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落陽  作者: いっくん
9/9

観戦

 ゴールデンウィーク最終日は、どこまでも突き抜けそうなほどの晴天だった。


「ちょっと暑いな」

 スポーツドリンクを一口飲んで、息を吐く。頬にそよぐ風は生ぬるく、ベタつきを感じる。うっとうしい季節が近付いてきている。

「うん、暑い」

 輝くようなオレンジ頭の下で、辻井の顔はしかめっ面だ。暑さには弱いのかもしれない。


「もうすぐ夏だな」

 岡が、全く暑さなど感じないという顔で爽やかに笑う。後ろのベンチでは、宮前が横になってすうすう寝ている。


 今日は岡に約束させられた通り、野球部の練習試合を観に来ていた。

 家で昼食を食べ、試合会場である市営のグラウンドまで電車を乗り継いで来ている。なぜ自腹を切ってまで、大して興味のない野球を観に来なきゃならんのだと今も納得はしていない。おまけに暑い。


 相手は浦風北高校。思い思いの髪型をしている我が浦風商業生と違い、あちらの高校生たちは全員丸い頭を晒している。高校野球に疎い僕にはどこの学校が強いとかは判らないけど、あの潔い髪型を見ると、相当強いのではなかろうか。


「北高の人たち、なんか厳ついね」

 僕と並んでフェンス越しにグラウンドを眺めていた辻井が、手庇(てびさし)を作って言う。

「厳つい…? 見るからに野球男子って感じだけど…」

 黒ずんだ頭にしか向けていなかった視線を下げていく。

「おぉ…確かに厳ついな…」

 北高のユニホームを着た選手たちは、一様に目がギラギラしていた。まさに猛禽類のような目で、ある者はグラウンドを見渡し、ある者は浦商選手を睨み、ある者はストレッチに励んでいる。のんびり談笑している浦商生とは大違いだ。


「強豪高なんだよ、あそこ」

 岡がリュックをごそごそまさぐりながら言う。宮前がベンチを占領しているせいで、各自の荷物はベンチの足元に置かれていた。

「へぇ~、だからあんなに厳ついのかぁ。強そうだ」

 辻井がしきりに感心する。そう言われてから改めて見ると、北高の選手には隙がないというか、動きがきびきびしている。


「あれに比べると、ウチは呑気というか平和だなぁ」

 強豪校が相手だというのに、浦風商業の野球部員からは緊張感がまるで感じられない。

 福谷部長と中原先輩は真面目な顔で打ち合せしていると思ったら、どちらかの言葉にツボったのか、二人でけらけら笑い出した。エースの笹本先輩はグローブの手入れをしているけど、時折あくびなんぞかましている。

 相手を舐めているのだろうか。でも福谷部長は自分たちは弱小部だと言っていた。リラックスしていると言えば聞こえはいいけど、北高とあまりにかけ離れている。


 僕なんかが言えた義理はないけど、大丈夫なのかな、と一抹の不安か過る。


「あったあった、これ見てくれ」

 岡から差し出された一枚のプリントを受け取る。

「なになに?」

 横から辻井も覗き込む。

「ウチの名簿だよ。名前が判れば応援もしやすいだろ」

 岡がにっ、と歯を見せる。


「へぇ…」

 浦風商業野球部の選手名簿、と言うには簡易的だが、背番号とポジション、名前を一致させるには十分な書類だった。おまけに裏には配置図まであって、一目でポジションと場所が判る。


「福谷部長はキャッチャーなんだね、なんか意外」

 配置図の、キャッチャーの場所を辻井が指差す。そこには『成瀬:二年』と『福谷:三年(主将)』と名前が並んでいた。

 浦商の野球部員の数は十人だから、一つのポジションに一人なのに対して、キャッチャーだけが二人いることになる。


「体験入部の時は指導に回ってたもんなぁ」

 あの時は自分のことに手一杯で、福谷部長がどこのポジションかなんて、気にする余裕はなかった。そういえば背番号も覚えちゃいない。表を見たら、福谷部長は二番だった。キャプテンなのに一番じゃないのかと思ったけど、野球に詳しい人からすれば意味があるのかもしれない。

「福谷部長、出るのかな?」

「どうだろう。最近は後輩の育成に専念してるって聞いてるし」

 僕の質問に、岡はスポーツドリンクをぐいぐい飲みながら答える。


「それにキャッチャーってのは、ピッチャーとの相性が大事だから」

 岡の目の先では、キャッチャー先輩こと、成瀬先輩が部員と談笑していた。


「ふーん。笹本先輩って強いのか? エースとは言われてたけど」

 体験入部の時から気になっていたことを訊いてみた。岡は、なんとなく想像していた通りの反応を見せた。

「強いなんてもんじゃない! 天才だよ!」

 唾を飛ばすほどの岡の勢いに、辻井の身体がびくりと跳ねる。


「市内ではトップクラスのピッチャーだったんだ。試合で見かけるたび、みんな惚れ惚れしてたなぁ」

 恍惚とした表情で、ため息を吐く。

「笹本先輩の中学は野球部大して強くなかったんだけど、笹本先輩の活躍で市大会優勝までいってたんだ」

 生き生きと語る岡の様子に、僕と辻井は圧倒されてしまう。


「そんなに強かったのか…」

 そりゃあ一目置かれるわけだ。どころか特別待遇レベルだ。

「そんなに凄いのに、なんで野球の強い高校に行かなかったの?」

 辻井が素朴に問う。


 岡の顔の半分に影が差した。

「それは俺も知らないんだ」

 半分まで減ったスポーツドリンクのペットボトルを手の中で弄びながら、岡は視線を遠くに投げた。笹本先輩を見ないよう、意識しているような動作で。

「なんか…やむにやまれない理由があるのかもな」


 なんとなく、僕らの間に沈黙が降りる。


「ま、今日は俺らも頑張って応援しなくちゃね!」

 辻井が元気な声を上げ、僕も「そうだな」と頷く。来てしまったからには、見届けなければ。

「そろそろ始まるから起きろー」

 岡が宮前を揺り起こす。むにゃむにゃした寝ぼけた声を背中に、僕は試合会場を見つめた。


 試合開始の五分前に、僕らの立つ金網に福谷部長と顧問の斉藤先生がやって来た。

「みんな~、来てくれてありがとう~」

 試合直前とは思えないほど間延びした口調で、福谷部長は朗らかに言う。


「いえ、そんな…」

 どう対応するか迷う僕の左隣で、岡が体育会系らしく「こんにちは!」とハキハキ挨拶する。僕と辻井もそれに倣う。まだ半分夢の中の宮前は、ベンチでぼーっと座っている。


「わざわざ見学に来てくれるなんてなぁ。熱心な生徒たちで、俺は嬉しいよ」

 斎藤先生が、顔をくしゃっと崩して笑う。深緑色のシャツはもう半袖で、そこから覗く二の腕が逞しい。

「はぁ…まぁ」

 コイツに頼まれて仕方なく、と岡へ視線を送る。岡は照れた風に「いやそんな…」などと頭を掻いている。


「相手校、強そうですね!」

 辻井が他意を感じさせない、ただ思ったままを言う。

「ああ。この地区では一番強い」

 斉藤先生は深く頷いた。


「そんな強い相手と練習試合なんて…凄いですね」

 よく試合を受けてくれたな、というのを本音に言ってみたら、斉藤先生は「向こうとしてはついでだからな」とからりと笑った。


「「ついで?」」

 僕と辻井の声が揃う。岡は知っているのか、気まずそうに笑っている。

「あそこは午前中、別の学校とも練習試合してるんだよ、ここで。だから午後もお願いって、先生が頼み込んだの」

 福谷部長が朗らかに言う。斉藤先生は「そうそう」と誇らしげだけど、果たしてそんなに得意にして言っていいのだろうか。


「ウチは今日初試合だから、多少こっちが有利だよ。向こうは疲れてるはずだからね」

 福谷部長が鼻息を吐き出す。

 

 そんなものだろうか?

