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一歩目は重く、二歩目は遠い

作者: 真月 一蓮
掲載日:2026/06/05

短編賞 あと一歩の作品を改稿しました。

お気軽に感想等お願いします。応援あれば励みになります。

 走る前には自分なりの呼吸があった。それがルーティンだった。

 潜水の選手は潜る直前、口をパクパクと細かく吸って酸素を肺に押し込めるらしい。自分なりに真似てみたら、ものの見事に百メートルでベストタイムが出た。後にルーティンは改良して、吸う頻度を極端に減らした。陸上部のマネージャーに「金魚みたい」と表現されたのは全く無関係だ。しかも今度は「ちゃんと深呼吸してるの?」とからかわれた。まあ、金魚よりはましだ。

 もう一度、息を吸って吐く。


 スゥーーーーー、ハァ。

 痛くなるまで肺に酸素を詰め込み、漏れないよう短く強く息を吐く。


 もう足が自然に走り出そうとはしなかった。

 令和七年四月一日。目の前には二階建ての古びた建物が佇む。茨城県の山間にある町はド田舎だが、これでも栄えている方だった。

 クジ新聞と入口のガラスドアに書かれていた。ガラスの両面に書かれているのか、文字がダブって浮いたように見える。――就職で帰郷したけど、やっぱり木の匂いに満ち、土を間近に感じる空気は好きじゃない。自然に埋もれて息が詰まる。

 ドアを開ける。二階建ての一階は広い空間に長机がいくつもあった。四角い部屋の隅には奥にある部屋からコンベアが伸びている。機械が稼働している様子はない。インクと、安っぽい紙のざらっとした匂いが佇んでいた。

 入口から右手の階段を上がった。二階のドアを開けようして、急に開く。

「ありゃ、ごめんね」

 背の高い女性が目を丸くしている。俺より少し高いくらいだから百九十センチ近い。そばかすと、薄く日焼けした肌をまじまじと見つめてしまう。ボブにしていたであろう髪はショートとロングの間くらいの長さ。

 彼女の問うような視線に、慌てて名乗った。

「おはようございます。遠矢健太(とおやけんた)です。今日から働かせていただきます」

 とにかくはきはきと喋るように努める。緊張には強い方だ。

 ああ、ああ。目で頷いてるのが分かる。ご丁寧に拳を小指から落として、掌をポムンと叩きもした。

「編集長、新人くん来ましたよ」

 さ、中入っていいよ。と促され、彼女は入れ違いで階段を下りていく。

「おはようございます」

 一歩、部屋の中に踏み出すと視線が一斉に降り注いだ。全員で六人だ。部屋の中央で島になったデスクと、キャビネットが窓以外の壁を埋め尽くしている。キャビネットには資料やその他諸々が整然と詰まっている。刑務所の図書館みたいだな。知らないけどそう思った。

「よく来たね」

 編集長は島になったデスクから一歩離れた大きなデスクに座っていた。柔和な笑みに、安心する。みんなの表情は和やかで、殺伐とした職場ではなさそうだ。

「今日からお世話になります」

「元気いいね。よし、取り敢えず社屋の案内からだな。君の教育係の、里山くん」

 立ち上がった彼は小さかった。百五十センチないくらいかな。

「ついでに仕事の説明をしてあげて」

「承知しました」


 里山さんに改めて名乗った。彼はついて来いと前を歩く。階段を下りる時に、髪の薄い頭頂部に目がいった。

「見ての通り、うちは小さな新聞社だ。地域密着、大手が書かないようなことを書いて新聞にする」

「はい」

「これからは細かなことに目を配れ。記者として働く以上は日常を漫然と過ごす訳にはいかないからな」

 まるでぼけっと生きていたかのような言い方だ。

「発刊は週に一回、月曜日だ。昔は水曜日も発刊したんだがな。今は緊急で知らせることがなければ出さない」

 その日はとにかく名前を覚えた。早く終業したのは、歓迎会を開く為だ。出るのかどうかも聞かれもしなかったのは違和感を覚えたけど、本人が居ないのもおかしい話ではある。わざわざ入社初日から問題児扱いされたくもない。無難に仕事をして、仕事終わりからが人生の始まりだよ。

