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1、有罪率99.9%

 

1、有罪率 99.9%


ドアを開けると、警官が2人立っていた。

桃山青子(せいこ)さんですね。」

 年配の刑事が警察手帳を見せながら言った。その背後で若い刑事も手帳を取り出していた。

「はい。」

「免許証を拝見できますか。」

 私は戸惑ったが、チェストの上からバッグを持ってくると、免許証を取り出して、彼らに見せた。

「確かにご本人ですね。現在30歳、独身。」

 「はい。」

 「現住所はここ、名古屋市東区上田町スカイハイツ201号室ですが、本籍は愛知県新城市銀狐村ですね。」

「はい。」


 ~さあ、2015年、4月1日、春の選抜高校野球の決勝戦が始まりました。栄冠を手にするのは……~


 隣の部屋の窓から、テレビの音が聞こえてきた。

「銀狐村に住んでいる、桃山勝子さんは、あなたのおかあさんですね。そして弟さんは、勝太郎さん。」

「はい。」

「その2人が1か月前から行方不明になっていることを、あなたは知っていますね。」

「はい。」

「あなたは銀狐村役場から、一度実家に来てほしいと言われているのに、行っていませんね。」

「はい。」

「昨日、匿名の電話がありました。『桃山青子がおかあさんと弟を殺して、青い森に埋めた』という内容でした。」

「『青い森』ですって。」

私はびっくりした。

「『青い森』に心当たりがあるんですか。」

年配の刑事の目が光った。

「ええ。青い森というのは、実家の敷地にある森のことです。」

「ふむ。」

と、年配の刑事は唸った。それから彼はこう尋ねてきた。

「それで、電話の内容に、心あたりはありますか。」

「いいえ。私は殺していません。」

「それでは、電話を書けた人に、心当たりはありますか。」

 私は答えなかった。

「ふむ。」

年配の刑事は頷くと、こう言った。

「桃山青子さん、これから銀狐村に同行してください。」

「今からですか。私、仕事があるんです。今日は遅番で、」

「職場にはこちらから連絡済みです。」

「何ですって。」

「今すぐに、数日間の旅の用意をしてください。」

 再び、隣の部屋からにぎやかな歓声が聞こえてきた。

 部屋の奥に進みながら、私は玄関を振り返った。2人の警官が鋭い眼で私を見張っていた。

 

 私は被疑者なのだ。

 まさか。そんなばかな。

 でも、これは現実だった。

 警察は、母と弟の行方不明に、私が関与していると考えている。

 誰かが、「私が2人を殺した」と言っている。

 有罪率99.9%。

 もし、警察の疑いを晴らすことができなければ、私は殺人犯にされてしまう。

私が無罪になる確率は、千にひとつなのだ。

「わかりました。今、支度します。」

 ワンルームの部屋の中は、玄関から見渡せる。2人の警官に見張られながら、私は旅行鞄にとりあえず下着や衣類、日用品を詰め込んだ。鞄のファスナーを引く手が震えた。


 私は満開の桜をパトカーの後部座席から眺めていた。パトカーは東名高速を走っていた。運転しているのは若い警官で、私の隣には年配の警官が座っていた。私はすでに警察の手の中にいた。

「どうして、銀狐村役場から連絡を受けた時に、すぐに実家に帰らなかったのですか。」

「私には何もできないからです。」

「なぜですか。」

「私は20歳の時に家出をしました。それ以来、実家とは音信不通です。母と弟がこの10年間、どんな生活をしていたのか、私は知りません。だから私が実家に行っても、何のお役にも立てないと、役場には伝えました。それに、仕事の休みも取れないし。」

 パトカーの窓から、今度は勤めているスーパーの支店の看板が見えた。もう、職場に私が戻る場所はない。警察が職場に行ったということは、そういうことだ。一昨日、私は正社員登用の内定をもらったばかりだというのに。

