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「お前のような“無個性”な令嬢は我が家に不要だ!」と婚約破棄された夜会で、絶世の美貌を持つ氷の魔術師団長様が「ようやく見つけた、私の唯一」と私を攫っていきました

作者: ナナヲ

 きらびやかなシャンデリアが降り注ぐ王宮の大広間。

 色とりどりのドレスを纏った令嬢たちの華やかな笑い声と、紳士たちの談笑が、オーケストラの優雅な調べと混じり合っている。

 今宵は、この国の建国記念を祝う盛大な夜会が開かれていた。


 その会場の隅、巨大な柱の影に隠れるようにして、一人の令嬢が息を潜めていた。

 侯爵令嬢、イリス・フォン・アルメリア。

 年は十八歳。艶やかな黒髪は地味な夜会巻きにまとめられ、顔にはそばかすを描き、度の入っていない野暮ったい眼鏡をかけている。

 ドレスも、流行遅れの落ち着いたグレーで、刺繍やレースなどの装飾はほとんどない。

 周囲の宝石のように輝く令嬢たちと比べれば、まるで色褪せた押し花のようだ。


(早く、この時間が過ぎ去ってくれればいいのに……)


 イリスは、手に持ったグラスの炭酸水をちびちびと飲みながら、心の中で何度目かになる溜息をついた。

 目立つのは嫌いだ。

 注目されるのはもっと嫌いだ。

 できることなら、今すぐにでもこの場から逃げ出し、自室で好きな魔導書の続きを読むか、あるいは誰にも見られずにこっそりと庭に出て、夜風に当たりたい。


 しかし、今夜ばかりはそうもいかない。

 今夜、この場所で、彼女の人生における一つの大きな転機――という名の、予定された破滅――が訪れることになっているのだから。


 イリスがこのような地味な恰好をしているのには理由がある。

 それは、彼女が生まれ持った資質があまりにも規格外だったからだ。

 母親譲りの、一度見たら忘れられないほどの類まれな美貌。

 そして、父親譲りの、国でも五指に入ると言われるほどの強大な魔力。

 幼い頃から、その二つはイリスに望まぬ注目と厄介事ばかりを引き寄せた。

 嫉妬、羨望、そして下心を持った者たちの執拗な接触。

 それに辟易したイリスは、物心ついた頃から、自らの美しさと魔力を巧みに隠蔽する術を身につけた。

 そばかすメイクに度のない眼鏡、魔力を抑え込む簡単な魔法と、地味な服装。

 それが、彼女が穏やかに生きるための処世術であり、擬態だった。


 そんな彼女に、数年前、政略的な理由で婚約者が決まった。

 相手は、公爵家の嫡男であるレイモンド・フォン・ベルンシュタイン。

 野心家でプライドが高く、美しいものを好み、家柄と魔力の強さで人を判断する、典型的な貴族の子息だった。

 当然、彼は「無個性で地味な」イリスのことなど、最初から見下していた。

 婚約者として扱われることはほとんどなく、夜会などで顔を合わせても、挨拶すらしないこともあった。

 イリスも、彼に愛情など微塵も抱いていなかったし、むしろこの歪な婚約が早く解消されることを願っていた。


 そして、その時は、ついに今夜やってくる。

 最近のレイモンドは、派手好きで計算高い男爵令嬢、オリヴィアに夢中だった。

 オリヴィアは、その美貌(厚化粧だが)と、少しばかり使える魅了の魔術(下級だが)でレイモンドを篭絡し、まんまと次期公爵夫人の座を射止めようとしていた。

 イリスにとっては、好都合な展開だった。

 レイモンドがオリヴィアを選び、自分との婚約を破棄してくれるのなら、それで万々歳だ。

 侯爵家としては面目を潰されることになるだろうが、もとよりイリスはこの家にも何の期待もしていない。


(さあ、早く始めてちょうだい、レイモンド様)


