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色のない街、光の処方箋

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/12/02

第一部:都市のざわめき


その音を、斎藤綾香は静かな絶望の呼び鈴と呼んでいた。クリニックの電話が、丁寧すぎるほど控えめな音量で鳴り続けている。彼女のモニターに映し出された予約システムの画面は、数週間先まで埋まった予約枠を示すモザイク模様だった。キャンセル待ちのリストは、スクロールバーが小さくなるほど長く伸びている。東京という巨大な生き物の体内で、心の毛細血管が詰まり、悲鳴を上げているようだった。

綾香は一日の始まりに、必ず一杯の玉露を淹れる。急須の中でゆっくりと開く茶葉を見つめる時間は、これから始まる感情の混沌に立ち向かうための、ささやかな儀式であり、秩序だった。彼女のクリニックは、丸の内や新宿のような喧騒から一本入った静かな路地にある。ミニマルで清潔な内装、そして無数の語られざる物語を吸い込んできた防音壁。数年前に開業した当初は、まだ予約に余裕があったのが嘘のようだ 。今では、都内の他のクリニックと同じく、新規の患者がすぐに診察を受けることはほとんど不可能になっていた 。

「先生、おはようございます。本日もよろしくお願いいたします」

受付の女性が穏やかに微笑む。その背後で、また電話が鳴る。彼女は受話器を取り、申し訳なさそうに眉を下げながら、同じ説明を繰り返しているのだろう。「初診の患者様は、お一人あたりのお時間が長くなりますので…」。再診の患者で埋まったスケジュールの中に、30分から1時間かかる初診の枠を確保するのは至難の業だった 。

綾香は今日のカルテに目を通す。過呼吸、不眠、摂食障害、不安障害。病名だけでは掬いきれない、一人ひとりの人生の重みがそこにはあった。28歳、心療内科医。それは、共感を最大の武器としながら、自らが摩耗しないよう常に盾を構え続けなければならない職業だった。患者と同じ年代の自分もまた、この街の巨大な圧力と無縁ではない。このクリニックが、街の圧力に対する感情の減圧室なのだとしたら、自分はその弁を管理する孤独な番人なのかもしれない。防音壁は、外の喧騒だけでなく、内に溜まった苦悩も閉じ込めている。そして、その重圧は、壁を通り抜けて綾香の肩に静かにのしかかってくるのだった。


第二部:不在の色


午前の最後の患者、田中梨奈は、綾香と同じ28歳だった。診察室に入ってきた彼女の顔には、悲しみというよりは、あらゆる感情が抜け落ちたような空白が広がっていた。まるで、誰かが彼女の中から「色」だけを抜き去ってしまったかのようだった。服装はきちんと整えられているが、自己表現への関心を失ったかのように没個性的だった 。

受付で保険証を出し、問診票を受け取る。梨奈は待合室の隅で、ただチェックマークと単語を書き込むだけの最小限の動作でそれを埋めていた 。

「田中さん、どうぞ」

綾香の声に、梨奈はゆっくりと顔を上げた。診察室の椅子に浅く腰掛け、膝の上で固く手を組んでいる。

「こんにちは、斎藤です。今日は、一番困っていることは何ですか?」

綾香は、初診の際にいつも使う、開かれた質問から始めた 。

長い沈黙の後、梨奈の唇からかろうじて漏れたのは、「わからない…です」という、ほとんど音にならない声だった。

その沈黙は、言葉にできない苦痛の雄弁な表現だった。綾香は、その沈黙を急かさず、ただ受け止める。そして、より具体的な質問へと舵を切った。

「夜は眠れていますか?」 「…何度も、目が覚めます」 「お食事は?」 「味が…しないんです」 「他に、体の症状はありますか? 例えば、頭痛とか、めまいとか」 「いつも頭が痛くて、体が鉛みたいに重いです…」

