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落陽  作者: いっくん
8/8

来客

 初日は雨、次の日は曇り、そしてゴールデンウィーク三日目の今日にして、ついに空は機嫌を取り戻した。

 まだ厚い雲が朝の空を陣取ってはいるけど、そこかしこに覗く青色が気持ちを浮き立たせる。


 待ち合わせの浦風駅には、約束の三分前に着いた。けれど予想通りではあるが、彼はすでに改札口の前で、柱にもたれて僕を待っていた。

「青葉!!」

 頭の上でピンと立つ犬耳が見える。


「お待たせ」

「ううん、全然」

 僕ににっこり笑ってみせた後、辻井はまじまじと僕の身体を隅々まで見回した。

「な、なんだよ…」

「私服の青葉、初めて見るなって思って」

 満面の笑みに、力が抜ける。


「学校がない日に会うのは初めてだもんな」

「うん! 新鮮で嬉しい!!」

 気温が上がりそうだと天気予報で言っていたから、今日は水色の半袖のシャツを着てきた。下は紺のスキニーパンツ。いかにも適当に選んだという感じが拭えない。

「青葉は青が似合うね、やっぱ」

 辻井が日差しみたいに笑う。


「そうかな。辻井も服オシャレじゃん」

「俺のは姉ちゃんが選んだのばっかだよ」

 苦笑する辻井は、スタンドカラーの紺色のシャツに黒いズボン。髪色や性格から勝手に明るい色の服装を想像していたけど、オレンジ色の髪だと逆に暗い色の服の方が合っていた。腰の両端からは黒い紐がリボンみたいに垂れていて、僕には邪魔そうだなとしか思えないけど、こういうのがオシャレというものなのだろう。

 そして驚いたことに、辻井の服は七分袖だった。七分袖なんて僕は持っていただろうか。


「じゃ、こっち」

「うん!」

 力強く頷く辻井の顔は期待に満ちていた。そんなに期待されても困るんだけど、と内心で息をつく。僕が高校の友達を初めて連れてくるからと、張り切って家で待っている家族が粗相をしないかだけが心配だった。


「歩くと三十分以上掛かるんだけど…バス乗る?」

 一番家から近いバス停は歩いて十分は掛かるし、交通系マネーの類を持っていない僕は、未だにバスの乗り方をよく判っていない。電車と違って定刻通りには来ないこともあって、僕はバスが好きではない。

 とはいえ、客人相手にそんなわがままを言う訳にはいかない。


 しかし気を利かせた僕に対して、辻井は「ううん」と首を振った。

「俺、歩きたい。青葉の住んでる町とか見てる風景をよく見てみたい」

 純真な笑みに、心がぐっと掴まれる。

 動揺を表に出さぬよう、「あ、そう」とわざと素っ気ない声を出す。

「じゃ、歩こう」

「うん!」


 駅の中を通って、外に出る。表から出て真っ直ぐ行けば高校の前を通って家に行けるのだが、それだと信号が多くて億劫なので、駅から帰る時は、いつも裏から出ることにしていた。

「うわ~こっちの方初めて来る」

 辻井が物珍しそうに首を巡らす。

「あっちよりかは田舎だよ」

 ぽつぽつと並ぶ民家と会社の間に紛れて、美容院やピザ屋といった小さな店が姿を見せる。全体的にこぢんまりとした景色だ。


「婆ちゃんはもう元気?」

「うん、もうすっかり元気」

 へらりと辻井は横で笑う。


『俺、婆ちゃん死んだら立ち直れないからさ』

 あの時の遠い眼差しが、脳裏を過る。

「そっか、良かった」

 本心から言うと、辻井は不思議そうに僕を見た。

「そんなに心配してくれてたの?」

 嬉しそうに目元を緩ませる。


「んー、まぁ…」

 正確に言うと心配していたのは辻井を、だけど。

「ありがとう」

 辻井が身体を揺らすたび、オレンジの髪がふわふわと踊る。青空の下、太陽みたいだ。


「青葉はゴールデンウィーク入ってから、何してた?」

「んー、一昨日は中学の時の友達と会ったなぁ」

「そうなんだ!」

 驚いた声を上げ、辻井が前を見ていた僕の顔を覗き込む。


「何人?」

「二人」

「どんな人たちなの?」

 明らかに意識している様子に、苦笑が洩れそうだった。辻井の頭の上ではアンテナがびんびん立っている。

「一人は勉強が得意で…おっとりした奴だな」

「どこの高校行ってるの?」

「浦風高校」

「ウラ高!? 凄い、ホントに頭いいんだ」

 浦風市民でない辻井も知っているくらいだから、ウラ高は相当レベルが高いらしい。改めて、友の頭の良さを実感する。


「辻井だって頭いいだろ」

 隣へ顔を向けて言うと、辻井はバツが悪そうに頭を掻いた。

「あ~、でも俺は挫折しちゃったし」

「頭がいいのは変わんないだろ。テストが楽しみだ」

 からかってやると、「そっか…休み明けたらすぐだもんね」と渋い顔をされた。ちょっと面白い。


『気を付けてもらわないとね。いつ襲われるか判ったもんじゃない』

 優夜の声が、否応にも脳内で木霊する。

 コイツに襲われるなんて、と渋っ面を胡乱げに見やる。

「ん? なに?」

「なんでもない」

 まさかね。


「もう一人は?」

 辻井がまたアンテナを伸ばす。

朴訥(ぼくとつ)とした奴で…野球が好きで、スポーツ推薦で私立行ったな」

「へぇ! 凄いなぁ」

「岡のことも知ってたよ」

「そっか、岡、野球強かったって言ってたもんね」

 凄いなぁ、と顔を輝かせる辻井だったが、その顔から光が急激に失われてゆく。


「辻井?」

「俺とは、全然違うや」

 眉を下げる辻井は、いつか見た泣き出しそうな顔に似ていた。


「何言ってんだ?」

 辻井の力なく垂れた肩の向こうで、小型犬を連れた老人が歩いていく。先を行く犬は、何度も振り返っては飼い主を見上げていて、老人も柔和な顔で何度も頷き返している。

「青葉の友達、凄い奴ばっかだ。岡も野球凄いし」

 はぁ、とため息を吐く。

「俺、不甲斐ないなぁ」

 