 強い相手というのは、スタミナも他の人よりあるわけで、すでに一試合やっているからといって、簡単に疲れたりはしないだろう。


 と、思ったけど、わざわざ突っ込みはしない。


「良い試合になるといいですね」

 せめて、それだけを言っておく。

「まっかせといて」

 福谷部長はにっこり笑った。



 両校の生徒が整列し、いよいよ試合が始まる。控えの選手込みで、相手校はざっと三十人ほど。大してわが校は十人。圧倒的な人数差がいっそ清々しい。


「「「お願いしまーす!!」」」

 野太い声が上がり、試合が開始された。


 浦風商業は攻撃側。最初にバッターボックスに立ったのは背番号一番の中原先輩だった。


「あ、北高マネージャーいるよ」

 辻井が北高側のベンチへ指を差す。

「おまえなぁ…試合観てろよ」

 苦言を零しつつも、僕の目もついベンチを見てしまう。


 ベンチに座る控え選手たちの傍らには、二人の女子が立っていた。

 紺色のジャージを羽織り、一人はバインダーを持って、一人はメガホンを持って試合の成り行きを見守っている。


「強豪って感じだね!」

「うん…すごいそれっぽいな」

 漫画の世界だけの存在だった女子マネージャーが、実在している。おかしな話だが、僕は今、自分が高校生だということを実感した。


「マネージャーなんて本当にいるんだな」

 感慨深げに呟くと、辻井が「え?」と僕へ顔を向けた。

「うちのクラスにもいるじゃん、マネージャー」

 にぱっと口を開けて笑う。

「え?」と今度は僕が訊き返す。


「青葉の隣の席の小川さん、陸上部のマネージャーやってるよ」

「え」

 思ってもみない人物の名に、意識が追い付かない。

 僕の隣の席の…小川…。学校が休みに入った途端、クラスメイトの顔は朧気になってしまう。


「でもまだ体験入部期間だろ」

「そうだけど、小川さんはずっとマネージャーに通ってたから、そのままやるんじゃない?」

「…そうなのか」

「他のクラスの子と一緒にやってたな」

 バッターボックスに視線を戻し、辻井は記憶を辿るように言う。


「おまえってさ…」

「うん?」

 オレンジの髪の毛を散らして、辻井が首を傾げる。大きな薄茶色の目は、どこまでも透き通っている。

「周り…よく見てるよな」

 急に恥ずかしくなって、僕は視線をバッターボックスに投げる。中原先輩はカキン、と音を鳴らしてボールを打ったけど、残念ながらファールだった。


「え、そうかな?」

 戸惑う声が、隣から聞こえる。

「そーだよ。僕は全然知らないのに」

 何も見ていないという顔で、辻井はいつも周りをよく見ている。クラスメイトのことなんて、僕は何も知らないのに。

 視野が広いというのもあるけど、きっと辻井は色んなことにちゃんと興味を持っているのだ。だから常にアンテナを伸ばして、世界を広げている。

 僕なんか置いて、どんどん先を行くのだ。


 そう思ったら、ムカついてきた。

 むっと口をすぼめていると、辻井は「見てるだけだよ」と小さく言った。

 寂しげな響きに感じて、辻井の横顔を覗く。


「俺は昔から主体性みたいなのがなくて…。そのくせみんなのこと見て、羨ましがってる。自分から動く勇気もないくせに」

 カン、と乾いた音を立てて、ボールが飛んでいく。けれどそれを打ったのはもう中原先輩ではなくなっていて、背番号が五番の選手だった。周りの声援に背中を押され、ドタドタと走っていく。


「あ~間に合わなかったか」

 岡が悔しそうな声を出す。五番の選手が打った球は高く飛んだが、残念ながら彼が到着するより前に、一塁の選手の手に渡っていた。


 苦笑を浮かべて帰って来る五番選手の名前を名簿表から探すと、『成瀬』とあった。

 笹原先輩とペアを組んでいるキャッチャー先輩だと、体験入部の日を思い至る。マシュマロみたいなふっくらとした体格にも、そういえば見覚えがあった。


「残念だったね」

 その割には然して残念そうでもない辻井は、どこか遠くを見ているような、他人事のような目をしていた。

 野球部でもない僕らにとって他人事なのは当然なのだけど、辻井の姿勢はその中でも一歩引いているように見えた。


 そうやって、世界を見ていたのか。


 辻井はいつも、そうやって、自分には参加出来ない世界を遠巻きに眺めていたのか。与えられた役割をこなすのに精一杯で、周りの人間が何を楽しんでいるのか、何に打ち込んでいるのか、ただ見ているしかなかった。

 羨ましさに、身を絞られながら。


 辻井の観察眼が育まれた要因に気付いて、僕は勝手に悲しくなる。そんなの同情しているみたいで、嫌な感じだ。

 

 だけどもう、悲しむ必要などないはずだ。

「今は、違うだろ」

 辻井がゆっくり首を回す。木漏れ日の色の目と目が合う。

「今のおまえには、主体性…あるだろ。羨ましがってるだけじゃ、ないだろ」

 ふん、と鼻息を吐いて言ってみせると、辻井は恥ずかしそうに頬を緩めた。

「そうかな。そうだと、いいな」


 僕も笑い返そうとしたら、「おい」と背後から声が掛かった。

 辻井と二人で振り返る。そこには不機嫌に眉を寄せた宮前が突っ立っていた。


「なんだよ…」

 少し身構えながら問うと、宮前はつい、と辻井の方へ顎を動かした。

「試合観てろよ」

 

 辻井の眉がぐっと上がる。

「は? 観てるし。大体宮前には言われたくない」

 宮前の目付きが険しくなったと思ったら、辻井の身体からも不穏な空気が立ち込めた。

 二人の間に、一触即発の雰囲気が漂う。


「おい…喧嘩すんなよ」

 取り成そうとしたけれど、二人は睨み合ったまま。つくづく、この二人は相性が悪い。


 どうしようかと思っていたら、背後から笛の音が高く鳴った。


「攻守交代だ」

 ただ一人真面目に観戦していた岡が振り返って言う。そこで初めて、岡は辻井と宮前のただならぬ雰囲気に気付いた。


「なんだぁ? どうしたんだよ」

 岡の口がへの字になる。僕らのやり取りが全く気にならないくらい、観戦に熱中になっていたのだと思うと、自分の不真面目さが申し訳なくなる。

「ごめん、なんでもないんだ」

 まだ不満そうな辻井と宮前に目で合図を送り、観戦の姿勢に入る。

「点は取れてない?」

「おう。出塁さえ叶わなかった」

 残念そうに、岡が肩を下げる。僕もこれくらい感情を注がなくては。


 僕の右隣に辻井が来て、岡を押し退けて、左隣に宮前が立つ。横一列になって、僕らは浦風商業が守備に転じた試合を見守った。


 ピッチャー席に上がったのは、当然ながら笹本先輩だった。頭頂部辺りで、灰色の髪が風に逆巻くように数本立っていて、まるでアンテナみたいだ。長い前髪で目がほとんど隠れているから、そこに宿る感情は読み取れない。


