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第三章

 そして海。練習の後は海で遊ぶことになっていた。天がその予定に合わせたのか、最高の晴れ具合だ。


「ははっ、彩加、その浮き輪はどうしたんだ。」


 ピンク色の水着を身に纏わせている彩加さんの身体には、思わず先輩が笑ってしまうほど大きい浮き輪が抱えられていた。


「だって私、足の付かないところだと泳げないから……。」


 彩加さん、カナヅチなのか……。


「そう言うだろうと思ってこれを持ってきた。」


 先輩が後ろからビーチボールを取り出す。彩加さんは満面の笑みで


「ありがとう、真実子。これなら遊べるね。歌鈴ちゃん、行こう!」


 姫乃を誘った。逆に姫乃は驚いた表情で顔を覗き込む。


「えっ?」


「彩加の指名だ、拒否権はない。さあ、行こう。」


「ええっ!?ちょっと、離してくださいよ!」


 姫乃が先輩に引っ張られて連れ去られていく。その姿を俺と弧詠さんは呆然と眺めていた。


「どうするんだ、これ……。」


 周辺にはレジャーシートやらビーチパラソルやらなんやらが散らばっていた。それを弧詠さんが黙って拾う。俺もそれに従う。

 海に着いてパラソルの設置が終わる頃には、三人は浜辺周辺でビーチボールをトスし合っていた。


「海、行かないの?」


 パラソルの日陰から弧詠さんが問いかける。


「いえ、俺はここで十分です。」


 設置に時間が疲れてしまったからか、もう動きたくない。


「入りにくいの?」


 核心をついてきた。そう言われるとそうかもしれない。


「まぁ、俺は男ですからね。」


「歌鈴ちゃんが怖い?」


 反論できない。勝手に視線が泳いでしまう。


「歌鈴ちゃん、プライド高いからね。ちょっとしたことでも注意されるとすぐ口が出ちゃうからしょうがない。でも、その分努力はする。練習も人一倍やっている。」

「人一倍、ですか…。」


 その言葉が俺の頭の中で引っかかった。


「努力しても上手くなるかなんて、別じゃないですか。そんなもので上手くなるのなら誰だって上手くなれますよ。」


 吐き捨てるように呟いた後にはっとなる。感情が先走る。また言ってしまった。


「そうね、どうしてあれだけ努力するのかしら?私みたいに肩の力抜いた方がいいと思うのにね。」


 俺の想定したこととは反対に弧詠さんは同意した。


「あの子はまだ見えていないからしょうがないかもしれない。音楽を始めたのもこの琴から。上手くなりたいという意志はあって当然。でも気持ちはわかるけど、指がその気持ちに着いていけるかと言うと、それは違う。ゆっくりとやっていかないと、そのうち熱が冷めてしまって嫌いになる。」


 弧詠さんは自分の奥底を見つめるかのように呟いていた。


「でも、努力がいけないなんて言ってない。章裕くんには同意できない話かもしれない。私たちにとってはあの子が刺激になってやる気とかが出たんだから。章裕君は楽しめてないようだけど、今回の合宿もあの子が言わなかったら無かったわ。だから、私が支える。」


「弧詠先輩って裏の部長みたいですね。」


 そう言うと、先輩は穏やかに笑いながら、


「そういえばそうね。私は元々音楽をやっていて詳しいから助言が出来る。逆に言うと支えることが出来るのは会長を除くと、私だけ。」


 吐息をするように言う。


「章裕くんも音楽、やっていた?そうじゃなかったらあんなに細かくは言えないわ。」


 鋭い観察力だ。


「少々やっていました。」


 また嘘をつく。どうして僕は嘘をつく?


「少々?そうには見えなかった。あの指摘は言い過ぎだけど、間違っていなかった。だから、あの子にも不満を述べるのではなく、そこを直して見返そうって言ったのよ。私が手伝うって言ったら応じてくれた。ただ、あれは合宿の間に修正できるから大丈夫と思って放置していた。あの子は唯一音楽経験のない子だから仕方ない。」


 そんなことがあったのか。だから姫乃はあんなことを言ったのか。


「それにしてもアドバイスとかすごいですね。専門的だし、的確です。音楽をやっていたというレベルじゃないです。」


 弧詠さんのアドバイスは的確だった。個人の演奏を見極めてそれぞれにあった方法を助言する。単に音楽をやっていたというだけでは身につかない代物だ。まるで指揮者のようだ。


「それは、家の影響で私は音楽に関する知識は並外れたものがあるから。」


 家?どういうことだ?


織師(おりし)三兄弟って知ってる?」


 織師三兄弟。音楽界で活躍する若手の兄弟。長男の奏太(そうた)がピアノ、次男の弓弦(ゆづる)がヴァイオリン、三男の伶弥(れいや)がチェロの名手だ。


「今度、妹がフルートでデビューするから四兄弟になる。それとも四兄妹かな?どっちにしろ四人になるわ。」


「それって、つまり」




「そう、私は四番目の子よ。そして兄弟の中で一人だけプロに上がれなかった子。」




 衝撃の事実だ。と同時に親近感が湧く。


「実力はあった。でも、どんなに頑張ってもその上に兄がいた。何をやっても織部家の中では駄目だった。兄たちの演奏が上手すぎて頭の中から離れない。どんなに耳を塞いでも兄たちは私の頭の中で曲を奏でる。車の通行音、風の音、人のざわめき。不規則な音なのにそこから旋律が生まれて頭の中で兄たちが現れて曲を奏でて、そして去る。何も聞きたくなかった。嫌だった。音のない世界に生まれたかった。」


 その目は過去を見つめていた。


――織師三兄弟なんて懐かしいな。あの頃の演奏が聞こえてこないかい?