 情けなく垂れた辻井の、その太陽色の頭をはたいてやった。

「え、痛っ!」

 驚いて目を丸くする辻井に、僕は立ち止まって、怒った顔を作る。

「すぐ人と比べるの、悪い癖だぞ」

 人を素直に褒められるのは、辻井の美点だ。だけど反対に、自分への評価が低過ぎる。


「僕だって、なんでアイツらは僕の友達なんだって不思議に思うけど、アイツらは僕の良さを認めて友達でいるんだ」

『救われた』だなんて、優夜は仰々しいことを言っていたけど、つまりは僕の良いところに惹かれたのだ。

 僕も、優夜と仁の持つ良いところが好きだ。それは頭脳とか運動神経といった能力とは別の、人間性の部分だ。


「おまえにはおまえの良いところが、ちゃんとあるだろ。だから僕はおまえと友達でいて、一緒に遊ぶんだ。自分にないものばっか見てんなよ」

 気持ちが高ぶって、少し声を荒らげてしまった。だって辻井には、早く調子を取り戻してもらわないと困るのだ。

 僕が何より辻井の好きなところは、太陽みたいな笑顔なのだから。


 目を丸くしたまま固まっていた辻井は、僕が一息つくと、硬化の呪いが解けたみたいに身体からゆっくりと力を抜いていった。

「青葉って、時々凄いクサイ台詞言うよね…」

 上目遣いの呟きは、僕の胸の中心を深く貫いた。


「ク、クサイ…!?」

 わなわな震える僕に、辻井は首を竦めるように頷く。

「でも、凄く嬉しい気分になる」

 歯を見せ、にかっと笑う。嘘偽りのない嬉しそうな笑顔で、僕の心もなんとか立て直す。

「そうかよ…」

「うん!」

 他の奴らにもそう思われてんのかな…。がっくり肩を落とす僕の横で、辻井はルンルン気分で歩き出す。


 道路沿いの道から住宅街に入ると、周りは一気に静かになる。似たような外観の建売住宅の群れを越え、歴史の詰まった大きな邸宅を越え、不揃いな家の群れに差し掛かる。

「あそこが僕の家」

 僕の差した指の先へ視線をやり、辻井の口が大きく開く。


「うわ~! ここが! 青葉の! 家!」

 言葉を切るタイミングに合わせて、辻井の足が夏木家に一歩一歩近付いていく。

 僕より先に門扉の前に到着すると、辻井は興奮に満ちた顔を僕に向けた。

「青葉の家! 大きいね!」

「おまえに言われるとムカつくな…」

 お坊ちゃんに言われたって嫌みにしか聞こえない。門扉を開け、中へ入る。


「お邪魔します…」

 首を引っ込めて、辻井もそろそろと入ってくる。

「おぉ~、庭だ…駐車場だ…」

 左右に首を回し、いちいち感嘆の声を上げる辻井を放って、ドアの鍵を開ける。


「ただいま~」

「お邪魔します!」

 直立不動で声を張り上げる辻井の顔は、緊張の殻ですっかり覆われていた。


「お帰り~」

 バタバタと忙しく母がやってくる。

「久しぶりねぇ~辻井くん! 青葉どう? 嫌なことされてない?」

 初っぱなから何を訊いているんだ。

「嫌なことってなんだよ。してないよな?」

「されてないです! 俺が世話になりっぱなしで」

 大口を開けて笑う辻井の顔はまだ殻で覆われているけど、多少柔らかくなったように思う。


「「つじー!」」

 母の何倍も足音を大きくさせて、チビ二匹が駆けてくる。

「こらこら、辻井くんでしょ」

「いいよ~つじーで」

 何度言っても呼び方が変わらないチビたちを母が窘めるが、辻井は全く気にしていない様子だ。


「可愛いね、君たちが青葉の弟さんと妹さん?」

 人懐っこい笑みを浮かべ、辻井が屈み込んでチビたちと目線を合わせる。

「下のチビたちだよ。ほら、挨拶して」

「だいちです!」

「こーちゃんねぇ、こーちゃんだよ!」

「梢ね」

 自己紹介出来ていない妹の補足をすると、辻井はにっこりと笑みを深くした。


「そっかぁ、大地くんとこーちゃんかぁ。カッコいいし可愛い名前だね」

 それぞれに向けて器用に褒める辻井。チビらはそんな辻井をきょとんと見つめている。

「うん、こーちゃんかわいいの!」

「オレはカッコいいんだぞ!」

「そっかそっかぁ」


 辻井がチビたちと仲良く会話出来ていることに驚く。

「うまく相手してるなぁ」

「まぁ辻井くんは、子供に好かれる見た目と雰囲気だしね」

 腕を組んで、母が訳知り顔で頷く。


 確かにそうかもしれない。

「つじーのかみのけ、おれんじだぁ!」

 興奮する梢に、辻井は「触ってみる?」なんてサービスしている。

 辻井の顔を覆っていた殻は、今や大分薄くなっている。自分より小さな存在に触れて、気が緩んだのだろう。


「すっげー! やわらけー!」

「ふわふわ~!」

 辻井の髪の毛がどんどん無惨になっていく。辻井も楽しそうだけど、さっさと部屋に通そう。

「辻井、そろそろ行こう」

 靴を脱いで、上がり(かまち)に足を掛ける。

「うん!」

 名残惜しそうにしているチビたちに「ごめんね」と謝り、辻井も靴を脱ぐ。


「後でお菓子持ってくね~」

 母に「よろしく」と手を振り、僕らは洗面所で手を洗った後、階段に向かう。

「青葉の部屋に行くの?」

 心なしか、辻井の声が弾んでいる。

「うん、まぁとりあえずは。大したものないけど」

「ううん、嬉しい。楽しみ!」

 開けっ広げに嬉しさを表す。辻井は今日も眩しい。


 二階に着き、奥にある自分の部屋へ向かっていたら、手前の部屋のドアが開いた。

「あ」

 僕を見て口を半開きにした飛鷹は、僕の後ろにいる辻井を見つけて、値踏みするように素早く視線を走らせた。


「あ、青葉の弟?」

 辻井が僕の横に出る。じろじろ見られているのに、全く気にしていない。

「上の弟。飛鷹、挨拶」

「…夏木飛鷹です」

 黒縁眼鏡の奥の目が、すっと細まる。表情の起伏が乏しい飛鷹は、いつも感情が読みにくい。


「ひだかくん? 辻井想一です! お兄さんにはいつもお世話になってます」

 笑顔を輝かせる辻井を、飛鷹は無言で見つめている。

 もうちょっと愛想よくしてもらいたいものだ、と無理なことを考える。

「じろじろ見てんなよ」

 咎めたら、そっぽを向かれた。本当に扱いづらい。

「じゃ、行こう」

「うん!」

 飛鷹の横をすり抜け、部屋のドアを開ける。辻井を入れてドアを閉めるまで、弟の視線を感じた。