 キャッチャーとして構えているのは成瀬先輩。こちらからは背中側しか見えないので、やはり彼の心の内も不明だ。

 福谷部長はベンチで前屈みになって座っていた。特徴的な朗らかな笑顔は、今は口を引き結んで真面目な顔付きに変わっている。

 背番号二番の相手選手がバッターボックスに立つ。そのたくましい背中からも、闘志が湧き上がっているのを感じる。


 相手校の監督がピッ、と笛を短く鳴らし片手を挙げた。試合開始だ。


 笹本先輩は、左手に収めたボールをくるくる転がしながら振りかぶった。その動きは、水面をたゆたっていた水鳥が水を蹴って飛び上がる様を彷彿とさせた。


 笹本先輩の投げたボールは、一直線に成瀬先輩のミットの中へ飛び込んでいった。バスン! とやや強い衝突音がグラウンドに響く。


 バッターの腕は動いていない。しかし注意してよく見ると、身体がさっきより斜めに傾いている。恐れを成したかのように。

 主審が「ストライク!」と高らかに叫ぶ。その途端、ピリッ、とグラウンドの空気が研ぎ澄まされたような気がした。


「空気が変わったね」

 僕の右隣で、辻井がグラウンドから目を離さずに言う。辻井も同じように感じたのか、とちょっと嬉しくなる。

「北高が笹本先輩の実力に気付いたんだ」

 岡がフェンスを握り締めて言う。

「北高も、点を獲れないまま交替になるかな」

 そう願っている口振りで、岡は真剣な面持ちで続ける。


 僕も、左隣の宮前も何も答えなかった。

 それでも、宮前の顔付きはつまらなそうではなかった。


 笹本先輩が再び投げる。ボールはまた成瀬先輩の元へ一直線かと思いきや、北高二番はバットを高く振り上げ、弾き返すことに成功した。


 北高二番が一塁へ走る。それを見送る笹本先輩の顔は無表情そのもので、気負いや不安といった感情の揺れはまるで見当たらなかった。


 次の北高生がバッターボックスに立つ。笹本先輩はフッ、と息を吐いたのが判った。先輩がボールを投げたタイミングで、北高生がバットを回す。


 その時、僕の目にはバットの先に当たる直前、ボールが急に角度を変えたように見えた。


 北高の控え席からもどよめきが起こる。不可解なボールの動きに付いて行けず、北高のバットは虚しく空を切った。

「ストライク!」


「あれ…」

 岡に視線を向ける。岡は最初から知っていたみたいに、「笹本先輩の得意技だ」と前方を見据えたまま応えた。

「投げたボールの軌道を変えるカーブっていう技なんだけど、先輩のスゴいとこは、そのカーブが、バッターがバットを振る直前ってとこなんだ」

「でもカーブってそういう技なんじゃない?」

 辻井が僕の右から顔を覗かせる。自然な口振りからは、辻井が元々野球の変化球について知っていたのか、岡の説明で今理解しただけなのかは判別出来なかった。


 岡は「まぁそうなんだけど」と前置きしてから、

「バットを振るタイミングなんて、人それぞれ違うだろ? その時の状況にもよるし」

 でも、と挟んで、

「笹本先輩は、いつも完璧にタイミングを合わせてる。だからあのカーブが出ると、基本誰も打てない」

 力強く言いきった。

「すげぇ観察力と手首の回転が必要だから、多用は出来ないんだけどな」


「へぇ…」

 そういうものなのか。野球初心者の僕にはよく判らないけど、とりあえず笹本先輩が凄いというのは解った。

 僕の中での笹本先輩は、体験入部の日に、誤って僕の顔面にボールをぶつけた時の印象が強い。


 あの時の笹本先輩の悲壮な顔、今思い出すとちょっと面白いな。


 口角が上がったのを隠すように俯くと、視界の端で宮前がこちらを見ているのに気付いた。

「…なんだよ」

「…別に」

 ふい、と顔を逸らされる。無防備なところを見られていたことに、羞恥が込み上げる。


 宮前の横顔を睨み付けていたら、右肩を引っ張られた。

「…なに?」

 辻井の方を見る。

「んー、別に?」

 首を傾げられた。なんなんだ、一体。


「スリーストライク! バッターアウト!」

 審判の宣言に、北高生は項垂れて自軍へと戻って行った。ちょっと目を離した隙に、二つもストライクを取っていたらしい。


「凄いね、笹本先輩」

 辻井が声を弾ませる。

「ああ、凄いんだ笹本先輩は」

「なんでおまえが嬉しそうなんだ」

 宮前が岡にぼやくように言う。

「そりゃあ先輩だからな!」

「まだ入部してないだろ」

「もう決めてんだから同じようなもんだろ」


 岡と宮前の言い合いが面白くて、ついつい見てしまう。その間にも笹本先輩のピッチングは続いているのに。


「でもさぁ」

 辻井が心持ち大きな声を上げ、僕らの目が集まる。

「笹本先輩あんなに凄いのに、福谷部長、三回戦突破が最高って言ってたよね。それも福谷部長が入る前」

 くるくると人差し指を回し、目線を上へずらす。

「なんでだろ」


 確かに笹本先輩のあの実力なら、大抵の敵は抑えてしまえるだろう。強豪と呼ばれる北高との試合でも、今のところ良い勝負が出来ている。

 他の先輩たちだって、決して下手ではない。にもかかわらず、浦風商業野球部の成績が振るわないのは、謎と言えば謎かもしれない。


 自然と、僕らの目は岡の元へ行く。

「いや、俺も知らねぇよ!」

 岡が焦った声を出す。と、同時に笛の音が響いた。

「スリーアウト! チェンジ!」


 選手たちが入り乱れ、攻守が交代する。北高生が出塁した気がするけど、誰も見ていなかった。

「まぁ、向こうも点は獲れてないみたいだし」

 気を取り直すように、岡が言う。


「あ、福谷部長が入った」

 辻井の声に、僕らはバッターボックスを見やる。

 誰と交替したのかは判らないが、控え席にいた福谷部長が、バッターを握って北高ピッチャーと向かい合っていた。


 福谷部長の横顔に、緊張のような色は見当たらない。それどころかこの試合を楽しむように目に光を宿らせていた。

「福谷キャプテンは、高校から野球を始めたんだと」

 岡がじっと福谷部長を目で追う。

「へー意外だな」

「それでキャプテンって凄いね!」

 辻井の驚きと称賛の声に、なぜか岡が「そうだろ」と得意気に口角を持ち上げる。


「判りやすい必殺技とか、すげぇ運動神経とかはないけど、福谷キャプテンには球を見極める目がある」

 福谷部長を見つめる岡の目は、子供のように無邪気に光っていた。


「球を見極める目…」

 福谷部長がゆらりとバットを上げ、構えの姿勢を取る。福谷部長の背中側にいる僕らには表情こそ見えないものの、身体全体に余計な力など入っていないように見える。

 目付きの鋭い北高のピッチャーが振りかぶる。右手で投げたボールが、今放たれる。


 バンッ!

 放たれた白球は、キャッチャーのグローブに収まったようだ。福谷部長は微動だにしていない。

「ボール!」

 審判がコールする。北高のピッチャーの眼光に鋭さが増す。


 知らず、身体に力が入る。控え席で順番を待つ先輩たちも、真剣な眼差しで福谷部長を見守っている。誰も喋らない。時折吹く風の音だけが響くコートで、二球目が放たれた。


 今度も、福谷部長はバットを振らなかった。ただし少しだけ前のめりになった。審判がまた「ボール!」と叫ぶ。


 ピッチャーの目付きがまた鋭くなる。もうほとんど睨んでいる。

 大振りの構えで、ピッチャーは投球した。


「あ」

 洩れた声が、僕なのか辻井なのか判らない。確かなのかは、福谷部長がついにバットを振ったということだ。


 カキンッ。

 思ったより軽い音を出して、球はピッチャーの横をすり抜けていった。目を丸くした投手の顔が可笑しい。


 球はそのままコートを突き抜けていくかと思われたが、外野選手のグローブの中に、すっぽり収まった。

「ありゃ」

 辻井が間の抜けた声を出す。福谷部長が一塁にたどり着く前に、球はファーストの元へ移動していた。


「アウト!」

 審判の無情な声を受け、福谷部長は残念そうに帰ってきた。

「ごめんみんな~」

 頭を掻く福谷部長に、仲間から「気にすんなー」と声援が送られる。


「福谷部長は球の見極めは上手いけど、打てるわけじゃない」

 岡が神妙に頷く。

「それは…なんていうか、残念だな」

「もったいないよな」


 福谷部長の後バッターは次々替わったが、なかなか打たせてもらえなかった。

 このまま攻守交替かと思ったら、一人の選手がバッターボックスに立った時、空気が変わった。


「笹本先輩だ」

 岡の声にも、どことなく重々しさがあった。


 外野選手が一歩分後退する。警戒されているのだ。

 笹本先輩の顔は見えないけれど、やはりあの無表情なのではないかと思えた。

「笹本先輩って打つのも上手いのか?」


「部内では一番だな」

 岡が真剣な眼差しを、笹本先輩の背中に注ぐ。


 暫し睨み合った末、ピッチャーが球を投げた。

 地面に打ち込まれた杭が身体の中心を貫いているかの如く、笹本先輩の軸は大きく動くことはなかった。上半身だけを回し、笹本先輩はバットを振るった。


 キンッ!

