第六章
また変なタイミングで目を覚ます。昨日と同じく琴の音。
扉を開けるとやはり姫乃がいた。今日は起床時間ギリギリだ。
「……おはよう。」
昨日散々遊んで寝不足なのかぶっきらぼうに言葉を交わされた。
「寝癖。」
僕も疲れていて言葉を交わすのが面倒くさかったので、代わりに指を差して身だしなみを指摘した。油断していたのか、慌てて前髪をチェックしている。
「あんまり無理すると思わぬ失敗に繋がるよ。」
――ごとんっ!!
不意に部屋の外から何かが落ちた音がした。それも花瓶とかそう言った類のものではなく、もっと重い物音だ。
「彩加!」
台所から先輩の叫び声が聞こえる。
「何?なんなの?」
「台所の方だ、何かあったかもしれない。」
いったい何があったのだろうか。
先輩がこんなに大きな声を発するのを聞いたのは生まれて初めてだ。
急いで駆けつけるとそこには彩加さんが倒れていた。手には包丁を持っている。呼吸は荒く、苦しそうだ。
「料理中に急に倒れた。息はしているし、意識を失っているわけではない。ヒロ、運ぶの手伝って。」
先輩に促されて、彩加さんに肩を貸す。
熱い。彩加さんの全身が熱を帯びている。二階の寝室まで運んだ。
最悪の朝になった。
朝の料理は代わりに僕がやった。これまでに作ったものと比べると雲泥の差だった。でも、みんなの飯が喉を通らないのは僕の料理の出来の悪さだけではない。
「これから、どうするの?」
姫乃が発した問いに誰も答えられなかった。非常時のことなんて想定できるわけもないから予定表にだって書かれていない。統率者である彩加さんがいない今、大人しく状況を待つしか僕たちに選択肢はなかった。
浮かない顔で先輩が戻ってきた。
「彩加のことだが、熱がある。おそらく、合宿で動きすぎて疲れていたのだろう。」
思い当たる節はいっぱいある。それだけ僕たちは彩加さんに迷惑を掛けていた。同時に彩加さんはそれをこなしていた。
「本人は大丈夫と言うかもしれないが今日一日は安静させる。私が止める。」
誰も言葉を発しなかった。当然のことだろう。倒れている姿を見た以上、これ以上出てしまったら彩加さんが危ないのはわかっている。
「そうなると合宿は中止になる。いくらなんでも人が足りないのでは何もできない。部外者だけど、年長者として仕切らせてもらおう。」
「でも……。」
「でももだってもない。ここまで迷惑かけてまだやるのか?」
ものすごい剣幕で問い詰める。反論ができない。
「彩加がいない以上、練習をするわけにはいかない。監督する人間が誰もいない。」
先輩の意見は正しい。だが、正論を主張する先輩はいつもの先輩とは違っていた。本当に先輩はこれを望んでいるのか?
かつての先輩なら……。かつての先輩ならこんな事言わない。
僕は、どうすればいい?
先輩、僕はどうすれば……。
――いい加減私に身を委ねるのはやめてくれないかな?
そう、決めるのは自分だ。
僕は僕の進んだ道を行くんだ。
「練習しよう。」
その思いは声になって現れた。
「練習しよう。まだ合宿は終わっていない。」
気がついたら皆にそう呼びかけていた。
「ヒロ、状況がわかっているのか?今この状況で動き出したら」
「でも、今しかない。音を合わせて録音する機会はここしかないです!」
喉の奥から力が込み上げてくる。先輩に反抗するのはこれが初めてかもしれない。でも、ここまで来てそんな最後は嫌だ。責任というワードに縛られて何も出来ないなんて嫌だ!
「ふざけないでもらおうか。彩加を無理矢理参加させるなら私が止める。」
「彩加さんのパートは僕がやります。」
「どうやって?糸音に何ができる?」
先輩が激しく問い詰める。僕に何が出来る?そう思うだろう。僕は先輩と目を合わさずに床隅に転がっているケースを、打ち捨てられていた可能性を見つめていた。
「ヴァイオリンだ。少しの時間さえあれば、今からでも音を取って参加することはできます。ヴァイオリンで演奏します。」
本当は楽器になんて二度と触れたくなかった。でも、僕はやりたい、やりたいんだ。
「できるの?」
今度は弧詠が聞いてきた。
「楽譜見ないとわからないけど、これまで聞いた限りだと彩加さんのパートは単音が多くて憶えやすいイメージがあるから演奏できない訳じゃない。」
僕の言葉に弧詠は口に手を当てて考えた。そして、
「そこまで言うならやってみましょう。私も手伝う。」
GOサインを出してくれた。
――そして、僕も賛成だよ。結局戻るべきだったんだよ。僕の救いは音楽しかない、そうだろ?
