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ギディオンとアミーリアの婚約が発表されたのは“紛争終結を祝う宴”の際だ。
それを名だたる王国の貴族たちどころか、本人にもその時に知らされたことだったのは、衆目の知るところである。
そしてクルサード侯爵家の家臣たちも、ギディオンが花嫁を連れて帰ってきたことで、自分たちの主が婚約どころか、結婚までしてしまったことを知るのである————
ゲートスケル皇国がファーニヴァル公国への侵攻を始めてから、アーカート王国西の国境を守護するクルサード侯爵が治める領地は、常にない喧騒に包まれていた。
ファーニヴァル公国と国境を接した隣同士であるクルサード侯爵家は数世代にわたって友好的な関係を結んでおり、特に先代同士はお互いを親友と明言する程親交が深かった。残念ながら今の代はそこまでとは言えないものの、関係が良好なのは変わりがなかった。故に、クルサード侯爵家はゲートスケル皇国の王国への侵入を阻むための防備を固めるだけではなく、いつ何時ファーニヴァル公国から救援要請があろうともすぐに駆け付けられるようにと、準備万端抜かりなく進められていたからだ。
そしてついにファーニヴァル公国からの救援要請を受け、クルサード侯爵が騎士団を率いて参戦するも、クルサード侯爵の戦死、ファーニヴァル公国の大公と大公子が戦の犠牲となり露と消える等、度重なる不幸によりファーニヴァル公国は亡国となった。
西方将軍を任じられていたギディオンが王宮でその知らせを受けて急遽侯爵の跡目を継ぎ、王国騎士団を引き連れて参戦。その後、瞬く間にゲートスケル皇国を撃退し、アーカート国王へ報告するため再び王都へ上った、と思ったら花嫁を連れて帰ってきた————ここまで、僅か半年ほどの出来事である。
クルサード侯爵領の誰もが数十年ぶりの大きな戦と主である侯爵の戦死からの衝撃冷めやらぬうちの、新しい主であるギディオンの婚姻という寝耳に水の事態に、悲しむべきか喜ぶべきかと混乱の極みに達した。
しかもギディオンの花嫁は、ついこの前まで王太子の婚約者だった亡国ファーニヴァルの公女である。先代クルサード侯爵が亡くなった経緯を知っている家臣の多くは、馬鹿にするなと怒った方がいいのか、それともファーニヴァルを実質クルサードが手に入れたと喜んだ方がいいのか、複雑な思いに駆られた。
だが、どちらにしても我らが若様の奥方となったアミーリアのことを、果たして若様に相応しい女性であるかと、厳しい目を向けていたことに間違いはなく、同時に長らく王太子妃となるべく教育を受けていたアミーリアが、突然クルサード侯爵家に与えられたことに不信感をもつ家臣も多くいた。
アミーリアは自らの保身の為にクルサード侯爵家を探る王家のスパイとなったのではないか、それで痛くもない腹を探られたくはない、はたまた、公女と娶わせてファーニヴァルの管理をクルサードに任せたのは、戦後復興の手間と金のかかる時期を体よく押し付けられたのではないか、……等々。
クルサード侯爵家は王都から遠く離れた辺境の広大な地を守護しているため、独立性の高い家門であった。そのうえ、辺境と云うことは他国との距離が王都よりも近い。ある意味、王家からあらぬ疑いをかけられやすいとも云えた。
だからこそ、クルサードの重臣たちは自分たちの関知しないところで、主——侯爵家——の婚姻に王家から横やりを入れられたことに、強い憤りを感じた。
そしてその憤りは、全てアミーリアへ向かってしまった。
王国の辺境を守る侯爵家ということで代々武を誇るクルサード家の奥方には、それなりの気概というものが求められる。果たして、王宮で蝶よ花よと王太子妃候補として育てられていた嫋やかな公女にそんな気骨が望めるのか、と。
「……とまぁ、アミーリア様には業腹なことでしょうが、クルサード家臣の古狸たちはそんな風に息巻いてまして、少しでもアミーリア様にクルサードの奥方として問題があれば、すぐに自分たちが推す第二夫人をギディオン様に召してもらい、その女性からクルサードに相応しい立派な跡継ぎを……と」
