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落陽  作者: いっくん
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友達

 体験入部の期間、色々な部活を見に行こうと辻井と話していたけど、野球部を見学した次の日には、その計画は(つい)えていた。


「婆ちゃんの具合が悪くてさ」

 沈んだ声で、辻井は言う。

 僕の前の席で、横向きに、ぼんやりとした顔付きで。

 朝のホームルームを控え、教室はまだ賑やかさと明るさに満ちていた。昨日まで、辻井もその一員だったのに。


「悪いって…どう悪いんだ?」

 辻井家にお邪魔した帰りに、玄関で挨拶を交わした、小柄な辻井の祖母。辻井とよく似た柔らかい笑顔で、『またおいで』と言ってくれたあの人は、僕の記憶の中ではさほど年を取っているようには見えない。


「ちょっとした風邪らしいんだけどさ。うちの婆ちゃん、肺があんまし丈夫じゃなくて」

 尻すぼみになっていく辻井の声は、抑え切れない不安を如実に表していて、僕さえ不安にさせる。

「婆ちゃんって俺の保護者だからさ、死なれると困るんだ」

 へらりと笑って、わざと軽口を叩く姿が痛々しかった。


「部活見学、色々行こうって言ったくせに、ごめん」

 本当は、学校にさえ行くのを躊躇ったんじゃないのか。玄関の引戸に手を掛けて、心配そうに振り返る。そんな光景が見えるようだった。

「いいよそんなの、気にすんな。おまえは婆ちゃんのことだけ考えておけよ」 

「うん…ありがとう。お手伝いさんも来るし、俺のすることなんて大してないんだけどさ」

「うん、でも見てたいんだろ」

 

 辻井の表情が止まる。ぐっと歪んで、またへらりとほぐれる。

「うん…なんか見てないと落ち着かないんだ」

「うん、解るよ」

 深刻さは全然違うけど、僕も家族が病気になると、そわそわして落ち着かなくなる。

 僕の安易な共感に、辻井は安堵したように笑みを深くした。


「でも青葉、俺のことは気にせず部活見に行けばいいからね!」

 こちらに首を勢いよく回して、力説する。その力強さに、さっきまでの意気消沈ぶりはどうしたと笑えてくる。

「いいよ、辻井が行かないなら別に行かなくても」

「え~…」

 口をすぼめる辻井は不服そうだが、少しだけ嬉しそうでもあった。


 他の部活が気にならないわけじゃないけど、積極的に行きたいわけでもない。僕は元々能動的に動くタイプではないのだ。

「もう入る部活は決まってるんだし、せっかく早く帰れるんだから、僕も真っ直ぐ帰ることにするよ」

 部活が始まってしまえば、陽が高いうちに帰れる日は少なくなる。頭の隅では、昨日の帰りにみんなと見た夕焼けが鮮やかに輝いていた。


「そっか、そうだね」

 笑う辻井は無理しているようでもあった。こんな時、僕は『お婆ちゃんは絶対大丈夫だよ』なんて言えない。

 絶対なんて、どこにもないのだ。


「早く良くなるといいな」

 言っても言わなくても変わらない、月並みな僕の言葉に、辻井は「うん!」と笑顔を広げた。



 家に入ると、高らかなはしゃぎ声が耳に飛び込んできた。

「ただいまー」

 声のする方へ導かれた僕の足は、台所の手前で止まった。


「あー、あおちゃん!」

 椅子に立っていた梢が、短い指で僕を差す。その手には水色のビニール手袋が装着されていた。

「ただいま」

 鞄を入り口に置き、台所へ入る。テーブルの上には大きなボウルが二つ並んでいた。

「おかえりー!!」

「おかえりー、にーちゃん!!」

 梢の向かいで、やはり椅子の上に立つ大地も叫ぶようにして僕を迎える。

 梢よりちょっとだけ大きいその手も水色だった。


 そして今気付いたけど、台所の中が少し生臭い。

「あ、お帰り~青葉」

 流しで洗い物をしていた母が振り返る。


「ただいま、何してんの…って」

 テーブルに近付いて、正体を知った。

 大きな銀色のボウルと、カレーやおでんを作る時に使う大きな両手鍋。その二つには、肉ダネがぎっしり詰まっていた。

「今日の晩ごはん…餃子?」


「ピンポーン」

 タオルで手を拭きながら、母が梢の隣に腰掛ける。

「今日は私が仕事休みだったから、この子らも保育園休んで、お昼食べてから餃子作ってたの」

「へー…」

「これ、こーちゃんがつくったのー」

 梢がテーブルの端に置かれたバットを指差す。驚いたことに、無造作に置かれた十数個のそれらは、ちゃんと餃子の形をしていた。


「え、すごいな。しっかり餃子じゃん」

「えへー」

 むふん、と鼻息を出す梢の手元を、大地が「こーちゃんはそれつかってるからだよー!」と指で示す。

 そこには、手のひら程度の大きさの、花の形をした白いプラスチックの容器があった。

「なにこれ?」

 

「これはね~簡単餃子キット」

 母が白い歯を見せる。

「これに生地とタネを入れて閉じると、餃子の形になるの。こーちゃん、あおちゃんにやって見せてあげて」

「うん!」

 母に言われた梢が、いそいそと肉ダネを掴んで容器に入れる。

「こーやってね、こーするの!」

 小さな両手で、花の形に開いていた容器をパチンと閉じる。再び開いた花の上には、立派な餃子が出来上がっていた。


「お~すごい」

「こーちゃんのぎょーざ!」

 パチンパチンと、リズミカルに餃子を量産していく。なるほどこれなら三歳児でも楽に餃子が作れる。

「おれのほうがすごいし!」

 張り合う大地の隣に置かれた皿の上には、個性的な形をした餃子が積み上がっている。自分の手で作るのを良いことに、好きなように包んでいるのだ。


「うんうん、すごい」

 よくよく見れば、飛行機の形だったり、帽子の形だったり、猫の形だったりと、それなりに様になっているのもある。わが弟ながらセンスがある。

「ほら、あんたも手伝ってよ」

 母に命じられ、僕は「はーい」と返事をして手を洗いに行った。


 餃子の有名店は無数にあるけれど、僕はわが家で作る餃子が一番好きだ。別に母の料理の腕が特別良いわけではない。普通に美味しいレベルだ。なのにどうしてか、母がタネを作り、みんなで包む餃子はいつも特別美味しく感じる。多分、みんなで作るという工程が好きなのだ。それから家でだと大量に食べられるのも良い。母は余ることを前提に、肉ダネを作りまくる。ので、次の日のご飯や弁当に持ち越される。そんな風に、長く味わえるのも家で作る醍醐味だと思う。


