【15】過去と杯
後半、グレイオット側の話です。
アイロオーテ襲来があった日の夜、マイロナーテとグレイオットは夫婦の寝室にあるソファで酒杯を傾けていた。
「――私、どちらかといえば姉のことは嫌いです」
「……そうか」
「でも、好きなところもあるんですよ。美容にかける情熱は本物で、そこは尊敬すべき箇所だと思いますし……なによりも、歌が……うまいんです」
「歌?」
「はい。ピアノも器用に弾きこなしますが、特に歌声が伸びてきれいで……幼い頃に姉が、私を観客にして歌ってくれたことは、まだ覚えています」
遠い記憶を掘り起こせば、アイロオーテはマイロナーテのために歌っていたのではなく、誰でもいいから観客が欲しかっただけだろう。
それでも、幼いマイロナーテがアイロオーテの歌声に夢中で耳を傾けた思い出はなくならない。
夕陽のスポットライトの中、伴奏も何も無い、幼い少女がひとり歌う子供部屋の舞台。
それは姉との間にある、数少ない楽しい思い出だった。
そんな姉妹の関係が、いつどうして壊れたのか……マイロナーテにはわからない。
気がついたときにはもう、アイロオーテは歌うことを止めていて、マイロナーテを睨んでいたからだ。
以降のふたりは趣味もあわず、アイロオーテはやがて王都に居座りだして、姉妹の会話はほとんどなくなった。たまに顔を合わせれば、アイロオーテはマイロナーテを睨みつけて罵った。
「そういえば、あの……姉の同行者とは……?」
「ああ……。俺たちが見に行ったサーカスだが、一部のメンバーを入れ替えるそうなんだ。君の姉……とあと数人は、それに同行して芸術都市へ行くらしい」
「あら、まあ……」
「同行自体は彼らの別の伝で決まったものだが、俺からも団に頼んでおいた。少なくとも、芸術都市に着くまでは悪いようにならないだろう」
「……ありがとうございます」
芸術都市へ行く手配が元から済んでいたということは、マイロナーテに難癖をつけに来たのは駄目元だったのだろうか。
アイロオーテの身分は既に平民である。平民に混ざって他国へ出るとなれば、なおさら復籍の目も無い。貴族籍を惜しんだのかただの嫌がらせか……アイロオーテが考えることは、マイロナーテにはさっぱりわからなかった。
彼女のことはどちらかといえば嫌いだし、もう微塵も会いたくないから見えない場所で好きに生きてほしいとは思うが、地獄に落ちてほしいわけではない。
芸術都市へ自分の意思で行くのであれば……そこで幸せになってほしいと思う程度の情はある。
……それはそれとして、芸術都市へ行けるのはちょっと羨ましいなと、マイロナーテは思った。
※※
グレイオットは話をしながら、消沈気味なマイロナーテの様子を観察していた。
表面上は姉のことを気にしないようにしていても、ずっと引っかかっているのだろう。
あまり強くない酒精で頬を染め、瞳がぼんやりとしはじめたので、酒杯を取り上げて水を渡す。
ちびちびと素直に水を飲んでいるが……もしかしたら、いま何を飲んでいるかを理解していないかもしれない。
しっかりしているので勘違いをしがちなのだが、マイロナーテはまだ若い。
真面目な若い娘は、社交場でも挨拶程度にしか酒を飲まないよう教育され、律儀にそれを守るのだ。取り返しのつかない過ちを起こさないために。
教科書通りの社交をこなしていた彼女は、さほど酒に慣れていなかったのだろう。グレイオットのペースにつられて飲みすぎてしまい、ほわほわと可愛らしい表情を晒している。
とある公爵家の夫人が主催する王都の読書サロンで“次世代の才女”とも称されるマイロナーテは、理想の嫁として水面下で争奪戦が起きているところだった。
招聘された他国の歴史学者と、先方の母語で渡り合う知識と語学力。
