第七章
「久しぶりで指が…。」
久しぶりの演奏に左手が痺れる。
「言い出しっぺが何言ってるのよ!このままじゃ完成しないわ!」
「感覚が掴みきれないだけだ、次はやる。」
「じゃあ、今間違えたところをもう一回。」
「はい?」
僕だけで?
「感覚を取り戻すまで何度でもやるわ。」
目の前の女の子がこんなにも怖いと思ったのは久しぶりだった。
それでも、時間をかけてやっていくうちに段々と失敗が少なくなっていく。
「僕より姫乃の方が失敗してきたな。」
「メトロなしの状態に慣れていないだけよ。」
「弱音は吐かないお約束。」
「くっ……。」
「いい加減慣れてほしいわね。それと、章裕君。途中のメロディに切り替わるところだけどもうちょっと音を切ってくれる?スキップをイメージして。」
段々と注意の内容が曲のイメージの部分に変わっていく。
気がついたら陽は真上を通り越して傾いているのに僕たちは昼ご飯を食べることなく練習を続けていた。
さすがにお腹がすいて軽い休憩を取ることにした。誰も作る気力が無かったので昼食は卵かけご飯だった。
「それにしても久しぶりね、章裕君。」
「えっ?」
弧詠の台詞に不意を突かれたように驚いた。僕たち、どこかで会ったことがあるのか? 全く記憶にない。
「二年前のジュニア選抜のコンサート、憶えている?私も弓弦兄さんと一緒に出ていたの。」
あのときのコンサート。
「弓弦兄さんと同じ楽器なのに、負けないくらい自分を引き出そうとしていた子がいた。それが章裕君、あなた。改めて聞いてもあなたの存在が際立っていた。」
あのときは演奏するのに必死で無我夢中に弾いていた。
「その時の写真がこれ。」
弧詠が出したのは全体の写真ではなく、僕たち三人だけが映っているものだった。弓弦さんが真ん中でその右隣に僕がいた。この頃の僕は少し気取っていて、前髪を頬の位置まで下ろしていた。左隣にいるのは弧詠だろうか、今と違って髪の色が金色で背中にまで来ている髪の毛をかわいく結ってポニーテールにしている。
「なんでこんなものが!」
あまりの恥ずかしさに大きな声を出してしまった。
「本当に忘れていたの?章裕君、弓弦兄さんに一緒に写真撮ろうって何度も言っていた。」
「二人とも、今と全然違うわね。」
姫乃の言葉に二人とも返す言葉がなかった。黙って写真を見ている。どうしてあのときあの髪型にしたのかわからなかった。
話題を変えよう。
「弧詠。その、写真なんだけど……。」
「私が染めたのはその当時に海外のアーティストに憧れていたから。向こうで暮らしていたときは何も言われなかったし、日本に来たときも帰国子女だからということで許されていた。特に言われることは無いはず。」
何を勘違いしたのか特に理由もなく自分の髪の毛についてベラベラと喋っていた。やはり、弧詠もそうなのか。僕もベートーヴェンに憧れて前髪を下ろしていた。でも、聞きたいところはそこじゃない。このとき彼女の右手に持っていた木菅のようなもの。
「弧詠の手に持っているものってリードだよね?」
「そうよ。」
「リードって何?」
音楽の知識に乏しいのか、それとも二人だけで話していたからか姫乃が聞く。
「リードは笛の中に入れて振動させて音を出すために使うの。私はクラリネットだったからリードを持っていた。」
「やっぱり」
あのとき演奏していた中で憶えていたのはクラリネットの音色。時に目立ち、時に他の楽器に溶け込む音色は絶品だった。全体を見て自分の生かせる最大限を出したと言ってもいいくらい、その音色は素晴らしかった。
「あの中でクラリネットは一人しかいなかったからよく憶えていた。」
「そもそもあの曲は私と弓弦兄さんが目立つように祖父が選んだ曲。」
「そんなことが出来るの?」
「祖父の力なら簡単。祖父は実業家で音楽をこよなく愛する人だった。私たち兄弟に英才教育を施したのも祖父。将来は兄弟五人の演奏を聴くのが夢だった。」
「どうしてクラリネットを?」
「そうよね、不思議に思うよね。私も弧詠って名前だから将来はピアノやヴァイオリンみたいな弦楽器を弾きたいって最初は思っていた。でも、上には奏太兄さんや弓弦兄さんがいた。どんなに頑張っても兄さんたちを抜かすことができなかった。比べられるのが嫌でクラリネットに逃げた。」
昨日も聞いた話。
「それでも私はどんな形でも音楽に携われたからよかったわ。非公式だけど兄弟五人で演奏もしたわ。祖父の願いを叶えることがよかった。祖父が亡くなったのはそれからすぐ。」
一旦言葉を切った。次を話すのをためらっているようにも見える。
「でも葬儀のとき、話し声が聞こえたの。『せっかく弧詠という名前なのに管弦楽器なんて、弧詠は御爺様の願いを叶えられなかった子だね。』って。心が痛かった。私は祖父の願いを叶えられなかったの?自分のやっていることはなんだったのだろう?努力して手にしたものはいったい何だったのだろう。五人で演奏した最後、祖父の笑顔は私には向けられなかったのかもしれない。」
弧詠の心の叫びに僕たちは黙っていた。同じ音楽を辞めたもの同士?とてもそんなものとは思えない。僕は自分自身が傷つく姿を見たくなくて自分で辞めただけだ。でも、彼女は、
「どうすればいいかわからなかった。流せばいいものって思ったけど、当時中学生だった私には無理だった。結局自分に自信が無くて辞めた。」
傷つきながらも掴んだもの、必死になって掴んだもの、それを否定されたんだ。
「それでも私はまた弦楽器に触れることができてよかった。だから、歌鈴ちゃんが練習しようと思ったときは私もなんとかしようと思った。でも、考えが出てこなかった。章裕君には感謝している。あそこで何も言わなかったら、私も何もできなかった。それに章裕君のおかげで一つにまとまった。」
最後に僕たちの方を見ながら、
「だから、成功させよう。」