に立たされた。

母は、弟に世界を征服させたいと、本気で考えていた。弟を偉大なる帝王に育て、桃山家を復活させることを切望していた。

そんな母にとって、最大の敵は私だった。この家に、自分の娘として生まれながら、この家を崇拝しない娘が、母には許せなかった。

「早くこの家から出て行きなさい。あんたみたいに、桃山家を崇拝しない娘が居ると、この家に禍が起きる。」

私は幼い頃から、繰り返し、母にそう言い聞かされて育った。

歪んだ水槽の中で育った金魚が、外の世界に飛び出すことは容易ではない。「出ていけ」や「ひとりで生きていけ」は、「死ね」と同義語として刷り込まれているからだ。水槽の歪みに押し潰されそうになりながらも、外の世界に出れば、死んでしまうと思い込んでいる。支配や虐待に苦しみながらも、生きるためには、仕方がないと諦めている。 

それでも私が逃げ出すことができたのは、悟君のおかげだった。

悟君は15歳でこの村を出て行った。外の世界には、悟君がいる。それが私の支えだった。

母の溺愛を受けていた弟にとって、歪んだ水槽の居心地はどうだったのだろう。

弟が何を思っていたのかは、もうわからない。

もう2度と、弟と口を聞くことはできない。

激しく揺れる黒い森は、母の歪んだ価値観の作り出した、巨大な水槽のように見えた。

その闇の中に、母の顔が浮かんだ。母は弟が死んだ時、きっと私を憎んだに違いない。

「なぜ、弟が死んで、おまえが生きている。なぜ、お前が代わりに死ななかったんだ」

そんな母の罵声が森から聞こえてくるような気がした。


携帯で話をしていた近藤が、私に近づいて来て、こう言った。

 「あなたの車の走行距離、および、Nシステムを調べました。あなたが自分の車でここに来たことを証明することはできませんでした。」

「私の車を調べたのですか。」

私が尋ねると、近藤はうなずき、さらにこう言った。

「タクシー会社にも照会しました。あなたを乗せて銀狐村に行ったタクシーは見つかりませんでした。」

それを聞きながら、タクシーで往復したら、いったい、いくらかかるのだろうと思った。

 「それから、あなたのアパートの部屋も捜索しました。」

 「何ですって。」

 「大家さんの了解を得て、大家さん立会いのもとで行いました。あなたが弟さんの死に関与したという証拠は何もありませんでした。」

これでもう、あの部屋に住み続けることはできない。

 「家出してから10年、実家とは連絡を取っていないというのも、事実のようですね。」

 「ええ。」

「今のところ、あなたの共犯者と見られる人物も、浮かんでいません。」

「私の人間関係も調べたのですね。」

怒りが止まらなかった。

 彼らは、証拠が出てくるまで、私のすべてを洗うつもりだ。だが、証拠なんか、出るはずがない。私はもう一昨日までの生活には戻れない。歪んだ家を飛び出して、10年かけて築き上げた生活のすべてを、私はわずか2日で失ってしまった。

20歳の時、私は短大卒業と同時に、名古屋の商社に就職が内定した。ところが、母が会社に電話をして、私の内定を勝手に断った。「家を出ていけ」と口癖のように言いながら、母には私を自立させるつもりはなかった。

 それを知った時、私は家を出る決意をした。就職先もなく、住む所もなかったが、家の金を盗み出して、バッグひとつで名古屋に出た。ホテルに泊まり、書類を偽造して、安いアパートを借りた。近くのスーパーのレジのバイトに応募して、雇ってもらった。毎日が綱渡りだった。運と努力で乗り切って、今日まで生きてきた。その10年のすべてを、私は失った。

 その時、三瓶の携帯が鳴った。

「鑑識が森の入り口に到着しました。案内してきます。」

三瓶は近藤に言うと、嵐の中に飛び出して行った。

  

 嵐に揺れる桜の森を見ながら、私は懸命に思い出そうとした。とにかく、手掛かりが欲しい。私の無実を証明する何かを見つけたい。

幼い頃、私はあの森に行ったことがある。そして、私はあの穴の中に倒れている人を見た。

誰なのだろう。あの時、あの穴の中に倒れていたのは。

 研究室の本棚の中には、たくさんのノートが並んでいた。私はその中の1冊を手に取った。

ノートの表紙には、こう書いてあった。

   