 高い音と共に、球は空を飛んだ。


「回れ回れ!」

「走れー!!」

 浦商の仲間たちが、腕を振り回して笹本先輩を急かす。言われるまでもなく、先輩はコートの周りを駆け抜けていく。


 ボールは外野選手がキャッチした。前回に反して一塁には既に笹本先輩が立っていたため、球を送ることを諦めたらしい。口惜しそうな表情をうっすら顔に浮かべて、北高生はピッチャーへと返球した。


「やったー! 一塁に出たぞ!」

 岡が両手を上げる。僕と辻井も倣っておく。


「…おい」

 それまで眠そうに観戦していた宮前が、声を発した。誰に言っているのだろう、と白々しく考えるのをやめて僕は応える。

「なんだよ」

「笹本先輩、カッコいいか?」


 宮前の横顔を見る。コートを眺めてはいるが、きっとその目には何も映っちゃいない。


「そりゃあ、あれだけ活躍してたらカッコいいだろ」

 男として至極当然のことを言っただけなのに、宮前は半目になっていた目をがばりと開けた。


 その変化にたじろぐ。しかし宮前の目は、また半分になっていく。

「…ふーん」

 それっきり、宮前は言葉を失くした。


「ね、青葉」

 宮前の奇行に呆れていたら、今度は反対隣から呼ばれた。

「なに?」

「俺、野球は出来ないけど、他で頑張るからね」

 ガッツポーツを作ってみせる。


「あ、あぁ…頑張れ」

 深入りするのも面倒なので、適当にあしらっておく。辻井は鼻息を吐いて、手を下ろした。


 この回で、これ以上の出塁は叶わなかった。攻守が替わる。

 僕らはその後も横に並んで真面目に観戦していたけど、そのうちベンチに座り出して、野球とは関係ない話を交わすようになった。

 一応、笹本先輩の投球や、他の先輩たちの活躍にも目を光らせてはいたけど、意識のほとんどは同級生たちに向いていた。


 しかし僕らの意識が百パーセント、試合に戻る瞬間が来た。

 カキーン!!

 わぁっ、と歓声を上げたのは北高だった。ホームランを放った北高生が、右腕を天に突き上げ、塁を巡る。


 打たれてしまった笹本先輩は、コートを一周する相手選手を見つめている。前髪に隠れて、表情はよく見えない。けれどほんの少しだけ、肩がすぼんでいた。


 岡たちが走るホームラン選手を注目しているなかで、僕は笹本先輩をぼんやり見ていた。

 だから、前髪の隙間から現れた目と、ばっちり合ってしまった。


 あ、と思う間もなく、笹本先輩は顔を逸らしてしまった。


 仕方ないことだとはいえ、見てはいけないものを見てしまった気がして、僕は少し、居た堪れない気持ちになって目線を下げた。


 笹本先輩はその後も奮闘したのだが、何度か打たれてしまい、対してこちらに攻撃力があるわけではないので、点差は開く一方だった。


 試合終了のホイッスルが鳴る。

 結果は八対三。北高の勝利だった。

「負けちゃったね」

 辻井がため息を落とす。


「まぁ北高相手にあの点差で収まってるんだから、凄いとも言えるだろ」

 それほど残念でもなさそうに、岡が訳知り顔で腕を組む。

「そうかもね。一応こっちも三点取ってるし」

 実際に、挨拶を終え、控え席へ戻っていく浦商の面々は一様に晴れやかな顔をしていた。ほとんど笹本先輩のおかげとはいえ、強豪と呼ばれる相手と善戦したのだ。負けは負けだけど、得られたものは大きかったらしい。


 反対に、北高の選手たちは勝ったのにみな浮かない顔をしていた。弱小と見くびっていた浦風商業が、思いの外研ぎ澄まされた牙を剥いたのだ。こちらも、それなりに得るものはあったといえる。