「お疲れ様です。今日から一緒に仕事をさせていただきます遠矢です。まだ分からないことだらけです。まずは教えられたことを一つ一つ覚えていこうと思います」

 会社近くの居酒屋は個人経営の店で、けど創作料理らしいものはなかった。

「おつかれ。立派な挨拶じゃん」

「ありがとうございます」

 隣に座っているのは東雲(しののめ)さんだ。彼女は階段で鉢合わせた背の高い女性だった。くりっとした大きく丸い目が、今はまっすぐに山芋と舞茸の天ぷらへ注がれている。

 編集長は三十分くらいで帰り、宴会はそれから一時間続いてお開きとなった。住んでいる場所や父親の仕事、出身校を聞かれている内に陸上部だったと口が滑った。

 スポーツ校なのもあって良い反応をされる。早く走るのがきついのは勿論そうだけど、どのスポーツだってよく走る。サッカーは長く走るし、バスケットボールはシャトルランと変わらない。ことさら陸上部が大変というのが理解できなかった。

 じろりと視線を感じ、カメラマンをしている但馬(たじま)さんと目が合う。

「――?」

 避けられた。敵意がある感じではないけど、不気味だ。

「なに飲むの?」

 東雲さんの肩が触れる。ずっとバレーをやっていると言っていたけど、柔らかかった。彼女の頬はアルコールに炙られて赤くなっている。その熱はじんわりと遠矢の心を侵食していく。

「あ、同じの。をお願いします」

 本当なら、今頃は友達とゲームしてたのか。ビールが運ばれてきて、ジョッキでため息を塞ぐ。

 良い飲みっぷりだと褒められて、心から楽しんでいるように笑った。




 今日はスポンサーにもなっている木材加工会社の創立五十周年式典だ。

「遠矢くん、走れ。もう始まる」

「はい!」

 重てぇ。パソコンが入ったカバンと、撮影機材が肩にくい込む。里山さんに置いていかれまいとなんとか早歩きで追いかけた。但馬さんは撮影機材が気になるのか、たびたびこっちを見た。

「少し持とうか?」

 意外に優しい。

「大丈夫です!」

 小さな印刷会社はゆっくりと新人研修する暇もない。だから基本は先輩の後ろをついていって、現場で学ぶ。卓上で習ったのは個人情報の取り扱いとマナー講習くらいだった。写真を撮る但馬さんを手伝う。物の配置を変え、人に声を掛けてどいてもらう。東雲さんたちは別でインタビューを進めていた。