  青い桜の研究   佐々木朔


佐々木朔。曽祖父に雇われて、青い桜の研究を始めた人だ。私はノートをめくった。

彼の研究は1945年4月から始まっていた。ノートには几帳面な細かい文字が並んでいた。当時は遺伝子操作ができなかったので、彼は受粉による品種改良を試みていた。青いトリカブトの花の遺伝子を、桜にかけ合わせて青い桜の花を咲かそうと考えていた。そのために、彼はトリカブトの花粉の品種改良に力を注いでいた。ノートには、研究内容が黒のインクでびっしりと書きこまれていた。そして時折、青いペンで日記のようなものも書いてあった。

研究を始めて5年後の1950年10月10日、佐々木博士は品種改良の途中で、花粉の毒性の著しく強いトリカブトを作り出した。彼は青いペンでこう書いている。


これを聞いた唯勝翁は、目をぎらぎらと光らせながらこう叫んだ。

「すばらしい!」

私は耳を疑った。この新種の花粉は、わずかに吸い込んだだけでも、人を殺傷できるほどの猛毒であることを、たった今、説明したばかりなのだ。しかし、翁は興奮して叫び続けた。

「こいつはすごい! このトリカブトを大量に繁殖させなさい。そして森に植えるのだ。」

「それは非常に危険です。森を通っただけで、人が死にます。」

「だから、すばらしいのだよ。」

「何ですって。」

「たとえば村の誰かにこう言うんだ。『この森の奥に、松茸の生えている場所がある』とね。すると、その人は森に侵入して松茸を取りに行こうとする。その途中で、桜の木の下に植えてあるトリカブトの花粉を吸いこんで死んでしまう。これは完全犯罪だ。」

私は言葉を失った。翁は夢中になって語り続けた。

「この森は私有地だ。勝手に入る方が悪い。こっそり松茸を盗みに行く奴が悪い。しかも、この猛毒のトリカブトのことを知っている人間は君と私の2人しかいない。私は屋敷の窓から、森を見ているだけで、人を殺せるのだ。このトリカブトを、私は『大魔王』と名付ける。」

翁はそう言うと、大声をあげて笑い出した。

私は恐怖と怒りで体が震えるのを感じた。思わず私は叫んだ。

「やむをえません。私はこの『大魔王』を処分します。」

「何だと。」

翁は笑うのをやめた。それから慌ててこう言った。

「冗談だよ。冗談。話の通じない男だな。そんなことをするわけがないだろう。」

冗談? なんてたちの悪い冗談だ!

「『大魔王』を処分してはいけない。そんなことをしたら、青い桜の研究はどうなるんだ。『大魔王』の花粉はそのために開発したんだろう。あと少しで成功するかもしれないのに、今ここで『大魔王』を失ったら、今までの苦労は水の泡だぞ。」

悔しいが翁の言う通りだった。『大魔王』の花粉は試す価値がある。ここで青い桜を諦めたくはなかった。

「冗談でも、2度とそんなことは言わないでください。」

私が言うと、

「ああ、もちろんさ。真に受けるなよ。」

翁はそう言って、また笑った。

いつもながら、この男の人格のひどさにはあきれる。

念のために、この研究室の玄関は施錠することにした。出入り口はここしかないので、私が鍵を管理すれば、翁が『大魔王』を盗み出すことはできない。


翌年1951年 4月20日、彼は黒でこう書いている。


桜の花に、『大魔王』の花粉を受粉させた。あとひと月ほどで種ができる。この種を『青桜』と命名する。この木の花が咲くのが楽しみだ。しっかり育てていきたい。


その年の秋、10月12日、彼は黒でこんなことを書いている。


今日は1日中、強い風が吹いていた。そのせいで、青桜の苗木が5本、倒れてしまった。

風よけを考えないといけない。


10月13日には、青でこう書いてある。


今日、桜の森の奥で、昨日から行方がわからなくなっていた村人が、倒れて死んでいるのが発見された。この人物は加藤大輔55歳。林業を営んでいた。彼がなぜ、この森に入ったのかはわからない。死因は心不全。以前から心臓に持病があったという。私はかつてこの男の噂を聞いたことがある。手癖の悪い、あまり評判のよくない男だった。