若い彼女はまだまだ知識幅に偏りがあるものの、ただの貴族の妻にするとは惜しいと、将来有望な若い学者の相手に推されていたのも聞いている。
しかし、ヨルド子爵家の長女が婚約者すら決まっていなかったこともあり、世間体を気にする子爵夫妻が次女の婚約を渋っていた。
そんな状況を知らされていないようで、当の本人はどうやら己に自信が無いようだが……これからどう褒めていくべきか、グレイオットは試行錯誤中である。
クラウデン辺境伯家の申し出に対し、順番や年齢その他諸々の事情もあって当初のヨルド子爵家は姉であるアイロオーテを指定してきたが……それならそれで別によかった。
正直に言えば、奔放すぎる振る舞いを警戒していたのは事実。さらに付け加えるのなら、苦手な次姉と表面的な性格が似ているアイロオーテとは、信頼関係をうまく構築できるか不安ではあった。
実行中の友人計画とて元々は、嫁いできた時点で既に妊娠していないかの観察期間でしかなかった。
とはいえ、疑いが晴れた上で良好な関係を築けるのなら、もちろんそうするつもりだった。
しかし、天から銅貨、風で揺れ落ちた果実…………最後の話し合いでは、マイロナーテが目の前に座っていて驚いたものだ。
当の場では混乱して愛想の欠片もない対応をしてしまったが、家の責任を背負わされてしまった真面目なマイロナーテは、まっすぐな瞳でグレイオットに嫁いできてくれた。
辺境伯家という家格が上の家に、下の娘を直接高く売れた当主夫妻は嬉しそうだったし、アイロオーテは自由になれたし、三方よしで万事解決である。
……だというのに、グレイオットの妻になったマイロナーテへ突っかかってきたアイロオーテの目的はよくわからなかったが……いまは大人しく国を出る準備をしているようだ。
侍女になったユフィータも良い仕事をしてくれていると、グレイオットは満足している。
ユフィータはグレイオットの読書友達でもあるので、マイロナーテの私室に置く本の選書にはずいぶんと手助けをしてもらった。
グレイオットが贈る一輪の花から「愛しき妖精姫と秘密の花園」に興味を持ったマイロナーテが、ユフィータの私物を読みはじめたのは嬉しい誤算だったが。
現在の友人計画は、グレイオットが本気でマイロナーテと仲良くなりたくて練り直したものである。
拭い去れない気恥ずかしさによって該当書を本棚のラインナップから除外してしまったが、含めておくべきだったろうか。いや、お勧めの恋愛小説は他にもあるので、これでよかったかもしれない。
なお、恥ずかしいという感情は、心構えをする暇もなく突然嫁ぐ羽目になったマイロナーテのために毎朝花を贈るという行為が、流石に気障すぎると自分でも思っているからである。
しかし、仕事に邁進しすぎて女性との交際経験などないグレイオットにとって、参考にできるのは恋愛小説くらいだった。
なにせ、周囲の年上の男たちに相談しても、からかわれるだけなのだ。
そうでなくとも、伝授されるのはからかいと紙一重の脳筋理論。酒を軽く飲ませて押し倒せば良いだなんて意見は、参考にならない。紳士として、決して実行してはいけない。
――だからこそ、グレイオットに寄りかかって眠るマイロナーテに不埒な真似などできるはずもなく。
ゆっくりと長い息を吐いたグレイオットは、人を呼ぼうとベルに手を伸ばし…………戻した。
酔って寝落ちたマイロナーテを、ひとりで寝かせるのは不安だ。
だから……隣で寝たほうが良いではないか。隣で寝ても良いのではないか。
グレイオットは自らの腕でマイロナーテを寝台に寝かせ、その隣で横になった。
広い寝台で眠るマイロナーテを見れば、規則正しい寝息で胸を上下させている。
これ以上は特に何もしないので、このまま安心して寝てほしいと思いながら、グレイオットも目を閉じた。