【番外】紅薔薇の蕾・後
各領の通行や出国は「ヨルド子爵領の平民アイロオーテ」としてあっさりと許可が下りた。貴族籍は抜かれていたが、領民として籍が残されていたのだ。
平民といえど、身分の保証のあるなしは、公私ともに信用に強く関わってくる。これは両親の愛か温情か、はたまたある種の厄介払いか…………アイロオーテに確かめる術などない。確かめる勇気もない。
メグやドーラたちと抱きしめ合って別れ、アイロオーテは過剰に揺れる馬車に乗り込む。
道中は大変なこともあった。宿に泊まるのが難しいときは、野宿になる場合もあったからだ。
けれど、火を囲んで語らう時間は悪くなかった。芸術都市の話は刺激的だし、夜の静寂の中で思い切り歌うのは気持ちがよかった。
芸術都市で用いられる言語については、アズロによってこの旅で叩き込まれた。とても厳しかったと、アイロオーテは後に語る。
クラウデン辺境伯領では、出国のためしばらくとどまることになった。
そこで………………文字通り魔が差したのだ。
アイロオーテは、自分が平民になったというのに、あの妹が高位貴族としてのうのうと高みにいることが許せなかった。
芸術都市で見下されないため髪の手入れを再開し、艶はある程度戻っている。あんなくすんだ髪の地味な妹よりは、元から美しい自分のほうが高位貴族に相応しい……そんなことを思っていた。
妹の存在を近くに感じたせいで、アイロオーテの感情は憎しみが先行してしまい、他の何も見えていなかった。
街で情報を集め、辺境伯夫妻の動向を探ること数日。
辺境伯家の馬車が旧市街を視察しているという話を聞き、アイロオーテは路地に潜んだ。
侍女らしき女と呑気な会話をする妹の声を耳にして腹が立ったとはいえ……上品に着飾った地味な妹を見て苛立ったとはいえ……我ながら無茶な要求をしたものだ。
もちろん、辺境伯が妻の容姿も重視する人間だったら、真面目な場で喋らなければ誰よりも影が薄い妹よりもアイロオーテが選ばれたと胸を張って言える。
そうだ、肝心の結婚相手さえあんな地味好みの大男でなければ、アイロオーテの要求は飲まれて不用品のごとく妹が放逐されたのだ。そんな想像をすることでアイロオーテは溜飲を下げる。
自分が捨てた場所にしがみつく必要なんてない――アイロオーテはアズロが注いだ珈琲をぐっと飲み干す。
アズロとの関係がこの先どうなるかなんて何もわからないが、まだ彼と共に居られることは純粋に嬉しかった。
(でも……アズロはどうして私を芸術都市に誘ったのかしらね)
その疑問を、アズロに直接尋ねる勇気は湧いてこなかった。
出国してからも長い旅は続く。むしろ、それからが本番である。
天候不順やその他トラブルもあり、アイロオーテが芸術都市へたどり着いた頃には、馬車の揺れにもすっかり慣れてしまった。人間とは、ずいぶんと逞しくなれるものである。
到着の翌日、さっそく付き人として劇団の本部に赴き、挨拶代わりにアズロの歌が披露される現場に立ち会った。
聞き慣れたテノールは変わらず心地よく、部屋の隅に立つアイロオーテはじっと聞き入る。すると、そんなアイロオーテの隣に来た劇団スカウトが「次はお前も歌ってみろ」と促してきたのだ。
旅を共にしたスカウトは、何度もアイロオーテの歌を聞いている。
だからこその推薦なのだろうが……アイロオーテの背がひんやりと濡れていく。
歌い終わったアズロが温かく迎え入れられる場を眺めながら、アイロオーテは無理矢理に脳を動かして何を歌うべきかを考える。スカウトが座長たちに説明し、部屋の視線がぎゅっと集められると、喉が渇きを主張しだした。
小さく息を吸い、無理矢理に唾を飲み込み。アイロオーテは覚悟を決める。
大丈夫、自信はある。だから、歌うのは――いちばん慣れたもの。
