【06】温室の夢
使用人陰口事件のあと、夕食の時間になってもグレイオットは帰ってこなかった。
ずいぶんと遅い時間に、寝るためだけに屋敷へ戻ってきたらしい。
そんな翌朝に届いた花はカモミール。
独特な甘酸っぱさが鼻に届き、少しだけ落ち込んでいた気分が爽やかな朝のものに変わる。
グレイオットは忙しいのにずいぶん律儀だと、マイロナーテから思わず小さな笑いが溢れた。
今日は、昼食や夕食を一緒にできるかはわからないらしく、小さなメッセージカードは謝罪と気遣いの言葉で溢れていた。
姉の代わりに転がり込んできた役目とはいえ、マイロナーテはもう国境を守る側の立場である。
新婚なはずのグレイオットの不在に思うことはあるが、自分の役割を見失ってはならない。まず落ち着いて、屋敷のことを知っていくのがマイロナーテの今の仕事だ。
本当に急な仕事なのか、実は恋人のご機嫌取りをしているんじゃないか……正直に言えば、そんなふうに思わなくもない。
一度うがって見てしまえば、このメッセージカードだって、本人が書いているか怪しいものである。
なにせ、結婚式翌日の昼から顔を合わせていない。
手紙だってやり取りをしたことがないから、几帳面そうにきっちりと整った文字が、彼の周囲の誰かのものだとしても判別できない。
そんなことを思いながら、マイロナーテは朝の支度にとりかかった。
グレイオットが不在の午前中は、結婚式の礼状を書き進めた。
昼食後の今は「愛しき妖精姫と秘密の花園」を読むため、花言葉の用例集と共にコンサバトリーの長椅子に身を沈めている。
(………………眠い)
ぽかぽかとした陽気が、マイロナーテを包み込む。
夜にぐっすりしっかり寝られているはずだが、この暖かさが呼び込む眠気には抗いがたい。
なんだかんだ、精神的な緊張状態が続いているだめだろうか。
手元の本の重さが増し、膝上からずり落ちそうになっている。
その対処すら億劫になった頃、本が浮いて軽くなり、薄手のブランケットが身体を覆う。
その心地よさに、既にほぼ開いていなかった目蓋はそのまま下りて、マイロナーテの意識は底に沈んだ。
「――――、――――――――」
「――――――」
他人の気配が肌に届き、マイロナーテの意識がゆっくりと浮上する。
ぼんやりとしたまま気配を探ると、コンサバトリーの入口付近にグレイオットの姿が見えた。
その手前に小柄なユフィータがいるため、大柄な彼の体躯がより大きく見える。
小声な上に距離があるので内容は聞こえないが、ずいぶんと楽しそうだ。
恋人疑惑は完全に払拭されていないが……その様子を見ても、特に男女の色はない。
とはいえ、マイロナーテはそのあたりの機微に疎い。アイロオーテだったら得意分野だろうが……それは考えても詮無いことだ。
マイロナーテとグレイオットの間には、まだ友人とも言えない距離がある。
ある種の緊張状態をはらんだその距離は、壁でもある。
グレイオットがユフィータに向ける気の抜けた笑顔を、マイロナーテは見たことがない。
彼はあんなふうに笑うのかと、マイロナーテの胸にちくりと棘が刺さる。
――きっと、恋愛小説のヒロインとヒーローとは、ああいうものなのだろう。
マイロナーテは、ぼんやりとしながらも、すっと腑に落ちた。
別に、彼らの言動に不審なものは何もない。
ユフィータはマイロナーテが来るずっと前から、辺境伯家で学び働いている。
主従関係として、貴族同士として、年の近い者として、話す機会は多々あっただろう。
つまり、マイロナーテが勝手に卑屈になって勝手に拗ねて勝手に疑っているだけだ。
だから、これは夢だ。
卑屈でつまらない女であるマイロナーテが勝手に見た夢なのだ。
赤い陽が照らすその光景を見なかったことにして、マイロナーテは重たい目蓋を再び下ろした。
※
意識の底でたゆたっていたマイロナーテが次に浮上したのは、何故か私室の寝台の上だった。
陽はとっくに暮れていて、茜色の残り香はどこにもない。
「奥様、おはようございます」
「おはよう……私は何故私室に……?」
コンサバトリーで居眠りをしていたはずが、現在地は私室である。
着ているものも、気楽な部屋着に変わっていた。
「奥様のご様子を見に来られた旦那様がお運びになりました。疲れているだろうから、そのまま寝かせるようにと」
「そう……お礼を言わないとならないわね……グレイオット様はまだ屋敷に?」
「……いいえ。緊急対応が必要かもしれないので、今日も領都端の領軍本部に詰めると聞いております」
つまり、夕食の同席は今日も難しいということだろう。
とはいえ、グレイオットが国境付近まで足を伸ばすほどの緊急性がないと見なされているのは、状況としてまだマシだ。そこまでくると、タイミング的に「マイロナーテが夷狄を呼び込んでいる」だの言われかねない。あまりにも濡れ衣がすぎる。
実際は領主の婚礼という慶事の隙を狙っただけだろうが……実に迷惑な話だ。
寝起きにいろいろと考えてしまいついげんなりとしたマイロナーテは、ユフィータに差し出された水を飲み干して、どうしようもない思考を振り払った。