 イリスがそう思った時だった。

 会場の中央で、一際大きな声が響き渡った。

 見ると、レイモンドが、勝ち誇ったような笑みを浮かべたオリヴィアを伴って、イリスの方へと歩いてくるところだった。

 周囲の注目が一気に集まる。

 オーケストラの演奏も止み、会場は水を打ったように静まり返った。

 まるで、これから始まる断罪劇の幕開けを待つかのように。


 レイモンドは、イリスの目の前で足を止めると、侮蔑の色を隠そうともせずに彼女を見下ろした。


「イリス・フォン・アルメリア」


 わざとらしいほど大きな声で、彼は言った。


「お前のような、“無個性”で地味な令嬢は、我がベルンシュタイン家に不要だ!」


 会場がざわめき立つ。

 予想通りの展開。

 イリスは、俯いて、きゅっと唇を噛む。

 悲劇のヒロインを演じるために。


「よって、今この時をもって、お前との婚約は破棄する! 私の隣に立つべきは、この美しく才能あふれるオリヴィア嬢なのだ!」


 レイモンドはそう言って、隣のオリヴィアの腰を抱き寄せた。

 オリヴィアは、勝ち誇ったようにイリスを見やり、扇子で口元を隠してクスクスと笑っている。


 周囲からは、ヒソヒソという囁き声と、隠しきれない嘲笑が聞こえてくる。


「まあ、可哀想に、イリス様……」

「でも、仕方ないわよね。レイモンド様のお相手には、あまりにも地味すぎたもの」

「オリヴィア様の方が、よほどお似合いだわ」


 見せかけの同情と、本音の侮蔑。

 それが、貴族社会というものだ。


(……やっと、終わった)


 イリスは、俯いたまま、内心で安堵の息をついた。

 計画通り。

 これでようやく、あの息苦しい婚約から解放される。

 家のための道具として生きることから解放される。

 公衆の面前での屈辱は、確かに少しだけ胸に痛んだが、それも自由を手に入れるための代償だと思えば安いものだ。


 あとは、この場をどう切り抜けるか。

 泣き崩れて同情を買うか、あるいは毅然とした態度で去るか……。

 イリスが顔を上げようとした、その時だった。


 会場の隅、柱の影よりもなお深い闇を纏うかのように、静かに佇む一人の男がいた。

 夜の闇を溶かし込んだような黒髪に、触れれば凍てつきそうなほど白い肌。

 そして、見る者を射抜くような、氷のように冷たく、しかし吸い込まれるほど美しい瑠璃色の瞳。

 その男は、他の誰とも違う、圧倒的な存在感を放っていた。

 まるで、この世の者ではないかのような、人ならざる美貌と、底知れない魔力の気配。


 魔術師団長、アシュトン・グレイ。

「氷の魔術師」の異名を持ち、国で右に出る者はいないとされる最強の魔術師。

 そして、その美貌とは裏腹に、冷酷無比で、他者に一切の興味を示さないことで有名だった。


 そのアシュトンが、なぜか、じっとこちらを見つめている。

 その瑠璃色の瞳が、イリスの擬態を全て見透かしているかのように、真っ直ぐに……。


 イリスは、思わず息を呑んだ。

 なぜ、彼がここに?

 そして、なぜ、わたくしを……?


 アシュトンは、ゆっくりと、しかし迷いのない足取りで、イリスの方へと歩みを進め始めた。

 その動きに、会場の誰もが気づき、息を呑んで彼を見つめる。

 レイモンドもオリヴィアも、突然現れた最高位の魔術師の姿に、呆気に取られていた。


 アシュトンは、イリスの目の前で足を止めると、彼女の前に跪くように片膝をつき、その白い手袋に包まれた手を、そっとイリスに差し出した。

 そして、凍てつくほど冷たいはずの瞳に、ほんのわずかな熱を宿して、静かに、しかし会場の隅々まで響き渡るような声で言った。


「――愚か者が手放した至宝、私が貰い受けよう」


 氷のように冷たく、しかしどこか熱を帯びた声が、静まり返った夜会会場に響き渡った。

 その声の主、魔術師団長アシュトン・グレイは、侯爵令嬢イリス・フォン・アルメリアの前に片膝をつき、白い手袋に包まれた手を差し伸べたまま、瑠璃色の瞳で真っ直ぐに彼女を見つめている。


 会場全体が、文字通り凍りついたかのようだった。

 誰もが息を呑み、目の前で起こっている信じられない光景を見守っている。

 あの、他者に一切の関心を示さないはずの「氷の魔術師」が、今、婚約破棄されたばかりの、しかも「無個性で地味」と誰もが思っていた侯爵令嬢に、跪き、手を差し伸べているのだ。


 イリス自身も、混乱の極みにいた。

 なぜ、アシュトン様がここに?