「わ~! 青葉の部屋!」

 興奮した目で、辻井が部屋を眺め回す。

「おまえの部屋の半分の広さだな」

 辻井の部屋を思い出す。あの部屋に比べたら、ここはウサギ小屋以下だ。

「そうだね、俺の部屋よりかは狭いね」

 くふくふ笑う辻井は正直で、いっそ清々しい。


 でも一応頭をはたいておく。

「痛い!」

 頭を抑えて痛がる割に楽しそうだ。

「そこ座れよ」

 部屋の隅に立て掛けてある丸テーブルを、真ん中に広げて置く。入り口に近い方に座布団を敷いて、辻井を座らせる。


「普段はここで過ごしてんの?」

「んー、居間の方が多いかな。ここは宿題と寝る時…あと本を読む時くらいか」

 辻井の向かい、部屋の奥に、僕も座蒲団を敷いて座る。

「へー。寝るのは布団?」

「うん。そこの押し入れに仕舞ってる」

「へー!」

 僕の目線の動きに合わせて、辻井も部屋の片隅の押し入れに目をやる。


「やっぱ本多いね!」

 押し入れの向かいに立つ本棚へと、辻井の目が流れる。

「全部自分で買ってんの?」

「基本は。親に買ってもらったり、人からのプレゼントもある」

 五段本棚にはまだ少し空きがあって、いずれは全て埋めて、二つ目の本棚を並べるのが夢だ。そうすると部屋がまた狭くなるけど、本で狭くなるならそれも幸せだ。


「へー!」

「気になるのある?」

 辻井には定期的に本を貸している。どれも楽しそうに読んでくれるし、感想を語り合えるのが何より嬉しい。

 いつもは僕の気分で貸す本を選んでいるけど、せっかく本棚を見せたのだから、たまには辻井に選んでもらうのも良いかもしれない。

 しかし辻井は「ううん!」と頭を揺すった。


「俺、青葉に選んでほしい。全部読みたいから、順番はなんでもいいんだ」

 歯を見せて、大きく笑う。

 僕が好きになって買った本を、全部読みたいと言ってくれる。本を読む人間にとって、こんなに嬉しいことはあるだろうか。


「あ、そう」

 口元がにやけそうになるのを隠したくて、明後日の方へ顔を振る。

「あ、その動き、さっきのひだかくんとそっくり!」

 辻井がその名の通り、人を差すにはもってこいの長い指を僕へと伸ばす。


「似てないだろ」

「あんまり似てないなって思ったけど、今の仕草とか横顔が似てた!」

 大発見! と頬を上気させる辻井は好奇心たっぷりの小学生みたいで、見ているとこちらの誤魔化しとか意地みたいなものがどうでも良くなってくる。


 ばらばらで見るとそうでもないけど、兄弟四人が揃うと、僕らは顔が似ているとよく言われる。自分では似ているとは思えないし、あんまし嬉しくもない。


「辻井は姉さんと似てるって言われるのか?」

 辻井の顔をまじまじと見つめてみる。しかし如何せん、辻井の姉と会ったのは入学式の日くらいだから、顔は朧気にしか覚えていない。

「俺? なんか目はよく似てるって言われる!」

 目をぱっちりと開いてみせる。確かに垂れた目は姉も同じだった…と思う。

「まぁ…似てるかも」

 ふと、辻井家で見た家族写真が脳裏に立ち現れる。母親と辻井の姉は似ていると感じた。けど辻井と似ているとは思わなかった。父親は…どうだったっけ。


「そうでしょ、そうでしょ」

 得意顔で頷く辻井は、姉と似ていることが嬉しそうだ。あんなに美人な姉さんならそういうものかもしれない。


 コンコン、とドアを叩く音がして、辻井が振り返る。僕も見やれば、ドアがゆっくりと開いた。


「お邪魔しま~す」

 盆を抱えた母が、にやにや笑って入ってきた。悪い顔だ。

「どう? 楽しんでる?」

 テーブルの上にグラス二つとりんごジュースの紙パック、ポテトチップスを置いて、母が辻井に問う。

「はい! とっても!」

「良かった良かった」

 元気に返事をした辻井に、母は満足げに頬を緩める。


「なんの話してたの?」

 母が僕と辻井の間に顔を寄せる。

「別になんでもいいだろ」

「兄弟で顔が似てるって話してました!」

 律儀に答えんでいい、と目顔で訴えるも、にこにこ笑う辻井に伝わるはずもない。


「あ~なるほどねぇ」

 不躾な母の視線に、僕は目を逸らす。

「うちの子たちはパーツってより、全体的に似てるのよね」

「俺もそう思いました!」

「あ、やっぱり?」

 印象が一致したことに、母と辻井は笑顔を交わす。


「俺と姉ちゃんは、逆にパーツが似てるって言われます!」

「ほ~どれどれ」

 母の目が、遠慮なく辻井の顔全体に注がれる。

「やめろよ…」

 母親と友人が見つめ合う場面なんて見たくない。


 目を逸らしている間にも、二人の会話は続く。

「あ、言われてみれば目とか似てるかも」

「でしょでしょ!?」

 母は辻井の姉と時々お茶しているから、弟との共通点が見つけやすい。

 辻井家の内情にも、詳しい。


「あ、そういえば気になってたんですけど」

 辻井が口調を変える。母が「ん? なに?」と応じる。

「ひだかくんって、漢字だとどう書くんですか?」


 僕も二人の方へと目を戻すと、母が目をぱちくりさせていた。

「漢字? あの子の?」

「はい!」

 辻井が元気よく首を縦に振る。


 そんなこと気になっていたのか。

「飛ぶ鷹、だよ。鳥の」

 僕が母に代わって説明すると、辻井は「ああ!」と高い声を上げた。

「飛鷹くんかぁ、カッコいい名前だね!」

「名前だけはね」

 りんごジュースをグラスに注ぎ入れる。そろそろ母さん、出てってくれないかな。


「なんか、飛鷹くんだけ、名前が青葉とか大地くんたちと雰囲気が違いますね」

 辻井が母に話を振ると、母は「まぁそうねぇ」と黒目を上へ動かした。

「あの子が生まれた時、今度はカッコいい名前付けたいって思って、お父さんと二人でずいぶん悩んだの」

「へ~、青葉は爽やかな名前だもんね」

 辻井に笑顔を向けられるが、どう反応すべきか判らず、僕は「まぁ…名前は」と曖昧に首を傾げた。


 飛鷹の名前の由来は昔から耳にタコができるほど聞かされてきたから、二人の会話を話半分に聞きながら、ポテチの袋を開ける。にんにく味と銘打ってある通り、開けた途端、にんにくのパンチの利いた匂いが鼻に飛び込んだ。