「帰る前に、挨拶してくか」

「眠い…」

「差し入れとか持ってくれば良かったかな?」

 岡たちの会話を横に聞きながら、僕の目は、控え席に戻らず、片隅でコートを見つめる笹本先輩に引き寄せられていた。


 口を引き結び、コート、特にピッチャーの位置を見ている笹本先輩の顔に表情はない。

 それでも、身体の横で握りしめた左手が、秘めた感情を訴えていた。


 なんとなく目を離せずにいたら、笹本先輩がふっと顔を上げた。また、目が合う。

 前髪で隠されているのに、ばっちし目が合っているのが判って、どきりとしてしまう。


 僕が固まっていると、笹本先輩は頭を一度揺らし、仲間の元へ駆けて行った。


「夏木!」

 ぼうっとしていた僕に、岡の声が掛かる。


「どうしたの、青葉?」

 心配そうな辻井に、「いや、なんでもない」と首を振る。宮前は僕が何を見ていたのか気付いているとでもいう風に、選手たちが談笑する控え席へ目を移していた。


「ちょっとぼうっとしてた」

 大したことないと笑ってみせたけど、辻井は疑い深そうに僕の顔を眺め回してくる。

 逃げるように、顔を背ける。

「帰る前に先輩たちに挨拶していこう」

 僕と辻井のやり取りなど見飽きている岡は、なんでもない顔で笑った。


「そうだな」

 岡を先頭に、僕たちは我らが浦風商業の選手たちの元へと向かった。



「いや~負けちゃったねぇ」

 頭を掻き、福谷部長はへらへらと笑う。

 全くの悲壮感のなさに、逆になんと声を掛けるべきか判らない。


「いい勝負してましたよ!」

 岡が声を大きくして言う。

「ありがとう。俺も結構満足してる」

 にんまりと、福谷部長は笑みを広げる。


 ベンチでは先輩たちが疲労を滲ませているが、みな充実した様子だった。福谷部長と同じように、満足のいく試合だったのだろう。


「ま、一人しょげてるヤツはいるけどな」

 福谷部長の隣に立つ中原先輩が、ベンチの端の方を顎で差した。


 ベンチの端、控え席の一番隅っこでは、笹本先輩が成瀬先輩と喋っていた。

「おーい、笹本ぉ~」

 中原先輩が呼ぶ。さっきまで相手選手をことごとく翻弄していた、左利きのピッチャー先輩がこちらを向く。


 素早い、けれどどこか覇気のない足取りで、笹本先輩が僕たちの所へ来た。

「笹本先輩、お疲れさまでした!」

 岡が頭を下げたので、僕と辻井も「お疲れさまでした」と倣う。ちら、と後ろを見れば、背後にいた宮前も浅くだがちゃんと頭を下げていた。


「あぁうん、ありがとう」

 目を逸らしつつ、笹本先輩は応える。身体の横では、手持ち無沙汰げに両手を握ったり開いたりしている。

「そんな落ち込むなよ、エース!」

 中原先輩が元気な声と共に、笹本先輩の背中に張り手を食らわす。


 バシン! とかなりいい音がしたけれど、不意打ちにもかかわらず、笹本先輩の身体は若干よろめいた程度で、体幹の強さを窺わせた。

「別に落ち込んでなんかいませんよ。そりゃあちょっとは悔しいけど」

 背中を擦り、笹本先輩は口を尖らせる。


「ていうか先輩たちこそ、悔しくないんですか? いくら最初から勝ち目はなかったとはいえ…」

 後輩に睨まれ、福谷部長と中原先輩は顔を見合わせた。

「悔しいよそりゃあ。でも楽しかったってのが大きいかなぁ」

 福谷部長が朗らかに笑う。中原先輩も「アイツらの驚いた顔、見物(みもの)だったなぁ」と歯を光らせる。


 あまりにもあっさり二人の先輩に言われ、笹本先輩は拍子抜けしたように黙り込んでしまった。


「笹本先輩のピッチングに、北高の人たちビビってましたもんね」

 励まし、というわけでもないだろう、岡は素直な称賛を口にした。

「そうそう、うちのエースは凄いんだぞ、とアピール出来ただけでも収穫だ」

 中原先輩が腕を組んで頷く。


「な? おまえらもそう思うだろ?」

 矛先を向けられ、「えっと…」と言葉を探す僕をよそに、要領のいい辻井は笑顔を返す。

「はい! すごくカッコ良かったです! 笹本先輩も皆さんも!」

「そうだろうそうだろう」

「照れるなぁ」

 鼻先を突き上げる中原先輩と福谷部長。その横で、笹本先輩は反応に困ったように薄目になっている。


 こんな無愛想だけど試合では凄かったんだよな、と考えたら、ギャップがおかしくて、僕の口許がつい緩む。

「はい、みんなカッコ良かったです」

 あまりに芸のない言い方だけど、本心だ。野球のルールなんてほとんど解ってない僕でも、観ていて楽しかった。それはやはり、先輩たちがカッコ良かったからだ。


 僕の言葉に、福谷部長と中原先輩は満足そうに笑う。

 しかし、笹本先輩の反応は違った。

「どこが?」


 ぐい、と笹本先輩の顔が近付く。

「え?」

 反射的に、僕の足は一歩引く。

「具体的に、どの辺がカッコ良かった?」

 前髪の隙間から、笹本先輩の目がじぃっとこちらを覗く。色素は薄く、もはや白に近い灰色をしていた。


「へ、変化球…とか…?」

 たじたじになった僕の前に、二本の腕が交差した。


「セクハラ禁止ですよ」

「…それ以上は近付かないでもらえます?」

 辻井と、宮前だった。


「な、セクハラって…」

 辻井のあんまりな言い草に、僕は泡を食ってしまう。笹本先輩も目をパチパチさせている。

「宮前もいいから…」

 辻井の腕と共に宮前の腕もどかしたら、宮前はじとっとした目を向けてきた。


「はははっ!! こりゃあガードが固いな!」

 中原先輩が高らかに笑う。福谷部長も「残念だったね、笹本」とくすくす零している。


「おまえら…やっぱり」

「やっぱりってなんだよ!?」

 意味ありげな目を送る岡に、つい大声が出る。


「別に俺は…」

 笹本先輩が口をもごもごさせる。何を言うつもりか知らないけど、辻井と宮前をこれ以上刺激しないでほしい。


「じゃ、じゃあお疲れさまでした! 福谷部長も中原先輩も! みなさんも!」

 口早に言って、辻井と宮前の腕を引っ張る。頭を下げ、僕は二人を連れて控え席を出た。岡も慌てて付いて来る。福谷部長が手を振っているけど、返す余裕はない。


 荷物を持って市営グラウンドを出る時、北高の顧問と話す斎藤先生の横を通り過ぎた。僕らに気付いたようだが斎藤先生が反応するより先に、さっさと歩道に出る。


 夕方にはなっていないものの、空はぐっと青さを増していた。きっとこのまま青色は群青色に、やがて藍色に染まっていくのだろう。湿った風に急き立てられるように、駅への道を行く。


「悪い、岡。さっさと出ちゃって」

 振り返って言うと、後ろを歩く岡は「ん?」と目を丸くした。

「いや全然。タイミング良かったんじゃないか? そろそろミーティング始まる頃だろうし」

 気にするなとばかりに、にかっと笑う岡に、胸を撫で下ろす。


「にしても…」

 岡の目が、僕の左隣にいく。

「ソイツもそろそろやばそうだな」

 僕の肩に手を置いてかくかく首を揺らす宮前へ、岡はため息を洩らす。


「あとちょっとなんだから、しっかり歩けよなー!」

 僕の右隣から、辻井が首を伸ばす。

「もう限界なんだろ」

 そのまま腕を伸ばして宮前の身体を引き剥がそうとする勢いだったので、右の肩でガードする。市民グラウンドを出て大人しく歩いていると思ったら、宮前は急に支えを失くしたように足取りが覚束なくなった。

 僕の肩に半身を預けているけど、駅まで持つのか危ないところだ。


「今にも倒れそうだけど、一人で帰れるのか?」

 僕も薄々思っていたが、敢えて言わないでいたことを、岡がついに口にした。

「帰れるよ!」

 辻井が首をねじ曲げ、岡へ叫ぶように言う。


「いや、無理じゃないか…?」

 辻井の叫びも虚しく、岡は宮前へ懐疑的な目を向ける。

 無理だろう、と僕も思う。こんな状態の宮前を一人で帰らせて何かあったら寝覚めが悪い。


「おい宮前。親御さんに電話して迎えに来てもらえよ」

 宮前の手を払うように肩を揺すると、宮前は「…ん?」と目をぼんやり開けた。


 半分寝ていたけれど話は聞いていたのだろう、宮前はのろのろとポケットから携帯を取り出し、電話を掛け始めた。


「うん…駅の近く…」

 立ち止まり、ぼそぼそ喋る宮前を見守りつつ、僕らはやれやれ、と目だけで会話する。

「来てくれるって」

 電話を終えた宮前が携帯を仕舞う。

「そうか、良かったな」

 これで一安心、と僕らは再び駅へ歩き出す。



 最寄駅に着き、宮前を出入り口に残して僕らが改札へ向かおうとすると、

「…ん?」

 手を引っ張られ、後ろを見る。

 宮前が、無言で僕を見つめていた。

「…なんだよ」

「…迎え来るまで、一緒に待っててくれないか」


 僕が訊かれたのに、僕より先に辻井が応えた。

「イヤだね」

「…おまえには頼んでない」

 宮前の眉間が曇る。


「青葉の代わりに答えてんの。イイ歳して一人で待てないワケ?」

 辻井が眉を吊り上げ、これでもかと挑発する。

 その挑発には乗らずに、宮前は辻井を無視して僕を真っ直ぐ見据える。

「少しの間だけ。頼む」


 断りたい。けど、こんな立っているのもやっとなコイツを一人にするのは不安ではあった。


 どうする? と岡が目で問う。辻井は「ダメダメ!」と喚いている。

 はぁ、と息を吐く。

「…いいよ」

 宮前の目が、ぱっと開く。


「えー! 帰ろうよ青葉~」

 悲しげに眉を垂らす辻井を、「仕方ないだろ」と宥める。

「こんな危なっかしいヤツ、一人には出来ないだろ」

「えぇ~…」

 諦めたように、辻井は肩を落とす。

 