 僕には大地のような独創性はないから、普通の餃子の形にタネを包んでいく。

「今日は部活見学に行かなかったの?」

 母が餃子を包みながら訊く。夏木家の器用さランキングでは下の方の母の餃子は、一見ちゃんとした形に見えるけど、梢が餃子キットで作った餃子に比べると若干よれている。


「んー、辻井の婆ちゃんが具合悪くて看病しなきゃだから、僕も帰ることにした」

「え、そうなの?」

 入学式で会っているので、母も辻井のことはよく知っている。帰りには辻井の姉とも仲良くなっていた。

「そりゃあ心配ね。大丈夫なの?」

 母の眉の間が、心配そうに曇る。

「ただの風邪だけど、肺が悪いから心配なんだって」

「へー…肺が…」

 母の目線が遠くへ向けられる。そのせいで、手の中の餃子の端がどんどんずれていく。


「かーちゃん、ぎょーざ!」

 大地に指摘され、母は「あ、ヤバいヤバい」と餃子を修復していく。

「まぁあそこのおうちは、ご飯は杏子(きょうこ)ちゃんが作ってるから食事は大丈夫ね」

「そうなんだ」

「そーよ。お弁当もよ。知らないの?」

「うん…」

 辻井の姉の名前さえ、母から聞いたのだ。辻井家の内情については大体知っているけど、そういう基本的なことは、よく知らない。

 僕もあまり訊かないけど、辻井も、あまり自分の話をしない。辻井の婆ちゃんの肺が悪いなんて、全然知らなかった。


「毎日一緒にいるけど、知らないことだらけだな」

 ぽつりと零すと、

「じゃあこれからは知ってかないとね」

 あっけらかんと母は笑った。

「そのためには自分のことも知ってもらわないと。あんた、自分の話とかしてる?」

「まぁ…訊かれれば…」


「こーちゃんねー、ぎょーざだいすき!」

 梢がこの場の空気を制圧するように元気に叫ぶ。

「おれもぎょーざすき! あとかいじゅう!」

「こーちゃんはおひめさま!」

 大地も加わり、すっかり賑やかになった台所で、母は楽しそうに笑う。

「あんたもこれくらいの元気がないとね」

「ここまでは無理かな…」


「そうだ、今度のゴールデンウィーク、辻井くんを家に誘ったら?」

 いいことを思い付いた、と母が嬉々とした目を僕に向ける。

「え、あー…」

 そういえば辻井家に行った帰り、僕も辻井を家に誘っていた。忘れていたわけじゃないけど、記憶は薄れていた。

「そうだな…その頃なら婆ちゃんの身体も回復してるだろうし…」

「決まり! 私も久しぶりに辻井くんに会いたいわぁ」


「つじー?」

 梢が何かを感じとり、大きな目を僕と母の両方に向けて転がす。

「そ、辻井くん。今度会えるわよ~」

「つじー!? それってつよい!?」

 大地が手に持っていた餃子を振り回す。

「強くはない…力は」

 隣で振り回される手を抑え、僕はふにゃりと笑う辻井の顔を脳内に描く。

 腕力は僕よりもないだろう。けど、心は僕よりずっと強い。


「明日、誘ってみるよ」

「頑張れ!」

「「がんばれー!」」

 少しでも気分転換になれば良い。今日は落ち込んでいた辻井の顔を、明日には笑わせてやりたい。

 餃子をぎゅっと折り畳む。誘うのはあまり得意ではないけど、母や弟妹に応援され、僕の胸は決意に満ちていた。



 次の日の弁当の時間、僕は机の上に、いつも使っている弁当ではなく、二つの無機質なタッパーを置いた。

 二つのタッパーには、それぞれ白米と昨日の餃子パーティーの残りの餃子が詰まっている。口直し用にキュウリの漬け物も白米タッパーに添えられているが、二口くらいで終わってしまうささやかな量だった。

 別に良いのだ。今日のメインは餃子なのだから。


「わ~、青葉、今日餃子弁当なんだね」

 前の席から、辻井が餃子タッパーを覗き込む。

「昨日餃子パーティーだったから」

「パーティー? 何それ楽しそう」

 くすっと笑みを洩らす辻井に気付いた一条が、「なになに? なんのパーティーだって?」と横の席からわざわざ立ってタッパーを覗いてくる。


「うちは家族が多いから、みんなで作りながら食べるご飯を時々やるんだよ。たこ焼きとか手巻き寿司とか。で、昨日は餃子だったんだ」

 昨日はあれから部活を終えて帰って来た飛鷹も合流して、五人でせっせせっせと餃子をこしらえた。


 そうして夕飯時に、居間の机の上にホットプレートを置いて、みんなで焼きたてをつついて食べたが、唯一餃子作りに参加しなかった父が一番よく食べていた。


「へー! 俺んとこもたまにやるなぁ。ああいうのって楽しいよな」

 一条がうっとりと天井を仰ぐ。

「うちは鍋くらいしかやんないなぁ。いいなぁ楽しそう」

 辻井が羨ましそうな顔を作る。確かに辻井の姉さんはそういうのを作るようには見えない。

 なんというか、手巻き寿司ならまだしも餃子だのたこ焼きだのをみんなで作るというのは、非常に庶民臭さを感じる。辻井家は病院経営をやっていて、家も大きい。つまりは上流家庭に分類される。そんな家が餃子を必死こいて作って、ホットプレートできゃっきゃっ言いながら焼くなんてとても考えられない。