()()()?」

 聞き覚えのある声に振り返る。陸上部マネージャーの及川はポニーテールだった長い髪を真っ直ぐに下ろしている。受付の服を着ていた。

「あ。え、及川か」

 予期せぬ再会に間抜けな声が出た。

「久し振り。もしかしてクジ新聞で働いてるの?」

「そう。すげぇ偶然」

 怪訝な顔をした及川が笑った。

「みんな地元で働いてるんだから珍しいことでもないでしょ。そこのコンビニには芦田くんも働いてるし、町役場に行けば近藤さんもいるよ」

 地元で育ち、地元で就職する。骨を埋めるというのは比喩的な表現ではない。

「あ、そっか。そうだよな」

「なにそれ」

 ケラケラと笑うのは、金魚みたいとからかってきたあの時の表情そのままだ。大人びた服装と仕草に逆行していて、温かく懐かしい記憶が心臓を叩いた。

「大学でも陸上は続けてたんだよね?」

「いや」質問している東雲さんを目の端に置いてから「やらなかった」と、小声で続けた。

 ふくらはぎの筋肉が断裂した日に、そのまま高校の、いや陸上生活のゴールテープを切ることになった。

 怪我のリハビリは辛い。それを乗り越え、そしてまた怪我をするかもしれない恐怖と戦う。俺には無理だ。トラックの上では全力を出せたから、未練もなかった。

 問題はその後だ。大学を卒業し、仕事をするだけの人生なのか。そう考えると急に未来が退屈で色褪せたものに見えた。やる気が消えた。それは背中を押す風に追い抜かれたように、一切の痕跡もなく消えてしまった。身の入らない就職活動では都心で仕事が見付からず、なんとか田舎で職を得たのが現状だ。肘の故障と付き合いながらバレーボールを続けた東雲さんには情けなくて聞かせられない。

「半年安静の大怪我だったもんねぇ」

 及川の目に色んな感情が浮かんで消える。続けないのは勿体ないと言うほど、彼女は子供じゃない。

「それよりさ、この辺で遅くまでやってる飲み屋知らないか。高校の時は気にしなかったけど、店が閉まるの九時って早すぎよな?」

「ここら辺にはないよ。麓町まで行けばあるだろうけど。……なんか変わったね」

 不満そうな表情の意味を深読みしそうになった。――俺が変わろうがそんなの関係ないだろ。卒業してから一度たりとも連絡しなかったくせに。

「今度東京の話聞かせてよ」

「おう」

「呼ばれてる。もう行かなきゃ」

 さっさと上司らしき女性のところに行ってしまった。

「知り合い?」

 肩が跳ねる。バイバイと振っていた手を隠すように背中へ回した。

「友達です。友達。陸上部のマネージャーだったんですよ」

「組合対応してる人かな?」

「分からないです」

「そっか。今さ、地域の木材組合で協力して都内に進出しようとしてて。その話を集めてるの」

「そうなんですか。すいません」

「上手くいくといいよね」

 うんうん。背の高い東雲さんが大きく頷く。それだけで大規模で貴重なプロジェクトが動いているように思えた。


 社屋に戻ると早速原稿を書いていく。といっても新人が書かせて貰えるわけもなく、里山さんにメモを読み上げたり、資料を調べたりした。

「よし。こんなもんだ」

 あっという間に記事が出来上がったのには驚いた。

「もう出来たんですか」

「文章校正してくれ」

 ずんぐりした太い指がよくもまあこんなに器用に動くものだ。誤字は見当たらず、表現に関して、俺がなんか言うのも違う気がする。

 小さな事を熱くし過ぎとは思った。落とすところは落として、メリハリをつけた方が読みやすい――。とは大手記者がしたツイートの受け売りだ。

「いいと思います」

 気の利いた言葉は出てこない。田舎の小さな新聞社と心の底で侮っていた人間のボキャブラリなんてこんなもんだ。そもそも懇願するように就職したくせに、売れ残りの自分から目を逸らす為に会社を下に見ていた。だから仕事から楽しさを探し出そうともしなかった。

「すごい早く作れるんですね」

「新聞だからな。遅かったら意味がないだろう」

 里山は照れたように鼻の頭を掻いた。

「心配しなくても大丈夫だ。僕の言う通りにしていればこのくらいは出来るようになる」

「はい」

 やる気はあんまりだけど頷いておいた。月曜日の発刊へ向け、社内は活気に満ちていく。



 酒が欲しくても近くのスーパーは当然閉まっている。コンビニは通りに出て、橋を渡った川向こうに昔からあった。

 川のせせらぎが響く橋を渡ると、コンビニを挟んだ道の奥で物々しい姿の二人組が居た。黄色い、工事現場で使うようなヘルメットに、ゲームに登場するような暗視スコープがくっついている。

 変態だ。近寄らないでおこう。

 近くに温泉もないし。こんな山の中は人より動物の方がすれ違う。まさか動物の交尾を覗くわけじゃないよな。

 ありがとうございましたぁ。

 生ビールと、気まぐれにチーズを買ってコンビニを出る。もう貧乏学生ではないのだ。友達から連絡が来て、タバコ吸い終わったからゲームを再開しようぜと来た。

 不審者二人組はまだいる。一人が指を頂上付近に差し、それから線を引くように斜めに下ろしていった。まるで星座をなぞるように。たぶん()()()だな。それをもう一人が目で追っていく。横顔が見えた。

 うん?