 僕は織師三兄弟を知っている。いやそんな程度のものじゃない。彼らの一人と演奏したことがある。


 そう、僕は音楽をやっていた。やっていたなんてレベルじゃない。アマチュアとしてそこそこのレベルだったと言っても過言ではない。


「弧詠さんは何故、今ここにいるのですか?」


 僕は知りたかった。同じ境遇に僕は惹かれているかもしれない。だからこそ、なぜ音楽をやっているのか知りたかった。


「ふふふふ……。」


 弧詠さんは口を押さえて笑っている。どうしてだ?僕は真面目に聞いたのに変なことを言ったのだろうか?


「章裕くん、敬語なんて使わなくていいよ。私たちは同級生よ。」


「えっ?」


 とてもそうとは思わなかった。同じ学年だなんて、先輩としてしか見ていなかった。


「というより、章裕くんは歌鈴ちゃんと同じクラスよね?私は隣のクラスの人間だし、たまにそっちのクラスに来ていたから何回か見ているはず。」


 そうだったのか?全然知らなかった。


「私も章裕くんを見たことがなかったからお互い気付かなかったのかもね。」


「そうかもしれない。」


「そういえば、どうして私たち兄弟の事を知っていたの?最近活躍しているから世間の知名度は上がっているけど、まだそこまで有名にはなっていない。音楽界に入っていてもよほどマニアじゃない限り知らない事のはず。」


「いえ、僕は弓弦さんと」


 口をつぐむ。弓弦さんと一緒に演奏したことがあるなんて言ったらこの人はどう思うのだろう。どうしても本当のことを告げられない。


「父親に連れられて演奏を見たことあったので。」


「ふうん、そうなのね。」


弧詠さんは納得したようだ。


「そうなると最近ね。兄が出たのってそのくらいからだから。そのお父さん、よほどの音楽好きね。」

 父が連れて行くというのは嘘ではない。僕が音楽をやっていた頃はよく連れられていた。将来は演奏家にさせる気だった。



「二人で楽しそうに何を話しているんだ?」



 濡れた黒髪を纏めながら、ちょうど先輩が話に入る。どうやら海から戻ってきたようだ。


「そうよ、二人とも日陰に入っていないで泳ぎましょうよ!」


 彩加さんも戻ってきた。弧詠に聞くタイミングを失ってしまった。


「でも、この天気だともう泳がない方がいいですね。」


 上方の雲はどんどん黒くなっていく。僕たちが話している間に天気は荒れ模様になっていたようだ。この様子だと早々に揚がった方がいい。姫乃も戻ろうと泳ぎ始めている。その姿は段々と小さくなって……。あれ?



「あれ、流されていないか?」



「えっ……?」


 姫乃はこちらに向かって泳いでいる。しかし、その姿は段々と小さくなっていく。


「潮の流れに流されているかもしれない。下手すると沖まで流されて戻って来れない可能性もある。」


「そんな……。今すぐ助けないと。」


「助けるといってもあそこまで安全にたどり着かないと私たちまで助からなくなる。ここにジェットスキーとかスピードの速いものは無いのか?」


「あります。」


 弧詠が即答する。


「けど、鍵がどこなのかわからないので出せません。」


「そうか……。」


 先輩が口元に手を置く。そして、彩加さんの浮き輪を見てぽんと手を打つ。


「いい方法がある、ヒロはそこで待機して様子を見ていてくれ。他のみんなは建物まで戻るわ。」


 黙って頷いた。僕には何の方法も考え出せないから先輩のいうことに従うことにした。

 みんなが建物に戻っていく。そうしていくうちにも距離は離されていく。疲れが出てきたのか、段々と泳ぎ方に荒々しさが目立つようになった。焦っているのか、それでもこちらに叫ぶことはない。

まだなのか。このままだと手を施す前に届かない距離に辿り着いてしまう。まだか、まだなのか。


「ヒロ!」


 ちょうど先輩たちが戻ってきた。肩に大量のロープを抱えている。


「五百メートルはある。そのくらいあれば、あそこまで届くはずだ。このロープをこれに繋げて……。」


 説明しながら、しゃがんでロープの先を浮き輪に巻き付ける。呼吸をする度に肩が大きく上下し、額には汗が浮かび出ている。


「よし、これなら大丈夫だ。ヒロ、これを使ってあそこまで行ってくれ。着いたら大きく手を上げて合図をしてくれ。そしたら私たちが岸から引っ張る。」


 その目は僕の方を向いていなかった。まだ肩で息をしている。全力で走ったからだろう、顔を上げる力が残っていないのかもしれない。



「……。わかりました、行ってきます。」



 何で行ってきますなんて言ったのかわからなかった。とにかく浮き輪を持って波に向かって走る。

 最初のうちは泳ぐよりも走る方が早かった。しかし、一分もたたないうちに足の着かないところまで辿り着く。ここから姫乃のところまでまだ、相当な距離がある。浮き輪を肩に担ぐ。泳ぐのはあまり得意ではない。でも、そんなこと言っている場合ではない。意を決して僕は、身体を水面に浮かべた。