アミーリアも多少耳にしていたとはいえ、アナベルの赤裸々な話を改めて聞いて呆れた表情を浮かべた。とはいえ、クルサード家臣たちの憤懣やるかたない気持ちもよくわかる。
ギディオンはアミーリアと結婚した時は確か三十路手前だったと思う。その年まで婚約者も持たず独身だったのなら、よほど本人も家門の方でも相手を吟味していたのだろう。
それなのに、王家の鶴の一声で望みもしないアミーリアと婚姻することになってしまったのだから。
「ま、それも仕方のないことね……」
諦めたようなアミーリアの応えに、アナベルの方がむきになった。
「なんてことを言うのですか! ここは怒っていいところですよ⁉」
「だけど、確かに私がクルサードの奥方に相応しいとは思えないわ」
あなただって私を奥方とは呼んでいないじゃない、と言いたいのを心の中で留め、アミーリアは暗い顔で皮肉気に言った。アナベルは何か言おうとして口籠り、俯いた。
「……そんなこと、ありません。ただ、ギディオン様も重臣たちの手前下手なことができませんでした。ですので、アミーリア様が理不尽に責めを負うことのないよう一計を案じました」
「あのギディオンが? 私の為に?」
アミーリアは意外そうに目を見開き、信じられないわと小さく呟いた。アミーリアの反応をアナベルは悲しいとも悔しいともつかない複雑な表情でみつめていた。そのアナベルの様子を見ていたキアラはハッとした。
(もしかして乳母は二人が両片思いを拗らせているのがわかっていて、なんとかしようとしている⁈ まあ、まぁっ! なんてこと! こんな近くに同志がいたなんて。アナベル同志! 心の友よ! さっきは嫌いなんて思ってごめんなさい!)
きらきらした瞳で自分をじっと見ているキアラには気付かずに、アナベルは話を続けた。
「まず、クルサード侯爵領には寄らず、こちらのファーニヴァル領に直接来たのは、そのひとつです」
クルサード侯爵領には重臣たちが手ぐすね引いて待ち構えていた。そんな中に何も知らないアミーリアを放り込み、むざむざと失格の烙印を押させる訳にはいかなかった。
それに、これまでいろいろあったアミーリアの気持ちが落ち着くまで、故郷の方が居心地いいだろうと配慮したのだ。もちろん、戦場となったファーニヴァルがかなり荒れていた為、直接ギディオンが乗り込んだ方が効率が良いという判断もあったが。
「そしてもうひとつが、アミーリア様に監視の者をつける、です」
「それがあなた……?」
こくり、とアナベルは頷いた。
アミーリアの為を思ってしたことだがクルサードへ寄らなかったことで、却って重臣たちの不満は高まってしまった。このままでは大したことない噂や評判でさえ大袈裟に悪くあげつらわれ、揚げ足を取られかねない状況になっていた。
だがその状況はアミーリアの妊娠によって、一時は全て払拭されたようにみえた。
ファーニヴァル到着後、アミーリアはこれまでの心労か寝込むことが多くなり、変な噂も悪い評判も立たずにいた。そして、重臣たちが何事かを画策するより先にアミーリアの妊娠が判明したのだ。
重臣たちはその知らせに、不満を持っていたことなど忘れたように狂喜乱舞した。
しかし、同時にギディオンとアミーリアがファーニヴァルに到着してからほとんど顔を合わせることなく寝室も別にしている、と云う不仲の噂も耳に入ると、喜びは一転した。
このままでは次の子供は望めないのではないか。王家との約定で、生まれる子は恐らくファーニヴァルを継ぐ。となると、クルサード侯爵家を継ぐ子供はどうなるのだ? ————と。
「重臣たちの不満は、一度喜んだ分余計に手の付けられないものとなってしまったのです。私の父がなんとか歯止めになろうと手を尽くしましたが、思ったように鎮められず……」
アナベルの父とは、先代侯爵の側近でもあり、クルサード辺境騎士団の団長リルバーン子爵・侯爵家重臣の筆頭である。
なんでもリルバーン団長は、自らの親類の娘を第二夫人としてギディオンに娶せると公言し、他の重臣たちの不満を一手に引き受けた。そうすることで、重臣筆頭のリルバーン子爵が今回の婚姻に納得していないと、見せかけたのだ。これで他の家臣たちは取り敢えず一歩引いた。