一つひとつ、症状のピースが埋まっていく。そして最後に、綾香は核心に触れた。

「何か、きっかけになるようなことはありましたか? 例えば、お仕事のことで…」

その言葉に、梨奈の体が微かにこわばった。彼女は俯いたまま、ぽつり、ぽつりと語り始めた。矛盾した指示を出す上司。昨日言っていたことと今日言うことが違う理不尽さ。皆の前での叱責。常に監視されているような圧迫感 。彼女の声は終始平坦だったが、その話の途中で、一筋の涙が頬を伝った。梨奈自身は、それに気づいていないようだった 。

綾香は、彼女の内に渦巻く深い絶望感と、崩壊した自己肯定感をはっきりと感じ取っていた 。パワーハラスメントが引き起こす適応障害の典型的な症状だった。真面目で責任感が強く、頼まれると断れない性格が、彼女を追い詰めたのだろう 。

そして、梨奈が絞り出した言葉が、診断を決定づけた。

「私が…私が全部、悪いんです。期待に応えられない、私がダメだから…」

その言葉は、加害者から押し付けられた物語を、被害者が自らのものとして内面化してしまった証だった。綾香の最初の仕事は、薬を処方することではない。その歪んだ物語を、少しずつ解きほぐしていくことだ。


第三部:距離という処方箋


梨奈が診察室を出た後、綾香は一人、静寂の中で思考を巡らせた。彼女は白紙のメモ帳を引き寄せたが、ペンは取らなかった。代わりに、頭の中で痛みの臨床的な構造を組み立てていった。

感情領域:快感消失アンヘドニアが顕著。絶望感、無力感。職場関連の思考に紐づく強い不安。そして何より、内面化された自責の念。

認知領域:集中力の著しい低下。意思決定の麻痺。「世界が霧の中にいるよう」という彼女の表現。古典的な兆候だ。

身体領域:入眠障害と中途覚醒。食欲のほぼ完全な喪失と味覚異常。連日の緊張型頭痛。鉛のような倦怠感。

行動領域:社会的引きこもり。身なりへの無頓着。そして、名指すことのできない痛みの、不随意な物理的発露としての涙。

ストレス因は明確だった。パワーハラスメントの典型例。3ヶ月かけての悪化というタイムライン。診断は疑問の余地なく確信へと変わった。抑うつ気分を伴う適応障害、重度 。そして、進むべき道もまた、明確だった。治療ではない、まだ。まず、そこから引き離すことだ。

再び梨奈を診察室に呼び入れる。

「田中さん、お話を聞かせていただいて、今のあなたの状態がどういうものか、少し見えてきました」

綾香は穏やかに、しかしはっきりと告げた。「深い怪我をしているのと同じです。傷口を押さえつけている原因を取り除かない限り、治療は始まりません。まず、距離を作ることが必要です」

そして、休職という言葉を口にした。梨奈の目が、僅かに見開かれる。

「会社を、休む…?」

「はい。これは逃げることではありません。治療のために絶対に必要な、積極的な休養です」。綾香は、休職の手続きを冷静に、具体的に説明した。医師が発行する「診断書」という公的な書類を会社に提出すること 。まずは1ヶ月という期間で設定すること。それは一般的な最初のステップであること 。

次に、薬の話をした。薬への抵抗感を和らげるため、綾香は比喩を用いた。「強いストレスで、脳の中の物質のバランスが崩れてしまっているんです。お薬は、骨折した時のギプスのようなもの。心が自然に治っていく力を取り戻すまで、安定させて支えてくれる役割です」。薬に頼りすぎず、頼らなさすぎず。そのバランスの重要性を、綾香は丁寧に伝えた。

綾香は診断書の用紙を取り出し、万年筆で必要事項を記入していく。診断名、患者の氏名、そして「上記により、約1ヶ月間の休養を要するものと診断する」という一文。その一枚の紙を梨奈に手渡す瞬間は、厳粛な儀式のように感じられた。梨奈は、震える手でそれを受け取った。その薄い紙が、彼女にとっては自分を守るための盾であり、戦うことをやめてもいいという許可証だった。その重みが、彼女の指先から伝わってくるようだった。あなたの痛みは本物です。それは病気であり、あなたの弱さではない。その紙は、声なくそう語っていた。