 でも辻井は本当に羨ましそうな顔をしているから、気付けば僕は、辻井に向けてタッパーを持ち上げていた。

「一個やるよ」

「え、いいの!?」

「じゃあ俺にもちょーだい!」

 すかさず一条が辻井の横に顔を滑り込ませる。あまりの素早さに、半ば予期していたことではあったけれど笑ってしまう。


「いいよ、ほら」

「いぇーい!」「え、手でいいの?」

 躊躇う辻井とは対照的に、一条はタッパーから餃子を手で一つ摘まみ上げた。

「いいよ別に。僕も結構手で摘まんだし」

「うめー!」

 一口で頬張った一条が顔をとろけさせる。食べさせ甲斐のある奴だ。


「じゃ、じゃあいただきます…」

 辻井が親指と人差し指で、怖々とタッパーから餃子を摘まむ。そんなに恭しく食べる代物ではないのだが、と辻井の育ちの良さを垣間見る。

「美味しい!」

 餃子を口に放り込んだ辻井の顔が、一気に明るくなる。

「餃子は冷めてても美味いからな」

 誇らしげに頷き、僕も餃子を手で取って食べる。焼きたてには及ばないものの、十分に豪華な味がする。


「おい! 夏木の餃子うめーぞ!」

 一条が振り返り、弁当を食べていた岡と小林を誘う。なんだなんだと二人の顔がこっちに向く。

 タッパーには餃子がぎゅうぎゅうに詰まっている。まぁいいかと、二人にも餃子をお裾分けしてやる。

「昨日、家で餃子大量に作ったからさ。食う?」

「へー、サンキュー」

 岡が自席から立って、餃子タッパーを見下ろす。

「すげぇいっぱい入ってんな」

「手でいいよ」

「いただきます」

 岡の指が餃子を摘まむ。僕らよりも大きい岡の手では、普通サイズのはずの餃子があまりに小さく見えた。

「うん、うまい。ニンニク効いてんな」

「臭くなるな~」

 僕の隣の席に戻った一条が大口を開けて笑う。

「一個くらいなら問題ないだろ。僕は食べたら歯磨きするよ」

 いつもは弁当の後にいちいち歯磨きなんてしない。今日だけは餃子のため、歯磨きセットを持って来ている。


「小林も食ってみろよ」

「なんでおまえが言うんだ」

 一条に促された小林が、おずおずと僕の机に来る。

「あ、ありがとう」

「いいって」

 大きな身体の割に気は小さい彼に、タッパーを差し出す。小林は律儀に爪楊枝を持って来ていた。

「うん、美味い」

「だろ!」と一条が足を揺らしてけたけた笑う。

「だからなんでおまえが言うんだ」


「小林は、昨日どこの部活に行ったの?」

 成り行きをにこにこと見守っていた辻井が、小林に首を傾ける。

 自分に合う部活を探すべく、あちこちの部活を練り歩いていた小林は餃子を飲み込むと、

「昨日は新聞部に行ったよ」

 思い返すように目を上へ回す。


「え、新聞部」

 辻井が僕を見る。僕も辻井を見てから、「どうだった?」と小林に訊く。

 新聞部は、希望部活の候補に入れていた一つだ。見学に行くつもりだったけど未だ行っていないし、速記部に入る気持ちを固めた今となっては、もうどうでも良くなっていた。


 それでも、多少は気になる。

 小林は「う~ん」と眉を寄せ、渋い顔をした。

「ほぼ女子のお喋り部みたいだったから、入りづらかった」

 僕ら全員の口から「あ~」と共感の声が上がる。


「ま、月一回の発行だったら、毎日根詰めてやる必要はないわな」

 一条が自分の弁当を掻き込みながら、解った風に言う。

「全員女子?」

 岡が訊くと、小林は「うん…」と困り顔で答えた。


「女子はお喋り好きだからな~」

 笑っているけど、一条も大概だと思う。

 速記部もそうだったな、と見学に行った日のことを思い起こす。先輩たちが固まってお喋りしていたっけな。

 そういえばあの時先に見学に来ていた吉川は、母親に相談出来たのだろうか。クラスが違うし体育は合同だけど男女別だから、あれから姿さえ見ていない。


「今日はどこ行くの?」

 辻井が更に尋ね、小林は「英語部かな」と答える。

「いいじゃん。英語のガイジンの先生、美人だったもんな」

 美人に目がない一条が下心を隠しもせずに言う。ニュージーランド出身という金髪のグラマーな英語講師がいることは、入学当初から話題になっていた。とはいえ一年生の授業には関わっていないため、校内で彼女を見掛けたという一年生は未だにいなかった。

「いや、俺は別に…」

「まともに答えなくていいって」

「うわっ、辛辣!」

 わざとらしく僕に泣き真似をしてみせる一条に、辻井が矛先を向ける。

「一条は部活決めたの?」


「まだ~」

 なぜかキラッキラの笑顔で両手を広げる。

「ゴールデンウィークはどうすんだ?」

 岡が尋ねたのは、今週末から始まるゴールデンウィークにも、部活動見学に行くのかという趣旨からだ。


 今週末から来週の始めまでは連休だが、来週末が部活動希望調査表の提出期限となるため、連休中にも部活動見学が許されている。しかしせっかくの休みに、見学に勤しむ物好きなどいるのだろうか。

