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藤の花束

 藤が見頃になるころ。

ボクは、海底に沈んでいた意識がゆっくりと浮かぶように、目を覚ました。

まず驚いたのは、全身の重さ。

腕がピクリとも上がらない。瞼をこれほど重く感じたこともない。

全身の筋肉の衰えが感じられた。


それから認めたのは、医者と施術のための技術士、そして両親の姿だった。


「白石君、聴こえますか?」


カプセルケース越しの医者の声。

記憶より幾分か白髪が増えたようだ。


声は上手く出せない。

口がうまく動かせない。

それでもかすかな目の動きで伝わったらしい。


「成功ですね。おはようございます、そしておかえりなさい、白石君」




ボクが、目覚めたのは眠りについてから3年後。

この3年の間に、発病の機構が明らかにされ、特効薬が発明されたらしい。

偉大なる医学と科学の進歩によってボクは無事目覚めたというわけだ。

時が流れたという実感も、回復の見込みという言葉も、現実感を伴わないまま月日が過ぎた。


 ボクは目覚めてから1ケ月ほどゆっくりと運動機能のリハビリを行った。アイツが待っていると思うと頑張ろうという気も起こったものだ。まずは一言「ただいま」「あの時はごめん」を伝えるために、リハビリの苦しい痛みと無力感に日々耐えた。


 軽く走ることもできるようになった頃、アイツに会いに行こうと決めた。眠ってから3年、目覚めてからリハビリまでおよそ2カ月。3年と2カ月の間、一度たりとも顔を合わせなかったアイツ。。

 世間一般の扱い的には同い年になったアイツとの対面は、少し不思議な感覚だった。


「本当に帰ってきたんだな」





 ふと、アイツの病室を知らないことに気づいたボクは、受付の看護師に尋ねることにした。


「こんにちは」

「あらこんにちは、白石さん。どうされました?」


 看護師は手を止めてこちらに向き直る。


「天方の病室を伺いたいのですが」

「...え?」

 

受付の看護師は目を見開き、固まった。視線を彷徨わせ、どうしたものかと考えあぐねている。


「天方さん、ですか?」


個人情報の話なら問題ない、そう答えようとしたのだが、看護師の返答は思いもよらないものだった。


「その…、天方さんの部屋は、既に片付けられていますが…」


 


 ボクは走った。

 無我夢中で脇目もふらず。

 あまり俊敏に動くこともできない体で、 

 階段を登り、

 息を切らし、

 看護師が口にした言葉を脳内で反芻しながら。


『天方()()さんの使われていた病室は、五〇六号室です』


 ボクは肩で息をしながら、五〇六号室の前で膝に手をつく。ようやくたどり着いた。五〇六号室のネームプレートは、空だった。

鍵はあいている。

ボクはスッと扉を開けた。



部屋は真っ白だった。



壁紙もベッドも、異様なほど真っ白だった。

片付けられているという言葉通り、残されたのは患者のいなくなった空虚な一室。


ボクは呆然と立ち尽くした。

この部屋が何を表しているのか分からなかった。


「天方は、俺が見た夢だったのか?」


コールドスリープ前の脳裏にこびりついた1年半が、まるで泡沫の夢であったかのように、おとぎ話であったかのように、この部屋に思い知らされた気分だった。

天方久は、誰なんだ。

天方はどこに行ったんだ?


「冗談だろ?」


乾いた笑いが出る。

部屋に押しかけ、人の話をきかずにヘラヘラと笑い、部屋をキャンバスにしては、看護師を困らせる。

天方久は、誰なんだ。


ボクは記憶の中の天方を思い起こす。

白昼夢なんかじゃない。

扉を開けた先で振り返りもせず一心不乱に絵を書き続ける背中も、

座椅子でプラプラと揺れ足も、

科学雑誌を眉間にしわを寄せながら読む横顔も、

うるさいくらいに主張するにっかりした笑顔も、

しっかり思い出せる。

全部脳裏にこびりついている。


それだというのに、わからない、

天方久は、誰なんだ?

君の名前は何なんだ?