泳ぐのは意外と遅くなかった。それまで点だった姫乃の姿がはっきりと見えてくる。向こうもこっちに気づいたのか、泳ぐのをやめて浮かぶだけになっている。




「姫乃!」




あと十メートルのところで叫んだ。


「バカッ!危険なのに、危険なのになんで来たの!」


 予想外の反応が返ってきた。どう見てもお前の方が危険だ!


「みんなを巻き込みたく無かったから、あそこに掴まって、助けを待とうと考えていたの!」


 姫乃が指さしたのは巨大な岩の塊だった。たしかにあそこに掴まっていれば一時的に避難できるが、誰も救助が来なかったら結局意味がないだろ!


「これに掴まって!」

 姫乃に向かって浮き輪を差し出す。しかし、手を伸ばしてこない。


「なにやってんだよ。ここで強情張っても意味がないよ。」


「違うの。手が、伸びないの。」


 姫乃は今にも沈みそうな身体を支えるのに精一杯な様子だ。このままでは埒があかない。こちらから手を伸ばす。


「くっ。」


 なかなか上手く掴まらない。そうこうしているうちに姫乃の髪の毛が手に絡まる。




 髪の毛?

 そうだ、これを引っぱれば姫乃に近づけるかもしれない。




 右手で髪の束を掴んでぐいと引き寄せる。


「痛っ!」


 姫乃が軽い悲鳴を上げる。しかし、上手く近づいた。姫乃が浮き輪に手を置く。これで完了だ。岸に向けて大きく腕を振る。


「これでひとまず安心だ。大丈夫、疲れてない?」


「別にまだ大丈夫よ、心配しなくてもいいわ。」


「だから強がらな……、うわっ!」


 右足の先に痺れを感じた。足の指が抜けて動かすことができない。沈まないように浮き輪を掴み、残る片足を必死にバタつかせる。


「どうしたのよ!」


「あ、足が吊った。」


 半ば錯乱状態にあった。片方の足だけじゃ浮力を出しきれない。身体が段々と重くなっていく。


「うわっ!」


 手が滑って浮き輪から離れてしまった。身体が沈む。ここで沈んでしまうのか。言い知れぬ恐怖を感じた。

 浮き輪に掴まろうと必死にもがく。駄目だ、段々と離されていく。


「糸音!」


 姫乃が手を伸ばす。もたつきながらも手を伸ばす。


 届かない。


 限界まで伸ばしているのに届かない。


 そうしているうちに手と手の間が広がっていく。


「ど、どうしよう。」


 体が段々と低くなっていく。掻く力ももう残っていない。こんなところで沈んでしまうのか。


「糸音!待ってて!」


 姫乃が浮き輪の上に登る。何をする気だ。


「てぇい!」


 ばしゃんという音とともに姫乃が飛び込んできた。僕にがっしりと掴まる。


「姫乃!何をやっているんだ。そんなことしたら……。」


「大丈夫。」


 そう言って彼女は手に持っていたロープを見せる。


「これを手繰り寄せて浮き輪まで戻る。離れないようにしっかり掴まって。」


「あ、ありがとう。」


 言われるがままに姫乃の身体に掴まる。やがて浮き輪へと辿り着く。


「まったく!ミイラ取りがミイラになってどうするのよ!どうして私が助ける立場になっているのよ。だから糸音に来て欲しくなかったの!」


 浮き輪にぶら下がっている間、姫乃は延々と僕に怒りをぶつけていた。


「大体なんで糸音なの?先輩方に来てもらった方がまだ安心感があるわ!」


 だから全力で行動をしたくなかったんだ。僕は無力だからこうやって誰かに迷惑を掛けてしまう。嫌なんだ。姫乃の身体にしがみつきながらまた思っていた。 





 ふにっ。





 さっきから顎に柔らかいものが当たっている。視線を下に逸らす。


 そこには姫乃の豊満な胸が間近に存在した。一時のパニックから解放されたせいか、今更ながら、姫乃の柔らかい身体に抱きついていることを確認した。離れようにも足を吊っているので離れることが出来ない。


「まったく……。聞いてるの!?」


 姫乃がこちらに視線を向ける。間の悪いことに僕はどうしようか赤面しながら姫乃の胸を見ていた。姫乃も僕の視線の先を追いかけて、

 そして、


「きゅあああ!い、糸音、どこ触っているのよ!抱きつかないで!」


 引き離そうと暴れ出した。周囲に波が出来る。


「やめろ、暴れるな!沈む沈む!」


 そう叫ぶことしかできなかった。このあと、僕たちは死なずに岸まで辿り着いた。

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