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【番外】紅薔薇の蕾・中

 しばらくが経ち、アイロオーテに縁談が持ち込まれる。

 正確には「ヨルド子爵家の姉妹どちらか」に持ち込まれた縁談らしいが、両親は迷うことなく姉のアイロオーテを選んだ。


 相手は年上の辺境伯当人。年上といっても、大して離れているわけでもない。おそらく、悪い縁談ではないのだろう。

 しかし、クラウデン辺境伯領なんて国の端では歌に触れられなくなってしまう。アズロ曰く、サーカスが盛んな辺境伯領には、歌劇場が無いそうなのだ。

 ついでに言えば、辺境伯とは以前に軽く挨拶をしたことがあるが、感情の見えない瞳で形式通りに対応されただけだった。おそらくは、アイロオーテの社交場での評判を知っているからだろう。アイロオーテからしても、いかにも堅物の見本のような辺境伯とは相性が良いとは思えない。


「……ねぇ、アズロ。私、この結婚イヤだわ」

「でも、断れる縁じゃないんだろう?」

「そうだけど、ウチには妹だって居るからそっちでもいい筈なのに。両親が頑ななのよ」


 アズロに愚痴りつつも、アイロオーテも両親の考えを理解している。

 悪評で碌な嫁ぎ先を望めない姉より、名指しで良いところに“売れる”可能性が高い妹を残したいのだろう。

 姉妹の母が大事に大事に抱え込み、姉妹の父が厳しく教育しているらしい後継者の「弟」のためにも、姉妹が揃って上の良い家に嫁ぐべきなのだ。貴族としての理性が理解する。


 けれどアイロオーテは、堅物との冷たい結婚で辺境へ行くよりも、アズロと共に下町の練習場に行きたい。

 貴族の「アイロオーテ」ではなく訳あり娘の「ロッテ」として、役者の皆と共に競って歌いたい。


 挨拶さえ碌に許されない弟より、誰よりも憎い妹より、姉妹の扱いが雑な両親より、アイロオーテは自分の気持ちを大事にしたい。


 それに――――。


(アズロ以外と、あんな行為をしたくない)


 結婚するということは、その相手と夜を共にするということだ。


 アズロはアイロオーテも名を知る豪商の愛人の子で、存在に気付いた正妻から疎まれ、住んでいた家から母親共々放り出されたらしい。彼の母は豪商の屋敷のメイドで、雇い主の誘いから逃げることなど許されなかっただろうに。

 そんな経歴を持つアズロは、まともな恋愛や結婚などと自分を切り離しているように見える。


 アイロオーテは、たぶんアズロのことが好きだ。

 

 彼の柔らかなテノールも、

 人形のように整った顔も、

 歌や芝居にストイックなところも、

 プライベートでは少し意地悪なところも、

 珈琲を飲むときにふっと綻ぶ目元も、

 落ち込んだときにそっと慰めてくる優しい手も、

 主演に選ばれず悔しさで引き結ばれた唇も。


 アイロオーテはたぶん、アズロの全てが好きなのだ。


 だからこそ、アイロオーテはアズロに好意を伝えない。

 ふたりの関係はパトロンとクライアントだ。身分違いの恋人ごっこのその果てに、未来などない。


 婚礼準備のために帰郷を促す父親の手紙に拒絶の意を返し、時には無視をし、アイロオーテは抵抗を続けた。

 しかし、領の本邸では準備が着々と進んでいるらしく、結婚式の日が着実ににじり寄ってくる。

 そろそろ強制的に連れ帰られそうだと、アイロオーテが頭を悩ませていると――――見かねたアズロがひとつの提案をしてきた。


「そんなに嫌なら…………家出してみる?」

 

 それは思いつきそうで思いつかなかった、貴族の娘には難しい手段である。

 

「住む場所は……メグやドーラたちが住んでいる寮なら匿えると思う。この家はすぐに捜索が来るだろうし……。ああ、寮に行くなら自分のことは自分でやってもらう必要があるけど……」

「………………や、やるわ!」


 アイロオーテは少しだけ悩んだが、家出を決行することにした。

 やることは単純。ただ書き置きをし、少しの荷物を持って出先から逃げるだけだ。

 

 こんなとき、惰性で社交に出ていたことが功を奏す。ちょうど、商業施設も多く密集する地区で行われる仮面舞踏会があるので、それに合わせて家出計画を実行した。

 家の御者に近くで降ろしてもらい、いつも通り終了時刻に合わせて来るよう頼む。あとは、近くの建物で潜んでいたアズロから裕福な商人の娘が纏うようなロングコートと帽子を受け取り、人混みに紛れた。