 内定をもらった時は嬉しかった。半年前、20人いるパート社員の中から、一人だけ、成績優秀者を正社員に引き上げるという通達があって以来、正社員の座をめぐる競争は激烈を極めていた。しかも、1名正社員に登用されると同時に、売上成績の悪い3人のパートがクビを切られる、という噂が流れていたから、毎日が生き残り競争だった。自分が認められたことも嬉しかったが、ああ、これでクビにならずにすむ、と言う安堵感が大きかった。

 それがこんな形でひっくり返るとは。

 私は激しいストレスに打ちのめされていた。頭が朦朧としていた。


 パトカーは豊川インターで高速を降りて、国道151号線に入った。遠くに見えていた山の稜線が一気に近くなった。国道に沿って飯田線が見える。新城市はもうすぐだ。

 2度と戻らないと思っていた故郷に、まさかこんな形で帰ることになろうとは。

「あなたはどうして家出したのですか。」

「母や弟と仲が悪かったからです。」

「それはなぜですか。」

「私は母から虐待を受けていました。だからあの家を逃げ出したのです。」

「弟さんは。」

「弟は母の操り人形でした。母は弟を溺愛していました。」

「あなたは母親から愛されている弟さんを、妬んでいましたか。」

「いいえ。」

「あなたのおとうさんは。」

 今度は運転している若い警官が尋ねてきた。

「父は私が4歳の時に失踪しました。」

 「そうですか。」


 パトカーは古くて美しい三河大野の町を抜けて、県道505号線に入った。道は次第に細くなっていった。銀狐村は浜松市に近い山奥にある。

苔むした石の橋を渡り、雑木林のトンネルをくぐり、狭い山道を走ると、パトカーはようやく銀狐村に着いた。

 道の端に立っている、小さな地蔵を見た途端、私は一気に10年前に引き戻された。あの日、村を去る私を見送ったのは、この地蔵だけだった。

 「ここ1か月の間に、あなたがこの村に来たことはありませんか。」

 「ありません。」

 「それは事実ですか。」

 「ええ。私はこの3か月、毎日出社していました。休暇は一日もありませんでした。」

 「それはもう調べました。でも、あなたには夜のアリバイがない。仕事が終わってから、この村に来て、始業前に名古屋に戻ることは可能です。」

 「刑事さん。休日もないのに、徹夜なんかしたら、人を殺す前に私が過労死しています。」

 私はずっと休暇が欲しくてたまらなかった。仕事のスイッチをオフにして、ゆっくり休みたかった。寝る前にはいつも、朝までに疲労が回復することを祈っていた。もうすっと、そんな毎日を過ごしていた。生きるために仕事をするのではなく、仕事をするために生きているようなものだった。その毎日は突然終わった。しばらくは体をいたわって休むことができる。だが、この年で失職したら、今度はもっときつい仕事にしか就くことはできない。

 パトカーは1本道をゆっくり走っていた。すれ違ったおじいさんがパトカーの中をのぞき込んできた。私の実家はまだ先の、村はずれにある。左手に、廃校になった小学校が見えた。校舎の建物は集会所として使われていた。校庭はゴミ収集所になっていた。手前の花壇にはパンジーが植えられていた。

 パンジーの鮮やかな花色が目に染みた。そう言えば、明日は私の誕生日だ。

20年前のあの日、私はあの花壇の前に、涙を堪えて立ちすくんでいた。


 ~私は子供の頃、家で自分の誕生日を祝ってもらったことはなかった。友達の誕生日会に呼ばれても、自分の誕生日に友達を家に呼んだことがなかった。ところが 私が10歳の時、母が私にこう言った。

「お誕生日会をやってあげる。あなたのお友達を家に呼んでいいわ。」

「ほんとうに、うれしい、おかあさん、ありがとう。」

 私は飛び上がって喜んだ。母はさらにこう言った。

「でも、ひとつだけ、約束して。あなたのお誕生日は、ちょうど春休みでしょう。 だから、友達にはおかあさんが話をするわ。あなたは絶対に友達に誕生日会のことを話しては駄目よ。いいわね、わかったわね。」