「で、私が付けたの」

 母が得意気に鼻先を上げる。

「へー! いい名前ですね」

「まぁあの子は名字みたいだって、文句ばっか垂れてるけどね」

 よっこいしょと、ついに母が腰を上げた。

「確かに。日高先生って昔いたなぁ」

 それは入らされたと言っていた良い小学校なのか、遠くの名門中学の頃なのか、辻井の懐かしそうな顔からは判然としない。

 

 辻井にとって、小中学校はストレスの溜まる場所だったのだと思っていたけど、その細めた目が、嫌なことばかりではなかったと語っているようで、僕は少しだけ安堵した。


「じゃ、ごゆっくり~」

「ありがとうございまーす」

 ひらりと手を振って出ていく母を、辻井がにこやかに見送る。


「やっと行った…」

 深々と息を吐き、ポテチを口に放り込む。にんにくの味が、口内を暴力的に襲う。

 袋から半分ほど中身を皿へと移し、辻井にも食べるように促す。

「いただきまーす」

 にんにくの強烈な味に怯むことなく、辻井は美味しい美味しいと食べ続けた。


「楽しいお母さんだね」

「騒がしいんだよ」

 夏木家で一番よく喋るのが母で、一番無口なのが飛鷹だ。しかし飛鷹は口数が少ないながら、たまに繰り出される口撃は一番殺傷力が高い。


 そんなことを話したら、辻井はけらけら笑った。

「うんうん、飛鷹くんはそんな感じするかも」

「そうか?」

 さっきちらっと会ったきりで、そんなこと判るものか?

 でも、辻井は人をよく見ている。短い学校生活で、何度も思い知っている。


「この家には生まれた時から住んでるの?」

 部屋を見渡しながら、辻井は問うた。

「いや、大地が一歳の時に引っ越してきたかな」

「へー! 前はどこ住んでたの?」

 新種の生き物を発見したかのような顔で、大して面白くもない僕の話に食い付く。


「全然小学校の学区内だよ。賃貸のマンションに住んでた」

 転校は手続きが面倒だからという理由で、母の希望で学区内から家を探すことになった。

「へー、じゃあそこで生まれ育ったんだ」

 辻井があぐらをかいた足の先を両手で抱えるようにして、身体を揺らす。


「まぁそうだな。このまま暮らしてくつもりだったんだけど、大地が生まれて手狭になったから、一念発起して家を買うことにしたんだよ」

 生まれてからずっと住み続けてきた家にはそれなりに愛着はあったけど、エレベーターがあったとはいえ、いちいち昇り降りするのは面倒だった。五階建ての三階、真ん中の部屋だったから、上下左右の隣人に物音で気を遣うのも、やはり面倒だった。

 だから引っ越しのきっかけとなった大地には、あの頃何度感謝したことか。


「じゃあまだ五年くらい?」

「うん。そう考えると、まだそんなに経ってないんだな」

 すっかり住み慣れた我が家だけど、まだまだ日は浅い。それなのにあちこち汚れや傷が見え隠れするのはどういう訳か。僕の部屋の隅の壁にも、茶色いシミがこびりついている。なんとなく理由は思い当たるけど、考えないことにする。辻井に気付かれていないといいのだけれど。


「そっかぁ。で、いつかはこの家は青葉のものになるの?」

「え? いや、それはどうだろう?」

 全然考えたことがなかったから、答えられず、思わず辻井の顔を見つめた。

「あははそうだよね、判んないよね。ごめん、変なこと言って」

 辻井は何かを振り払うように、片手を宙でひらひら振った。


「大体そんなこと言ったら、おまえの家だってどうなんだよ」

 意趣返しのつもりで言ったら、辻井は困ったように眉を垂らした。

「うーん、どうなるんだろうね。土地は広いから、骨肉の争いになるかもね」


「骨肉…」

 顔が引きつるのが、自分でも判った。


「うちの一族はみんな、強突張(ごうつくば)りだからねぇ」

 りんごジュースを飲んで、辻井は「美味しい」と笑んだ。

「俺は身軽でいたいなぁ」

 笑みを深くし、辻井が目を転がす。

「大事な人がいてくれれば、十分だよ」

 真っ直ぐに、僕を見据える。


 無意識に、唾を呑み込んでいた。

「そうだな、大事なのは物じゃないよな」

 ひたむきな目の光から逃れるように、僕はポテチを口に押し込んだ。

「そうそう」

 辻井も笑ってポテチを食べ進めていく。


 ふと時間が気になり、ドアの真上の壁に掛けてある時計を確認する。

「もうすぐ昼だけど、ご飯どうする?」

 僕の目線につられ、辻井も後ろへ首を回して振り仰ぐ。

「わ、凄い。あれ時計?」

 奇抜な時計のデザインに、驚いた声が上がる。


「そう、時計。変わってるだろ」

「凄い。地球そのまんまだね」

 よく見ようと、辻井が立ち上がる。

 僕の部屋の壁掛け時計は地球の形をしている。色も地形も割とリアルな造形で、本当に地球が浮いているみたいで気に入っている。数字や針は夜行塗料が塗ってあるため、暗闇で光る優れものだ。


「ここに引っ越してきた時に、時計屋で父親に買ってもらったんだ」

 いわば自分の部屋ができたお祝いだ。父にこの時計を取り付けてもらった時、自分だけの部屋ができたことを強く実感したのを覚えている。

「へー! じゃあ飛鷹くんの部屋にも時計があるの?」

「うん。アイツの部屋にはデジタル時計が掛かってる」

「え? 壁に?」

「そう。真ん丸の。背景は藍色で、数字は緑かな?」

「へ~。なんか珍しいね」

 想像しようと、辻井は眉間に皺を寄せて頑張っている。


「まぁ珍しいタイプだよな。デジタルの方が見やすいからって、あんまり悩まずに決めてたな」

 一目惚れした僕と、デジタルであること以外こだわりがなかっただけの飛鷹。どちらも速決だったけど、理由は全然違う。

「見せてやりたいけど、アイツ、人を部屋に入れるの嫌がるんだよな」

 距離感がガバガバな夏木家の中で、唯一飛鷹だけはパーソナルスペースが広い。自分の部屋どころか、自分の物を他人に触れられるのさえ嫌う。神経質で几帳面。僕とは正反対だ。