長いこと、そうして立ち尽くしていた時だった。


「ねぇ、アンタ?『天方』の病室の場所、受付で訊ねた白石クンって」


 後ろから男の声がした。

 ボクは、ハッと振り返る。

 同時にボクは目を疑った。


「天方…?」


 そこには天方が立っていた。

否、天方が年を重ねたらこうなるであろうと思われる容貌を持った男が、花を片手に真っ黒なスーツ姿で立っていた。

 だが、どこかおかしい。

記憶の中のアイツは、こんなにも人を刺すような冷たい表情を持った男ではなかった。

陽だまりのように笑う男だった。


「天方ってことは、やっぱ、アンタか」


 男は何かを確信したようだった。

 男の表情が少しほころぶ。


「いきなり話しかけて悪かったね。俺は天方久」

「あま、かた…ひさし.」


 アイツと同じ苗字で、アイツと似た顔で。

 アイツと同じ名前で。

 アイツとは違う表情を見せる男。


「そ、アンタには、こういったほうが伝わるかもね。ここに一年前まで入院してた、天方弓弦(ゆづる)の兄貴です」

「一年前、入院、してた」


 驚きがいくつも襲ってきた。

 目の前の男のことも、男が告げた内容も。認めたくない事実の理解を、脳が拒否していた。

怒ろうにも、叫ぼうにも、何に対して文句を言ったらよいのかわからなかった。


 アイツが自分の名前を偽っていたことなのか。

 アイツが手紙の「待っている」という言葉をたがえたことなのか。

 その全部に対してなのか。

 

 あの一年半が色を取り戻しては滲んで失っていくようで、くみ上げた城が足元から瓦解していくようで、ボクはうずくまった。零れ落ちていく砂を必死にすくい留める。


「あ~…アンタに渡すよう言づけられてるものがあるから急いできたんだけど」


男ー本物の天方久は、うずくまった僕に視線を合わせてしゃがみこみ、気まずそうに頬をかいた。


「いや、悪い。そんなにショックを与える何かがあるとは思ってなくて。アイツからもっと細かいこと聞いとくんだったな。…その、大丈夫か」


 天方とうり二つの顔で、おおよそアイツがしなそうな気遣いをされ、ようやく目の前の男がアイツとは全くの別人であると認識できた。

 ボクの意識はわずかに浮上し、やっと男の目をしっかりと見返す。アイツの目は太陽の中に影を感じる明るい茶色だったが、この男の目は冷たさの奥深くに温かさが潜んでいるような深い茶色だった。


「なるほど、天使、ね」


 男が小さな呟きを漏らした。

 アイツがボクを形容した名称を口にしながら男は苦笑をしている。ボクを通して遠い誰かを見つめる男の瞳をのぞき込んだ。


「アンタに、いや君に、これを渡してくれって弓弦から頼まれてんの。受け取ってくれる」


 男はどこからか、日記帳を取り出した。

 5年分の記録が残せる、ごく一般的なもの。使い込まれている日記の氏名欄は、元のかいてあったであろう言葉を削り、天弓、と青いクレヨンで描かれていた。あいも変わらず歪な字だ。


「弓弦がずっとつけてた日記帳。そこより前の日の記録もあったんだけど、その一冊だけはアンタに渡してくれ、ってアイツに言われてるからさ。受け取ってくれるとアイツも喜ぶ」


 ボクは氏名欄をそっと撫でた。その言葉が何を意味しているのか。この日記を何のために残したのか、理解ができない。理解したくない。

 直接言いに来ればいいではないか。

 直接顔を見せればいいではないか。

 文句が言ってやりたい。言い逃げなんて許さない。


「あの、天方さん」

「ん?あぁ、天方だと弓弦と紛らわしいから、久でいいよ」

「久さん」

「うん」

「弓弦は今どこにいるんですか」


 久さんが息を呑んだのが、空気で伝わった。口を軽く開いては閉じ、開いてはまた閉じ。どう伝えようか言葉を探しているようだ。


あぁ、わかった。

いや、わかっていたよ。


久さんが、窓の外へ目をやり、空を眺める。

僕もつられて空を仰いだ。

嫌なくらいの晴天だ。


「アイツは、遠くに出かけてる。帰ってくるのはちょっと難しいかもな」

「遠くに」

「.....ん」


 天方さんはその後、ぐっと口を結んだ。


「白石蓬くん。君には知る権利がある。多分弓弦は、君への言葉を日記帳に残したと思う。他の奴も全部、誰かに宛てた手紙が挟まってた」


 天方さんの言葉を聞いて、手元の日記を確認する。重みのある日記帳。手紙が挟まっているようにはどうにも見受けられないが。


「俺も中身は見てないよ。どうか読んでやってほしい」


 ボクは無言で頷いた。


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