 なぜ、わたくしに手を?

 至宝とは、一体何のこと……?

 彼の瑠璃色の瞳は、まるでイリスの心の奥底まで、そして彼女が必死に隠してきた本当の姿までも見透かしているかのようで、イリスは身動き一つ取れなかった。


 最初に沈黙を破ったのは、怒りと戸惑いで顔を歪ませた元婚約者、レイモンドだった。


「な、何を言われるか、アシュトン卿! その女は、魔力もろくにない出来損ないだぞ! 家名に傷をつけたも同然の、もはや用済みの……!」


 レイモンドが言い終わる前に、アシュトンはゆっくりと立ち上がり、冷え冷えとした視線を彼に向けた。

 その視線は、絶対零度の氷の刃のように鋭く、レイモンドは思わず言葉を詰まらせる。


「用済み、だと?」


 アシュトンは、嘲るように小さく息を吐いた。


「貴様のような、見せかけの輝きにしか価値を見出せぬ愚か者には、この者の内に秘められた真の輝き――その計り知れない価値は、一生理解できまい」


 その言葉に、会場が再びざわめいた。

 真の輝き? 計り知れない価値?

 あの地味なイリス嬢に、そんなものが?

 誰もが信じられない、といった表情でイリスとアシュトンを交互に見ている。


 アシュトンは、そんな周囲の反応など意にも介さず、再びイリスに向き直った。

 先ほどの冷徹な表情は消え、その瞳には、戸惑うイリスを安心させるかのような、ごく僅かな、しかし確かな優しさが宿っていた。


「イリス嬢。いや……イリス」


 彼は、初めてイリスの名前を呼んだ。

 その声は、先ほどとは打って変わって、低く、甘く響く。


「ようやく、君を見つけ出すことができた。もう、その息苦しい仮面を被り続ける必要はない。私の元へ来なさい」


(見つけ出す……? 仮面……?)

 イリスは、アシュトンの言葉の意味を測りかねていた。

 彼は、わたくしの擬態に気づいていたというの?

 いつから? どうして?


「さあ、手をお取り」


 アシュトンが、再び優しく手を差し伸べる。

 イリスは、戸惑いながらも、なぜかその手に逆らえないような気がした。

 まるで、ずっと昔から、この瞬間に導かれていたかのように。

 彼女が、おそるおそるその手を取ろうとした、その時だった。


「お待ちになって、アシュトン様!」


 甲高い声が響いた。

 レイモンドの隣で勝ち誇っていたはずの男爵令嬢、オリヴィアが、信じられないといった表情で割り込んできたのだ。


「何かの間違いではありませんこと!? こんな地味で無個性な女より、魔力も美貌も兼ね備えた、この私の方が、アシュトン様に相応しいのではなくて!?」


 厚顔にも、オリヴィアはアシュトンに媚びるような視線を送る。


 アシュトンは、そのオリヴィアを一瞥した。

 次の瞬間、オリヴィアの顔から血の気が引き、彼女の身体がわなわなと震え始めた。

 アシュトンは、ほんのわずかな魔力を放ち、オリヴィアだけを的確に威圧したのだ。

 周囲の者には気づかれない、しかしオリヴィアにとっては、魂が凍りつくような恐怖だったに違いない。

 オリヴィアは、声にならない悲鳴を上げ、その場にへたり込みそうになった。


「私の唯一に、馴れ馴れしく声をかけるな。……不愉快だ」


 氷よりも冷たい声でそれだけ言うと、アシュトンは再びイリスに視線を戻し、今度は彼女の手を優しく、しかし有無を言わさぬ力強さで掴んだ。

 そして、そのままイリスを自分の隣に立たせる。


「さあ、行こう、イリス。このような騒々しい場所は、君には似合わない」


 アシュトンは、当然のようにイリスをエスコートしようとする。


「ま、待て、アシュトン卿! いったいどういう……!」


 レイモンドが、ようやく状況に追いついたように声を上げたが、もはや手遅れだった。


 アシュトンは、立ち去り際に、冷ややかにレイモンドを振り返った。


「ベルンシュタイン公爵子息。忠告しておくが」


 その声には、微塵の容赦もなかった。


「君が今日、自らの愚かさゆえに手放したものが、どれほど貴重な宝であったか……すぐに思い知ることになるだろう。君のそのつまらないプライドも、君の家も……この先、どうなるかは保証できんな」