 家族に限ってはその対象ではないのだが、毎回僕の布団に潜り込んでくるのはやめてほしい。


「あぁそんな感じした! じゃあ飛鷹くんには特に気を遣って接しないとね」

 辻井がニッと白い歯を零す。あの数秒のやり取りでそこまで感じ取ったらしい。

「うん、頼むよ」

 辻井に返した後、当初の質問の話題を思い出した。


「で、昼ごはんどうする? 外に食べてく?」

 改めて訊くと、辻井は目玉をくるくる回した。

「うーん、そうだなぁ」

「ウチで食ってく?」

「え? ここで?」

 辻井にとって思いがけない提案に、茶色い目が真ん丸になる。


「うん。母さんが作るもんだから、期待は出来ないけど」

「食べたい! 青葉のお母さんが作るご飯食べたい!」

 辻井が身を乗り出した直後、ドアがノックされた。


「どーぞ」

 僕が答えると、ドアが開き、母が顔を出した。足元に梢もいる。

「辻井くん、ご飯どうする?」

「つじー!」

 梢が満面の笑みで片手を伸ばす。


「食べてくって」

「頂きます!」

 辻井の元気な返事に、母は「そう」と微笑む。

「じゃあ今降りてきて」

「今?」

 母の言葉の違和感に、僕は眉を寄せる。


「うん、今」

「あおちゃん!」

 梢が短い足を懸命に回して、部屋に入ってくる。

「こーちゃん連れてきてね」

 僕の返事も待たずに、母は部屋を離れた。


「もうできたのかな」

 僕の頬をぺちぺち叩く梢の手を逃れ、立ち上がる。

「とりあえず行ってみよう」

 梢を抱き上げ辻井に言うと、「うん!」と辻井も立ち上がった。


「ジュースとお菓子どうする?」

「いいよ、そのままで。後でまた来るし」

 辻井に答え、部屋を出る。辻井も小走りで向かってきた。

「青葉のお母さんのご飯楽しみ!」

「あんまし期待するもんじゃないって」

「おひるごはん!」

 僕の腕の中で、梢が跳ねる。


「青葉の握力が強いのは、梢ちゃんを日頃だっこしてるからかな」

 階段を降りながら、辻井が振り返る。

「そうかな」

「ごはーん」

 上機嫌でご飯の歌を歌う梢の身体は、前より確実に重くなっている。


 体力テストでの握力検査のことを指しているのだろう。僕の数値を見て、辻井は意外だと驚いていた。

「腕の筋力は付いたかもだけど、握力は変わんないだろ。体力テストも平均程度だったし」

 僕よりちょっと低いくらいの数値だった辻井は、「でも影響は多少あると思うよ」と僕と梢の二人分、指差してはにかんだ。


「あっち、あっち!」

 梢が台所ではなく居間を指し示したので、そちらへ足を向ける。

「あ、なんかいい匂いする!」

 辻井が鼻をひくつかせると、梢も小鼻を懸命に動かした。

「いーにおい!」

「この匂い…あと音は…」

 焼いたキャベツの匂い、鉄板を焼くジュージューした音。鼻と耳とを刺激され、腹の虫が鳴る。


 居間に入ると、母がテーブルの上で鉄板と格闘していた。

「あ、来た来た。今あんたたちの分焼いてるとこ」

 にっと笑って、母がフライ返しで鉄板を指した先には、真ん丸のお好み焼きが二枚、煙を上げていた。

「わー凄い! お好み焼きだ! お店みたい!」

 辻井が歓声を上げる。梢も「おののみやき!」と暴れるので、下へ降ろす。


「こーちゃんのは!?」

 勇んで訊く梢に、母は「こっち」と右隣を示す。机の角に座る母の左隣では、大地が一心不乱にお好み焼きを貪っている。

「おののみやき!」

「おこのみやきっていうんだよ!」

 舌っ足らずな梢の言い方に、大地がいちいち訂正する。食べながらだから口の中が丸見えだ。

「大地、食べながら喋るなよ」

「だってこーちゃんが!」

「いいから食べなさいって。こーちゃんも」

 母に言われ、大地はまたお好み焼きに集中する。


「いただきます!」

 皿に乗せられたお好み焼きは半月型に切られていて、大地と半分こなのだと判る。張り切ってかぶりついた梢は、早速「おいしー!」と顔をくしゃくしゃにした。


「青葉と辻井くんのもすぐ出来るからね」

 自分もお好み焼きを食べながら、母はフライ返しを両刀で使って鉄板の上の生地を焼き上げていく。

「ありがとうございます!」

 期待に染まった目で、辻井は鉄板をうっとりと眺める。


「じゃあそこに座って…って、そういえばコップ要るね。忘れてた」

 母が示す、空いた席には皿と箸は用意されているものの、飲み物を注ぐコップは無かった。普段食器類は、基本各自で持って来ることになっているため、たまに誰かが代わりに用意すると何かが忘れられる。