 ヘルメットがあると、田舎の宵闇では顔が分からない。でも一人は女性だった。しかもどことなく東雲さんに似ている。まあ、さすがに違うか。

 見間違いだろ……。あれだけ背の高い女性はなかなか居ないだろうけどさ。なんでこんな夜中に男と二人っきりで。

 いや、まさか。だって見間違いだろ?

 そもそもあれだ。仕事だ。そういえば、再来週にクマ関連の記事を出すとかなんとか。きっとそれだ。――クマであってくれ。


 早朝に叩き起こされた。枕元で暴れるスマホを寝ぼけ頭でなんとか掴む。目の焦点が合わず、応答の方向へスワイプできない。

「あい」

「もしもし里山だ。起きろ。事件だ」

 上体を起こす。どくんと心臓が鳴る。昇ってきた血で頭がくらくらした。立ち上がろうとして、寸前まで深く眠っていた体は言う事を聞かない。時間は四時前だった。

「出社すればいいですか。三十分で着けます」

「十分で来てくれ」

 ドラマで見るやつじゃん。

 どたどたとスーツに着替える。母親が起きてきて紙コップにコーヒーを淹れてくれた。

「仕事か」

 父親も下りてきた。

「ん」

「頑張れよ」

 両親は早朝に仕事へ駆り出される不憫な息子を嬉しそうに見送る。誇らしげでさえあった。改めて昭和な人間だなぁと感じた。

「おはようございます」

 社屋に向かうと東雲さんが迎えに来てくれていた。普段薄い化粧が濃いのは寝不足な顔を隠すためだろう。俺は頭を撫で、寝癖が直っているか確認した。

「おはよう。さ、乗って」

 何がなんだか分からないまま助手席に乗る。バレーボールに扮したマスコットがバックミラーの下で揺れている。

「失礼します。あの、事件って言われたんですけどなんのですか」

「クマ。クマが出たの」

 一瞬だけ、東雲さんの目元を見てしまった。そんな可愛い理由なわけがない。

「まだ人は襲われてないよ。でもこんな近くまで降りてくるなんてね」

 恐れていた事態が起きた。そんな調子だ。

「もっと北の県だと被害が出ていますよね」

「対岸の火事じゃなくて、私たちも危機感を持たないと」

 まさに新聞の仕事だ。

「昨日ちょうど猟友会の人と会ってたの。クマが通りそうな道は分かるわ」

 くそ。

 どうやらまだ頭が起きてないらしい。まだ温かいコーヒーを一気に飲んだ。

「クマが通る道に行くわけじゃないですよね」

「そうだよ。写真が撮れるといいんだけど。でもね、クマって木とかに爪痕を残すのよ。最悪それを撮ってもいいかな。知ってる? あれは仲間へ情報伝達してるんだよね。ここは危険だ、とか俺の縄張りだぞぉって」

 ガアァ!!

 威嚇するように顔を顰め、片手で爪を立てた。

 可愛い。

 ……じゃない、今は身の危険を案じろ。まさか昨夜にクマであって欲しいとか願ったせいじゃないよな?