第四部:ゆるやかな雪解け


休職して最初の1週間は、ほとんど眠り続けていた。梨奈の体は、数ヶ月間戦い続けてきた極度の疲労に、ようやく降伏したかのようだった。それは回復ではなく、冬眠に近かった 。

変化は、ごく小さな、具体的な感覚から始まった。休職2週目の朝、味噌汁を口にした時、それは単なる塩味ではなく、出汁の複雑で温かい風味として感じられた。その日、かつて好きだった音楽を流してみると、微かな喜びの残響が心に響いた 。感覚が、世界へと再び繋がり始めた瞬間だった。

もちろん、後退もあった。ある日、間違って送られてきた会社のメールを目にしてしまい、一日中、不安の渦に飲み込まれた。一歩進んで二歩下がるような、もどかしい日々だった 。

梨奈は、綾香から教わった回復期の過ごし方を、少しずつ実践し始めた。決まった時間に起き、短い散歩に出て、太陽の光を浴びる 。ある散歩の途中、彼女はふと足を止め、街路樹の銀杏の葉の、一枚一枚の形が違うことに気づいた。何か月もの間、ただの景色としてしか映っていなかった世界に、ディテールが戻ってきた。

あるブログで読んだ「モーニング・ページ」を試してみた。毎朝、頭に浮かんだことをとりとめもなくノートに書き出す。不安も、自己嫌悪も、すべてを紙の上に吐き出すことで、頭の中の霧が少し晴れるような気がした 。

「何もしない」という行為は、梨奈にとって何よりも難しい課題だった。生産的であること、責任を果たすことこそが自分の価値だと信じて生きてきた 。休むことは、失敗や怠惰を意味するように感じられ、罪悪感が彼女を苛んだ。しかし、綾香の「休むことは治療です」という言葉を何度も心の中で反芻し、何もしない時間を受け入れる練習を続けた。それは、病気そのものと戦うのと同じくらい、困難な闘いだった。


第五部:光の帰還


1ヶ月後、クリニックの待合室で順番を待つ梨奈の姿は、以前とは違っていた。床の一点を見つめるのではなく、窓の外の景色を眺めていた。綾香が名前を呼ぶと、彼女は顔を上げ、その視線はまっすぐに綾香に向けられた。プロンプトが示唆したように、彼女の顔に「色」が戻っていた。

診察室での会話は、もはや一方通行ではなかった。梨奈は自分の言葉で、この1ヶ月間のことを話した。良かった日のこと、悪かった日のこと。その声には、感情の抑揚が戻っていた。

綾香は深く頷きながら耳を傾け、梨奈が遂げた進歩を言葉にして返した。「よく眠れるようになったこと、食事が美味しく感じられるようになったこと、そして、音楽を聴こうと思えたこと。一つひとつが、回復の確かな兆しです」。

二人は、これからの計画について話し合った。綾香は、もう1、2ヶ月の休職延長を提案した。回復はマラソンであり、短距離走ではないことを説明する。薬の調整も、焦らずゆっくりと進めていくことを確認した。

物語は、「すべてが解決した」という結末では終わらない。綾香は、寛解という言葉の意味を思う。それは完治ではなく、人生が再び扱いやすくなり、喜びを感じることが可能になる状態への回帰だ 。梨奈の前にはまだ長い道が続いている。しかし、今日、梨奈もまたその道を自分の目で見つめ、歩いていく意志を持っていることを、綾香は確信していた。

診察が終わり、梨奈は立ち上がって深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

その声は、以前の音にならない囁きではなく、確かな響きを持っていた。

クリニックを出ていく梨奈の背中を、綾香は静かに見送った。午後の陽光の中に消えていくその後ろ姿は、1ヶ月前よりも少しだけ、まっすぐに伸びているように見えた。一人の患者の回復は、この街に蔓延する静かな絶望に対する、ささやかだが確かな勝利だ。その小さな光が、すり減りそうになる綾香自身の心をも、そっと照らしてくれるのだった。


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