「あ~、じゃあさっき使ってたコップ持って来るよ」

 客用のコップを新たに出したらその後の洗い物が増えて面倒なので、部屋で使っていた物を流用することにする。


「あ、俺が持って来るよ!」

 辻井が気軽な調子で言う。

「いや、客なんだからおまえは座ってろよ」

「いいよいいよ。ついでにジュースも持って来るね」

 僕の止める声も虚しく、辻井は浮かれた足取りで居間を出て行ってしまった。


「身軽ね~。フットワークが軽くて助かるわ~」

 お好み焼きを押し潰しながら、母は上品ぶっておほほと笑う。そこには客を動かしてしまったと罪悪感を抱く様子は微塵もない。

「そういや飛鷹は?」

 仕方なく、梢の隣に腰を下ろす。恐らく僕の向かい、大地の隣が飛鷹の席なのだろうが、奴の皿にお好み焼きは乗っているのに本人の姿は未だない。


「携帯忘れたからって上に取りに行ったわよ。まだ来ないわね。この分だと辻井くんと上で鉢合わせするんじゃない?」

 焼き上がったお好み焼きを辻井の皿に移し、母がなんでもない感じで答える。

「ふーん…」

 しかし先ほどの顔合わせでの飛鷹の様子を知っている僕としては、母のように気楽に構えてはいられない。

 天井をちらりと見上げ、僕は肩を竦めた。



 大地と梢の皿に、二枚目のお好み焼きが半分に切って乗せられた頃、辻井と飛鷹が一緒に戻ってきた。

「ありがとう、遅かったな。お好み焼き冷めちゃったぞ」

 辻井を待っていたため、僕の分もすっかり冷めている。

「ごめんごめん。ジュースもついでに持って来たよ」

 僕と自分の席にグラス、机の足元にりんごジュースを置いて、辻井は机の角の席に座った。


「焼き直そうか?」

 母が尋ねたが、辻井は「いえ大丈夫です! 美味しい物は冷めても美味しいので!」とぎりぎり共感出来る持論を笑顔で述べた。

「ほら、マヨネーズとソース」

「鰹節もたっぷり掛けると美味しいわよ」

「ありがとうございます!」

 僕と母に手渡された調味料で、辻井はお好み焼きをわくわく顔で仕上げていく。


 僕の向かいに座る飛鷹もお好み焼きを仕上げていくが、その顔に表情らしきものはない。

 確実に辻井と何かを話し込んでいるはずなのだが、二人に会話の余韻らしきものは見られない。

「何話してたんだよ」

 飛鷹に訊いたってどうせ答えないので、辻井に訊いてみる。

「え? 色々だよ!」

 お好み焼きを頬張りながら、辻井は笑顔を見せる。


「ね!」

 辻井に振られた飛鷹は、もそもそお好み焼きを食べてから、「そうですね」と真顔で返した。


 絶対、なんか重要なこと話してる。

 辻井に疑いの目を向けるが、美味しい美味しいと連発していて、僕なんか目に入らない様子だ。

 そう装っているだけかもしれないけど。


 母に視線で訴えてみたけれど、次のお好み焼きを焼くのに夢中だ。

「あおちゃん!」


 梢に呼ばれ、「ん?」と視線を斜め下にずらす。

「おののみやき、おいしーね」

 口の周りをマヨネーズの混ざったソースでいっぱいにして、大きく笑う。

 そんな笑顔を見せられたら、どうでも良くなってしまう。

「うん、美味しいね」

 辻井の言う通り、冷めたお好み焼きも十分に美味しい。


「おこのみやきっていうんだよ!」

「どっちでもいいでしょ!」

 大地と母の掛け合いに、辻井が吹き出すように笑った。



 賑やかな昼食を終えると、大地と梢が競うように辻井に絡み出した。

「おれんじー!」

「オレンジオレンジ!」

 梢が辻井の背中によじ登り、頭をくしゃくしゃかき回す。大地は横から辻井の髪を引っ張る。

「痛い痛い…っ」

 辻井が情けなく悲鳴を上げる。僕は急いで小さな猛獣二匹を引き剥がした。


「やめろおまえら!」

「あー、おれんじぃ!」

「オレンジ!」

 よっぽど気に入ったのだろう、引き離されてもなお、二匹の目は辻井の輝くようなオレンジ髪に釘付けだ。

 大地も梢もさほど人見知りはしない性質だけど、ここまですぐに人に懐くのは珍しい。奇抜な髪色もあるだろうが、辻井のおっとりとした雰囲気が、小さな子供にとっても親しみやすいのかもしれない。


「いいよいいよ、青葉」

 ぼさぼさの頭で、辻井はへらりと笑う。

「俺、嬉しいもん。青葉の大事な家族と仲良くなれて」

「痛がってたじゃないか」

「ま、まぁ加減してくれると嬉しいけど」


 僕の手が緩んだ隙に、チビたちが素早く辻井の元へ飛び込む。

「あ、こら!」

「「つじー!」」

「いいよいいよ」

 チビたちに潰されながらも、確かに辻井の顔は幸せそうだから好きにさせておくことにする。辻井の腰から垂れている紐が珍しいらしく、チビ二匹は両側からぐいぐい引っ張っている。


「じゃあホットプレート持ってくから、そいつら見てて」

 ある程度熱が冷めたのを見計らい、使用済みのホットプレートを持ち上げる。「はーい」と辻井の返事を聞いてから、台所で食器を洗っている母と飛鷹の所へ行く。


「はい、ホットプレート」

 台所の机の上にホットプレートを置く。

「あぁ、ありがとう。あの子たちの声聞こえてきたけど、辻井くんに遊んでもらってるの?」

 食器を洗いながら、母が振り返る。

「うん…まあ。というか辻井が一方的に襲われてる…」 

 この一言で母は察したらしい。さも可笑しそうにあははと肩を揺らした。


「よく懐いてるみたいだし、毎日来てもらおうかしら」

「アイツらの世話を押し付ける気でしょ」

 濁った目を向けたら、「ばれた」と悪びれもせず視線を外された。


「来なくていいよ」

 洗い上がった皿を母の横で拭いていた飛鷹が、ぼそりと言う。

 吐き捨てるような言い方に、僕と母は思わず飛鷹を見やった。


 飛鷹は、まるでそれ自体が憎き敵であるかのように手元の皿を睨んでいた。

「もう来なくていい。どんな人か、僕は十分解ったから」

「なんだよ…会ったばっかの奴なのに、なんで十分解ったなんて言えるんだよ」

「だって、」


 言おうとして、飛鷹は途中でやめた。目線をずらし、

「まぁ呼ぶのを止めはしないけど。僕は関わらない」

 ふん、と言いきる。


「おまえ、上で辻井と何話したんだよ」

 やはり、辻井が上に行った時に何かがあったのだ。

 だけど口調を強くして問い詰めても、飛鷹は答えない。

 腹が立って、無表情で皿を拭き続ける弟を睨む。


「まぁまぁ。相性ってもんがあるんでしょ」

 母が横から取り成すが、僕はそんな簡単には割り切れない。

 

 どうせ飛鷹が辻井に何かを言ったのだ。恐らくとても失礼なことを。しかし奴の様子を見るに、辻井は言われっぱなしではなかったようだ。思わぬ反撃に遭い、すごすごと退散したに違いない。

 ただ、何を言い合ったのか見当が付かないのが問題だ。


 諦めて居間に戻ろうとしたら、母が「ほら、アレじゃない?」と言い出した。


 向かいかけていた足を戻し、母へ視線を移す。

「飛鷹はお兄ちゃんが大好きだから、取らないで! って怒ったんじゃない?」

 あはは、と楽しそうに言う。

「何言ってんだ…」

 また適当なこと言って、と肩を落としたのだけれど、母の隣で飛鷹が固まっていた。


「別に、そんなんじゃないし」

 なぜか、僕を睨んでくる。

「あらあらまぁまぁ」

 母が口角を上げていく。僕はただただ飛鷹を見つめるしかない。

「…っ、兄さんは早くあっちに戻ったら!? さっきから声聞こえないけど!?」

 台所の出口へ向けて、飛鷹ががなる。


 なんでそんな怒鳴られなきゃいけないんだと、理不尽に呆れる。

 でも言われてみれば、確かにさっきまでうるさいくらいに響いていたチビたちの高い声が今は止んでいる。

 心配になってきた僕は、「…そーだな」とため息と共に吐き出して台所を出る。

 台所を出てすぐ、振り返ってみたけれど、飛鷹はもう背中を向けていた。



 居間への短い廊下を歩きながら、僕は無意識に考えていた。

 飛鷹はブラコンなのか?