「章裕君、でもその前に誓って。私たちの一員として演奏するって。私たちと一緒に演奏するために演奏するんだって。」
キリッとした表情でこちらに向き直る。その凛とした姿に気圧されていた。
「合奏は一人でやるものじゃない。だからこそ誓って欲しいの。」
――彼女の言うことに惑わされるな!
頭の中で激しくこだまする。
――自己満足でもなんでもいい。僕が立ち直るきっかけに音楽が必要なんだ。無理な目標なんか立てないで楽器に触れているだけでいいんだよ。時間が足りなかったんだって許してくれる。
「自己満足で終わらせない。みんなが満足できるようなものにするって誓って、くれる?」
頭の中の声も今回ばかりは押し黙っていた。
「……最初は無理だなって思っていた。けど、段々と形になっていくうちに完成するのが楽しみになっていた。残念だったで終わりたくない。月並みな表現でしか言えない。でも、僕は本気だ。本当はもう戻りたくなかった。でも、完成したいんだ。これだけ頑張っているのに出来ないなんてそんあのよくない。僕はもう自分のためには弾かない。傷つきたくないんだ。でも、姫乃や弧詠のためだったら、僕は弾く。僕が必要なら僕はやるよ。」
「誓います。」
誓いの言葉を口にしたのは僕ではなかった。
歌鈴だ。
「私もこのまま終わりたくないです。誰にも迷惑掛けないし、弱音なんて吐きません!だからお願いです、続けさせてください!」
身体の奥から震わせたようなその声に先輩は驚いていた。その言葉を聞くと僕たちと先輩の間に弧詠が入り、
「私が二人のことを見ています。それならいいですよね。」
賛成を促した。
「反対だ。」
先輩はあくまで反対の立場を取るようだ。
「君たちのその気持ちは買おう。だが監督者がいない中、一年三人にやらせるのは断固として認めない。年長者としての意見だ。」
「なら、私はこの建物の主として言いましょう。」
弧詠がこの建物の主?何が何だかわからない。
「彩加先輩と合宿をする際、この建物を貸す条件として合宿の成功を私はあげました。もしもこれが破られるようなことがあったのなら私は可能な限り排除しても、いいと。
命令するのはあなたではなく私、です。」
今度は先輩が口に手を当てた。
「そういうことなら私は退こうか。彩加の様子を見ている。」
「そうしてください。」
先輩は部屋をあとにした。
「弧詠……。」
嵐の去った後、弧詠の背中はどこか別人のようだった。それから部屋の奥にあったヴァイオリンを僕に渡す。
「今更ながらなんですが、このヴァイオリン、勝手に使っていいんですか?持ち主の許可もなしに持ち出すのも悪い気がするので。」
ケースを開けながら先輩に聞く。
「いいのよ。そのヴァイオリン、私のものだから。」
えっ、弧詠のもの?
「昨日言ったでしょ、諦めたって。ここに散らばっているもののほとんどは、私のもの。さっきも言ったとおり、そもそもここは私の別荘だから。」
「私のって……。」
「元々ここは私たち兄弟の練習場所だったの。夏休みになるとここで練習をしていた。元々は祖父のもの。今はみんな別々の場所でやっているから、祖父が亡くなったときに私がもらったの。」
弧詠の放つ言葉に僕たち二人は置いてけぼりになっていた。いや、弧詠が遠いどこかに行ってしまっていると言った方が正しい。これが音楽家、なのか。あまりの出来事に呆然としてしまい、差し出してくれている紙の束にも気付かないでいた。
「はい、楽譜。彩加のパートの部分。」
差し出された楽譜は五線譜だった。
「元々はクラシックの音楽から取ってきたものだからこれが原本よ。それを元に彩加が箏譜に変えているの。私は五線譜が読めるし、これじゃないと全体が見えなくなるから五線譜を使っている。」
説明しながらもその足は琴へと向かっていた。
「それじゃ、やりましょう。さっきも言ったけど、時間がないわ。」
ご愛読ありがとうございます。
私的な都合ですが、主に宿題や宿題、課題をこなすため時間が足りなくなりました。そのため今日中に最後まで出そうと思います。
クオリティが低くなりますがその点は皆様の温かい目が見守ってくれることを祈ります。