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第一章

本当は2011/08/31締切の「第24回富士見書房ファンタジア大賞」に投稿する予定だった作品ですが、指定枚数で完成させる見込みがなかったのでこちらに投稿することとなりました。

データが飛んで残り2週間でやらなければいけない状況になってしまったのが主な原因だろと友人には突っ込まれましたが・・・。

 夏が訪れた。


 決まりなど無く突如降る雨。決まったかのように打ち上げる花火。どこに行っても鳴いている蝉。とにかく夏は騒々しい。どこに行ってもノイズに満ちあふれている。雑音から逃れるように僕は家に篭もっていた。


 しかし、僕はその太陽が照りつける中、駅前のロータリーで待ち合わせをしている。辺りからは潮風の香りがする。何でこんなところにいるのか。先輩に呼ばれたからだ。とにかく僕はある同好会の合宿に参加するために駅の前で待ち合わせをしている。



「わっ、海が見える。」



 隣にいた長い栗色の髪の女の子が感嘆の声をあげる。その女の子はもっと近くで見ようと海の方向へ駆け出す。彼女は深樺彩加(みかば・あやか)。今回僕が参加する合宿の責任者である。


「糸音君、関係ないのにわざわざ来てくれてありがとうね。」


 彩加さんは深々とお辞儀をする。お辞儀をする際に、彩加さんの長い栗色の髪が風に揺れた。香水でもつけているのだろうか、甘い匂いを感じた。

 彩加さんたちの団体は箏曲同好会。琴など伝統楽器を使って演奏する団体だ。結成したときに規定の人数に達していなかったから、同好会のまま活動している。生徒手帳で確認したのだが、部活動として公認してもらうためには最低でも五人のメンバーが必要である。彩加さんに聞いたところ、メンバーはまだ三人しかいないそうだ。

 他のメンバーも今のところ姿を現さない。今のところ、駅前には僕と彩加さんと、



「ヒロのことはいいよ。どうせ暇でしょうがなかったのだから。」



 そしてここに呼び出した張本人である黒柳真実子(くろやぎ・まみこ)だけだった。すらっとした長身に白のワイシャツ。その黒い長髪さえなかったら美男子とも間違えられそうな端整な顔立ち。僕の所属している新聞部の部長である。三年の部員がいなかったから、二年にして部長なんて立場にある。

 先輩には言い返したかったが、実際暇だったから反論できない。確かに先輩が連絡を入れなかったら、僕はどこに行くことも無く、家の中で夏休みを過ごしていたに違いない。

本当はあまり乗り気ではなかったが、先輩の誘いだから行くことにした。中学の時から後輩の僕を巻き込んでいたからもう慣れた。しかし、さすがに合宿はないだろう。


「で、先輩。本当に払わなくていいんですよね。」


 僕は彩加さんに聞こえないくらいの声で先輩に質問した。先輩はたまに冗談で僕を嵌めるから、どうしてもこれだけは確認したかったのだ。


「ああ、それが条件で私も来たのだから心配しなくていい。それとも一々口にしないといけないくらいお金に困っているのかな?」


 人をおちょくるような態度で答えを返された。そう、僕たち新聞部は何も払わなくていい。僕に声を掛けたのは、彩加さんたちだけでは合宿の人数に達しないから数合わせのためだそうだ。


「さっきも言ったとおり、どうせ暇だったのだろう。この合宿で楽しみなさいな。」


 先輩は邪念のない笑みを浮かべる。


「合宿といって他の部活動の合宿と違い、ここはそこまで真剣なものではない。ここは同好会なのだから。それに、私たちは部外者なのだから、楽しんでいこうではないか。」


 

「おはようございます。」



 僕たちに掛けてくる声があった。振り向くと、同い年くらいの女の子がいた。桃色の髪の毛。美しい顔立ち。風に揺れるその姿は春のそよ風を感じさせるような、そんなイメージだった。この暑い場所でも涼しさを感じさせる、と同時に何か触れてはいけないようなものを感じた。


 彼女をどこかで見たことがあるかもしれない。いや、見ていないかもしれない。でも、彼女のその黒い瞳は僕に何かを想起させる。


「あっ。」


 その女の子は僕の顔を見るなり驚きの声をあげた。


「あっ。」


 僕も驚きの声をあげた。言葉に釣られたからではない。やはり、その女の子に見覚えがあったからだ。


「確か同じクラスの、えっと…。」


 相手は僕のことを思い出せないみたいだが、それは僕も同じだ。クラスメートで授業や行事でよく意見をしていたのは覚えているが、名前は思い出せない。日頃の人付き合いの悪さがここに来て出てしまった。記憶の中を漁っているが何も出てこない。