 それは、紛れもない破滅の宣告だった。

 レイモンドは顔面蒼白になり、その場に立ち尽くす。


 アシュトンは、そんなレイモンドにはもう一瞥もくれず、イリスの肩を優しく抱き寄せると、唖然とする人々が作り出した道を、堂々と歩き始めた。

 まるで、最初からこの夜会の主役は自分たちだったとでも言うかのように。

 途中、イリスの足がもつれそうになると、アシュトンはためらうことなく彼女を軽々と横抱きにした。


「少し我慢してくれ」


 そう囁く声は、驚くほど優しかった。


 夜会の会場に残されたのは、呆然自失のレイモンドと、恐怖に震えるオリヴィア、そして、歴史的な(?)スキャンダルを目撃してしまった貴族たちの混乱だけだった。


 一方、アシュトンに抱きかかえられ、夜の闇へと連れ去られていくイリスは、まだ状況が完全に飲み込めていなかった。

 婚約破棄は、予定通り。

 でも、その後に待っていたのは、予想もしなかった展開。

 なぜ、あの「氷の魔術師」がわたくしを?

 彼の言う「至宝」とは?

「私の唯一」とは?

 混乱と戸惑い。

 しかし、彼の腕の中は、不思議なほど安心できた。

 まるで、嵐の中から安全な港へと導かれたような……。


 イリス・フォン・アルメリアの人生は、間違いなく、今、この瞬間から大きく変わろうとしていた。

 それは、絶望からの救済なのか、それとも、新たな波乱の幕開けなのか――。

 彼女自身にも、まだ分からなかった。


 *****


 アシュトンに抱きかかえられたまま、イリスは夜の王都を駆け抜ける馬車の中にいた。

 窓の外を流れる景色は現実味を失い、まるで夢の中にいるかのようだ。

 つい先ほどまで、夜会の会場で屈辱的な婚約破棄を受けていたというのに、今は国の最高魔術師であるアシュトン・グレイの腕の中にいる。

 状況の急変に、イリスの頭はまだ追いついていなかった。


 やがて馬車は、王都の中でも特に静かで格式高い地区にある、壮麗な屋敷の前で停まった。

 魔術師団の宿舎ではなく、彼個人の邸らしい。

 アシュトンはイリスを抱いたまま馬車を降りると、待機していた使用人たちに一瞥もくれず、屋敷の中へと入っていく。

 大理石の床が磨き上げられたエントランスホール、壁にかけられた趣味の良い絵画、そして漂う清浄な空気。

 豪華でありながら華美すぎず、洗練された美意識に貫かれた空間に、イリスは小さく息を呑んだ。


 アシュトンはイリスを、暖炉に静かに火が燃える、居心地の良さそうな客間へと連れて行くと、ようやく彼女をソファの上にそっと降ろした。


「……驚かせてすまなかった」


 彼は、少しだけ表情を和らげて言った。

 そのわずかな変化に、イリスは心臓が小さく跳ねるのを感じた。


「あ、あの……アシュトン様。なぜ、わたくしのような者を……?」


 イリスは、戸惑いながらも尋ねずにはいられなかった。

 婚約破棄されたばかりの、しかも「無個性で地味」と誰もが思っていた自分を、なぜ彼が助けてくれたのか。


 アシュトンは、イリスの向かいのソファに腰を下ろすと、静かに語り始めた。


「君が、自分自身を偽っていることには、随分前から気づいていた」


 瑠璃色の瞳が、真っ直ぐにイリスを見つめる。


「その類まれな美貌も、そして……その底知れない魔力も」


「え……!?」


 イリスは息を呑んだ。

 気づかれていた? この完璧なはずの擬態を?