佐々木は真面目な研究家だった。春に桜の花が咲くと、トリカブトの花粉を受粉させ、種を作って蒔く。秋にはトリカブトの花粉を収穫し、保存する。地道な作業をこつこつと積み上げていた。

そして毎年秋になると、風の強い日に、森に入り込んだ村人が急死する事件が起きていた。


5年後、1957年4月25日、彼は黒でこう書いている。


『青桜』が初めて花を咲かせた。ピンクの花びらにうっすらと紫色の筋が入っている。

この花に、改良を重ねた『大魔王』の花粉を受粉させる。種ができるのが楽しみだ。

『大魔王』の花粉はさらに危険になっていて、取扱いには細心の注意が必要だ。だが、『大魔王』は繁殖力が強い。品種改良もしやすい。もうすぐ四季咲きの『大魔王』が完成する。そうすれば、秋に花粉を採取して保存しなくても、受粉ができるようになる。危険だが、青い桜の研究には、なくてはならない花なのだ。数年後には、私の研究も実を結んでいるのかもしれない。


その年の秋、10月25日、彼は青でこう書いている。


今日、変な噂を聞いた。

「秋になると、ベランダで翁が笑っている。」

 「風が吹くと、桜の森で人が死ぬ。」

まさか。

私はかつて翁が語った冗談を思い出した。

『大魔王』の苗の本数はしっかり記録して管理している。だが、発芽したばかりの、トレーに数百本芽吹いたばかりの頃に数本持ち出せば、わからない。

それを防ぐために、私は研究室のドアを施錠した。

翁が私の知らないうちに温室に入り、『大魔王』を持ち出すことはできないはずだった。

けれど、あの噂は、翁が言っていた通りだ。

研究所から見える桜の森は、いつもと変わらない。考えてみると、私はいつも研究に追われていて、この先の森の奥に出かけたことはなかった。

いったい、森の奥は、どうなっているのだろう。

明日行って、確かめてみよう。


佐々木朔の記録はここで終わっていた。彼は1957年10月26日、桜の森の奥に入り、帰らぬ人となったのだ。


次の研究ノートの表紙には、私の父の名前、桃山信二があった。父はこの研究所の2代目の研究員だったのだ。表紙には、佐々木が死んで11年後の1968年の日付がある。

父はどんな人だったのだろう。私が母というフィルターを通さずに父に触れるのはこれが初めてだ。そんなことを思いながら、私はノートをめくった。


1968年、4月25日 今日よりここで青い桜の研究を始める。

昨年、1本の木に、青い桜の花が咲いたそうだ。佐々木朔の研究は彼の死によって中断されていたが、私は彼の研究を引き継ぐことになった。佐々木の長年の研究が報われるように、私は研究者として全力を尽くしたいと思う。

今年は残念なことに、青い桜の花は見当たらない。どの花も美しいピンク色をしている。

彼の咲かせた青い花を私も見たかった。


父の書いた文字を追いながら、私は青い桜は本当に咲いたのだろうか、と思った。

青い桜の写真が1枚もないのだ。咲いたと言っているのは、桃山家の人間だけだ。


だが、父の研究の記録は殆どなかった。桃山家の入り婿になった父は、家計を支えるために、昼も夜も働いていた。新城市内で高校の講師をしたり、ビデオ屋等でアルバイトをしたりしていた。研究はおろか、睡眠時間も削っていたに違いない。

桃山家の財布を握っている祖父が、父にお金を渡さなかったのだ。当時、桃山家はまだ地主として店子料を得ており、生活には困らないはずだった。だが祖父は、研究費はおろか、生活費も出さなかった。父は桃山家にとって、収奪の対象であって、家族ではなかった。