「思い出した。……糸音?」



「……姫乃(ひめいまし)?」



 ようやく思い出した。姫乃(ひめいまし)歌鈴(かりん)。同じクラスの女子。常に成績がトップクラスで、行事などにも意欲的な姿を見たことはある。それ以外は何も知らない。彼女がここに入っていたなんて全く知らなかった。


「歌鈴ちゃん、もしかしてお知り合い?」


 僕たちの様子を見て彩加さんが訊いてきた。


「ただのクラスメートです。」


 姫乃は何とも答えづらい様子だった。そりゃそうだろう。彼女が僕を知っているのは僕が糸音章裕(いとね・あきひろ)という、クラスで一番目に呼ばれやすい名前ということぐらいだろう。そして、僕は一番目に呼ばれている。やっぱりそれしかないと思う。



「ただのクラスメートと呼ばれて不満なのかな?」



 先輩から見て、俺の顔が楽しそうな表情をしていたのか背後でこっそりと言う。


「彼女とは知り合いでも何でもないんで、そんなことどうでもいいですよ。」


「そうか、ヒロを連れてきて正解だったようだな。」


 何を勘違いしたのか、先輩が意味ありげな答えをする。先輩はいつもこうだ。


「だから、知り合いでもなんでも……、うわっ!」


 荷物に足を取られてバランスを失う。だめだ、このままだと倒れる。必死にもがいているうちに何かを掴んだ。糸の束みたいな、手に掴んだそれを引っ張って立ち上がろうとした。


「きゃっ。」


 姫乃が悲鳴をあげる。そっちの方を向く。同時に掴んでいたものの正体がわかった。




 姫乃の髪の毛だった。




「痛いっ、離して!」


 姫乃はもがくが、もがけばもがくほど、こっちが離れまいと必死になる。そして、


「きゃあっ!?」


「うわっ!?」


 お互いに身体を支えきれずに倒れてしまった。僕の身体に折り重なるように姫乃が乗っかった。


「二人とも大丈夫?」


 彩加さんが声を掛ける。


「大丈夫です。」


 答えたのは姫乃だった。まだ掴んでいる僕の手を振り払って起きあがる。それに続いて僕も起き上がった。


「……。」


 姫乃は黙って引っ張られた箇所を撫でるように確認する。


 そういえば、彩加さんの側に別の女の子がいる。何というかフランス人形みたいに感じがする。大昔のビスクドールのような人みたいなそれでいて、人でない印象。顔料を塗りつけたかのように白い肌、さらには耳元で切り揃えられた黒髪が作為的に感じさせてそれを印象づける。


「車が着いたそうなので、移動しましょう。」




 合宿所は浜辺の近くの小高いところに建てられてあった。ここからだと海がさらに近く、潮の香りがよりいっそう感じられる。


「なかなかいいところだ。」


 先輩が思わず感嘆の声を漏らした。周りに何も建造物が無いせいか、景色はとてもいい。

 合宿所は旅館と言うよりは別荘という感じだ。建物がどう見ても一軒家で。駐車スペースもそれほど広くなく立地がいいとはいえない。どこかの別荘を借りたのだろうか?


「みんな、荷物を運んだら掃除するからよろしくね。」


 掃除?一瞬ぽかんとしてしまったが、すぐに予定を思い出した。先輩から聞いた話によると今回の合宿は知人から別荘を数日間借りることによってコストを抑えている。

しかし、聞いた話よりも建物が豪華すぎてすっかり忘れていた。


「あっちの倉庫には何に使われているのですか?」


 奥にあった倉庫を指さす。


「ここは山みたいな地形でなおかつ近くに海があるでしょう?山と海で遊べるようなものが入っているの。バーベキューからキャンプまでできるみたいよ。」


 彩加さんが一旦言葉を切り、意味ありげに顔を近づける。


「海はプライベートビーチだから誰も来ないし、山も敷地内だから遊び放題なんだって。それに、元々ここで音楽をするために立てられた場所だから、練習室も完備しているの。」


