【番外】紅薔薇の蕾・前
大変お時間をいただきまして、申し訳ございませんでした。
アイロオーテの話を三話構成で、三日間同じ時間に投稿しますので、どうぞお付き合いください。
「おかえり、疲れただろ。お茶でも飲んで……あぁそうだった、ここ珈琲があったんだよ。さすが交易都市の良宿だよね、飲むかい?」
「………………………………いただくわ」
評判は良いが決して高級ではない宿の個室、長椅子にゆったりと座る青年が微笑む。
男性にしては華奢な美丈夫が繰り出す声は蠱惑のテノール。整った顔立ちが浮かべる笑みは計算され尽くしたもので、もしこの瞬間を切り取り絵画にしたのなら、名工が手掛けた人形を描いたものだと認識されるかもしれない。
宿へ戻ってきたアイロオーテを迎えたこの青年は若き俳優で、アズロという。
貴族としての居場所を失ったアイロオーテは、恋人のひとりである彼の伝手によって隣国へ同行できることになっていた。
アイロオーテは実家に捨てられ、貴族としての身分を失ってしまった。
しかし、妹よりも下の身分になることが我慢ならなかったアイロオーテは、妹と入れ替わるべく一か八かの賭けにでた。
どんなに馬鹿だと言われようが、自分でも馬鹿だと思おうが、これ以上妹より下になることが許せなかった。動機はただそれだけだった。
「まったく、無事でなによりだよ。ちょっと噂を集めるだけで、新しい領主夫人の評判の良さなんて十分に伝わってきたじゃないか」
「……噂なんてもの、別にどうとでもなるわ」
「そりゃそうだけど。だからこそ、つけ入る隙なんてどこにもなかったと僕は思うんだけどね」
「……………………」
ティーコゼに覆われたポットにはまだ珈琲が残っていたらしく、アイロオーテを正論で宥めるアズロが涼やかな動きでカップに注ぐ。ムスッとした表情を隠すことなく、どかりと長椅子に座ったアイロオーテは、ローテーブルに置かれたカップへ手を伸ばした。
少しぬるくなっていた珈琲はまだ柔らかく香り、ささくれだったアイロオーテの心を慰める。
この国では、貴族男性が好む珈琲は貴族女性にあまり振る舞われない。貴族にとって、男社会の象徴だからだ。
しかし、アイロオーテは幾度となくその黒い液体を飲み干してきた。
自らの人生を表しているようなその黒に、アイロオーテはそっと口をつけた。
※
アイロオーテは、歌うことが好きだった。
演じることが好きになった。
アイロオーテにとって、社交場の恋とは理想の自分を魅せるための練習でしかなかった。
けれど……いや、だからこそ、そこに価値は何も無かった。
恋に興じる男たちにとっての、魅力的な女とは――。
他の男の羨望を得られる、自慢できる見目の女。
隣に置いても、見劣りしない見目の女。
目立ちたい時に、派手な装いをさせても潰れない女。
それに加えて、己を気持ちよくさせる話術があれば尚良し。
――要するに、ただのアクセサリーだ。
仮面舞踏会で若い女優を連れ回すことと、同じ話でしかない。
だというのに、何も知らなかった当時のアイロオーテは褒められて喜び、浮かれ、望まれるままに振る舞った。
煙草の臭いを纏い、苦い珈琲に慣れた頃にはもう、とっくに手遅れだった。
『――――アイロオーテ? 他に誰の手がついてんだかもうわからないし、妻にするのはちょっとね……』
『あいつに家のこと任せられないよな。親はさ、ヨルド子爵家の女だったら妹の方にしろって言うんだよ。そっちは、地味すぎると思うけどな』
『しかもさ、あれの妹ってあの読書サロンの女王サマのお気に入りじゃん。ちょっと羽目を外しただけで睨まれて遊べなくなりそー』
『確かに。姉みたいにユルすぎるのは論外だけど、妹みたいにお堅すぎるのもな――――』
若い世代を集めて楽しさを優先した決して上品とは言えない会で、アイロオーテは自身のそんな評判を耳にした。
そこに価値なんてなかった。
そこに将来なんてなかった。
そこに「わたくし」なんていらなかった。
言われなくても、もうわかっている。
アイロオーテは理解しているのだ――はじめから間違えていたなんて、当たり前のことは。
でも、たとえやり直せたとしても、アイロオーテはきっと同じ間違いを犯す。
正解がわからない。正解を選べない。正解が恐ろしい。
結局、アイロオーテ当人が「アイロオーテ」に価値を感じていないから。
気がついたときにはもう、アイロオーテにとって、妹とは恐怖の象徴だった。
妹はふたつも年下なのに、アイロオーテの勉強範囲を軽々と追い越していったのだ。
アイロオーテは、そんな妹に勝てるものなど何も持っていなかったというのに。
いや、妹よりも整った顔立ちがある。輝く金の髪がある。
それしかなかった――歌はもう、両親に禁じられてしまったから。
『おねえさま、つぎのおうたはいつですか?』
呑気に歌をせがんでくる妹が、憎らしくて堪らなかった。