 先に帰ればいい、なんて言えない。辻井は、当たり前のように僕と待つつもりだろうから。


 予測通り、辻井は僕と宮前の間に身体を割り入れた。

「しょーがないな」

「…おまえには頼んでない」

「うっさい!」


「悪い、俺はもう帰らなきゃ。今日家族と外でメシ食うんだよ」

 謝る岡に、「いいって」と首を振る。僕にこの二人を押し付けないでくれ、と思わないでもないが、家族との予定があるなら引き止めるわけにもいかない。

「楽しかったよ。また明日な」

「それなら良かった! 来てくれてありがとな! また明日!」

 宮前と辻井にも謝り、岡は改札口の向こうへ消えて行った。


「…宮前の親御さん、どれくらいで来るの?」

 辻井が、じとりと宮前を睨む。

「さぁ…すぐ来るって…言ってた…けど…」

 がくん、と宮前の身体が折れた。僕と辻井で咄嗟に支える。

「もう! 手が掛かる!!」

「まぁまぁ…」

 おまえも大概だよ、とは言わないでおく。


「ねぇ青葉」

「うん?」

 宮前の身体を壁に寄り掛からせ、両脇から辻井と腕を掴んで支える。なんとか安定して、ほっとする。

「笹本先輩、カッコ良かった?」

「え?」

 宮前の身体越しに、辻井の顔を覗く。こちらを向いた辻井の顔は、欲しい物を我慢する子供みたいだった。


「そりゃあ…あんだけ活躍してたらカッコ良く見えるだろ」

 当たり障りのないよう、一般論的に言って見せるけど、辻井は不満げだ。

「笹本先輩も、青葉に褒められて嬉しそうだったもんね」

 嫌みったらしい言い方に、ムカつくよりも切なくなってしまう。


 梢が生まれたばかりの頃、母親を取られて大地はよく拗ねていた。あの拗ねた顔が、辻井と重なる。

「いいだろそんなの。どんな人にも、輝く瞬間ってのはあるんだから」

 諭すように言うと、辻井の黒目がきょろりと動く。

「…俺にも?」

「あるよ、そのうち」

「そのうちっていつ…」

 情けなく語尾を震わす辻井に、ふっと笑みが零れる。

「楽しみにしてるよ」

「えぇ~」

 別に今だって、僕の目には辻井は輝いて映ることがよくある。でも本人には無自覚だ。だからこの先、本人にも判るくらい、輝ける瞬間が訪れるといい。


 尚も安心出来る言葉を僕から引き出そうとしてくる辻井と攻防していたら、僕らの前に一人の人物がぬっと現れた。

「こんちは」

 男だった。推定年齢三十代半ばといったところか。両耳に黒いピアスを幾つも付けている。しかし僕が一番印象的だったのは、真っ黒な目だった。

 底の見えない穴を覗いているような気分になる漆黒の目に、僕の警戒センサーが反応する。男の目元は柔らかく、口はにっこり弧を描いているのに、センサーはけたたましくサイレンを鳴らし続けている。


 本能的に、後ろに身を引いていた。背中がコンクリートの壁に当たる。

「…こんにちは」

 辻井はぽかんとしているのか、返事が聞こえない。

「君らが(りょう)の友達? 亮がお世話になってます」

 宮前の名前を言って、男は目を細めた。胡散臭さが全身から吹き出て、僕の警戒度が上がる。


 でも、宮前の名前を知り、ここに来ているということは。

「…宮前の迎えですか?」

 宮前は母子家庭だと言っていたから、てっきり母親が来ると思っていた。息子に似て、儚げで美しく、心配そうな顔の、あの人が。


「そう。俺は亮のオジ」

 男はまたにっこり笑う。

 オジ…伯父、叔父…どちらにせよ、この真っ黒な目の男は宮前の親戚なのか。年齢的に叔父だろうか。言われてみれば目元辺りが少し似ている。あと宮前ほどではないが、この人も容姿が人並み以上に整っている。寝癖だらけの頭も、ボタンを二つ開けたシワだらけのワイシャツも、この人ならそういうファッションだと言えなくもない。