「クマを見つけたら、猟友会の人に引き継ぐんですよね」

「まだ情報いってないんじゃないかな。たぶん警察も。うちがすっぱ抜くんだ――!」

 だからこんなにも急いでるのか。納得した次に戦慄した。プロフェッショナルである猟友会どころか、警察もいないのか。


 襲われたら死ぬんじゃ――。


 まあ。でも大丈夫か。

 まだ第二新卒だから。やばくなったらバックレよう。うん。命には代えられない。

 車から降りる。但馬さんは山の葉に溶け込み、カメラを持ってじっと息を殺していた。

「静かにしててくれよ」

「静かにね。シーッ!!」

 車のドアをバコンと閉め、唇の前で指を一本立てる。東雲さんは動きがうるさい。

「目撃情報って」

歩荷(ぼっか)の人が山小屋に荷物を運ぶ途中で見たって」

「その人は、襲われなくてよかったですね」

 暗に俺たちも危険ではと伝えたつもりだった。

「下りだったからだよ。美味しい物も持ってなかったのね」

「そっすね」

「来るぞ……!」

 遺書でも描いておけばよかった。

 ガサガサ。枯れ木を踏む音がする。


 ゆっくり歩くクマは小さかった。母クマがいるかもしれない。周囲に目を凝らすとクマも同じように周りを見た。

 鼻を鳴らし、進行方向を変えた。遠ざかっていく。こっちの方へ来るはずだったのに。


「……む」

「あちゃあ」

「ふうう。ょ」

 安堵のため息を聞きつけ、二人が振り返って自分を見る。

「――惜しかったですね?」

 無言の圧。これが社会の洗礼か。

「あっちに何かあるのかな。よし。追いかけよう。行くよ遠矢くん」

「はい……」

 腰くらいの高さのクマはのそのそというよりも、ひょこひょこ歩いた。興味を惹かれる度に立ち止まるのは、人間の幼児と一緒だ。

 但馬さんがカメラのシャッターを切った。注意喚起どころか、これだとほんわかした写真しか撮れないのではないか。

「里山さんはどこにいるんですか?」

「編集長と一緒。二手に分かれたの。遠矢くんは本命に回してくれたわけ」

 本命って。なるほどな。だってクマ来ちゃってるじゃん。

 好き勝手に歩くクマを、踏まれて作られた獣道から追う。道路の方へ山を下りていっているみたいだ。

「遠矢くん先回りして。もし人が居たら危ないから」

「はい」

 急いで下りていく。その「危ない」には俺を含めてくれていますよね?


 車で山を登っていたから気付かなかったけど、馴染みのある道路に出た。もう少し下って左に曲がれば、昨夜酒を買いに行ったコンビニがあるはずだ。

 部活の朝練だろうか。小学生にも見える中学生の女の子が自転車で横を過ぎていく。テニスラケットの柄が突き出た大きなバックが重そうに揺れた。平和な光景だなあ。

 どうして俺はマタギでもないのにクマを先回りしてんだよ。

 電話が鳴り、すぐに出る。里中さんだ。

「遠矢くん。()()()()()()()。もう警察に連絡はしてある。これ以上は猟友会が安全を確認するまで封鎖するべきだ。我々も避難する。これは編集長の決定だと東雲さんと但馬くんに伝えてくれ」