 その情報に驚きを隠せなかった。そこまでの設備だと入れるのは全国大会に出場しているようなところくらいだ。ましてや同好会である彩加さんたちが、こんな理想を詰めたような場所に何故泊まることができるのか。


「私もわからない。弧詠(こよみ)によると、ここは相当有名な音楽家の別荘みたいなの。


「弧詠?」


「そうか、まだ挨拶してなかったよね。前で鍵をあけているボブカットの子よ。」


 彩加さんが指さした先にはさっきも見たフランス人形のような女の子が立っていた。隣にいるのは車でここまで送ってくれた人だ。まだ鍵の確認をしている最中なのだろう。


「とにかく、しばらく使っていないから綺麗にするという条件で格安にしてもらったの。ラッキーよね。」


 彩加さんはそう言うが、僕はやっぱり腑に落ちなかった。


「それにしても、どうして合奏用の練習部屋を建てたんだ?高名な音楽家ならわざわざこんな辺鄙な場所に来なくても練習場所なんて他に五万とあるはずだ。」


 先輩の質問は的を得ていた。ここまでの移動には都会から電車で移動する上に、さらに車で移動する。普通ならこんなところに建てたりはしないだろう。


「うーん、それはさすがにわからないな。人によっては自然から感じたインスピレーションを力にする人もいるから、大自然から得た物をすぐ形にできるように練習部屋を作ったかもしれないわね。」


 得たものを形に、か。


「音楽家とはよくわからないものだ。」


 先輩のその言葉に共感した。


「彩加。鍵、開いたよ。」


 弧詠さんが彩加さんに声をかける。近くで見ると肌の白さが際立って見える。その白さは純白と言うよりは病的な様相を感じる。


「弧詠、ありがとう。鍵が開いたから荷物を運びましょう。」


 扉を開けるとそこは大部屋だった。建物は二階建てで階層ごとに大きな部屋が一つずつある。この一階の部屋を練習部屋にするそうで、荷物を運んでいる。

 練習部屋にはヴァイオリンやフルートなどの楽器がケースに入って無造作に床に転がっていた。つい最近まで誰かがここを使っていたのだろうか。だが、彩加さんの話によるとしばらく使っていないからそれまで放置されていたのかもしれない。それにしても散らばった楽器の数が多い。

 これだけあるのなら、部屋に荷物を運ぶ前に部屋の荷物を一箇所に纏めた方がいいだろう。ケースを部屋の隅に運んだ。

 オーボエにフルート、ウクレレまである。だいぶ範囲が広いな。館の主は多才なのだろうか。床に落ちていたヴァイオリンのケースを手に取った。


――懐かしいね。


 どこからか声が聞こえる。振り向いても誰もいない。


――開けてみようよ、かつてのように。それをすることが全てだった、あの頃のように。

 その声が僕の頭の中でしているものだと気づくにはそう時間が掛からなかった。

 ケースを手に持った感覚からかつての僕が蘇ってくるようだ。

 好奇心が僕を誘う。開けてみようか?



 やめろ。



 もう一つの声が叫ぶ。それは僕の心の奥底から、痛みを伴って。


 それを開けてはいけない。


 警告ともとれるその痛みはとても立っていられるようなものではなかった。うずくまって胸を押さえる。それでも痛みは治まらない。


 胸を締め付けるような痛みに苦しむ。


「糸音。」


 不意に背後から声を掛けられる。姫乃が僕に声を掛けてきた。


「こんなところで何しているのよ。」


「何って、僕は、あれ?」


 言葉が続かなかった。何をしているか、今の状況を語ることができない。無意識のうちに俺はヴァイオリンケースを大事そうに抱えてしゃがみ込んでいたのだ。額には汗がにじみ出ていて、正気だったとごまかすことはできない。


「体調悪そうだけど大丈夫なの?」


 こちらの様子に気づいたのか、姫乃が心配そうな様子で顔を近づける。

 それを否定するかのごとく、俺は姫乃から遠ざかる。


「心配する事じゃない。ちょっとした立ちくらみだ。」


「ならいいけど。それならさっさと荷物を運んでもらいたいわ」


 さっき髪の毛を引っぱったことに対してまだ怒りが収まらないのだろうか、刺々しい言葉を掛けてくる。

 作業を再開するためにヴァイオリンケースを隅に置く。もう、開けてみようなどという衝動は起きなかった。

 誰の楽器かわからないけど僕の過去を想起させようとした。忘れろ。もう僕は楽器を弾かないって決めたのだから。




 掃除は予定通りに終わった。それから全員で寝室となる二階の大部屋に集まった。大部屋と言っても、ここも一階の部屋と造りは変わらないのだが、テレビやソファなど居住用の家具が配置されているため、寝室と定義されているのだろう。