 そういえば、宮前はなぜこの学校を選んだか問われた時、

『この学校の近くに親戚が住んでて、帰りに寄って昼寝出来るから』と言っていた。

 この人が、その親戚の人か。


 ついまじまじ見ていたら、宮前の親戚は小首を傾げ、僕の隣へ指を下ろした。

「それ、持って帰っていい?」

 指の先を追いかける。宮前は床に座り込んで寝てしまっていた。

「あ、はい。お願いします」

 身をずらすと、その人は屈んで宮前に向けて腕を伸ばした。向こうにいる辻井と目が合う。

 辻井は驚いたように、目を大きく開いて僕と宮前、その親戚それぞれに忙しなく視線を巡らせていた。

 大袈裟なほどの辻井の驚きっぷりに、内心で笑ってしまう。でも辻井から見たら、きっと僕も同じ顔をしているのだ。


 宮前と大して身長が変わらないのに、彼はひょい、と器用に宮前を背負った。

「じゃ、お世話になりました」

「あ、はい」

 辻井と会釈する。これで終わりかと思いきや、彼は「あ」と呟いた。


 なんだ? と思ったら、彼は首を傾け、僕らに笑顔を落とした。開いた襟首から、チェーンのネックレスが揺れる。

「せっかくだから、お礼させて」


「「大丈夫です!」」

 咄嗟に断ったら、辻井と声が揃ってしまった。辻井の方を見れば、ぶんぶん首を振っている。言いたいことは解っている。

「じゃあ、僕たちはこれで」

 歩き出そうとした僕の肩を、宮前を背負った男は強く掴んだ。


「つれないこと言わないでよ。せっかくの機会なんだし」

 顔は笑っているのに、肩を掴む手は万力のように強い。骨が砕けそうだ。これはもしかしなくても脅迫ではなかろうか。

「何してるんですか!」

 辻井が間に入ってくれたことで、男の手は離れた。


「怖い怖い」

 手をヒラヒラさせる男はどこまでも楽しげだ。宮前と血が繋がってはいても、性格はだいぶ違うらしい。


 掴み所のないこの人に、興味が湧く。

 魔が差した、といえばそれまでだ。男の背中で安心しきった顔で寝ている宮前から、男への警戒心が薄れてもいた。

「分かりました。付き合いますよ」

 僕が誘いに乗ったと判ると、男は目をゆっくり瞬かせた。照明の関係なのだろうけど、黒々とした目に、ぱちぱちと光が散る。


「えぇ青葉!?」

 辻井から悲鳴のような声が出る。

「行ってみよう、辻井」

 僕が言えば、辻井は同意せざるを得ない。納得いかないという顔をしながらも、項垂れるように頷いた。


「じゃあ付いて来て」

 男に導かれるまま、駅を出る。ぴったり横に張り付いてくる辻井が邪魔くさい。



 駅前に路駐してあった、車高の高い、滑らかな形をした銀の車の鍵を遠隔で開けると、男は助手席に宮前を座らせた。

「後ろ乗って」

 男に促され、僕は助手席の後ろへ、辻井は運転席の後ろへ乗り込んだ。


 車を走らせ、駅の敷地を出てから、

「君たち名前なんていうの?」

 無造作にボールを放るように男は問い掛けた。


「なつ…」

「あなたはなんていうんですか?」

 僕の言葉を遮って、辻井が乱暴にボールを投げ返す。


 その反応で、男は辻井に嫌われていることを察したようだ。苦笑する気配があった。

「ごめんごめん、人に名前を訊く時はまずは自分から、だったな」

 辻井の反抗的な態度にも、気を悪くした様子はない。これが大人の余裕、というやつか、単に男が無頓着なだけなのか。


 首を突き出して、歩道に人が来ないことを確認し、車を左折させる。見た目の割に、男の運転技術には確かな安全意識が窺えた。


「俺は、きりはらゆずる」

 大きな二車線道路を一定のペースで走らせながら、男は口ずさむように言った。

「…どう書くんですか?」

 尋ねると、男は指を空中でくるくる回した。

「木へんの桐に原っぱ、ゆずるはあげるって意味のごんべんのやつ」

「桐原譲、さん」

「譲さん、って呼んでいいよ」

「はぁ…」

「桐原さんは、宮前のお父さんの兄弟なんですか?」

 男の言葉をはね除けるようにして、辻井が問う。


「そうそう。俺は弟。愚兄のせいで亮たち母子には迷惑掛けたよ」

 宮前の叔父、桐原の軽い一言で、宮前の家族について思い出す。

 不仲の両親。特に父親は暴れ、暴力も振るう。その脅威から逃れるため、部屋にとじ込もってひたすら寝て過ごした。宮前の過眠症はその時から始まった。


 辻井は宮前が母子家庭であることしか知らないが、桐原の台詞で大体の事情は察したらしい。憮然とした顔で「そうですか」と小さく返す。


「クソ兄貴とは別れたけど、まぁ俺は亮が心配だったし、連絡取り合ってたんだ。あそこの高校、俺ん家と近いからって勧めたのも俺」

「今は、そのお兄さんはどちらに?」

 立ち入ったことだと分かっていたが、この人にはなんでも答えてくれる雰囲気があった。

 見越した通り、桐原は「県外の、ちっさいアパートで慎ましく暮らしてるよ」と躊躇いもなく答えた。


「亮たちへの接近禁止令が出てるし、今は死んだ犬みたいに落ちぶれてるけど、いつ気が変わって亮たちを探し回るか判んないから、俺が双方ともに目を光らせてんの」

 自慢げに語るが、本当に甥のことを思うなら、宮前の母が離婚した時に、この人も宮前母子と縁を切るべきだったのではないか。


 なんて思ったけど、それぞれ事情があるんだろう…、

「じゃあ桐原さんも、宮前たちに近付かない方がいいんじゃないですか?」

 勢いよく首を回す。隣では、爆弾を投下した張本人が平然としている。


「おい辻井…!」

 窘める僕の声を、桐原の「あーはっはっ!」と高らかに笑う声が掻き消した。


 運転席へ首を巡らすと、ルームミラーには、笑い顔の桐原がいた。

「痛いとこ衝かれたなぁ。全くその通りなんだけどさ」

 ケラケラ笑い声を立て、

「でも俺、カオリさんのこと好きだからさぁ」

 耳を疑う発言をした。


「カオリさんって…あの、もしかして宮前の…」

「うん、お母さん。俺の義理の姉に当たるね。クソ兄貴とは別れたから元、か」

 なんでもないことのように語る。


 なかなかこれは…と辻井の方を見る。思いっきり顔をしかめている。苦笑いしか出てこない。

 大人の愛憎劇を聞かされ困惑する一方で、宮前の母親はカオリさんというのか、と新たな発見をしてもいた。


 僕らの困惑をよそに、桐原が「もうすぐ着くよ」と言う。

 窓の外へ目をやれば、浦商が少し先に見えた。どうやら学校の北側にいるらしい。僕の家とは反対方向だからあまり来たことはないが、広い公園とか料金が高めのカラオケ、安いけど閉店時間が早いスーパー、と知っている場所がちらほら見えた。


 暫く一車線の道路を走っていた桐原は、信号で右に曲がり、減速した。

 とある店の前で車が停まる。

「ここが俺の家、兼職場」

 桐原が駐車場にバックで車を停める間、店の外観を仰ぎ見る。

 大きな倉庫の隣に立つ、二階建てのその店は、灯りがないと反対隣の古い民家と差異がないほど周りと溶け込んでいた。

 それでも、屋根の下に掲げられた看板が、そこが店であると確かにアピールしていた。

「…居酒屋?」


 夕闇の下、妖しくたたずむその店は、僕には異世界に見えた。

 車を降り、改めて看板を確認する。

「ゆずる…」

「自分の名前を、そのまんま使ってるんですね」

 辻井は呆れたように言ったのに、宮前をおぶった桐原は、「いいだろ? 気に入ってんだ」と笑ってみせた。


 ひらがなで波打ったように書かれた看板は、居酒屋なのに民家然とした外観に似合っていた。


 桐原が片手で引戸を開ける。中は電気が点いておらず、夕方のせいで薄暗い。テーブル席が二卓と、長いカウンター。テレビでよく見る居酒屋そのものだ。

「そこのカウンターに座ってて。俺、コイツ置いてくるから」

 奥のドアを開け、宮前を背負った桐原が消える。


「なんか疲れたな」

 長く息を吐き出し、カウンター席に座る。丸い回転式の椅子は、大地が座ったらいつまでもくるくる回っていそうだと想像せずにはいられない。

「…辻井?」

 隣に座ると思っていた辻井は、むっとした顔で突っ立っている。


「…なんで行こうと思ったの?」

 目線を落とし、辻井は小さく問うた。


「行くって…ここに?」

 無言で、辻井は頷く。

 肩を落とし悄然と立つ辻井は、手の平に収まりそうなほど小さく見えた。


「…なんでだろ」

 カウンターに片肘を置き、椅子を回す。軋んだ音を立てて、身体が辻井と向かい合う。

「まぁ単なる興味だよ」

「……」

 辻井は怒ったように俯いたまま。

「おまえは嫌だったろうけど」

 わざと皮肉めいた言い方をする。いつまでも辻井が拗ねているのがうっとうしいという思いがあった。

 なのに、俯く辻井を見ると、自分が悪者になった気分になる。


「…嫌だよ」

 ぼそっと呟いて、辻井は僕の隣の椅子に腰掛けた。

「でも俺が嫌だから青葉も行かないで、なんてそんなわがまま、青葉に言う権利なんて俺にはない」

 目線を僅かに僕から逸らし、元気のない声で言う。

「なのに、頭では解ってるのに、結局こうやってわがままをぶつけてる自分が、一番嫌だ」


 なんだよ、と俄に腹が立つ。勝手に拗ねて勝手に落ち込んで。僕にどうしろと言うんだ。慰めて、優しい言葉を掛けてほしいのか。そこまで計算しているんじゃないかと、勘繰ってしまう。


 勘繰って、しまうのに。

「でも、こうやって一緒に来てくれた」

 カウンターに背中を預け、前方の壁に視線を投げる。クリーム色の壁にはところどころ染みができていて、長年使い込まれているのが窺える。

 辻井が顔を上げる。僕を見つめる表情がどんななのか、隣の僕からは見えない。


「宮前のこと大嫌いなのに付いて来た。僕は結構、助けられたよ」

 辻井が付いて来たのは、僕と宮前を二人きりにしたくなかったからだろう。それをわがままだと辻井自身は言うけれど、僕は辻井が一緒で心強かった。

 宮前が嫌いなくせに結局助けてしまうところも、辻井の良さだと思う。宮前を僕から引き離したいからだとしても、本当の意味で宮前を見放すことは出来ないからでもあるはずだ。


「わがままばっかじゃないさ」

 気付けば辻井の望み通り、優しい言葉を掛けていた。でも本音だから、いいか。ふっと肩の力が抜けていく。

 オレンジ色の頭が、傍らで揺れる。

「…ありがとう」

 やっと、辻井が安心したように笑った。


「なんかイイ雰囲気じゃん」

 口笛を吹きながら、桐原が戻ってきた。


 柔らかくなっていた空気が、途端に固いものになる。

「青春ってやつ?」

 ニヤニヤした顔は、僕でもイラッとするから、辻井はそれ以上だろう。「別に大したことじゃないです」とそっけなく返している。


 カウンターの向こうへ回り込んだ桐原は、僕らからは見えない端の方へ行った。身を乗り出して見てみると、巨大な冷蔵庫を開けている。業務用なのだろう。あんな特大冷蔵庫、小さい頃に行ったリサイクルショップで見た以来だ。


 冷蔵庫を閉め、桐原がカウンターへ戻ってくる。両手には小皿を携えていた。

「これ、ささやかなお礼」

 僕たちの前に、小皿が置かれる。

「飲み物、オレンジジュースでいい?」

 桐原の声が聞こえるが、僕と辻井は目の前に置かれた小皿に意識を連れ去られていた。


「ポテトサラダ…?」

 僕の呟きに、桐原は「そう」と頷いた。


 お椀型の小皿…小鉢というのだろうか。茶色の陶器でできた小鉢の真ん中には、バニラアイスのような白い塊が鎮座していた。それがアイスでないと判るのは、塊の周りにはコーンとサイコロ状に切られたキュウリと人参が敷き詰められていたから。


 冷蔵庫から取り出したオレンジジュースをコップに注ぎながら、桐原は得意気に語る。

「ポテトサラダってつまみに人気なんだよ。で、色々な作り方を研究してんの。今回はアイス風」

「へー…」

 やはり、アイスをイメージしていたのか。しげしげと眺め回すが、ドーム型に成形されたジャガイモは完全に潰れていて、滑らかな曲線美を魅せている。

「上手ですね」

 自然に褒め言葉が出ていた。すかさず、辻井がショックを受けたような顔になる。


「だろ? 前回はゴロゴロと食感を残した物にしたら、男客に受けたんだよな。だから今回は逆に女性客に受けるんじゃないかって、密かに狙っている」

 桐原の黒い目が、キラリと光る。

「まぁ…女性は見た目を重視する人が多いですしね」

 真ん丸のポテトサラダにカラフルな付け合わせの野菜。オシャレには疎い僕でも、SNSで持て囃されそうな見た目なことは判る。


「そうそう。もちろん味にも自信がある。どうぞ」

 僕らの前にそれぞれオレンジジュースの入ったコップを置き、桐原が促す。

「じゃあ…頂きます」

 側にあった箸立てから箸を取り、白いドームから一口分掬って口に入れる。宮前の親戚の店で、ポテトサラダを食べていることの不思議を思いながら咀嚼する。


「どう?」

 カウンターに両手を置いて、桐原がこちらを覗く。

「美味しい、です」

 飲み込んで頷くと、桐原は「だろ?」と満足そうに首を上下に振った。


 見た目通りポテトサラダは滑らかな食感で、溶けるように喉を通り過ぎていった。マヨネーズの味はさほど強くなく、ほんのり塩気が効いていて、あっさりした味わいになっている。ポテトサラダというよりマッシュポテトに近い。