「行くワケね~!」

 予想通りの返答に、苦笑が出る。


「え、岡は行くの?」

 辻井がまさかという顔で見上げる。

「まぁ行こうかな。練習試合もあるし」

 岡の言葉に、僕と辻井は自然と顔を見合わせていた。

 一昨日、僕と辻井は野球部へ見学に行った。野球部に入る意思などさらさらない。なのに行った理由は、現在僕の後ろで昼寝している宮前絡みだ。


 泣きそうな顔で葛藤していた宮前は、ひとまず野球部へ見学に行くことにした。そして僕らの目の前で鮮やかなバッティングを見せた。

 昨日はさっさと帰って行ったし、今日もそうだろう。果たして、宮前は本当に野球部に入るのだろうか。


「そういえば野球部って、宮前が活躍したんだろ? コイツ、どうすんだろーな」

 一条が顎で宮前を差す。野球部でのあれこれは、昨日の昼食時に一条たちにも話していた。一条は寝ている宮前の肩をばしばし叩いて笑ったため、宮前に威嚇されていた。

「おまえは自分のこと心配しろよな」

 会話に夢中になっていたが、ようやく餃子を口に放り込む。口内に広がる肉汁に腹が歓喜する。


「そりゃそうか~」

 一条が高らかに笑う。コイツって悩んだりするのだろうか。

「餃子ありがとな」

 岡が席に戻っていく。小林も「ありがとう」と言って席に着いて、自分の弁当を食べ始めた。

 それからはゴールデンウィークをどう過ごすかの話になり、辻井をいつ家に誘おうかと考えている間に昼休みは終わってしまった。



 結局、辻井に話を持ち出せたのは帰りのホームルームを終えてからだった。


 後ろの席では帰り支度をする宮前に、岡が「宮前、来週の練習試合おまえも見に行こう」と声を掛けている。

 宮前にも餃子を一つ分けてやろうと思っていたけど、気付いたら完食してしまっていた。それがなんとなく後ろめたくて、昼休み以降、僕は宮前の顔をまともに見ていない。


 前の方では英語部に行こうとする小林に、一条が「今日ガイジンの美人先生来んの? 来るなら行こっかな~」と絡んでいる。


 それらを視界の端に捉えながら、僕は鞄を手に取った辻井に「あのさ」と切り出した。

「うん?」

 どうしたの? と辻井の丸っこい目がくるくる動く。


 土壇場になって、自分が緊張していることに気付く。

 さらっと言うだけだ。辻井なら間違いなく喜んでくれる。

 頭では解っているのに、口が上手く動いてくれない。

 別に愛の告白をする訳でもない。遊びに誘うなんて、小学生でも出来る。


 僕は、乾いた口を奮起して動かした。

「連休中のどっかで…僕の家に遊びに来ないか?」


 言った…言えた。開いたままの口から、小さく息が漏れる。

 辻井はというと、まるでおかしなニュースを聞いたかのように目が瞬いている。


 あれ?

 一にも二にもなく喜ぶかと思っていたのに、この反応は意外だった。

「つじ…」

「行く」

 辻井が一歩、前に出る。僕の眼前に、辻井の顔が迫る。

「行きたい。絶対行く」


 ここで、辻井の纏う空気が何やら違っていることを、僕は感じ取った。

 鬼気迫るというか、いつのまにかここは戦場になったのかと錯覚を起こしそうなほど、辻井の放つ空気が殺伐としている。

「あのね、青葉」

 辻井の顔が更に近付く。吐息さえ感じられる。日なたの匂いがした。

「俺が青葉の家に遊びに行くこと、誰にも言わないで」


「え?」

 思いがけない台詞に、思考が止まる。

「特に」

 辻井の目がくるりと回る。あどけない少年の顔に、抜け目のない野性味が差す。

「アイツには、絶対言わないで」

 辻井の目は、僕の肩の向こうにいる宮前を見ていた。


 宮前はまだ、岡と喋っていた。押し付けがましくない程度に野球部の観戦に誘う岡の声と、眠そうにしながらも迷う素振りのある宮前の声が、僕の耳を通る。


 辻井の狙いが、僕には解ってしまう。

「…分かった」

 神妙な調子で応じたら、辻井の顔が元のあどけないそれに戻る。

「ありがとう!」


 宮前たちに挨拶して、僕と辻井は教室を出た。

「婆ちゃんの具合はどうなんだ?」

「うん、だいぶ良くなってきた」

 ほっとするように、辻井は頬を緩ませる。


「それは良かったな」

 階段に差し掛かると、そこは同級生と上から降りて来る三年生でごった返していた。その中には既に体操着や部活着に更衣を済ませた人たちもいて、彩り豊かな光景が広がっている。

 女子が多数を占める群れに揉まれ、僕と辻井の距離が縮まる。

 

 そんな群れも喧騒も知覚していないかのように、辻井の眼差しは遠い。

「俺、婆ちゃん死んだら立ち直れないからさ」

 今ここにいない人、その人がいずれは向かう場所に、辻井の目は向いている。そう思ったら、たまらない気持ちになった。


「そんなの…家族が死んだらみんなそうだろ」

 不意に、辻井が祖母を見守る場面が頭に流れる。

 心細そうに祖母の寝顔を見つめる辻井。祖母が咳き込む度、眉間に皺が寄る。次第に呼吸が穏やかになると、ほっと息を洩らす。そんなことを、静かな部屋で何度も繰り返す。


「うん、そうだよね。でも俺がもっと大きくなったら、きっと耐えられるんだと思う」

 辻井の首が伸びる。ふにゃりと頬が下がる。

「それまでは、死なないでほしいなぁ」


 安心させてやりたかった。その思いでいっぱいになって、僕は信念を曲げることにした。

「大丈夫だよ、おまえの婆ちゃんはまだ死なない」

 拳で辻井の肩を強めに叩き、拳を肩に置いたまま、強く言いきる。


 小さな頃から本を読んできたおかげで、この世に絶対などないのだと、早くから気付いていた。

 幸せは有限だし、人は簡単に死ぬし、日常は突然に奪われるものだ。

 だから僕は人を励ますのが苦手だし、絶対なんて言葉は嫌いだ。

 たけど僕は最近、人を励ましている気がする。絶対という言葉も使っている。


 信念を曲げてでも、励ましたい人ができたということだろうか。ならばこれは喜ばしいことなのだろうか。


「うん、ありがとう」

 判らない。判らないけど、目の前の辻井がふっと表情をほどいた時、心底『ああ、良かった』と思った。



 次の日の帰りのホームルームが終わった途端、教室内の空気は派手に爆発した。

「やったー!! ゴールデンウィーク!!」

「遊ぶぞぉー!!」

 女子にしては野太い声があちこちから上がる。 


 家族で旅行に行く人も多いけど、僕の家は父親の仕事が祝日関係ないため、家族で出掛ける予定がない。遊ぶ予定といえば、連休初日に中学の友達と会う約束をしていた。

 辻井が来るのは来週の月曜。その日は母の仕事が休みなのでチビたちもいる。飛鷹はいたっけかなと、席から立ち上がりながら考える。


「じゃーな! 土産楽しみにしてろ!」

「あぁ、気をつけて」

 一条が決めポーズをして慌ただしく去って行く。一条は明日の朝から家族で千葉のテーマパークで遊ぶため、今晩出発する。奴にあのネズミのキャラクターを愛でる趣向があったのは意外だ。