 部屋には全員が集まっていた。みんな待ちくたびれたのか、窓から太陽が海面の裏側へと消えていく様を飽きもせずに眺めている。


「全員集まったわね。これからのことについて会議を始めましょう。」


 会議、といっても予定表の読み合わせと確認事項だけだ。わかっていることだらけだったので聞いている内に眠くなってきた。


「次に確認したいことは――」


 さっき身体に起こったことのせいか身体が重い。彩加さんが何言っているのかもうわからない。そもそも、僕はメンバーじゃないから、やってほしいこととか言われても関係ない。


「訂正部分があるの。ここの部分だけど――」


 座りながら聞くのも面倒くさくなってきた。周りには失礼だが、身体を伸ばすように仰向けになった。

 天井が見える。視力はそんなに悪くないのか壁紙の凹凸がよく見える。

 退屈だったのか、ついつい窪みの数を数えていた。


 ………………………。


 …………。


 ……。 


「糸音、糸音。」


「んんっ……。」


 気がついたら僕は部屋の床で寝ていたみたいだ。姫乃が上から顔を覗かせている。


「何だよ。」


「何だよじゃない、大事な話し合いで寝ないでちょうだい!」


 まだ話し合いが続いていたのか。しかし、僕がいなくても大丈夫だろう。


「ヒロくん、一つだけ相談したいことがあるの。どうしてもヒロくんの意見を聞かないとね。」

 彩加さんにも頼まれた。それよりも彩加さん、僕のことを何て呼んだんだ?きょとんとした顔をする。



「もしかして、呼び名のこと?真実子がヒロくんの事を『ヒロ』っていうから、私も『ヒロくん』って呼ぶことにしました。」



 気恥ずかしさからか、ヒロくんと呼ばれる度にムズムズするような感覚を得る。


「それで話なのだけど、寝るときはみんなこの部屋で寝ることにしたの。でも、それだと一つ不都合があるの。」


「あぁ…。」


 言いたいことがわかった。今回の合宿で男子は俺一人だけだ。俺を一緒の部屋にさせるか、それとも別の部屋に一人寝かせるか悩んでいるのだろう。男子一人が女子の部屋に入るのはどう考えても気まずい。