歌への渇望を振り払うように、アイロオーテは美容の強化に邁進し、流行を追い求めた。
アイロオーテは、なんでもいいから妹に勝ちたかった。妹の上で居たかった。
歌のない自分では、そうでもしないと自分の価値を見失ってしまうから。
家庭教師は両親を言いくるめ、次々と妹に高度な教育を施していった。下位貴族の女には、まったく必要のない範囲だというのに。
そうして、あっという間に複数の言語を習得し、あっという間に高等で複雑な作法を身に着け、いざデビュタントとなればあっという間に才女として名を馳せる。
とある公爵夫人――読書サロンの女王様なんて揶揄されている人物だ――に気に入られた妹は、卑屈そうな作り笑いで輝かしい道を歩いていた。
若い頃から「女性にも学が必要だ」と言い続けてきたという読書サロンの女王様は、女の立場向上に努めてきた素晴らしい人物なのだろう。アイロオーテだって、理性では理解している。けれど、どんなに努力しても必要な“学”を得られない女の立場は、軽視されていないだろうか。
アイロオーテとて、大昔のように「女は飾りでいい」だとか、そんな極端な扱いをされたいわけではない。軟派な男から実際に飾り扱いされてようやく解ったが、そんなものは御免だ。
では、どうすればよかったのかなんて、足りぬ頭で考えても何もわからない。
(――――ああ、歌いたい)
就寝前、小さな声で密かに歌うだけの日々が続く。
誘われて赴く歌劇場の個室から眺める舞台上の役者たちが、何よりも眩しかった。
歳を重ねれば、夜会の休憩室に誘われることが増えてきた。
緩めの夜会の休憩室に男女で入れば、行われることの選択肢は決して多くないため、アイロオーテは誘いを断り続けた。
貴族の娘として、その一線はさすがに引いていたのだ。
誘いを断る言葉のレパートリーが増えたが、やんわりと慣れたようにあしらうのも疲れてきた頃、仮面舞踏会に紛れていたアズロと知り合った。
彼が紡ぐ柔らかなテノールは心地よく、聞けばアイロオーテが以前見た演目で助演として参加していた歌劇俳優だった。
華奢なアズロは主演を張るには迫力が足りず、実力はあるが今ひとつ名が広まらない役者である。もちろん、アイロオーテも名は知らなかった。
しかし、くすぶってはいるもののアズロが役者業へかける情熱は本物で、アイロオーテはたちまちアズロにのめり込んだ。
すぐに支援を決め会話を楽しみ、その後の何度めかの逢瀬でアイロオーテはアズロと夜を共にする。そのうち軟派な貴族男に無理矢理暴かれてしまうより、そのほうがよっぽど良いと思ったのだ。
何度目かの夜、状況に慣れたアイロオーテはいつもの癖で、寝台の上でぽそりと歌ってしまった。
王都の喧騒は窓を隔てた外にあり、静かな部屋にアイロオーテのか細い歌声が流れる。その隣で横たわるアズロは、静かな歌を沈黙で迎えた。
すると驚くことに、すべてを聞き終えたアズロは、アイロオーテを劇団の練習場へ誘ってきたのだ。
「流石にそれは……無作法でなくて?」
「うちは割とその辺りが適当なんだ。もちろん、僕がもっと君の歌を聞いてみたいから……なんだけど」
「……………………そ、そう」
アイロオーテが歌を褒められたのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
『――アイロオーテお嬢様、素敵な歌声ですよ』
『おねえさま、とってもおじょうずです!』
アズロから視線を外し目を閉じれば、小さな妹と乳母の姿が思い浮かぶ。
茜色の子供部屋は、アイロオーテの舞台だった。
子供の頃、芸術支援に力を入れる侯爵家で行われた、若手役者を集めた子供向けの芝居。
まだ我慢が効かぬ子供のために短く・簡単にアレンジされた歌劇は、アイロオーテを虜にした。そこで一度聞いただけの歌を覚えたアイロオーテは、帰りの馬車でも、帰宅後も、ひとりで練習し続けた。
そして数日後、きらめく舞台に憧れやまぬアイロオーテは思い立ち、妹を観客にして何度も歌った。
思い返せば同じ曲ばかりだったというのに、妹は飽きずに瞳を輝かせて聞いていた。
(私の………………舞台は……………………)
アイロオーテの幸せはそこにあったのに、どうしてこうなってしまったのか。
妹のせいか、両親のせいか、貴族という身分のせいか、貴族らしいことを何も出来ぬ自分のせいか。
歌を望まれた喜びとまぶたの裏に浮かぶ茜色の過去がアイロオーテの感情を満たし、閉じた瞳からははらはらと涙がこぼれだす。アイロオーテは静かに嗚咽を飲み込むが、飲み込みきれなかった衝動が唇から漏れていく。
そんなアイロオーテの丸まった背を、アズロは何も言わずに撫でていた。
自分の何が悪かったなんて、アイロオーテにはもうわかっている。
それでも妹を憎むことでしか、アイロオーテは自分を保てなかった。