「おい、早く青い桜の花を咲かせろ。おまえはちっとも研究所に行かないじゃないか。」

ある日、祖父はそう言って、父を怒鳴りつけた。

「私には青い桜の研究を続ける時間はありません。私が稼がなければ、子供たちが飢え死にします。病弱な青子の医療費も払えない。」

「おまえは結婚前に、『青い桜の研究に邁進する』と誓ったじゃないか。」

「それはあなたが『生活費も研究費も出す』と言ったからだ。」

「金がないのなら、実家から金を持って来い。」

「えっ。」

「かわいい孫と息子のためなら、お前の親は喜んで全財産を差し出すだろうよ。金というものは、奪えるところから奪うものなんだ。」

「なんて奴だ。」

「おまえは唯勝翁の妻と一緒なんだよ。金がない、時間がない、は、ただの言い訳だ。金がないのなら、作って来い。時間がないのなら、寝るな。」

「何だって。」

「寝るな。365日、24時間、桃山家のために働け。おまえの実家にも協力させろ。」

そう言って、祖父は笑った。その横で母も笑っていた。母はいつも祖父の肩を持ち、決して入り婿の父を守ろうとはしなかった。


 桃山家はブラック企業ならぬブラック婚家だった。寝るな、休むな、金を出せ。

逃げ出すか、死ぬまで奴隷になるか、道は2つにひとつしかない。

父は私と弟を必死で守っていた。幼い頃の私は病弱で、入退院を繰り返していた。私の入院費の支払は、重く父の肩にのしかかり、父から金と自由を奪っていた。


青子を安心して育てられる環境を作らなければ、この家は出られない。


父は何度もそう記している。私は涙が出てきた。子供を2人抱えて、しかも病弱な子供を抱えて、家を逃げ出すことは容易ではない。


 1971年 10月20日、父はノートにこう記している。


 明日、青子が退院する。入院費は義理父の金庫から盗み出した。ついでにこの家を出て、どこかに部屋を借りるための金も盗んだ。明後日、青子と勝太郎を連れて、私はこの家を出る。もう、ここでは暮らしていけない。ここに居たら、私は死ぬまで搾取される。私だけではない。私の実家や、私に親切にしてくれる人にまで、桃山家の搾取の手が伸びる。

だがその前に、私にはやらなければならないことがある。

桜の森の奥に植えられている、『大魔王』の処分だ。

唯勝翁は秘密の通路まで作って、『大魔王』を盗み出した。そしてそれを森に植えた。彼だけではない。義理父も、『四季咲き大魔王』を温室から持ち出して桜の森に植えた。

『四季咲き大魔王』は強靭な繁殖力で、森の奥を埋め尽くしている。奥だけではない。どんどん森全体に広がって行く可能性があるのだ。あれを全部処分しなければ、この森は恐怖の森になる。森に入っただけで、人が死ぬ。


父の日記はここで終わっている。

涙が止まらなかった。父は失踪したのではなかった。私と弟を連れて行くつもりで準備していたのだ。おまけに、『大魔王』を処分しようとしていた。


 思い出した。幼かった私は、退院して家に戻ってから、父を探した。「あんたのおとうさんは、あんたを置いて、どこかに行ってしまったよ」母の声が頭の中で木霊していた。それを打ち消すように、私は首を振り、必死になって父を探し、禁断の森に入った。そして、あの穴の底に倒れている、変わり果てた父の姿を見たのだ。そして私は森を走り抜け、気を失って倒れた。


三瓶がずぶ濡れになって戻ってきた。

「ようやく遺体を引き揚げて、名古屋大学に搬送しました。穴の底にはガスが溜まっていて、危険だったので、遺体の収容に手間取りました。鑑識は嵐がおさまるのを待ってから、あの穴の中に入ります。」

「そうか。ご苦労だったな。」

「どうしますか。桃山青子の逮捕状を請求しますか。」

三瓶が近藤に尋ねた。

「いや。まだ早い。」

「あれ、秘密の暴露ですよね。犯人しか知りえない、遺体のある場所を、彼女は知っていた。」

「だが、秘密の暴露とは、自白の信ぴょう性を裏付けるものであって、秘密の暴露そのものが自白にはならない。そして、彼女は一貫して『殺していない』と言っている。」

「つまり、自白も物的証拠もない。」

「そう。状況証拠は真っ黒。だが、心証は白なんだ。」

「実は僕もそうなんです。だけど、どうして、彼女はあそこに弟の遺体があることを知っていたんでしょうか。」

「そこだよ。あの遺体のあった穴を掘り返してみよう。もしかしたら、あそこから、白骨死体が見つかるかもしれない。逮捕はそれを確かめてからでも、遅くはない。」

「えっ。」

驚いている三瓶に、近藤は父のノートを手渡した。



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