 私は母との約束を守った。そしてついに誕生日がやってきた。

 私は家の玄関の前に立って、友達を待った。

ところが、誰も来ない。何時間待っても、友達はひとりも来なかった。

泣きながら家に入った私を、母はこう言って笑った。

 「誰も来ないなんて、あんたには友達は一人もいないんだね。あんたはみんなに嫌われているんだね。」

 母の横で、弟も笑いながらこう言った。

「僕のお誕生日とは、大違いだね。この間の僕のお誕生日会には、友達が大勢来て、ケーキがあって、ご馳走があって、」

 その弟の言葉で私は気が付いた。母は、何も用意していなかった。テーブルの上には、ケーキもご馳走もなかった。

 次の日、私は友達に尋ねた。

「ねえ、私のお誕生日会について、私のお母さんから、何か聞いていた?」

 友達はみんな、こう答えた。

「ううん。何も聞いていないよ。」

 私は10歳の誕生日に、母が私を騙したという事実を受け止めなければならなかった。


 オカアサンハ、ワタシヲ ダマシタンダ。ワタシノ ココロヲ コロスタメニ。


 色鮮やかなパンジーを見ながら、10歳の私は必死に涙を堪えていた。~

 

 道の端を湧き水が流れていた。伸び切った土筆がツンツンと生えている。畑から顔を上げたおばあさんが、じっとパトカーを見つめていた。私たちは小さな家の前を通り過ぎた。道を挟んだ反対側に、大きな楠があった。

 家の中から、男の子が駆け出してくる気がした。中学の頃、私はこの家の悟君が大好きだった。私と彼は同級生だったので、毎日彼と手をつないで学校に通った。

 中学卒業間近のある日、彼の両親は材木をトラックで運搬中に交通事故にあい、帰らぬ人となった。


 ~私は母に連れられて彼の両親の葬式に行った。彼の家は裕福ではなかったので、祭壇は質素なものだった。その祭壇を指さして母は笑い転げた。

「何、あれ、おかしい、あはははは。粗末。みっともない。あはははは。」

 その場にいた人々はみな、母の異常さに凍り付いた。

 私は母から離れようとした。けれど、こんな時に限って、母は私の手をぎゅっと握って、放そうとしなかった。

 

  オカアサンナンカ、ダイキライ。


 私は心の中で叫んでいた。泣きながら母を睨み付けた。そんな私を彼はじっと見つめていた。彼の目は私を憐れんでいた。

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 言葉が出なかった。私は心の中で彼に謝っていた。

 その日以来、私は彼と口をきくことができなくなった。もう2度と、彼と手をつなぐことはできない。私にはそんな資格はない。そう思った。

 彼は中学を卒業した日に、名古屋にある大きな老舗和菓子店の養子になって村を出て行った。迎えの人に連れられて、毅然と去っていく彼の背中を、私はあの楠の影から見送った。~

 

 家の中に、人の気配を感じた。窓にかかった古いカーテンに隠れて、誰かがこちらを窺っているような気がした。

 「おかあさんと弟さんの行方に、心当たりはありませんか。」

 「いいえ。」

 「親しくしていた親戚、友人のところへ行っているということはないのですか。」

 「そういう人はいなかったと思います。」

 近藤の問いに答えている間、パトカーはゆっくりと1本道を走っていた。私の実家は村はずれの丘の上にある。かつて私の一族は、庄屋としてこの村で絶大な権力を握っていた。時代とともに、一族は富も権力も失っていったが、彼らのプライドはそれに反比例して膨れ上がっていった。近年では私の一族には役立たずの暴君しか見当たらない。

 私の母もその中の一人だった。古き良き時代にしがみつき、時代の変化を認めようとはしなかった。自分のプライドを保つために、常に誰かを見下し、傷つけていた。

 パトカーは村はずれにある丘の麓に着いた。私の実家はこの丘の上にある。

 実家に続く坂道の左側に、大きな柵があった。『私有地につきここより立ち入り禁止』の看板が掛かっていた。看板の奥には痩せた雑木林が広がっていた。『青い森』はこの雑木林の奥にある。