 演技の参考用に借りて読んだ安っぽい恋愛小説のような展開に、アイロオーテの心は躍りだす。

 愛のための逃亡……なんて物語のような出来事だ。その結果、自分がどんな状況に置かれるかなんて考えないまま、アイロオーテは今を楽しんだ。


 無事に寮へ辿り着き、アズロの役者仲間であるメグとドーラは、ロッテと名乗るアイロオーテの世話を焼いた。

 平民の娘に見えるような振る舞いは演技用に以前から習っていたが、それを磨いた。服を借りて変装し、共に下町へ繰り出す。

 初めての家事で手が荒れないように気をつけてさらにはちゃんと手入れを行うものの、すぐに貴族らしくない手になったが、アイロオーテは少し気落ちするだけで済んだ。

 ちなみに、この寮で共同生活を営む娘たちの夢は、家事をしない綺麗な手だという。大きな舞台で主演に選ばれれば、手伝いを雇えるほどの報酬も手に入るからだ。


 アイロオーテはこの生活が楽しい。もう帰らなくても良いと思うほどに。

 けれど、妹が辺境伯家へ嫁いで高位貴族になったのに、自分が平民だというのは許せなかった。勝手なものだと自嘲する。


(……でも、きっと、私は貴族に向いていなかった)


 このままアイロオーテが行方をくらませば、妹は何の文句も言わずに嫁ぐのだろう。貴族の娘としては、妹が正しいのだ。そして、そんな貴族というものは、歌手や役者を支援する立場だ。自ら歌うなどもってのほか。それでもアイロオーテは、ただ歌いたかった。


 アイロオーテは歌いたい。

 けれど、貴族でもいたい――妹への対抗心だけでそう思う。


 それと同時に、家を出てしまえば、アズロのパトロンも続けられなくなることに思い至る。パトロンとクライアントでなくなれば、あの恋人ごっこも終わりになるのだろうか。

 そんなふうにアズロとの関係にアイロオーテが思い悩んでいれば、アズロが芸術都市へ招かれることになった。彼の体格ではこの国の舞台で中心に立つのは難しいが、芸術都市なら活躍の機会が増えると、芸術都市の劇団スカウトに見出されたのだ。


 何にせよ、アズロとは離れる運命だったというわけだ。その時にはもう、アイロオーテは自分がどうしたいのかわからなくなっていた。


 苦労も多く大変だけれど楽しい生活が続き、ヨルド子爵家とクラウデン辺境伯家の結婚式が迫ってきた頃、アイロオーテが隠れ住む寮に辺境伯家の使いが訪れる。


(私の隠れ場所なんて、辺境伯サマにはお見通しだったってわけね……)

 

 当主と同じく感情を見せない瞳の使者に、アイロオーテは淡々と自らの処遇を伝えられた。アイロオーテは悔しさで奥歯をぎりりと噛み締め、涼しい表情の使者を睨みつける。

 しかし、アイロオーテの不機嫌など歯牙にもかけず、必要事項を伝え終えた使者は速やかに立ち去っていった。

 

 ――使者曰く、アイロオーテはヨルド子爵家から除籍されたのだという。


 その事実と共に、辺境伯からの要求はただひとつ。「平民アイロオーテ」が「辺境伯夫人マイロナーテ」の心を煩わせることを禁ず……それだけである。


 アイロオーテは憤った。心が荒れに荒れて、久しぶりに乗り込んだアズロの家で泣き喚いた。


 辺境伯家へは、きっちりと妹が嫁いでいくらしい。妹らしい従順さだと鼻で笑えた。

 しかし今までアイロオーテが何をしても、褒めずさほど叱りもせず、不干渉だった両親がこういう時に限って強く出るとは思わなかったのだ。既に社交へ出ていた娘を除籍するなど、あからさまな醜聞である。アイロオーテが軽く行方をくらましたとしても、急な病か何かでしばらく療養していたとでも説明すると思っていた。

 

 貴族の生活は、楽だけど辛かった。

 寮の生活は、大変だけど楽しかった。


 そのためか、アイロオーテの中にも複数の自分がいる。別にこれで良いと思う自分と、妹より下の身分になることが許せない自分だ。

 アイロオーテは荒れた手と、手入れが行き届かない髪を見る。もしいま鏡を見たのなら、薄い化粧は剥がれて目元は無様なまでに真っ赤だろう。


「………………いまの私、美しくないわ」

「そうかな。家事労働によって生活を知り、虚飾を失ったいまの君を、僕は綺麗だと思うよ」

「なにそれ……馬鹿にしてんの?」

「いいや、まったく?」


 アイロオーテの落ち着きを見計らい、アズロは湯気を立てるカップを差し出した。黒い液体から立ち上るナッツのような芳しさが鼻腔を刺激し、彼女の心を慰める。庶民向けに作られた分厚いマグカップは重たいが、そのどっしりとした重量が心地よいものだとアイロオーテは知っている。


「……君さえよかったらだけど、芸術都市へ一緒に行かない?」

「流石にそれは……急に増えるのは迷惑じゃないかしら」

「人数面は現状問題ないよ。とりあえず僕の付き人扱いになるから、肩身の狭い思いをするとは思うけど……このまま国に居るよりはマシだと思う」

「……………………そう……そうかもね」

 

 国にとどまる場合、このまま舞台に携わっていくのなら貴族を含む富裕層との関わりは避けられない。もちろん、上を目指さないのなら関係がないが――アイロオーテがアイロオーテである以上、その仮定に意味はない。


 芸術都市行きの同行を即断し、アイロオーテは彼らに紛れて国を出ることになった。

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