幼い頃から歌い続けた、茜色の記憶が蘇る。
昔覚えたのは短くアレンジされたものだが、今は原曲を知っている。
この国の古典を元にしたその歌は、アイロオーテが故国の言葉で歌っても旋律で伝わるだろう。
「……おお、月よ、夜の女神よ――――――――――」
いざ歌いだしてしまえば、周囲の視線など意識から追い出されていくものだ。
怪訝な顔をしていた団長たちの表情が変わったことも、アズロの美しい微笑みも、歌うアイロオーテにはもう見えていない。
歌が終わり、静かに息を吐く。
そして部屋を見渡せば――――歓迎を示す拍手の中で「ほら、やっぱり」と言いたげなアズロの誇らしそうな笑顔が、アイロオーテに向けられていた。
※
役者としての一歩を踏み出したアイロオーテは、オーディションへ精力的に挑んだ。
鳴り物入りで紹介されたアイロオーテとアズロは、当然周囲の嫉妬を買った。しかし、ふたりとも同性からの嫉妬には慣れているし、異性からの欲をかわす術を知っている。
パトロン絡みのトラブル回避のため、最初から恋人同士であることを公言したら……思いがけず色恋トラブルを忌避する層の支持を得た。
揃いで採用されることが増え、その中には主演の機会も多くあった。
がむしゃらに邁進すること数年――芸術都市最大の歌劇場で行われる「愛しき妖精姫と秘密の花園」という人気恋愛小説の続編舞台の主演の座を射止めたのだ。
ちなみに、ダブルヒロインのその物語は、演目によって恋を叶えるヒロインが変わるがそれぞれの相手役は一定だ。
当然のように、アイロオーテの役である紅薔薇王女の恋の相手の役はアズロである。
ポスターは、ふたりのヒロインを描いたものと、ふたりのヒーローを描いたものなど、バリエーションも多く作られるほど。
満を持しての舞台は好評を博し、のちに他国でも催されることになった。
もちろん、アイロオーテの故国でも同様なのだが――――芸術都市の役者を呼んで、大々的に公演をしたいという依頼があったのだという。
言語の問題もあり候補者そのものが少なかったが、アイロオーテは即座に手を挙げた。故国を懐かしんだのではなく、故国に自分の名を知らしめたかったのだ。
とはいえ、アズロも特に反対する理由はない。せっかくだし……と、名乗りを上げれば、共に出演することになった。
そうして、いざ故国の王都へ戻ってみれば、拍子抜けするほど何も思わなかった。
あれだけ固執した場所だというのに、不思議なものだとアイロオーテは思う。
ただ、王都最大の劇場で行われる芸術都市話題の舞台ということで、故国でも大きな話題を呼んでいるらしい。
アイロオーテも、色々な場所で大きなポスターが並ぶ場面を見た。無事に再会できたメグとドーラたちも、反響の大きさを賑やかに語った。
そのせいか、公演初日のアイロオーテの元には、クラウデン辺境伯夫妻の名で祝いの花が届いた。堅物とイイ子ちゃんの妹夫婦らしくて、実に憎たらしいものだ。しかし、他にはなにもなかった。恩着せがましい手紙も、メッセージカードすらも。
だから、のこのこと会いに来なかったことも含め、そこだけは褒めてやろうとアイロオーテは鼻で笑った。
(――お前は、わたくしが捨てられて私が捨てた場所で、勝手に幸せになればいい)
いまのアイロオーテは、そんなふうに思えるから。
お付き合いいただきまして、ありがとうございました!
マイロナーテが物語の裏側なら、アイロオーテが物語の表側というイメージでした。
実は当初の予定より文字数が二倍になっているのですが、そのぶん読み応えがある……と嬉しいです。
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