「最初に君に興味を持ったのは、数年前、君がまだ魔術学院にいた頃だ。君が密かに、しかし驚くべき精度で古代魔法の痕跡を追っていたのを知ってね」


 アシュトンは、まるで昨日のことのように語る。

 イリスは驚愕した。

 あれは、誰にも気づかれていないと思っていた、自分だけの秘密の研究だったはずだ。


「それ以来、君のことを密かに見守らせてもらっていた。君ほどの才能と美貌を持ちながら、なぜそれを隠し、あのような愚かな婚約者に蔑ろにされているのか……正直、理解に苦しんだし、腹立たしくもあった」


 彼の声には、確かな怒りの響きが混じっていた。

 それは、イリス自身のために対する怒り。

 生まれて初めて、誰かが自分のために怒ってくれている。

 その事実に、イリスの胸が熱くなった。


「だから、今夜、あの男が君を手放すと聞いた時、好機だと思った。君をあのくだらないしがらみから解放し、私の元へ迎えるための、な」


 アシュトンは、ふっと息をつくと、穏やかな表情でイリスを見た。


「もう、擬態する必要はないのだよ、イリス。君の本当の姿を、私に見せてくれないか?」


 その言葉は、まるで魔法のようだった。

 長い間、自分自身を偽り続けてきたイリスの心の壁を、いとも簡単に溶かしていく。

 アシュトンは、わたくしの全てを知った上で、受け入れてくれるというのだろうか。


 イリスは、しばしためらった。

 本当の自分を晒すのは怖い。

 また、望まぬ注目を浴びるのではないか。

 利用されるだけなのではないか。

 しかし、目の前にいるアシュトンの、嘘偽りのない真摯な瞳を見ていると、彼を信じてみたいという気持ちが湧き上がってきた。


 イリスは、ゆっくりと頷くと、震える手でまず、顔にかけていた野暮ったい眼鏡を外した。

 次に、懐から小さな布を取り出し、そばかすに見せかけていたメイクを丁寧に拭い去る。

 そして最後に、深く息を吸い込み、常に意識して抑え込んでいた自身の魔力を解放した――。


 その瞬間、部屋の空気が変わった。

 まるで月光が凝縮したかのような、清らかで、しかし圧倒的な魔力がイリスの全身から溢れ出し、部屋全体を柔らかな光で満たす。

 擬態の魔法が解け、現れたのは、夜会のどの令嬢よりも、どんな宝石よりも美しい、息をのむような絶世の美貌だった。

 艶やかな黒髪は星屑を散りばめたように輝き、大きなアメジストの瞳は潤んで神秘的な光を放ち、雪のように白い肌は陶器のようになめらかだ。

 それは、もはや人間とは思えないほどの、神聖さすら感じさせる美しさだった。


 アシュトンは、言葉を失ったように、ただじっとイリスを見つめていた。

 その瑠璃色の瞳には、驚きと、賛嘆と、そして……燃え上がるような独占欲の色が浮かんでいた。


「……ああ……やはり、想像以上だ……」


 アシュトンは、恍惚とした表情でため息をついた。

 彼はゆっくりと立ち上がると、イリスの前に進み出て、彼女の頬にそっと触れた。

 氷の魔術師と呼ばれる彼の手が、驚くほど温かいことにイリスは気づいた。


「この美しさは……私だけのものにしたい。誰の目にも触れさせたくないほどに」


 囁くような、しかし有無を言わさぬ力強さを秘めた声。

 アシュトンは、イリスの髪に優しく口づけると、彼女を抱きしめた。


「ようこそ、イリス。ここが今日から君の家だ。君が望むものは、全て私が与えよう」


 その言葉通り、アシュトンによるイリスへの溺愛は、その日から始まった。

 イリスには、城のように広大な邸の中でも、最も美しく、快適な部屋が与えられた。

 クローゼットには、彼女の美しさを引き立てるためだけに作られたかのような、最高級のドレスや装飾品が運び込まれ、食事は常に彼女の好みに合わせたものが用意された。

 魔術の研究を続けたいという彼女の望みを叶えるため、アシュトンは自らの書庫と研究室を自由に使うことを許し、必要な魔導書や道具は、国中から取り寄せられた。


 邸の使用人たちも、主人の変化に驚きながらも、アシュトンから「彼女は私の唯一無二の宝だ。我が身に代えても守るべき存在だと心得よ。些細な無礼も許さん」と厳命され、イリスを丁重にもてなした。