 今まで意識したことはなかった。基本、アイツは僕に塩対応なのだ。僕を見下している節さえある。けどたまに布団に潜ってきたりと、調子のいいところがある。しかしそれだけではブラコンとは言いにくい。

 そう思っていたのに。


 さっきの飛鷹の様子は、果たしてどう解釈すれば良いのだろう。

 母の言った通りなら、自分は弟に慕われるデキた兄ということになる。

 …そんな簡単なことだろうか。


 頭をぐるぐる悩ませながら居間に入ると、ソファーの上で、辻井とチビたちが眠っていた。

 辻井の腹の上に梢が、ソファーの背と辻井の身体に挟まれるようにして大地が、そしてチビたちに潰されているのにそれを全く感じさせない寝顔で辻井が、揃って寝息を立てている。


「何やってんだ…」

 この短時間に何があったのか。呆然と立ち尽くしていると、足音が聞こえてきた。

「うわっ…」

「あらあら」

 飛鷹の引いた声と、母の楽しげな声。


「可愛いじゃないの~。ほら、布団持ってきてあげな。そこのブランケットでいいから」

 母に言われ、僕は仕方なく二人掛けソファーの背に引っ掛けられている、クマ柄のブランケットを取る。

 二人用のブランケットなので、辻井の上に被せても足まですっぽり入るだろう。いや、そうすると梢が埋もれてしまう。


 考え込んでいたら、パシャリ、という撮影音が耳に入った。

「何してんの…」

「記念にね」

 母が構えていた携帯を振る。

 なんの記念なんだ。突っ込んだところで納得出来る答えなど返ってはこない。諦めて、ブランケットを横に広げて、梢が埋もれないように辻井の身体に掛ける。


「このまま寝かせといてあげよっか」

 辻井を起こした拍子にチビたちまで起きてしまっては可哀相なので、「そうだね」と母に頷き、僕は辻井たちのソファーの前の床に座る。


「洗い物の続きしなきゃ」と言って、母は飛鷹を連れて居間を出て行った。



 チビたちと全く同じ寝息を立てて眠る、辻井の顔を覗き込む。薄く口が開いているのが梢とそっくりだ。大地なんかは大口を開けているから、口呼吸なのかと心配になる。

「…アホ面」

 家に向かう間に見せた、不安げな面差しなどどこにもない。どうかすると、悩みなど一つもないのではないかとさえ思ってしまう。


 どちらにせよ、人の家でこれだけ寝こけられるなら辻井は大丈夫だろう。座り直し、テレビを点けたら、バラエティー番組の再放送がやっていた。起こさないように音量を絞る。


「まだ寝てる?」

 洗い物を終えた母が居間に戻ってきた。

「爆睡」

「イイね~」

 何がイイのか。母は笑いながら二人掛けソファーに腰掛けた。


「飛鷹は? 部屋?」

「うん。ムスッとしてた」

「だろうなぁ」

 ため息を吐き、後頭部をソファーに置く。斜め上から見えるテレビの範囲は半分程度しかない。


「あの子は昔から、お兄ちゃん一筋だからねぇ」

 母が呟いた一言に、僕は「は?」と顔を向ける。


「どういう意味?」

 怪訝な表情になる。けれど、母にはそれが信じられないらしい。「知らなかったの?」と目を丸くしている。


「何するにもお兄ちゃんお兄ちゃんって」

「それは小さい頃の話だろ」

「今もそうでしょ」

 当たり前のように言われても、僕には思い当たる節がない。

「まぁあんたには判んないか。あの子ツンデレだから」

 手を口に添え、母はくふふと笑う。その仕草、その顔にイラッとする。


「ツンデレ…? ツンデレ…か?」

 布団に潜り込むところはデレ、と言えるかもしれない。

「あんたに彼女でもできたら大変ね」

「そんなのできないよ…」

「だって友達相手でああなんだもん。先が思いやられるわぁ」

 ぼやく母の口振りは、本気とも冗談とも取れた。


「今度辻井くんを呼ぶ時は、あの子がいない時じゃないとね」

「それはそうかもね。辻井が可哀相だ」

 またため息が出た僕に、母は「あの子もね」と視線を天井へ上げた。

 めんどくさい奴だ。もう少し可愛げがあればな、なんて僕は、見えない弟に向けて鼻を鳴らした。



「大変すみませんでした…!!」

 床にうずくまり、土下座するような格好で、辻井は謝った。


 一時間ほどで、辻井は目を覚ました。それに合わせて、大地と梢も起き出した。

「まあまあ、気にしないで」

 鷹揚に笑い、母は机の上にプリンを置いた。

「オヤツ食べてって」

「プリン!!」「ぷりん~!」

 寝ぼけ眼であくびをしていたチビたちが、我先にとプリンに飛び付く。


「すみません…」

 しおれる辻井が可笑しくて笑いそうになるが、からかわない方が良いだろう。

「気にすんなって。ほら、オヤツ食べよう」

「うん…ありがとう」

 プリンを食べ出した辻井だが、「あれ?」と辺りへ視線を回した。


「飛鷹くんは?」

 もきゅもきゅと口を動かす様は、チビたちと完全に同じだ。

「後で食べるって。気にしないで」

 母の返事で辻井は察したらしい。途端に眉の辺りが曇る。


「俺がいるからかなぁ…」

 落ち込む辻井の頭の上で、犬耳が垂れていた。

「そんなワケないだろ」

 本当はある、のだろう。白々しいと思いつつも認める訳にはいかない。母と顔を見合わせるが、困った風に笑うばかり。


「なんでそう思うんだよ」

「ん~、俺が青葉のこと大好きだからかなぁ」

 へらっと笑われ、僕は飲んでいたりんごジュースを噴きそうになった。

「何言ってんだ…っ!」

「あらあら~」

 猫のように目を細めて、母がによによと笑う。それがムカついて睨んでやるも、さらに笑われる。


「つじー、あおちゃんすきなの?」

「うん、好き」

「こーちゃんも、あおちゃんすき!」

 梢が満面の笑みで僕を見上げる。これは純粋に嬉しい。

「ありがとう…」


「すきってプリンよりも?」

 大地が爛々とした目で辻井を見る。

「うーん、そうだねぇ。同じくらい好きかなぁ」

「じゃあにーちゃんあげるから、プリンちょーだい!」

 返事も待たずに、大地がスプーンを辻井の皿へ振り下ろす。