「別に俺は物置に入れてくれても一人で寝ますよ。」


「それがヒロくんや私たちにとって最良の選択肢なんだけど、できないのよ。」


 彩加さんが。


「この建物で冷暖房の設備が付いているのはここと一階の部屋、あとは台所だけ。熱射病にでもなったらどうするんだ。」


「そこまで慎重にならなくても。」


「ヒロの言うことにも一理ある。普段の合宿ならそれが正しい。どんなに無茶な行動をしたって責任なんて顧問が取ってくれるのだからそれでいい。」


 いつもの先輩だ。相変わらず人の気を使わない発言だ。



「しかし、今回の合宿には顧問がいない。だとすると責任は誰が取ることになる?」



「あっ。」


 彩加さんの顔を見る。彩加さんが合宿の責任者だから責任は彩加さんになる。


「一応、体裁は旅行ということになっているが、同好会が取りつぶされるのは確実だろう。そこまで聞いて迂闊な行動をする気になるのか?」


「ヒロくんの気持ちはわかるけど、そういう事情だから仕方がないのよね。それに、」



「私は反対です。糸音と一緒の部屋なんて嫌です。」



 場の空気を読まずに姫乃が反論する。さっきのことで根に持っているのだろう。


「とにかく嫌です!」


「歌鈴ちゃんの気持ちはわかるけど、部屋がないの。」


「……。」


 彩加さんの説得に返す言葉が出ない様子だ。姫乃には賛同したくないが、ここで決定すると女子部屋の中に入ってしまう。

 そう、僕は女子部屋に入りたくないから意見をする。


「あの提案っすけど、練習部屋は駄目ですか?」


「ヒロは根暗だから、夜こっそりと琴をペロペロと舐めるかもしれない。」


「根暗ですけど変態じゃないからそんなことしませんよ!てか先輩、さっき人畜無害って言ったじゃないですか。なんで話をこじらすんですか?」


「いや、ヒロが何か言いたそうだったからカマを掛けてみただけさ。」


 この人はいつも俺で遊ぶ。


「とにかく、私は糸音とは別の部屋がいいです!」


「うーん、どうしようかしらね。」


 彩加さんが頭を抱える。話がまとまらない。

 急に階段をドタドタと歩く音が聞こえ、ドアが開く。ドアから顔を覗かせるのは、いつの間にか姿を消していた弧詠さんだった。


「夜ごはん、できたよ?」


 さっきからいないと思ったら夕飯の準備をしていたのか。ひとまず、話し合いは中断になってご飯を食べることにした。 


 そして寝る場所の話だが、ご飯中に彩加さんが話すと



「練習部屋の隣に使われていない物置があった。あそこならひんやりとしているから冷房が無くても大丈夫なはず。」



 弧詠さんの話が決定的となって俺は物置で寝ることになる方向へとあっさり決まってしまった。今までの話し合いはなんだったのだろうと少し考えてしまった。



 練習は夕食後から早速始まる。予定表にはそう書かれていた。

 しかし、実際に始まったのはそれより二時間後、夜の九時だった。そんな時間ならもう寝ればいいのだが、さすがにやらないのはということでやることになった。俺はというと、特にやることもないうえに隣の物置でただいるだけというのもなんか変だから練習を聞いている。


「今日はもう遅いから三十分くらいで音合わせして終わりましょう。」


 指示をする彩加さんは浴衣姿だった。白い浴衣に柄は無く、上に行くにしたがって桃色が濃くなっていくシンプルなものだった。だが、それが彩加さんに合っているようにも感じる。髪は結って上のところで纏められている。何というか、涼しさを感じた。夏の熱い空気を冷やす風鈴の音色のような、簡素ではあるがしっかりとした存在。床に正座になって琴を弾く様は美しく、なおかつ安心があった。


「そんなところに突っ立って上から目線で見ないでくれる!?」


 地べたから僕に突っかかってくるのは姫乃だった。姫乃の浴衣は花火模様と呼べばいいのだろうか、とにかく派手だった。髪も乱れっぱなしで和服らしくなかった。逆にその派手さが映えていた。それが姫乃の本来持っている美しさなのかもしれない。

弧詠さんも浴衣を着ていた。こちらは黒の布地に紅と白の小さな紅葉が控えめに舞い散っていた。物静かさ?寂しさ?涼しさとは違う何かを感じた。


「上から見て人の谷間を覗きたいの、この変態が!」


 目線に気づかれたのか姫乃が怒る。衣だと、姫乃の大きな胸がどうしても目立ってしまう。僕は特にやましいことは考えていなかったけど、それに大人しく従った。

三十分聞いているんだが、みんな楽譜に視線を通しながら弾いているだけで何をしているかがわからない。おそらく弾いているのはクラシック音楽系の何かだろう。ポップスのようにリズミカルなテンポだが、音に重みを感じる。しかし、楽譜が一般的な五線譜じゃなくて、何やら漢数字が書かれた物であるのでどうなっているのか訳がわからない。

気がついたら予定の時間になっていた。


「どのくらいできたかわからないけど音合わせしてみよう。」


 そんなこんなで演奏が始まろうとする。今までざわめいていた音が、一斉に消えた。

 静寂の中から、一つの音色が生まれる。先行する音色に従って音が入っていき、気がついた頃には音楽が、始まっていた。

 複雑に絡み合う音色が一つの空間を創り出す。空間に引き込まれるように音に聞き入る。

 気付けば、考えることを忘れていた。聞こうと集中していた精神もどこかへ消えて、今は曲に聞き入っている。

 曲が終わった後も余韻に浸っていて拍手を送ることができなかった。



「どうだったかな、今の曲。」



 彩加さんが恥ずかしそうに僕に感想を求めてきた。なんだろう、何を言えばいいのか解らなかった。そのくらい演奏がよかった。ただ、よかったですと単純な想いを告白するだけでいいのか、迷った。