リルバーン子爵はギディオンに厭われるのを覚悟で悪役を買って出て、家臣たちが暴走するのを食い止めていたのだ。
最初のうちこそ「リルバーン子爵を差し置いては……」などと側室を差し出すことを遠慮していた者たちも、なかなか第二夫人となる娘をギディオンに差し出さないリルバーン子爵に苛立ち始めていた。そこへ、ギディオンとアミーリアが不仲とのうわさが飛び込み、怒りと不満が再燃した。
その怒りの炎はすぐにでも誰彼構わずギディオンの寝室へ女性を送り込みそうなほどの勢いを取り戻し、さすがのリルバーン子爵も手を焼く事態となってしまった。
そこでちょうど出産したばかりのリルバーン子爵の娘であるアナベルを乳母としてアミーリアの元へ派遣し、乳母に身をやつしながらこちら側の監視者として噂の真偽を確かめ報告させてはどうか、と子爵が提案した。
家臣たちも「アナベル様ならばファーニヴァルの公女の肩を持つことはしないだろう」と納得し、不満をなんとか収めたという経緯で、今現在アナベルはアミーリアの側にいる。
「…………それは、悪かったわ……」
アミーリアはぼそりと謝った。アナベルが愛する夫と子供をクルサードに置いて、ファーニヴァルに来ることになった責任を感じたのだ。
「いいえ。元々ギディオン様に護衛兼乳母になることを依頼され了承していましたから。それに週に一度はクルサードに報告と称して帰らせてもらっていますし、夫が久々に新婚時代に戻ったように甘えて優しくてカワイイので、全然問題なしです」
からりとした口調で惚気られて、アミーリアは目を見開くと、思わず笑いを漏らした。
「とまあ、こんな訳で、私は監視役としてアミーリア様の周辺で起こった事態を全てギディオン様に報告しなければならないのです。護衛としても、常と違うことがあれば報告する義務があります。特に今回のレヤードの件は、何の連絡も無く息子が——しかもギディオン様が念入りに遠ざけていた、若い男性が訪問するというイレギュラーなことが起こりましたから。おそらく城内には他の重臣の手の者も入り込んでいますし、悪い噂の種となるものは早急にツブし、素早く対処しなければなりません」
これが、アナベルの『言い訳』らしかった。
アミーリアの不利になるような情報は、きっとアナベルとギディオンによってクルサードの重臣たちの耳に入る前に揉み消されていたのだろう。けれど……
「どうしてギディオンとあなたがそこまでするの?」
心底不思議そうなアミーリアをキアラとアナベルは無言で凝視した。
(ママ、本気で言ってる⁉ ニブいにも程がない?)
だがキアラは、前世のママには恋愛経験がほとんどなかった、ということを思い出した。
幼い頃からずっと父親の会社を継ぐための勉強ばかりしてきた前世のママ。恋愛なんて二の次三の次だったと言っていた。というより興味がなかったとも。
前世のパパとは政略というか契約結婚みたいなもので、夫というよりは信頼する部下のようだった。もちろん人間的には好きだったと思うが、いわゆる恋愛感情的なものは(たぶん)持っていなかったように思う。
今世のアミーリアだって、十三歳で王太子妃の候補となったのだから、恋愛経験なんてあるはずもなかった。
(あぁ……壊滅的だ。二人共恋愛経験値ゼロどころか、もしかしてマイナス?)
キアラはひそかに頭を抱えた。その理由は、アミーリアが分からないというならギディオンが直接話すべきことで、他人から伝えるものではない。
アナベルもそれを了解しているのか、アミーリアの質問には答えなかった。
「レヤードの件は、報告したこと自体に問題があったとは思っておりません。対応には……、問題ありましたが。ですが、もしアミーリア様が私のしたことを許せない、顔を見るのも不愉快だと仰るなら、お役目を辞しクルサードに戻ります」
そう言うと、アナベルはアミーリアの決断を待つように、神妙に頭を下げた。
「そうね。許せないわ」
アミーリアの冷たい声が部屋に響き、しんと静寂が訪れた。