「あげないからな!?」

 大地の腕を掴む。何勝手にあげてんだ。怒りの形相で大地を睨み下ろすが、「ちぇー」と口を尖らせている。はっ倒してやりたい。

 自分のプリンが奪われそうになったというのに、辻井はへらへら笑っている。

「大地くんはプリンが大好きなんだねぇ」

「うん! プリンうめーからな!」

「こーちゃんもぷりんすき!」

「楽しいオヤツだわね~」

 母の言う、楽しいオヤツ時間はそれからひとしきり続いた。



「また来てね~」

「「ばいばーい!!」」

「ありがとうございます! ばいばーい!」

 母とチビたちに見送られ、僕と辻井は家を出た。


「ああ楽しかった!」

 夕方に近付く空に向けて、辻井が笑みを広げる。

「うるさかっただろ」

「すごく賑やかで楽しかったよ! ウチじゃ考えらんないくらい」

「あぁ…まぁそうか…」

 大人ばかりの辻井家と我が家とでは大分違うだろう。辻井家で食事を共にしたら、静かすぎて僕は驚くかもしれない。


「青葉の自転車、カッコいいね」

 辻井の視線が、僕の引く自転車に注がれる。

 辻井を駅まで送った後は自転車で帰れるよう、持って行くことにしたのだ。黒光りするママチャリは、普段そんなに乗る機会がないので、これといって思い入れは少ない。

「そう? あんま乗らないから、サビサビだけどな」

「へー! 判んないや。黒いからかな?」

 しげしげと眺める辻井に、コイツも自転車持っているのだろうか、とか、高いの持ってそうだな、なんて考えたけど、口は勝手に違うことを訊いていた。


「なぁ…飛鷹と何話してたんだ?」

 辻井の表情が止まった。それから首を傾け、口の端だけを小さく上げた。

「…何も?」

 それが辻井が時たま見せる、大人っぽい表情だったから、僕は息を呑んでしまう。

「…何もってことはないだろ」

「そりゃあ、そうか」

 あはっ、といつもの顔で笑う。それに少し安心してしまう自分が嫌だ。


「嫌われるような話をしたんだろ」

 夕方の風は湿っぽい。店の灯りが点き出して、街はゆっくりと夜の闇に沈んでいく。

「うん。飛鷹くんは寂しいんだよ。青葉が遠くに行っちゃいそうで」

 心持ち顔を上げて、辻井が息を吐く。僕も風に乗せて、息を吐いてみる。

「…なんだよ、それ。行かないよ、遠くになんて」

「うん…でも、高校って、中学生には遠い所じゃん」

「あぁ…まぁ」


「それで寂しく思ってたとこに、俺という、はっきりと知らない存在に出会って、飛鷹くんは青葉との距離を実感したんじゃないかな」

「…それは…なんかゴメン」

「これは誰のせいでもないよ」

 ふふっと笑みを零す辻井は大人っぽい。この顔で、飛鷹と相対したのだろうか。


「それで…飛鷹くんが俺に…」

「え?」

 小さくなった声に僕が顔を寄せると、辻井はぎゅっと目を細めた。

「後はナイショ。男同士の約束だから」

「はぁ? なんだよそれ」

 僕の文句など聞き流して、辻井は空に向けるようにして言う。

「飛鷹くんには嫌われちゃったけど、俺は飛鷹くんのこと好きだよ! だって青葉の家族なんだから!」


「…そういうこと、大声で言うなよな」

「えぇ~? だって大事なことだもん」

 呆れる僕をよそに、辻井は踊るように歩く。今が一番楽しいという顔で。

 ああそうだ。辻井はいつも、今こそが一番楽しいと笑うのだ。刹那的で、でも一瞬一瞬をとても大事にする真摯さが、僕は好きだった。


「また、来いよ」

「うん! ありがとう!」

 夕方の雑踏の中、僕と辻井は笑った。きっと、同じ顔で。



 さすがにあれからなんのフォローもしないのでは兄としてどうなんだと思い、帰ってから飛鷹の機嫌を確かめようとしたら、彼は居間のソファーに既にいた。

「お帰り」

 プリンを食べていたのだろう、テーブルに置かれた皿は空だ。りんごジュースは僕たちが飲みきってしまったからか、持っているコップには牛乳が入っている。原材料飲んでるな、と思ったけど余計なことは言わないのが吉だ。


「あぁ…ただいま」

 隣に座り、静かな部屋を見渡す。

「母さんたちは?」

「アイツら連れて買い物」

「ふーん」

 牛乳を飲む弟の横顔を見つめる。その顔に表情はなくて、大して観察力のない僕に感情を推し量ることは出来なかった。


「…なに?」

 黒縁眼鏡の中で、飛鷹の黒い目だけが動く。

「おまえさぁ…」

 膝に肘を置いて、これ見よがしにため息を吐く。しかしなんと言って良いのか判らない。テレビでは夕方のニュースをやっていて、どこかの県のスーパーの大安売りが凄いとか紹介している。


『飛鷹くんは寂しいんだよ。青葉が遠くに行っちゃいそうで』

 記憶の中で、辻井の顔はぼやけている。あの時、どんな顔をしていたっけ。

「…僕は、ここにいるよ」


「…は?」

 心底意味が解らないという顔で、飛鷹は僕を凝視する。

「おまえが心配しなくても、僕は変わらずここにいるってこと!」

 ふん、と鼻息を出し、胸を反らしてみせる。僕の態度に、飛鷹はますます困惑している。

「何言ってんの」

「そのまんまの意味だ」


 飛鷹は納得いかなそうに眉を険しくしていたけど、ふっと息を吐いた。

「分かってるし、そんなこと」

 その時零れた表情は、身内の僕でも自信を持って世に送り出せるくらいに整っていた。優しそうな、愛しそうな、胸を締め付けるような表情。

 でもそれは一瞬のことで、飛鷹はまた常の無表情に戻ってしまう。


「お母さんから夕飯の支度頼まれてるから、兄さんも手伝って」

「え、まぁそうか…」

 テレビを消して、何事もなかったように立ち上がる飛鷹に続いて、僕も腰を上げて身を伸ばす。今日は疲れたけど、それなりに楽しかった。


「おまえ、僕のこと大好きなんだって?」

「…バカじゃないの」

 飛鷹の声は尖っていて、でも僕にはそれがとてもとても可笑しかった。



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