 パトカーは坂を上り、私の実家の門の前に着いた。明治時代に建てられた洋風の巨大な屋敷が門の奥にあった。この屋敷は母の自慢だった。

 「曽祖父が2億の金をつぎ込んで建てた豪邸だよ。つまり私たちは億万長者なんだ。他の人間とは出来が違うんだ。」

 母の言う豪邸は、私にはお化け屋敷にしか見えなかった。桃山家はこの屋敷を維持する財力をとっくの昔に失っていた。黒い外壁には亀裂が走り、蔦が這い登っていた。2階のいくつかの部屋はもう何十年も使われたことがなく、開かずの間になっていた。エアコンはない。

 私たちは玄関の前でパトカーを降りた。玄関ドアに、鍵はかかっていない。昔からこの村には施錠の習慣がなかった。巨大な玄関の扉を開けると、カビと埃の匂いがした。靴箱の上には造花の入った花瓶が置いてあった。広いホールの突当りには、カーブを描いた大きな階段があった。母はこの階段を下りながら訪問客を出迎えるのが好きだった。

 一階には台所に居間に食堂、それに応接間がある。地下に下りていく階段もあり、地下にはリネン庫や食品庫があった。

 私たちは居間に入った。大きなテーブルの上に、1枚の便箋があった。

 その便箋にはこう書かれていた。


       青子が勝太郎を殺した。

       勝太郎を青い森に埋めた。


「それは、あなたのおかあさんの筆跡ですか。」

 若い警官が言った。

「はい。母の字です。」

「そこに書かれていることは、事実ですか。」

 年配の警官が強い口調で言った。

「いいえ。違います。」

 怒りと恐怖が同時にこみ上げてきた。

「あなたのおかあさんは、あなたが弟さんを殺したと書いている。」

「違います。私は殺していません。」

 声が震えた。

「では、お母さんはどうしてこんなことを書いたのですか。」

「あの人はいつもこうなんです。理由なんて、ありません。」

 そう、母のやりそうなことだった。でも、それを他人に説明することは難しい。

誰にもわかってはもらえない。

「ここに書かれている『青い森』というのは、どこにありますか。」

「2階のベランダから見渡せます。」

 私はそう言うと、居間を出て、玄関奥の階段に向かった。2人の刑事も私の後をついてきた。

 

 階段を上った正面に、大きな部屋があった。ここは代々この家の当主が使う部屋だ。かつては曽祖父が使い、曾祖父が亡くなると祖父の部屋になった。私が19の時に祖父が亡くなると、母がこの部屋に入った。

 私はドアを開けた。この部屋は、私の住んでいるワンルームマンションの2倍以上の広さがある。高い天井からは豪華なシャンデリアがぶら下がっていた。

部屋の中には誰もいなかった。天蓋つきの大きなベッドの脇に、サイドテーブルがあった。その上に、大きな双眼鏡があった。そして、また、置手紙があった。


     私も青子に殺される

     満月の夜に、青い桜の木の下で


 年配の刑事が口を開こうとしたので、私は先に答えた。

「いいえ。私は殺していません。」

 私は部屋の奥にある、大きな掃き出し窓を開けた。窓の外には半円形のベランダがある。

「このベランダの下に広がっているのが、『青い森』です。」

 私たちはベランダに出た。眼下に、満開の桜の森が広がっていた。

「ひゃあ、きれいですね。」

 若い刑事が思わず感嘆の声を上げた。

「どうして、これが『青い森』なのですか。」

 年配の刑事が尋ねた。

「ここを『青い森』と呼んだのは、この屋敷を建てた曽祖父です。ほら、あの人。」

 私は母の部屋の壁にかかっている、ドアほどの大きさのある、等身大の肖像画を指さした。肖像画の曽祖父は気難しい顔をしていた。

 