「じゃあ来週な」

 小林にも手を振る。今日はバドミントン部に行くと言っていた。連休中は見学に行かず、どこに入るかじっくり考えるらしい。なんとなく、文化部に入りそうな予感。


「青葉、帰ろう!」

「うん」

 笑顔で振り向いた辻井に応えた直後、僕らの前に二人の人影がぬっと現れた。


「夏木」

「…岡?」

 突然の出現に、僕と辻井は呆気に取られる。もう一人は不機嫌に眉を寄せた宮前だ。


 岡は若干前のめりになりながら、緊張した様子で僕に向けておずおずと口を開いた。

「来週の火曜にある野球部の練習試合に、一緒に行ってくれないか?」


「えっ」

「えぇっ!?」

 僕以上に辻井が驚いていて、そのことに驚いて辻井の顔を確認する。

「なんで! それって宮前を連れて行くためでしょ!? 青葉を巻き込まないでよ!」

 すぐそばでぎゃんぎゃん喚くから耳が痛い。

「落ち着けよ、辻井…」

「これが落ち着いていられるもんか!」


 頭から湯気を上らせ、辻井が宮前に顔を向ける。

「宮前! どうせ青葉が行くなら行くって言ったんだろ!? 一人で行けよ!」

 辻井の吐く炎をまともに受け、宮前の眉間の距離が縮まる。

「おまえには関係ねーだろ」

「青葉だって関係ないだろ!」


 宮前と辻井がやり合うのを口を挟む暇もなく眺めていたら、岡がこそっと近付いてきた。

「なぁ夏木、頼むよ」

 手刀を切り、心底申し訳なさそうに言う。

「ん~…」

 僕を巻き込まないでくれ。

 入学してから、もう何度目になるか判らないことを心中でぼやく。正直な本音としてはその一言に尽きるのだ。今回は辻井の怒りに全面的に同意だ。


「これからも毎回、僕は付き合わされるのか?」

 げんなりして言うと、意外にも岡は「いや」とあっさり首を振った。

「今回だけだ、きっと」

「なんで?」

「多分、アイツはきっかけが欲しいんだと思う」

 炎のような勢いの辻井に、氷のように冷ややかに反論する宮前を見ながら、岡は続ける。

「行くのはまんざらでもないはずだ。野球部に入るのも前向きだし。でも、あと一歩踏み出す勇気を、アイツは欲しがってる」


「宮前のこと、よく解るんだな」

 驚きと感心を込めた目を送ると、岡は照れた風に目線をずらした。

「そりゃアイツには野球部入ってほしいからな。観察してるんだ」

「へ~」

 興味なさそうに呟いてみるものの、岡は必死だ。

「だからな、今回だけ頼むよ」


 男らしい岡の形相が、今は情けなくしぼんでいる。

「今回だけ…?」

 体験入部の帰り、宮前は言っていた。

『俺が野球部入ったら、試合とか観に来てよ』

 今回だけになるとは思えない。


「なぁ~メシとか奢るからさぁ」

 肩を揺すられ、視界が乱れる。

「おい…」

 しかし僕の頭は単純だった。

 ご飯を奢る…?


「あぁ! 岡! 青葉を勧誘しないで!」

 辻井が悲鳴のような声と共に、僕を岡から引き離す。

「そんなに心配なら、辻井も来いよ」

 岡に言われ、辻井は「え」と眉を歪める。

「そんなの…」

「いいよ、行こう」

「「え!」」

 僕が応じると、岡と辻井が目玉を飛び出さんばかりに僕を見た。宮前も目を大きく開いている。


「ご飯奢ってくれるんだろ?」

 腕を組み、大きく鼻から息を吐いてみる。偉そうなポーズだが、岡は早速すり寄ってきた。

「奢る奢る! ありがとな!! 宮前! おまえも金出せよ!」

「あ、ああ…」

 本当に来てくれるとは思っていなかったのか、宮前はまだ半信半疑に僕を見ている。


「辻井も行こう」

 僕が言えば、辻井はしぶしぶ「しょーがないな…」と頭を垂れた。

「で、いつなんだ?」

「火曜!」

 岡が嬉々として答える。辻井が遊びに来る次の日か。


 野球部のメンツを思い返す。あの人たちがどう活躍するか、見てやろう。

 すっかり他には誰もいなくなった教室で、僕らは火曜日の計画を立てた。



 連休初日は朝から雨が降っていた。一条、残念だったなと思ったが、全国版の天気予報を見たらあちらの方は曇りらしい。あの男、持っている。


 伸びをして部屋を出る。しとしとと降り続く雨は世界を灰色に染めて、今は本当に朝なのか不安にさせる。階段を降りて行くと、梢のぐずる声が聞こえてきた。

「マーマぁ…」

「大丈夫よ~、ママここにいるからね~」

 階段を降りてすぐの所にある、ほぼ物置として使われている洋間で、母は洗濯物を干していた。外が雨なので部屋干しにするらしい。


「こーちゃん、また泣いてるの?」

 母の背中に声を掛けると、バスタオルを広げていた母が振り返る。

「あぁ青葉、おはよう」

「うん、おはよう」

「いつものことよ、雨の日はご機嫌斜めなのよね」

 母の足には、顔を涙で濡らした梢がしがみついている。


「こーちゃん、おはよ」

 顔をちょっとだけ上げて、梢はすんすん鼻を鳴らした。

「おはよぉ…あおちゃん」

 梢は雨が苦手だ。赤ちゃんの頃は平気だったように思う。ある時から怖がるようになった。父が根気を持って質問したところ、空から何かが落下してくることが恐ろしいのだという。雨の音が、本来聞こえてくるはずの外の音を掻き消してしまうことも。


 感受性が豊か、と言えないこともない。だけども雨の日は外に出たがらないから保育園にも行けない。今はまだ良くても小学校に入ったらどうするのだと考えてしまう。

 しかし父も母も、大きくなったら雨も受け入れられるようになるだろうと、おおらかに捉えている。


 もしそうなら、いつか梢がこうして愚図っていることも、思い出になる。そう思うと、今がすごく貴重な瞬間に感じられて、梢が愛おしくなってくるから不思議だ。


「あんた、ちょっとこーちゃんのこと慰めてあげてよ」

 母が足をちょいと出し、梢の丸っこい尻が揺れる。

「いいけど僕、昼になったら出掛けるよ」

「雨降ってるのに?」

「友達とご飯食べるだけだから…」

「友達って?」

「中学の…」

 それだけで伝わった。母はああと合点した顔を浮かべる。

 母は昔から根掘り葉掘り訊いてくるので、訊かれるまま答える僕は、交遊関係も大体母の知るところとなる。飛鷹は秘密主義なのか滅多に話さないから、余計に僕に質問が集中するのも原因だ。


