椿 a.k.a 盲愛
これは僕の最初で最後、唯一愛した女性に贈る。
朝に目覚めたつもりだった。カーテンの隙間から窓の外をみると薄暗い空、頼りない雲。まだ明け方なのだと思い、時計を見る。暗い部屋の中、うざったいくらいに僕を照らすスマホの画面には『18:07』の数字。気づけば僕は夕方まで眠ってしまっていた。
頭が痛い、起き上がると目眩がする、完全に二日酔いだ。昨日の記憶を振り返って見るがスナックで呑んでいた記憶しかない。僕は普段からお酒なんて飲まないし、なんなら苦手な方だ。けれど昨日だけは苦手なお酒の力を借りてでも記憶を消したかったんだ。
2ヶ月前、僕は会社からリストラされることを告げられた。そのことを妻に伝えると妻は「私はあなたが仕事を辞めてしまっても私はあなたのそばに居続けるわ。」と微笑みながらそう言ってくれた。だから僕は30歳半ばという不利な条件での就職活動をスタートすることが出来た。短大を出てからこの歳になるまでずっと同じ会社で勤めてきた僕には特に大した学歴も資格もない。ただ唯一の取り柄と言ったら勤勉なところくらいだ。スマホのメッセージに届くのは不採用の文字と今後の活躍をお祈りされる言葉ばかり。それでも僕には妻が居たからなんとか頑張ることができた。僕の帰りをあったかいご飯と共に笑顔で待っててくれる妻、光莉と娘が居たから。
僕と光莉はお見合い結婚だった。27歳の頃、ろくに色恋沙汰もない僕を見兼ねた親戚のおばさんが持って来た縁談の話。冴えない見た目の僕に惹かれる女性なんていないだろうと思っていたので乗り気ではなかったが、断る理由を考えるのも面倒だったのでお見合いをする事にした。
お見合いの日、僕は人生で初めて一目惚れをした。僕から見た光莉は椿の花のように艶やかで美しかった。透き通った黒い髪と黒い目、モデルのような顔立ちだった。加えて、光莉の話し方は柔らかくて包み込まれるような安心感だった。椿には『控えめな美しさ』という花言葉がある、椿は光莉のために咲いているような花だと思った。僕は光莉を逃したくないと思い、勇気を振り絞って食事に誘った。
僕たちは何度かデートを重ね9回目のデートで「僕と付き合ってくれませんか。」と光莉に告白をした。
光莉が言った「今日が9回目のデートだよ、私のことどれだけ待たせるつもり?10回目のデートのお誘いは断るつもりでした。」
初夏の晴れた昼下がり、僕たちは交際する事になった。
二年間の交際を得て僕が29歳、光莉が26歳の冬僕は人生最大の決断。プロポーズをした。緊張で唇が震え何をどう伝えたのか全く記憶にないが僕は光莉と結婚した。
僕と光莉の家族と友人、僕の会社の人たちやたくさんの人を招待し盛大な結婚式にした。光莉が主人公になれる晴れ舞台を特別なものにしてやりたかった気持ちと僕のお嫁さんになる光莉の美しさや魅力を全ての人に自慢したかったのもある。
僕と光莉は子宝になかなか恵まれなかった。子供ができなくたって僕たちにはあたたかい家庭をふたりで築いていける気がしていた。僕が32歳になった春、僕と光莉の間に新しい花が咲いた。椿が咲き始める頃の2月、僕は父親になり光莉は母親になった。光莉によく似た顔立ちで可愛らしい女の子だった。
僕は娘と光莉のために一生懸命働いた。できるだけ残業もしたし早く帰れた日には家族を優先するようにした。そんな矢先、僕は情けない。娘が3歳になり保育園に入らないといけない時期これからお金も必要になるというのに、、僕は職を失ってしまったんだ。家族を養っていかないといけない、一家の大黒柱でいなきゃいけないのに。そんな惨めな俺を暖かく包み込んでくれる光莉とまだ何も理解ができていない娘の笑顔に申し訳ないが救われてしまう自分がいる。
まだ冬の存在感が消えないくらいの肌寒さが残る3月中旬ごろ、僕のスマホのメッセージに『採用』の2文字が書かれていた。僕が一番必要としていた文字だ。娘と光莉のためならどんな仕事だってできる、そんな気持ちだ。僕はハローワークから急いで家に帰った。光莉はどんな反応してくれるだろう、きっと僕より喜んでくれるだろう、どんな言葉をかけてくれるだろう、僕は採用された事よりも光莉のことばかりで頭がいっぱいだ。お見合いで光莉と出会ってからずっと僕の世界の中心は光莉にある。冴えない地味な僕の人生に光を照らしてくれた。
いつか一軒家に3人で暮らすことが夢だった。落ち着いたらペットでも買ってごく普通の家庭を築くのが夢だ。今はまだ団地に住んでいるけれど、いつかはちゃんと一軒家に住ませてやりたいと思っている。そんなことを考えながら4階建の団地のエレベーターに乗り3階のボタンを押す。
いつもは夕方になるまで帰らない僕がこんな早く帰ってきたら光莉は驚くんだろうなあ。今日の晩御飯は僕のお祝いで奮発してすき焼きになったりしないかなあ。と浮かれながら光莉を驚かせるプチサプライズとして会えて玄関のチャイムを鳴らした。
玄関が開く。目の前に立っていたのは不機嫌そうな上裸の男性。部屋を間違えてしまった、そう思った。いや、そうであって欲しかった。頭が真っ白になりながらも部屋番号を確認する。何回確認しても僕たちの住んでる303号室、よく見るとその上裸の男は僕がリストラされた会社の後輩、北村だった。北村は焦りを隠せない表情で僕に手をつき謝っていた。まだこの状況を頭のなかで処理できない僕は履いていた靴を脱ぐより先に家の中に上がった。
乱れた髪、落ちかけの口紅、下着姿の光莉がベッドの上で僕を見つめている。まるで捕食される寸前のように恐れながら僕を見つめる光莉のその顔は9年間の中で今まで見たことのない表情で、それでもなお光莉は美しかった。
光莉と北村は僕に手をついて謝っていた気がする。話を聞くとふたりは僕と光莉の結婚式で知り合ってからの関係で僕が愛してきた娘も本当は北村との子供だったらしい。
3月中旬、椿の花が枯れる季節。椿の花は枯れずに花ごと落ちるらしい、いつかは忘れてしまったけれどそういうことをテレビで知った。
「椿はやっぱり落ちてしまっても綺麗だなあ。ちゃんと枯れないように雑草も刈っておかないといけないよなあ。」そう微笑みながら独り言を呟く僕の目の前には血を流しながら倒れている上裸の男、泣き喚く僕のじゃない娘がいた。泣いた顔もやっぱり光莉に似ていて美しい。
そう思いながら僕は両手に椿のように落ちた真っ赤な光莉の頭をもう誰に拾われないように優しく抱きかかえた。
椿の花言葉には『控えめな美しさ』ともう一つ『罪を犯す女』という意味があるらしい。昨日行ったスナックでママが言っていた。光莉は椿の花のような女性だった。この二日酔いが覚めたら落ちてしまった椿の花にもう一度キスをしよう。そう思いながら僕はもう一度眠りにつく。
夢の中ではきっと綺麗な椿が咲いているだろうから。
無職なのでお花屋さんに勤めたかったけど求人を見たら車の免許必須と書いて合ったので車の免許持っていないので諦めました。