「桃山唯勝。それが彼の名前です。彼は搾取の天才でした。彼は一族の長という立場を利用して、自分の妻の実家の財産を奪い取りました。妻に生活費を渡さず、毎月実家に無心に行かせたばかりか、妻の実家の実印を勝手に使って借金し、妻の実家を破綻させました。彼の妻と妻の両親は、この森の奥に粗末な小屋を建てて終の棲家としたそうです。その後3人は自殺したと、彼は笑いながら語ったそうです。

お恥ずかしい話ですが、これは彼の武勇伝として、恥ではなく、誇りとして語り継がれています。桃山家一族は、代々、人を傷つけ、搾取して富を得ることを、誇りに思っていました。自分たちは何をして許される、特別な人間だと信じていたんです。

 彼は触手を次々と親類縁者に伸ばし、財産を掠め取って肥え太りました。そして散財しました。巨大な邸を建て、雑木林を開墾して、桜を千本植えました。しかし、収奪する親類がなくなると、桃山家は急速に没落していきました。

 当時この村には、佐々木朔という名前の、優秀な青年がいたそうです。曽祖父はその才能を搾取しようと考えました。彼はこの研究所を建てて、その青年に、世界をあっと驚かせる大発明をしろと命令しました。

それが青い桜の花を咲かせることでした。御衣黄のような緑色ではなく、真っ青な花を咲かせろと言いました。曽祖父はここを世界でただひとつの、青い桜の森にしたいと考えていました。佐々木朔は研究室にこもって研究したそうです。彼はトリカブトの花粉を桜に受粉させて、品種改良していたと言われています。」

「それでここを『青い森』と呼んでいるのですね。」

「ええ。」

「で、青い桜の花の研究はどうなったのですか。」

「佐々木朔は志半ばで亡くなりました。ある秋の風の強い日、森の中で倒れているところを発見されたそうです。」

 「どうして。まだ若かったのに。死因は何だったのですか。」

 「トリカブトの毒が体に回ったと言われています。」

 「なるほど、長年、トリカブトを扱っていましたからね。」

 「そのために、青い桜の研究は途切れてしまいました。でも、佐々木朔が亡くなって10年後、彼が品種改良した木のうちの1本が、青い桜の花を咲かせたそうです。その時、曽祖父は90歳でした。彼は狂喜して、叫び続けたそうです。『私は世界を征服した。必ずこの森は青い桜で埋め尽くされる。やっぱり桃山家は世界一優秀な家系なのだ』と。彼は3日後に亡くなりましたが、最期まで、そう言い続けていたそうです。

 どんなことをしても、青い桜の木を護れ、この森を青い桜で埋め尽くせ。それは彼の遺言になり、桃山家の宗教になりました。

私の母はその狂信的な信者でした。いつの日かこの森が青く染まれば、桃山家は復活すると、信じていました。」

 その時、冷たい風が桜の谷を吹き渡った。桜の森全体がざわざわと揺れた。


 ~「さあ、よく見てごらん。」

 母はベランダに出ると、子供たちの前で、両手を大きく広げた。

「いつか必ずこの森は青く染まる。先祖が咲かせた1本の青い桜がこの森を支配するようになる。その時こそ、私たち一族が世界を征服する時なのだ。ほら、真っ青な桜の森が見えてくるだろう。」

「うん、見えるよ。」

と、弟は言った。

「青いよ。森が真青だ。僕には青い満開の桜が見える。」

「そうか、そうか。」

 母は弟の答えを聞いて喜んだ。

「それでこそ、この館の跡取りだ。世界に君臨する王になれる男だ。」

 私は黙っていた。

「お前は答えなくてもいい。ばかだから。」

 母はそう言って、私を睨みつけた。

「ばか。ばか。ばか。あはははは。」

 弟は私を指さして笑った。~


 「ところで、この森へ行くにはどうしたらいいのですか。」

 若い刑事が私に尋ねた。

「どこかに近道がある、という話は聞いたことがありますが、私はその近道を知りません。この森に行くには、今日、上ってきた坂道を麓まで下りて、あの、立ち入り禁止の看板のあった、大きな柵の扉を開けて、雑木林を通っていくしかありません。」

