第二章
何かが聞こえる。琴の音。誰だろう?
音色は建物の外から聞こえる。外に出ると、彩加さんが袴姿で琴を弾いている。段々とそのテンポは急に速く急に遅くなって……。リズムを失って曖昧な旋律となっていく。聞いているだけで酔いが回ってしまいそうなその旋律はいつの間にか周囲を支配して……。
「がはっ!」
そこで僕は目を覚ました。目が覚めるとそこにはいつもと違う天井が広がっていた。合宿所。そうだ、僕は物置で寝ていたんだ。
耳元から曖昧なテンポが聞こえる。さっきの音だ。体を起こす。音がするのは隣の部屋、練習部屋からだ。
扉を開ける。そこに姫乃がいた。正座をして何かをやっている。
「……。」
「なにやっているんだ?」
姫乃は白黒のパジャマ姿で琴を弾いていた。
「練習よ。糸音には聞こえないかもしれないけど。」
「いや、そういう意味じゃなくて今何時だと思っているんだよ?」
手元の時計は七時を指している。予定では起床時間は八時だ。
「いくらなんでもこの時間帯に練習するなよ。普通寝てるだろ。」
「何言ってんのよ、みんな起きてるわよ。」
「えっ?」
嘘だろ?こんな早くに目を覚ますわけないだろ。
「深樺先輩と弧詠先輩は朝ご飯作っているわ。黒柳先輩は私が起きたときにはどこにもいなかったわ。起きていなかったのは糸音だけよ。」
朝早く起きているのがさも当然のように返された。しかし、それが当たり前の現実のように感じられてしまう。自分だけが輪に交じれていないような、そんな気分だ。
「とにかく、練習の邪魔だからどっか行ってよ。」
うるさいと思う俺が間違っているのだろうか?わからない。姫乃の言っていることが現実かも知れない。かといって、姫乃の下手な演奏に耐えられるほど僕の耳は万能ではないのでどこかに退出しようとした。
「それと姫乃。」
「何?」
去り際に姫乃に話す。いくら姫乃のことが嫌いでも、昨日のことは言い過ぎた。今のうちに謝っておこう。
「昨日のことだけど、すまな」
「言わなくていいわ。」
「えっ?」
「糸音が言ったことは間違っていないことなのでしょ?だったら謝らなくていいわ。謝るくらいなら最初から言わないでほしい。」
どうしてそんなことを言うのかわからなかった。昨日と違って前向きになっている。
「言い過ぎたことぐらい謝ったっていいじゃないか。」
「よくない。糸音が謝るときは私が完璧に克服したときでいいわ。」
逆にこちらを挑発する。目と目が向き合う。視線を逸らして言い放つ。
「わかったよ。お前が元々俺の言うことを聞かないのは知っているから好きにしろ。」
怒って外に出た。何故、あんなに挑戦的な態度を取るのかわからない。
――いいじゃない、昔のキミみたいに意欲的で素敵だと思うよ。
彩加さんたちは朝から練習していた。昨日のように部屋にいることは気まずい。だが、他に居場所がないから練習を聞いていた。姫乃の表情が前にも増して真剣味を帯びているように見える。俺が言った一言が聞いているのかもしれない。
何故、あんなに練習するのか俺は理解できない。もう、永遠に理解できないだろうな。
努力する意味なんてわからない。どんなに頑張っても上には上がいる。程々って意味がわからないのか?
「くっ……。」
音合わせ。やっぱり姫乃だけテンポがずれている。
「歌鈴ちゃん、もうちょっと落ち着いて音を聞いた方が……。」
一番マズイのは姫乃の役割だ。何回か聞いてわかったことだが、姫野の担当はバンドのベースに当たる部分が多い。要はテンポ取りだ。そのため、姫乃がずれると全員がずれてしまう。素人目でもわかることだ。
「歌鈴ちゃん、そこを演奏するとき、どの指に力、入れてる?」
聞き慣れない声が聞こえる。弧詠さんだ。話すところを聞いていないせいか、耳が慣れていなかった。
「親指ですけど……。」
「うーん……、ここは中指に力を入れて演奏した方がリズムを刻めると思うから中指で、やってみて。」
姫乃は軽く頷いて、早速練習してみた。そして、もう一回音合わせする。
「あっ!」
訂正された部分が綺麗な和音を奏でる。
「言ったとおりね。」
その後も弧詠さんの指摘を受けながら練習は進んで行く。間違いが多かった部分も、徐々に消えていく。午前中の練習が終わる頃には完成していると言っても差し支えないレベルにまで上達していた。
「これで午前の練習は終了。お昼ご飯にしましょう。」
姫乃と目があった。満足げにこちらを見ている。認めるよ。姫乃が頑張ったのは認める。だが、それよりもその頑張りを最大限生かした弧詠さんが怖すぎる。