 イリスは、突然与えられた過剰なまでの環境と、アシュトンの熱烈な愛情表現に、まだ戸惑いを感じていた。

 しかし、生まれて初めて、自分自身を偽ることなく、ありのままの姿でいられる自由。

 自分の才能を認められ、それを存分に探求できる喜び。

 そして、ただ一人の男性から、これほどまでに深く愛されるという幸福感。

 それらは、イリスの心を少しずつ解きほぐし、彼女の表情に本来の輝きを取り戻させていった。


「ああ、本当に美しい……」


 新しいドレスに着替え、少しだけ頬を染めてはにかむイリスの姿を、アシュトンは愛おしそうに見つめている。

 その溺愛ぶりは、もはや「氷の魔術師」の面影すらない。


「ところで、イリス」


 アシュトンは、ふと何かを思い出したように、表情を引き締めた。

 その瞳に、再び冷徹な光が宿る。


「君を侮辱し、手放したあの愚かな元婚約者と、その取り巻きたちだが……彼らには、相応の報いを受けてもらわねばな」


 その口元には、絶対零度の、しかしどこか楽しげな笑みが浮かんでいた。

 イリスの幸せな日々を守るため、そして彼女を傷つけた者たちへの容赦ない「ざまぁ」が、今、始まろうとしていた。


 *****


 アシュトン・グレイの壮麗な邸で暮らし始めてから、イリスの世界は一変した。

 息苦しい擬態から解放され、本来の自分として過ごす日々。

 それは、驚くほど穏やかで、満ち足りたものだった。


 アシュトンが用意してくれた研究室で、イリスは長年封印してきた古代魔法の研究に没頭した。

 豊富な資料、最高の設備、そして何より、彼女の才能を疑うことなく信じ、支援してくれるアシュトンの存在。

 その環境の中で、イリスの眠っていた力は急速に開花していく。

 彼女が解読した古代文献は国の歴史の謎を解き明かし、開発した新しい魔道具は人々の生活を豊かにした。

 かつて「無個性で魔力なし」と蔑まれた令嬢は、今や国中の魔術師たちから尊敬を集める存在となっていた。


 そして、研究の合間には、アシュトンとの穏やかで甘い時間が待っていた。

 彼は、イリスの前では「氷の魔術師」の仮面を脱ぎ捨て、ただ一人の女性を深く愛する男性の顔を見せた。

 美しい庭園を散策し、他愛ない言葉を交わす。

 暖炉の前で、寄り添いながら静かに読書をする。

 時には、イリスが驚くほど情熱的な言葉で愛を囁き、独占欲を露わにすることもあったが、それすらもイリスにとっては心地よいものだった。

 彼の深い愛情に包まれ、イリスは自分がどれほど大切にされているかを実感し、心からの幸福を感じていた。


 そんなある日、アシュトンはいつものように穏やかな表情で、しかしどこか改まった様子でイリスに切り出した。


「イリス。少し、耳に入れておきたい話がある」


 それは、イリスを過去のしがらみから完全に解き放つための、最後の仕上げ――彼女を侮辱し、手放した者たちの末路についての報告だった。


 アシュトンは淡々と、しかし容赦のない事実を語った。

 元婚約者であったレイモンド・フォン・ベルンシュタインは、アシュトンの暗黙の圧力と、自身の無謀な投資の失敗が重なり、重要な役職を解任され、多額の負債を抱えることになった。

 彼がイリスの代わりに選んだ男爵令嬢オリヴィアは、禁術である魅了の魔術を使用していたことが露見し、捕らえられた。彼女の実家もまた、多額の借金を抱えており、一家は夜逃げ同然に姿を消したという。

 そして、イリスの実家であるアルメリア侯爵家。彼らは、アシュトンとの決定的な関係悪化により社交界で急速に影響力を失い、経済的にも逼迫している。今になってイリスの類まれな才能と、アシュトンからの寵愛ぶりを知り、彼女を手放したことを激しく後悔しているが、もはや後の祭りだった。