 動き出そうとした若い刑事を、

 「今日はもうやめておこう。」

年配の刑事が止めた。

 「もう、日が暮れてきた。森に迷い込むのは危険だ。」

それから彼は私にこう言った。

 「では、明日の朝、9時に、あの森に行くことにします。道案内をしてください。」

 「わかりました。ただ、」

 「ただ、何ですか。」

 「私は1度もあの森に入ったことはありません。」

 「何ですって。20歳までここに住んでいたのに、ですか。」

「ええ。子供の頃は、怖くて入ることができませんでした。昔から、この村には『風が吹くと、桜の森で人が死ぬ』という言い伝えがあったんです。実際に、この森に踏み込んだ村人が、何人も亡くなっています。」

 その時、携帯をいじっていた若い刑事が年配の刑事に耳打ちした。

 「何だって。」

 「だから、宿が取れないんです。この近くには宿泊施設はありません。新城市まで戻らないとだめなんです。けれど、その新城市内も、『新城桜まつり』と時期が重なっているために、どこも満室なんです。」

 そう言ってから、若い刑事はちらと私の方を見た。私はこう言った。

 「よかったら、この屋敷に泊まってください。部屋ならたくさんあります。」

 「そういうわけには。」

 「ありがとうございます。」

 年配の刑事は遠慮したが、若い刑事はあっさりと私の申し出を受け止めた。

 「食事も用意します。」

 そう言うと、私は1階の台所に向かった。2人の刑事もついてきた。

「いや、いくら何でも、食事まで世話になっては。どこかに食べに行きましょう。宿も探せば、」

 年配の刑事が言った。

「行くと言っても、一番近くの食堂でも、片道1時間はかかりますよ。」

 若い刑事が言った。

 片道1時間。冗談ではない。またパトカーに乗せられて、見世物になって、1時間街中を走るなんて。

 「とりあえず、台所を見てみましょう。」

 と、私が言った。

 「用意していただけると、ありがたいです。実費はお支払します。」

 若い刑事が言った。

 「では、遠慮なさらないでくださいね。」

 そう言いながら、私は台所に入った。

 「ここの台所は広いですね。」

 年配の刑事が言った。

 「ええ。かつてはお抱えコックが腕を振るっていたそうです。だからレストランの厨房なみの設備を備えています。でも、母は料理が嫌いでした。ですからおそらく、ここにある食材は冷凍食品だけです。」

 そう言うと、私は大きな冷凍庫の扉を開けた。ぎっしりと冷凍食品が詰め込まれていた。これだけのストックがあれば、おそらく数か月は食事に困らないだろう。

「これをレンジでチンするだけ。だから遠慮は要りません。」

 私はそう言うと、冷凍食品の包みをテーブルの上に並べた。

 私は冷凍食品を買ったことがない。高いからだ。毎日、安くて栄養があっておいしいものを工夫して作って食べている。5円、1円を節約して生きている。でも、今はお金の心配をしなくていい。

 よおし、食べるぞ。

 私はから揚げやクリームコロッケ、肉団子や惣菜を次々とチンしていった。ピラフもそばめしもチャーハンも。甘い今川焼も、ワッフルも。それから冷蔵庫を開けて、麦茶やジュースのペットボトルを取り出した。レトルトのスープがあったので、それも温めた。

「これ、全部、隣のダイニングに運んでください。」

 私は食器棚から皿や箸、スプーンを取り出しながら言った。

ダイニングは天井が高く、南には大きなボウウインドウがあった。窓から見える庭園は荒れていた。剪定されない樹木は不恰好に伸び広がり、噴水は枯れ、穴だらけの芝生には雑草が生い茂っていた。

 私は大きなテーブルに、料理を並べた。

「どうぞ。いただきましょう。」

 日暮れとともに、空気が冷めたくなっていた。熱いスープがおいしかった。私はから揚げにかぶりついた。スパイスがきいていた。チャーハンは香ばしく、クリームコロッケは口の中でとろけた。