「そんなに気むずかしく考えなくてもいいのよ。」


 ただ、この演奏にも一つだけ障る音があった。空間に入ろうとするたびにその音が僕を跳ね返す。


「なんか文句ある?」


 今も声に出して僕を跳ね返す。姫乃が刺々しい言葉を僕にぶつける。その言葉に反発してみたい衝動に駆られた。



「姫乃の存在が完全に浮いていますね。」



 言った後に口をふさぐ。思ったことを吐き出してしまった。


「なっ…!」


 姫乃が虚を突かれたように言葉を発する。自分が言われるなんて予想していなかったようだ。


「理由はわかるか?」


 先輩が僕に意見を求める。できればこれ以上深くは言いたくない。


「素人の意見ですよ?僕の言ったことがあってるとは限りませんよ?」


「素人でも意見は意見だ。吐いた唾を飲み込むことはできない。それに、合っているかどうかは本人の判断であってヒロや私が判断することではない、そうだろ?」


「そうよ、ここまで来ていい逃げは無しよ!聞いてあげるから早く言いなさいよ!」


 姫乃まで…。後悔しても知らないからな。


「とにかく、姫乃の音が並外れて大きいんです。一人だけ浮いています。もっと酷いといい流れなのに姫乃一人で台無しにしています。原因は他人の音を聞いていないからですね。自分のところだけやっているから他人とズレていつの間にか一人だけになっている。」


 姫乃は黙っていた。しかし、時折こちらを睨みつける。


「それに他の人と比べて変なポーズが多い。無意識の癖かもしれないけど一番最後のは完全に狙っていた。しかもそのせいで間違えてる。」


「何でそんなに言うのよ!?」


「聞くって言ったのはおまえだろ?それに――」


 もう、僕を止めるものは何もなかった。だから、言いたいことを全て吐いていた。



「一人だけ明らかに下手だから。」



 ぱちんっ。





 頬に乾いた音が響く。


 眼前には怒った姫乃の顔があった。目が充血している。瞬間、悟った。言い過ぎてしまった。


「糸音に……。」


 感情の昂ぶりからか、言葉が続かない。間近で見ているせいかそれがひしひしと伝わってくる。


「糸音に何がわかるって言うのよ!」


「歌鈴ちゃん!」


 彩加さんが叫ぶ。先輩も間に入った。


「その辺にしよう。彩加、初日だから練習を早めに切り上げてもいいだろう。」


 練習はそこで終わった。これ以上続けることは可能ではなかった。




「冷たっ!」


 月明かり。八月といっても夜になるとやはり肌寒い。ましてや、こんな状況で屋外のシャワーで身体を洗っていたら余計肌寒い。

入浴問題。あのとき、部屋割りとともに話されていたもう一つの問題。男子と同じ水を使うことには全員が反対していた。幸い、こんなところに海水浴の汚れを洗い流すためのシャワーがあったのでこの問題は片付いたのだが、


「はっくしょん!」


シャワーからは水しか出てこない。しかも蛇口をひねって出すものではなく、足下のボタンを押したら数十秒だけ水が出てくるものだ。そのため、定期的に押さないと水が出てこない。それもそうだろう、ここで身体を洗うなんて誰が想定したのだろうか。

何で僕はこんなところにいるのだろうか。わからない。場違いのような気がした。もう、僕なんてこの世界をやめた人間なのに。先輩をなぜ僕を呼んだのだろう。


――またいつでも戻ってこれるだろうに、どうしてそんな強情を張るんだい?


 またあの声が頭の中でこだまする。やめろ!もう僕は身を離れた人間なんだ!今さらやるなんて、そんなこと……。


「はっくしょん!」


 これ以上ここにいると風邪を引いてしまいそうだ。そそくさと服を着て建物に戻ろうとする。

ふと、建物の方から扉の開く音がする。人影が一つ、建物から出て行くのが見える。あれは、先輩?

その人影は僕に気づかないでそのまま海の方へ歩いて行った。

 何をしにそっちへと向かったのだろうか、気になって後を追いかける。

浜辺に差し掛かると前方に座っている人影が見える。向こうはこっちに気づいたようだが構わずに視線をまた海原へ向ける。


「先輩。」


「ヒロ、どうした?」


 いつもの服装で先輩は海を眺めていた。それだけだ。


「特に用事はないですよ。散歩に来た、ただそれだけです。」


 嘘をつく。用事があって来たのに素直に言えない。


「そうか。」


 先輩はただ短い言葉を発して海を見つめるだけだった。

 先輩はここへ何をしに来たのだろうか?