 その報告を聞きながら、イリスの心には複雑な感情が渦巻いた。

 彼らへの同情は、欠片もなかった。

 自業自得だとさえ思う。

 それでも、人の破滅を喜ぶような気持ちにはなれなかった。

 ただ、これで本当に、過去のしがらみから解放されたのだという、静かな安堵感が胸を満たしていく。

 イリスは、そっと息を吐き、アシュトンを見上げた。


「……そうですか。お知らせいただき、ありがとうございます、アシュトン様」


 その声は、穏やかで、どこか吹っ切れたような響きを持っていた。


 アシュトンは、そんなイリスの様子を察したように、優しく彼女を抱きしめた。


「これで、君を過去に縛り付けるものは、もう何もなくなった。これからは、ただ私の隣で、君らしく自由に輝けばいい。君の幸せが、私の幸せなのだから」


 その温かい腕の中で、イリスはこくりと頷いた。

 もう、自分を偽る必要も、誰かに怯える必要もないのだ。


 その後、イリスの研究はさらに大きな成果を上げ、彼女の存在は国にとってなくてはならないものとなった。

 かつて彼女を「無能」と蔑んだ者たちは、その輝かしい活躍ぶりと、アシュトンからの揺るぎない寵愛を伝え聞き、ますます深い後悔の念に沈んでいったという。

 まさに、完璧な「ざまぁ」であった。


 そして、季節が再び巡り、花々が咲き誇る春の日。

 アシュトンは、皇帝陛下の祝福のもと、正式にイリスに求婚した。


「イリス・フォン・アルメリア。いや、私の愛しいイリス。どうか、私の妻となり、生涯を共に歩んでほしい。君を、世界で一番幸せにすると誓う」


 瑠璃色の瞳に真摯な愛を湛えて跪くアシュトンの姿に、イリスは感極まって涙を浮かべた。


「……はい、喜んで、アシュトン様」


 震える声で答えるイリスの左手の薬指に、アシュトンは極上の輝きを放つ指輪をそっとはめた。

 それは、かつてイリスが擬態していた頃には想像もできなかった、幸福の証だった。


 二人の婚約は国中を駆け巡り、盛大な祝賀ムードに包まれた。

 最強の魔術師団長と、国宝級の才能を持つ美しき令嬢。

 誰もが羨む完璧なカップルの誕生に、人々は祝福の言葉を惜しまなかった(アシュトンの機嫌を損ねることを恐れた者も多かったが)。


 数ヶ月後、王宮の壮麗な庭園で、二人の結婚式が執り行われた。

 純白のドレスに身を包んだイリスは、もはや地味な擬態の面影などどこにもなく、自信に満ち溢れ、内面から輝くような美しさを放っていた。

 その隣には、氷のような冷たさはそのままに、しかしイリスに向ける視線だけはどこまでも優しいアシュトンがいる。


「アシュトン様、わたくし……今、とても幸せですわ」


 式の後、二人きりになった庭園で、イリスはアシュトンに寄り添いながら囁いた。


「ああ、私もだ、イリス」


 アシュトンは、愛おしそうにイリスの髪を撫でた。


「君は、私の唯一の光だ。君を見つけられたこと、君が私のものになってくれたこと……これ以上の幸福はない」


 甘い言葉と共に、アシュトンはイリスに優しく口づけた。

 陽光が二人を祝福するように降り注ぎ、庭園の花々が一斉に咲き誇ったかのような、幸福感に満ちた瞬間。


 かつて「無個性」と蔑まれ、婚約破棄された令嬢は、全てを見抜く慧眼の魔術師に見出され、その溺愛の中で真の輝きを取り戻した。

 これは、悪役令嬢(擬態)が手に入れた、最高に甘くて痛快なハッピーエンドの物語。


(完)



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― 新着の感想 ―
自分の意思で色々隠蔽してて、その結果無能無個性扱いされて、何も知らない周囲から蔑ろにされたなら別に周り悪くなくない? 望みどおりというか、見えてた結果なんじゃないの? たまたま気付いた魔術師団長が不快…
一つだけ疑問点が… 婚約者や周囲の人間が、イリスの真の姿を知らなかったのは、まだ判りますが、実家の家族が知らないのは不自然では? 物心ついた頃から厄介事に巻き込まれていた…から、地味な容姿を装って魔力…
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