「ああ、おいしい。」

 私は食べながら2人の名前を聞いた。年配の刑事は近藤さんで、若い刑事は三瓶さんだった。2人もおいしそうに食べていた。冷凍食品は気が楽だ。味付けや献立で悩まなくていい。後片付けも楽だ。

 ボウウインドウに、強い風が吹きつけていた。時折、木立の枝が窓に当たっていた。屋敷全体が、ぎしぎしと音を立てて軋んでいた。


 ふと、窓の外に人の気配を感じた。誰かが窓からこの家の様子を窺っている。そんな気がした。私は窓に近づき、外を窺った。

誰もいない。伸び切った木々の枝や雑草が風に揺れているだけだった。


「どうかしたんですか。」

 近藤が尋ねた。

「いえ。何も。」

 と、私は言った。

 私はふたたびテーブルに着き、食べ始めた。

 テーブルの上のクリームコロッケを見ていたら、ふと、悟君のお母さんが揚げてくれたコロッケを思い出した。


~彼のおかあさんは台所で夕食の支度をしていた。そのすぐそばで私と悟君は2人で宿題をしていた。悟君が

「ああ、腹が減った。」

と言ったら、おかあさんが揚げたてのコロッケを持って来てくれた。

「はい、青子ちゃんもどうぞ。」

そう言って、おかあさんは私にもコロッケをくれた。熱々で、ジャガイモが甘かった。

「ああ、おいしい。」

「な、うまいだろう。世界一、おいしいだろう。」

「うん。」

それを聞いた悟君のおかあさんは、

「そうだろう、そうだろう。」

と笑いながら威張っていた。~


 あのコロッケはほんとうにおいしかった。そんなことを思い出しながら、私はクリームコロッケを食べた。

 食事が終わる頃には、雨も降りだしていた。

「後片付けが終わったら、2階の客室に案内しますね。」

 私が言うと

「私たちは居間に寝ます。布団を貸してください。」

 近藤が言った。

 そうか。居間からは、玄関も階段も見渡せる。私が逃げ出さないように、見張っているというわけだ。

食器を洗い終えて、2階の客間から寝具を運んだ。

「そうだ、シーツは地下の倉庫にあるはずです。」

 私はそう言うと、地下に下りた。2人もついてきた。ああ、もう、鬱陶しいな、と思いながらリネン室に入り、シーツやカバー、それにバスタオルなどを2人に手渡した。2人が階段を上って行こうとした時だった。私がリネン庫のドアを閉めていると、

   キイイ

 どこかでドアの開く音がした。風がすっと通って行った。

 私は地下倉庫の突当りを見た。等身大の曽祖父の肖像画が飾ってあるほかは、何もない。

 「どうかしたんですか。」

 階段の途中にいた三瓶が尋ねてきた。

「いいえ。別に。きっと、気のせいだわ。」

 と、私は答えた。それから私はこう言った。

 「お風呂を用意します。浴室は2つあります。2階のは私が使います。1階の浴室をお二人で使ってください。」

 「いや、お世話になります。」

 「どうもすみません。」

 「いいえ。では、おやすみなさい。」

 私は2人にそう言うと、2階に上がった。ああ、ようやく一人になれる!私はかつて自分が使っていた部屋に向かった。2階の一番隅にある部屋だ。私はその部屋のドアを開けた。

 

 10年前、私が出て行った時と、何も変わらない部屋がそこにあった。古いベッドとチェスト、小さなデスクだけの部屋。ここだけ、時間が止まっていた。ここはかつてメイドが使っていた部屋なのだ。

 窓には雨が打ち付けていた。漆黒の森がざわざわと揺れていた。

 明日、私はあの森に行く。2人の刑事とともに、初めてあの森に入る。あの、忌わしい森の中で、私は自分の無実を証明する何かを見つけることができるのだろうか。

 そんなことを思って、私はしばらく闇の中の森を見つめていた。

                                   

 続く



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