「あの二人でしょ? 元気してる?」

「それを今日確かめに行くんだよ」

 このままでは母に質問攻撃に遭うので、梢を連れて退散することにする。

「朝ご飯ある?」

 梢を抱き上げると、ずしりと重さが腕に伝わる。「あおちゃん…」と肩に顔を押し付ける梢の声は、まだ濡れている。

「ない! もうちょっとで昼だからいらないでしょ」

 母はきっぱりと答えた。我が家はお弁当のない日の朝食は基本セルフだが、タイミングが良ければ梢と大地のご相伴に預かれる。今日は間に合わなかった。


「もうちょっとって、まだ十時じゃん…大地は?」

「まだ寝てる。起きてきたら、納豆ご飯でも食べさせてやって」

 パン! と張りのある音を立てて、母がTシャツを広げる。真っ白の無地の服は、大きさ的に父の物だろう。


「飛鷹は? 部活?」

「そう。こんな雨の日に何やんのかしらね」

「筋トレじゃない?」

 おざなりに返し、梢を連れて台所へ向かう。


 冷蔵庫を開けたが、用意するのが面倒になってきた。大地が起きてから一緒に食べようと冷蔵庫を閉める。

 昼はハンバーガー屋と決まっていた。中学時代の友人から集まろうと誘いを受けたのは一週間前。会うのは中学卒業以来だから、若干緊張している。

 でもあの二人は全く緊張なんかしていないだろう。僕の緊張も、理解出来ないに違いない。


「あおちゃんあそぼ」

 潤んだ目が、僕を見つめる。真っ黒の目がガラスみたいで吸い込まれそうだ。

「うん、遊ぼうか」

 台所には窓がないから、梢も落ち着きを取り戻している。濡れた目をぎゅっと閉じて笑うのが、なんともいじらしい。


 お気に入りのお姫さま人形と同じ髪型をしたいとせがまれ、動画を参考に梢の髪を編む。梢を椅子に座らせて横向きにする。僕は腰を落とし、向かい合う。

 人形は簡単に出来たけど、人間の髪だと難しい。特に梢の髪はサラサラしているから、持ち上げても持ち上げても指の隙間から髪が逃げていく。


「まーだー?」

「もうちょっと」

 大して進んでないのに、機嫌を損ねないように誤魔化してみる。幼児はじっとしていると死んでしまう生き物なのか、ゆらゆら頭が揺れるから更にやりにくい。


 夢中で奮闘していたから、背後から「にーちゃん、おなかすいた!!」と叫ばれた時は、「うわっ!」と情けない悲鳴を上げてしまった。


 後ろを見れば、大地がけらけら笑っている。

「にーちゃんびっくりしてる!」

「いきなり大声出すなよ」

 前に顔を戻して、また驚く。梢が目に涙をいっぱい溜めていた。

「こ、こーちゃんどうした?」

 どうしたもこうしたも、僕の上げた悲鳴にびっくりしたのだ。頭の片隅では解りきっているのに、狼狽えてしまう。


「うぇぇ、ん」

 とうとう泣き出した。「ごめんごめん」と抱き締める。

「あー、にーちゃんがこーちゃんなかしたー」

「おまえが大声出すからだ!」

 梢を抱き上げ、冷蔵庫から納豆を取り出す。


「ほら」

 机に置くと、大地は「ごはんは?」と訊いてくる。自分でよそえと言いたくなるが、コイツの背丈では炊飯器を置いた棚にはまだ届かない。

 肘で梢を支えながら、大地のご飯をよそってやる。

「こーちゃんも納豆食べる?」

 好物の納豆をチラつかせるも、緩く頭を振られる。大好きな納豆にも目をくれないなんて、相当機嫌を損ねてしまった。


「ごめんねこーちゃん、三つ編みしてあげるから」

 椅子に座った大地の前にご飯を置き、梢を再び椅子に収める。

「おひめさま…」

「うんうん、お姫さまにしてあげる」

「いただきまーす!」

 向かいの席で声を張り上げる大地を張り倒してやりたい。


 どうにかこうにかそれっぽい三つ編みが出来た。

「どう?」

「おひめさま…」

 三つ編みを触る梢の顔は浮かない。嬉しいけど、引きずった感情が邪魔しているのだろう。

 単純で扱いやすい大地に比べて、梢は繊細なところがある。雨を嫌うのもそうだし、一度ヘソを曲げると、なかなか引っ込みがつかない。


「にーちゃん、おちゃ!」

 コイツには距離感というものがないのか。目と鼻の先で叫ぶ大地に、顔をしかめる。

「自分で取れよ」

「わかった!」

 するすると椅子から降りて、大地が冷蔵庫に駆け寄るのを見て、まずいと思い至る。


「やっぱにーちゃんが取ってやる!」

 遅かった。大地は勢いよく冷蔵庫の上の扉を開けると、二リットル入ったお茶のペットボトルを両手で掴んだ。

 だけど幼児には重かったようで、大地の足はよたよたとたたらを踏んで、背中から倒れそうになる。

 その背中と床の間に、僕は自分の身体を差し入れた。


「うぉ…っ」

 踏ん張ったはずなのに、大地の体重プラス満タンに入った二リットルペットボトルでは、僕のひ弱な身体では持ち応えられなかった。


 二人して床に倒れ込む。ドスン、と大きな音が鳴り響く。

「にーちゃんだいじょーぶ?」

「大、丈夫…」

 背中が痛い。痛みと情けなさで天井を仰いでいると、梢の顔がぬっと現れた。

「こーちゃん…」

「あおちゃんいたい?」

 心配そうに眉を下げる。


「大丈夫だよ」

 精一杯微笑んでみせると、梢は涙の残る顔でにこっと笑った。

「あおちゃん、えらいねぇ」

 よしよしと頭を撫でられる。機嫌が直ったなら良かった。


「ちょっと何してんの?!」

 ドタドタと母が駆けてくる。僕らの様子を見て、一瞬で状況を察した母は、呆れた顔でため息を吐いた。

「大地、早くどいてあげて」

「はーい」

 僕の胸元から、大地がぴょいと跳ね起きる。


「こーちゃん、髪の毛やってもらったの?」

「うん!」

 母が問うと、梢はくるりと回って三つ編みを揺らした。

「おひめさま?」

「うん、お姫さまみたいよ」

 満足そうに、梢は大きく笑う。さっきまでの泣き顔が嘘みたいだ。


「あんた、いつまで寝てんの? 早く起きたら?」

 労りの一つもない母の無慈悲な言葉に、やれやれと立ち上がる。

「ほら、助けてもらったんだからありがとうは?」

 母に促され、大地はペットボトルを大事に抱えたまま、「にーちゃんありがと!」と叫んだ。

「こーちゃんも髪の毛ありがとうは?」

「ありがとー」

 手が掛かるけど、チビたちは可愛いものだ。僕は痛む背中を撫でつつ、「いいよ」と笑った。