 しばしの沈黙。

 聞きたいことがある。

 一言それだけ言えばいい。

 

 でも、どうしても聞けない。


 波の音が僕を押し出す。

 先輩はもう僕なんて見ていないで海原を見ている。


「先輩は何をしているんですか?」


 波の音を切るように、口を開いた。


「ただ潮風に身をゆだねているだけ。でも何故、そんなことを聞くのか。」


「ただ気になっただけです。」


「それでここまで来たのか?本当に?」


「こんな時間にたまたま来ただけです。気がついたらここにいた、それだけです。」


「誰に自分の悩みを打ち明けるか悩んで、そして無意識に私の方へ出向いたということか?」


 図星だった。先輩に行動を読まれていた。


「そんなに久しい付き合いではないが、ヒロの行動は単純だからね。」


 先輩は笑みを浮かべる。



「いい加減私に身を委ねるのはやめてくれないかな?ヒロが期待しているほど私も万能じゃない。それに私だって人の上に立つにはまだ若い。私だってヒロと同じく、誰かに身を委ねたいのだよ。」



「……。」


 先輩は笑っていた。笑って僕を突き放す。


「悩みはそれに関連したものだろ。私をきっかけに動いたのはいいけど、なかなか次の一歩が踏み出せずにいる。本当に自分の道がこれで合っているのか、聞くことができなくて足踏みしている。」


 全てを見抜かれていた。本当に自分がどうすればいいのかわからない。新聞部に入ったのも先輩がいたからで特に深い意味はない。


「そういえば、姫乃はどうしていますか?」


 話題を変えてみる。


「そうやって話題を逸らすのがヒロだ。彼女のことはわからない。私も風呂で火照った身体を覚ますためにここに来たからどういう様子なのかは知らない。」


「じゃあ聞きますよ、どうして僕を誘ったんですか?」


 どうしてなのか聞きたかった。先輩だったら他に誘う人間はいたはずだ。なのに、なぜ僕を誘う?


「ただ単に人が足りなかっただけだ。それ以外の理由なんて無い。どうしても彩加たちの合宿の手伝いをしたかったから。本当にそれだけだ。ヒロがあれこれ言いたい気持ちはわかる。」


 何と言っていいかわからなかった。先輩が本当にそう考えているのか推し量れない。先輩なら何か他の意図があるかもしれない、動けない僕のために何か考えたのかもしれないと過度な期待をしていた。


「一度消えてしまった炎を再び灯すのはなかなかできるものではない、そのくらいはわかる。でも、その濡れた身体で私の火を消すようなことはやめてほしい。」


 俺だって先輩には迷惑をかけたくない。でも、自分がどう動けばいいかわからない。どう行動したって先輩の迷惑になる、だからこそ聞きに来た。どうすればいいのか聞きに来たんだ。


「ヒロは変わろうと動いているよ。それはわかる。私だって変わろうとしている。ほら、」


 そう言って右手をヒラヒラとさせる。



「吸っていないだろ。やめたんだ。もう二ヶ月は続いている。」



 そういえば、そうだ。僕が高校に上がる前から先輩はタバコを吸っていた。中学の頃から吸っていたから相当のヘビースモーカーだ。当然、表だって吸うことは出来ないから吸うのは決まってカラオケボックス。吸わないのに僕も付き合わされる。最低でも一日三本は吸わないと頭痛がして集中できないって言っていた。


「やめてみるとわかる。いかに金と時間の無駄だったかがわかる。」


 信じられなかった。先輩が得体の知れないものに見えてくる。ここにいるのは僕の知っている先輩なのか?僕はここにいる先輩を知っているのか?よくわからなかった。



「話を元に戻そう。ヒロがいてくれることは嬉しい、嬉しいよ。でも、ヒロがここにいるのは私にとっては不安。不安以外の何者でもない。誘って悪いけど、もう近づかないでくれ。」


 目と目が合う。いつもの冗談を言うような穏やかな眼差しではなく、僕を拒絶するような鋭い眼差し。

睨み合いを避けるように目が携帯へと行く。先輩も腕時計を見る。


「もうそろそろ時間だ。私は帰るとしよう。」


ご愛読ありがとうございました。


諸事情合って次回は9月の中旬になるかと思われます。

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