「野菜もさ、このポテトサラダと食べてみて」

 僕の拙い箸使いでは一緒には掬えないので、まずはポテトサラダだけを一口分掬って口に運ぶ。続いて人参とコーンを持っていく。


「あ、さっぱりしますね」

「野菜を酢で味付けしてるからね」

「へー」

 試しにキュウリと人参だけを食べてみたら、桐原の言う通り、ツンと酸味が口内に沁みる。ジャガイモと一緒に食べることで、ちょうどいいアクセントになっているのだろう。

 こんな胡散臭い男が、こんなに美味しいポテトサラダを作るなんて、ともはや信じられない思いで小鉢と桐原を見比べる。


「キミも食べてみてよ」

 桐原が辻井に向けて言う。辻井は口をぐっと結んで、ポテトサラダを睨み付けていた。

「ポテトサラダ嫌いだった?」

 桐原の問いに、辻井は黙って首を振る。


 まだ意地を張っているのか。半ば呆れた思いで、小鉢を辻井に近付ける。

「食べてみろよ。食べ物に罪はないし」

 後半は桐原に聞こえないよう、小声で言う。辻井は嫌そうに僕を見たけど、腹を決めたらしい。戦地に赴くような顔をして、箸を取った。


 綺麗な箸使いで白い山を崩し、野菜と一緒に口へ運ぶ。

「……」

 しばらく無言で口を動かしていた辻井だったが、飲み込むと、「…まぁ美味しいです」と肩を竦めた。

 桐原がひゅう、と口笛を吹く。そのキザな仕草が気に食わないけれど、今は辻井の方が大事だ。労る気持ちで肩を叩いてやる。


「キミたちのことは、亮から聞いてるよ」

 腕を組み、桐原は僕と辻井へ順番に目を注ぐ。

「宮前から、ですか?」

 ポテトサラダを摘まみながら、桐原を見上げる。

 宮前が僕らのことを話題に出すのが、意外を通り越して衝撃だった。


「うん。結構楽しくやれてんだなって安心してた」

 顔を揺らし、真っ黒な目を細める。笑っているのに、いいことを言っているのに、不穏さが拭えない。

「そう…ですか」

「いっつも振り回されてますけどね」

 辻井の衣着せぬ物言いに、「辻井!」と大声が出てしまう。


「あはは。まぁそんなことだろうとは思ってたよ」

 迷惑そうな顔の辻井に、桐原は嬉しそうに笑う。

「アイツ、色々苦労してきたからさ、多少のわがままは許してやって」

「だいぶ許してますよ」

 ふん、と辻井が鼻息を吐き出す。僕はヒヤヒヤしてしまうが、桐原はそれさえ笑い飛ばす。


「で、キミが夏木くん?」

 唐突に、桐原の顔が眼前に迫る。オレンジジュースを飲んでいた僕は、ガラス越しに真っ黒の目と目が合う。


「…は、い」

 グラスを置いて、頷く。桐原は離れて、何かに納得したように、「そう」と口の両端を上げていく。

「…なにか?」

「いや、ね」

 目が見えなくなるくらい細めて、桐原は笑顔を続ける。そうすると、黒過ぎる目が隠れて無害そうになる。

 だけど僕と、それから辻井はこの男が油断ならないことを肌で感じ取っていた。


「亮がいたく気に入ってるみたいだから、会ってみたかったんだよね」

 桐原の顔がまた近付く。暗闇の底の底みたいな目が、また僕だけを捉える。

「…そうですか」

 耐えられなくて、目を逸らす。その先で、辻井が警戒心を(あらわ)に桐原を見上げていた。


「いや~、まだ全然夏木くんのこと知らないけど、会ってみるとそれだけで解ることもあるね」

 なんだそれ、という思いで怪訝な目を向けてやる。桐原はやはり、楽しそうに笑っている。

「空気がね、優しいんだよ」

 首を斜めにして、桐原は言う。


 その時だけ、桐原から不穏さや胡散臭さが消え、甥を思いやる叔父の顔になった。

 僕の中で膨らんでいた桐原への警戒心が雲散霧消して、そのあっという間さに自分でも驚く。


「優しい…ですか?」

「うん。俺なんか浄化されちゃいそう」

 桐原の顔が更に接近する。黒い目に吸い込まれる、と思った時、肩を引っ張られた。


 そして、

「何してんの」

 (きり)のように尖った声が、時を止めた。


 辻井に肩を引っ張られたことで、身体を辻井に寄せた状態で、声の方を見る。

 不満に満ちた表情で、宮前がこちらを睨んでいた。


 正確には、桐原へだろう。その証拠に、

「何してんの、譲さん」

 宮前ははっきり桐原を呼んだ。


「なんもしてないって」

 ぱっと桐原が離れ、両手を広げる。舞台役者のような大袈裟な身振りが鼻に付く。


「心配しなくても、俺はカオリさん一筋だよ」

 母の名を呼ばれ、宮前の目に敵意が増す。

「余計なこと話してないよね?」

「もちろん」

 宮前の言う、余計なことがどれを指しているか解っているのかいないのか、桐原は自信満々に答える。


「青葉、帰ろう」

 辻井が僕の腕を引いて、立ち上がる。

「ああ、うん、そうだな」

 残っていたポテトサラダとオレンジジュースを大急ぎで片付け、桐原に「ごちそうさまでした」と告げる。

「帰り送らなくて大丈夫?」

「結構です! ごちそうさまでした!」

 桐原に被せ気味に応え、辻井は僕の腕を引いたまま店の出入り口へ向かう。


「じゃあな、宮前」

 店を出る直前、一応という体で声を掛けると、宮前は「…あぁ」と不満げな顔で頷いた。



 店を出ると、すっかり日は暮れていた。群青色の空に、もうすぐ夕飯時だと思い出す。

 手早く母に今から帰るとメッセージを送りながら、隣の辻井を覗き見る。寂しげな顔で地面に目を落としているものだから、ちょっと驚く。


「辻井、家に連絡しなくていいのか?」

 僕の声に、辻井ははっと顔を上げた。

「うん、そうだね」

 力なく笑った辻井の顔に、半分だけ灯りが落ちた。


 二人で背後を仰ぎ見ると、店に電灯が灯っていた。営業を始めるらしい。

「ポテトサラダ、旨かったな」

 携帯を操作しながら、辻井は「うん、まぁね」と口を小さく動かして言う。


 先に見える浦商の校舎を目印に、僕は家を、辻井は駅を目指して歩く。

「あの人さ」

「うん」

 桐原のことだろう、と辻井の声に耳を傾ける。


「宮前の母親が好きって言ってたよね」

「言ってたな」

 それを僕らに言われても…とただただ困った、車中の会話の記憶を引っ張り寄せる。


「誰かを好きになるって、どういう気持ちなんだろ」

 大きなトラックが、横の道路を走り抜ける。なのに辻井の声はその重々しい音に消されることなく、僕の心に直接落ちた。

 顔を横にずらす。辻井もまた、僕の顔を見ていた。薄暗い闇の中、辻井の目がまるで一粒の星みたいに爛々と輝いていた。


「青葉は、恋したことある?」

 その声は、今にも泣き崩れてしまいそうなほど震えていた。



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