 お姫さまになった梢と納豆ご飯を食べ終えた大地と三人で、リビングでボール遊びしていたら、あっという間に約束の時間になった。

 僕がいなくなると梢は泣くかと思ったが、母が昼食にちらし寿司を作ると聞くと、もうそれで頭がいっぱいになったらしく、「あおちゃんバイバイ」とあっさり手を振った。


 食い気には勝てない。残念な気持ちを胸に残し、待ち合わせ場所のファーストフード店に向かう。



 国道沿いに建つファーストフード店は、中学時代に何度も世話になっていた。今は自分一人で行くことこそないものの、たまに家族で利用している。行く度にあの日々が思い出され、切ないような胸を微かに締め付けられるような気持ちにさせられる。


 小雨ではあるが自転車を走らせる気にはなれないので、傘を差して向かう。早足で行けば二十分は掛からない。店が見えてきた頃、駐輪場に目当ての人物が既に待っていた。

「あ、来た」

 軽やかに言い、僕に長い指を差す。甘く整った顔立ちは高校生になっても変わらない。柔和な笑みで、彼、仲村(なかむら)優夜(ゆうや)は僕を迎えた。

「お待たせ」

 駐輪場に着くと、もう一人の友人も僕と目を合わせて片手を上げた。

「オッス」

「おっす」

 優夜は家が近いから歩きだけれど、仁は合羽を着て自転車で来たらしい。大きな黒衣の合羽は、言っちゃ悪いがごみ袋を被っているみたいだ。


 無表情が常の男、烏森(からすもり)(じん)は最後に会った卒業式の日より大きくなった気がする。三人の中で最も身長が高いのは当時からだが、肩幅がぐっと広くなった。

「部活、頑張ってんだな」

 僕の意図を察したらしく、仁は「ああ」とたくましい胸を反らした。

「おまえは相変わらずひょろいな」

「普通だよ」

 これでも体重は増えているのだ。ただし筋肉か贅肉かははっきりとしない。


「じゃ、入ろっか」

 優夜がひらりと店の入口に身体を向ける。風のような柔らかい身のこなしは健在だ。


 二階建てのファーストフード店は、店内に足を踏み入れた途端、戦場のような喧騒で満ちていた。

 さすがは連休の時分時。どこの飲食店も賑わっているだろうが、こういう店は家族連れだけでなく僕らのような若者グループも集まるので、混み具合が半端でない。


「席あるかな…」

 もう諦めの心境で呟いたら、優夜が「んー」と一階を見渡した後、階段に向かった。

 二階へ上る優夜に僕と仁も付いて行くと、一階の騒がしさが嘘みたいにのどかな空間が広がっていた。

「ここの階段は狭くて急だから、あんまり家族連れとか老人は二階に行かないんだよ」

 言われてみれば、席に着く客は若年層が多かった。家族連れもいるにはいるが、子供の年齢は比較的高い。


「とはいえここもじきに混み出すだろうから、席を取っておこう」

 颯爽と通路を抜け、優夜は奥を目指す。席はまばらに空いているけど、手前の席には目もくれない。


 奥の北向き角っこ、少々薄暗い四人掛けのテーブル席で、優夜は止まった。

「どう? ここは」

 眩しい場所が似合うのに、本人は暗くてひっそりした場所を好む。そんなところも変わっていなくて、僕は少しだけ切なくなる。


「うん、いいんじゃない」

「俺はどこでもいい」

 僕と仁が同意すると、優夜はにっこりと笑った。

「じゃ、青葉」

 手を差し出され、僕は「?」と疑問を顔に出す。

「持ってるだろ? 本」

「ああ、本か」

 隙間時間があったらどこでも読めるようにと、常日頃から本を携帯している僕の習慣を、優夜は覚えていた。そんなことが、嬉しくなる。


 本と仁のタオルを机の上に置いて、三人で一階へ戻る。下に近づくにつれて、聞こえてくる音も倍増してくる。


「この中を行くのか…」

 レジの前に立つと、ついげっそりした声が漏れる。三つ並んだレジにはそれぞれ長蛇の列。

「まぁ回転は速いから」

 優夜がニコニコと答える。いつも悠然と構えていて、動じるところを見たのは数えるほど。この男のような余裕も、僕も持ちたいものだと心中でため息を吐く。


「腹減ったな。買ったら先食ってていい?」

 仁が電光メニューを見上げて言う。次々切り替わる商品画像に、目がチカチカする。

「そーだな。いいよ」

「じゃ、席に集合だね」

 優夜の合図で、僕らはそれぞれのレジに並んだ。



 商品を載せたトレーを貰い、上に戻ると優夜がもうハンバーガーを食べていた。

「僕より後に注文してなかった?」

「俺はワンセットだからね」

 サラダをつつく優夜の向かいに、腰を下ろす。


 僕はセットに単品のバーガーも追加していた。加えて、サイドメニューはポテトだから幾分時間にズレがあるのかもしれない。

「真打ちの登場だ」

 優夜が階段に視線をやる。僕も見たら、トレーに商品を山盛りに積んだ仁が向かって来ていた。

 先に食べるとか言っていたけど、あんなに買っていたら先もくそもない。


「相変わらずよく食べるな」

 優夜の隣に座った仁に感心混じりに言うと、「食っても食っても腹が減る」といかにも男子高校生らしい発言をした。


「どう? 商業高校は」

 僕に質問を投げ、優夜はバーガーにかじり付いた。包み紙からしてベーコンとトマトの入った、食べにくそうなハンバーガーだと判る。色々と零れ落ちそうだけど、優夜はそんなこともなく優雅に食べ進めている。


「まぁ、普通だよ」

 ラップを剥がし、分厚い肉が二枚入ったバーガーを食む。これも食べにくいけどソースが美味しいから毎回頼んでしまう。

「なんだよ、普通って」

 ね、と優夜は隣の仁に同意を求めた。けれども仁は店の看板商品、ビックバーガーに夢中だ。開いた口は拳が入りそうなほど大きい。


「男子何人くらい? どんな奴がいるの?」

 適当に返しても納得してくれないだろうから、僕は出来得る限り端的に紹介してやる。

「んー…、クラスに男子は僕を入れて六人。ずっと寝てる奴とか、犬みたいにじゃれてくる奴とか、女が好きだから商業入った奴とか…」

「うわ~個性的」

 コロコロと笑う。

「あと身体はデカイんだけど気が小さい奴と…あぁ、中学で野球やってた奴もいるよ。結構強かったらしい」

 最後は仁へ向けた言葉だ。ビックバーガーを難なく食べ終えた仁は、ポテトに伸ばした手を途中で止めた。

「誰? どこ中?」


「中学は…覚えてないな。名前は岡。フルネームは岡太一(たいち)

 そういえばどこ中って言っていたっけ?

