人形
僕がその人形を初めて見たのは、何気なく立ち寄った地元商店街のフリーマーケットでの事だった。
大の男が人形に興味を惹かれたのも今考えてみればおかしな話だが、その時の私は一目惚れのような気持ちになってしまい、どうしてもその人形を自分のものにしたかった。
白磁のような透き通る肌に青く透明なガラスの瞳。可愛らしくカールした金色の髪の人形は、ちょうど生まれたばかりの赤ん坊ほどの大きさだった。
人形の左手の薬指には小さな金色の指輪がはめられており、既婚を表すその指輪になぜだか嫉妬じみた感情まで浮かんできたものだった。
「気に入りましたか?」
しげしげと眺める僕に、足首に包帯を巻いた店主の青年は、少し痛そうに脚を引きずりながらも微笑みを浮かべ、折りたたみ式の椅子から立ち上がる。
「いや、うん、まぁね」
曖昧に答えて人形に触れようと手を伸ばすと、青年は手荒く僕の手を払った。
「……すみません、彼女は結婚した相手以外に触れられるのをとても嫌がるので」
「そうか、それは悪かったね」
「いえ、あなたなら大事にしてくれそうだ、この結婚指輪と一緒にお譲りしても構いませんよ」
人形のことを「彼女」と呼ぶ、その怪しげな青年の言葉を僕はなんの違和感もなく聞き、夕方には自宅の棚の上にその人形を飾っていた。
次の日から、僕は奇妙な結婚生活を始めた。
しかし、結婚もしていない男が突然左手の薬指に指輪をしていったのでは色々と体裁が悪い。
右手の小指に指輪をはめ、ただそれだけでも「彼女」とのつながりが出来たようで嬉しい日々だった。
そして5日後、僕は夢を見た。「彼女」が恨めしそうに私の枕元に立って泣くのだ。
「どうして指輪をしてくれないの?」
「え?」
「結婚してくれない人と、一緒に住むことは出来ないわ」
「いやしかし、社会的立場を考えたら、さすがに指輪はしていけない」
「だったら私を開放して」
「そんなことは出来ない! 僕は君を愛しているんだ」
「いやよ。結婚してくれない人に触れられたくないわ」
「ダメだ! 僕は君を買ったんだ! 君は僕のものだ!」
ハッとして目を覚ます。時計を見ると午前3時。体にはじっとりと嫌な汗をかいていた。
――ゴト、ガリッ
玄関へと続く台所から聞こえた音に、僕は起き上がった。
ふと棚に目をやると「彼女」が居ない。
――ゴト、ガリッ
僕は、恐る恐る台所へ続くドアに手をかけた。
――ザクッ
「あっ!」
突然襲った足首の痛みに尻餅をつく。
足元には、包丁を手に持った「彼女」が立っていた。
「私を愛してくれないのなら、私を開放して。それがダメなら……」
「死んで」
可愛らしい彼女の声が、突然裏返ったように低く不気味な声に変わる。
足首に深い傷を追った僕は、何とか体を離そうとしたが、「彼女」の方が速かった。
小さくて真白な美しい手で、ステンレスの安っぽい包丁を抱えた姿は恐ろしかった。
「死んで」
太ももに包丁を突き刺す。
「ああっ!」
「死んで。死んで。死んで。」
何度も振り回された包丁を何とか払いのけようとしたが、それは僕の体に傷を増やすだけだった。
目を瞑って体を丸め僕は逃げることを諦めた。
「わかった! 左手の薬指に指輪をする! だからやめてくれ!」
包丁を振り回していた「彼女」の動きがピタリと止まる。
もう包丁は振り下ろされない。
僕が恐る恐る目を開けると、目の前に「彼女」の顔があった。
美しいその顔は、しかし、今となっては恐怖の対象でしか無い。僕は短く「ひっ」と悲鳴を上げた。
僕の恐怖が愛情を上回ったことに気づいたのだろう、「彼女」は包丁を振りかぶった。
「死んでぇぇぇぇぇ!」
「わかった! 開放する! だからやめてくれ!」
日曜日。
僕は、足首に包帯を巻いて、フリーマーケットに参加していた。
体中傷だらけで、歩くのも大変だった。
ふと見ると、一人の男性が「彼女」をしげしげと見つめているのに気づいた。
僕は何とか折りたたみ式の椅子から立ち上がる。
「気に入りましたか?」
僕は微笑みを浮かべると、その男性に声をかけた。