 ちゃんと聞いてなかったこの時の自分を呪いたい。いや、張り倒したい。

「承知しました。いま一人で先回りしていまして。すぐに連絡します」

 よかったよかった。帰ろう。

 無念だろうけど、編集長の決定ならね。

 早速電話する。ひそひそ声で応答があった。

「里中さんから連絡がありました。避難しましょう。編集長の決定だそうです」

「そっかぁ……」

 切ない声を聴いてしまった。仕方ない。本当に危険だし、どうせまた現れる。

 電話を切る直前に「ヤバッ」と東雲さんの声が漏れ聞こえた。

 もう一度掛けようとしたところで、視界に黒い物体が映っていたことに気付く。

 クマじゃん。

 道路の中央で川の方を向いていた。ゆっくりと、目が合う。

 落ち着け。どうせ俺はまともに走れないんだから。こういう時はゆっくり。

 一歩、二歩と後退する。なんだか縮尺がおかしくないか。近いような遠いような。

 自転車に乗った女の子が戻ってきた。コンビニの袋を前かごに乗せている。

「危ない!」

 クマのいる方へ曲がろうとしたから叫んだ。ブレーキ音が甲高く響く。クマに気付けたようでヨタヨタと小さな足で自転車の向きを変える。

 早くこっちにこい。言いたいのをこらえる。焦らせてどうすんだ。

「ゆっくりでいいから。こっちに」

 女の子の顔はびっくりしているけど、パニックにはなっていない。

 遠矢が立っている方は坂道で、ペダルが重そうにふらふらとした。

 ――風が吹いてもないのに、微かに草と枝の擦れる音がした。

 なにかが藪を突っ切る。小さなクマが現れた。東雲さんたちと追っていたのはこっちだ。小さなクマは女の子を認め、急停止する。

「ひっ」

 自転車が倒れた。女の子はハンドルを持って必死に起こそうとする。腹立たしいほどにうまく立たない。

 もたもたすんなと怒鳴りたくなった。

 奥の大きなクマがそっと女の子の方に顔を向ける。息を吸う。レジ袋からパンが地面にこぼれた。()()。大きなクマが動くのと同時だった。


 ――駆け出していた。


 走れ。

 三十メートルくらい。目測で分かる。

 走れ走れ。

 腕を大きく振る。体が後ろへ引っ張られたみたいに遅い。

 足を引きつけると、尻から地面を蹴る。

 ふくらはぎの筋肉がミリミリと軋む。思いっ切り力を入れた。

 遠矢の体は浮くように前へ飛んでいく。

 肺が酸素を取り込み、血が巡る。

 地面を蹴るごとにスピードは乗る。

 あっという間だった。自転車を持ち上げるようにして立たせ、女の子を乗せる。

「漕げ!」

「はいぃ」

 今にも泣きそうな声。俺も恐怖で足がすくみそうになるからその声やめてくれ。

 テニスラケットの入ったバックを後ろから押す。背中にプレッシャーを感じた。

 パー。パパー。

 クラクションと一緒に車が走り込んできた。編集長が飛び出し、女の子を車の後ろへ避難させる。

 何とかなった。胸の苦しさがどっと溢れ、クマの方を振り返る。追われてはいない。

 迷子だったか。親クマは怒った顔で子クマに近づいた。立ち上がり、周囲を見回す。連打されるクラクションに顔を顰め、のそのそと二頭は山へ引き上げた。

「いやあ。危機一髪だね」

 但馬さんと東雲さんが来た。のんきな笑顔の東雲さんの横で、但馬さんはカメラの画像をチェックしている。

「お疲れ様です」

 まさか俺がクマに襲われるシーンが欲しかったとか言わないでくれよ。

「もう、ドドドーってクマが急に走り出すからびっくりしたよ」

「俺も気付いたら走ってました。但馬さん写真どうでした?」

 こっちを見て、頷いた。

 テイクツーはやらなくて良いらしい。危うく辞表を書くところだ。



 クマの記事は翌月曜日の新聞に掲載される。創立五十周年を迎えた木材加工会社の記事と合わせて、盛り沢山な内容だ。

 今回は俺が書いたのもある。新任がする自己紹介みたいな感じので名刺サイズくらいだ。それでも嬉しい。

「試し刷りが出来たぞ」

 金曜の午後。月曜日に発刊する新聞のチェックが完了したら週の仕事は終わる。

「遠矢くん出てるよ」

「本当ですか?」

 里山さんが一部回してくれる。一面はやはりクマの話だ。子供が危うく襲われそうになったこと。生ごみはきちんと蓋つきのゴミ箱に保管する等の注意喚起もされている。町の地図に可愛らしいクマのマークで目撃情報を載せてもいた。こういうところはさすが地元密着紙だ。全国紙にはできない。

「次のページだよ」

 東雲さんに言われるままページをめくる。ブランケット版の大きな紙はめくるのも一苦労だ。小見出しに目が吸いついた。


『一歩目は重く、二歩目は遠い』

 陸上競技を引退するほどの大怪我だった――。遠矢健太(22)の走る姿を最後に見たのは高校生時代、インターハイ予選の百メートル二組だった。彼は鹿のようにしなやかな走り方をする。力強く、野性的なフォームから繰り出される足は矢のように飛び行く。だが現在の彼の走る姿は、それとは異なる。一歩目は鈍重で、必死に走り出そうとしているのだけが伝わった。二歩目で、そんな印象は後ろに置いていかれる。高く足を上げる。膝が跳ね、爪先が前へ伸びていく。二歩目は誰も想像しないほどに遠い地面へ着地した。三歩目へ踏み出す頃に、私は導かれるようにカメラを向けていた(写真右上)。


 怪我からの復帰をドラマチックに書いてある。有名人でもない、個人を新聞記事にしていいんだ。面白い。心のまだ日の当たらないところでそう感じた。取り上げられたのが自分だからじゃない。

 紙面の右上に写真が二枚ある。まさに必死で走る姿と比較するように、陸上トラックで倒れ込む俺がいる。本気で走ったのは怪我以来だから五年振りだった。

「走れるまで回復してたんだな」

 但馬さんが後ろから肘で小突く。サプライズ成功と顔に書いてある。案外お茶目な人らしい。

「みたいですね。あの、競技に戻るつもりはないですけど」

 まるでこれから陸上に戻るような記事だから。

「これはいいんだ。新聞だし」

 記者がそれ言ったらお終いでは。一応、但馬さんはカメラマンだけどさ。

「当時は大騒ぎだったからね。おもわずカメラがそっちに向いたよ。――遠矢くんが怪我した日も見に行っていた。里山さんと」

「僕? ああ、思い出したよ。五年位前に陸上の短距離で神童が出たって取材しに行ったな。遠矢くんだったか」

 写真をもう一度見る。

 ふくらはぎの筋肉が断裂したのはスターティングブロックから発進しようとする瞬間だった。スタートと同時に、ブロックへ抑え付けていた力をばねのように爆発させようとした。太いゴムが引きちぎれたような音がして、がくりと膝が地面に吸い込まれたのは今でも覚えている。走っていく選手の背中と、まるで無くなったように力の入らない足。トラックの熱。引き寄せようとしたら稲妻みたいな激痛が走った。

 そういえばあの時、一番に駆け寄ってくれたのは及川だった。何とも言えない、呆けたような顔してたっけ。

「みんなお疲れさん。これかな。よしよし。よく撮れてる。流石だね但馬くん」

 編集長がご機嫌で但馬さんを褒めた。

 彼が読んでいるのは、一面の隅っこだ。「編集長お手柄」と太い文字が見えた。女の子を庇うように立ち、勇ましい表情でどこかへ電話している姿が写る。

 おいおい、助けたの俺なんだけどな。

 察してか、里山さんが背伸びしてぽんと肩を叩いた。東雲さんは苦笑いしている。

 俺も笑ってしまった。今まではタイムだけだった。誰かのために走るのも悪くない。


 ――起きた。冬の朝は顔の肌が冷気でぴりつく。

 枕元で暴れるスマホをさっと取る。クマ出没事件から、半年が経っていた。

「もしもし。――はい。すぐ行きます」

 人生のゴールには必ずしもテープがあるわけじゃない。だから走っていれば前触れもなくゴールラインを迎えることもある。振り返れば新たなスタートラインを過ぎていることだってある。俺は一つ理解した。いや、思い出した。トラックに居る間は全力を出す。無気力でいるよりずっといい。

 スゥーーーーー、ハァ。

 息を吸って、吐く。

 また走り出すために。

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