 記憶を掘り起こしていたら、先に仁が「(いずみ)(おか)中の岡か」とはっとした声を上げた。


「あぁそうそう、そんな名前だった」

 父親と同じ名前だから覚えやすいと思っていたのに、今の今まで忘れていた。しかも泉が『丘』の岡なんて、洒落みたいだと一条がけたけた笑ってさえいた。つくづく僕は自分の記憶力が心配になる。


「戦ったことあるの?」

 優夜が隣の仁へ目を転がす。仁は二個目のバーガーにかぶり付きながら「おぅ」と頷いた。

「どんなだった?」

 僕も二個目に手を伸ばす。岡は自分がエースだったと語った。野球は全然知らないけど、岡がどんな選手だったのか多少の興味はある。


「強かった」

 うんうん一人で頷く。それだけじゃなんにも判らない。

「強いって…ポジションは?」

 これではダメだと優夜が具体的に質問をする。相手がどんな人間でも、優夜は適切に対応する。


「ファースト。一塁のとこ。カバー範囲が広くて、アイツがいる間はなかなか走らせてもらえなかった」

 バーガーをかじりながら、仁はまずい物でも食べているみたいに、苦々しい顔をする。散々辛酸を舐めてきたらしい。


「へ~、強い奴はみんなピッチャーかと思ってたよ」

「僕も…」

 ポジションも知らなかったんだな、と体験入部とはいえ一緒に野球をやった仲なのに、己の無知を悔やむ。

「しかもよく打ってた。泉が丘自体は大して強くないけど、アイツ一人でバンバン点取ってたし守ってた」

「「へ~」」

 岡が打った弾丸のようなボールが、僕の頭であの日のようにくっきりと放物線を描く。


「そんなに凄いのに、なんで仁みたいに強豪校行かなかったの?」

 僕のポテトを勝手につまんで、優夜が尋ねる。視線で抗議するが、素知らぬ風だ。

「故障して辞めたんだよ。肘だったかな。三年に上がってすぐって聞いた」

 仁の無表情に、影が差す。

「今は治ったって言ってたよ。で、野球部に入るって」

 慌てて説明したら、「ホントか」と仁は細い目を大きく開いた。


「良かったね。試合で戦えるかも」

「おう」

 優夜はともかくとして、スポーツ推薦で私立の野球強豪校に入った仁は、まさか商業高校の弱小野球部と対戦する日が来るなんて本気で思ってはいないだろう。僕も思っちゃいないから、無言を決める。


「二人はどうなんだよ、高校」

 僕の質問に、優夜と仁は揃って目をしばたたいた。

「どうって…普通、だよね」

「おう。野球しかしてねぇ」


「いや、もっと色々あるだろ…。まぁ仁はホントに野球だけなんだろうけどさ」

 優夜に目線を合わせる。困ったように首を傾げられた。

「ん~まぁ勉強頑張ってるよ」

 ニコッ、と聞こえそうなほど爽やかな笑顔を見せられる。並びの良い白い歯が、薄い唇から覗く。


「そうだろうな…」

 優夜が通う高校は、市内一偏差値が高い公立校だ。中学での成績を三年間オール五で修めた彼は、高校受験も危なげなく通過した。

「みんな勉強出来るけど、ノリもいいから楽しいよ」

 中学で成績が良くても、高校に行って頭の良い奴らに囲まれると自分の限界が見えてしまうという話はよく聞くけど、優夜はその心配はないようだ。にこにこと屈託なく笑う顔に、無理をしている様子はない。


「そっか、それは良かったな」

「うん」

 イチゴ味のシェイクを飲んで、優夜は「でも」と目を細めた。

「青葉の周りも楽しそうだね。もっと聞かせてよ」

「え? 何を?」

「例えば…『犬みたいにじゃれてくる奴』とか」


 なぜか、ドキッとした。


「それ、俺も気になる」

 三個目のバーガーを口に押し込み、仁がじっと僕を見つめる。

「いや、なんでだよ。そのまんまだよ。別にそんな面白い話なんてないって」

 戸惑う僕に、優夜はにこにこ顔で攻める。

「青葉にとってはそうかもね。でも、俺らは興味あるなぁ」

 うっすら開いた優夜の目が、怪しい光を放つ。


 知らず、ごくりと唾を飲み込む。

「ホントに面白い話なんか…」

「んー、じゃあ最初から。仲良くなったきっかけは?」

 詰問されているみたいだ。笑顔なのに、優夜から圧を感じる。仁の眼力も僕を緊張させる。


「入学式…」

 食事の手を止めて、僕は辻井とのあれやこれやをぽつぽつと語った。辻井の内情に踏み入った話は避けつつ、普段の言動を中心に。



 僕らと同年代の少年少女の声がそこかしこで響く。野太い声に金切り声、ダミ声に騒音、うるさいくらいに響いているのに、隔絶されているみたいに僕らの席は静かだった。


「なるほどね」

 僕の話が一段落して、優夜がため息と共に呟く。

「なんだよ、なんかあるのか?」

 訝しげな目を晒すと、優夜は意味ありげに隣の仁へ目配せする。仁は無表情に顎を落とす。


「ま、俺らから言えるのは」

 シェイクを飲みきって、優夜は甘く笑う。

「そのワンコがいつ暴走するか判らないから、気を付けろよってこと」

 二個目のバーガーを食べようとした僕は、ぽかんとしてしまう。


「暴走って…」

 意味が解らないという言い方をしながらも、口が引きつるのを止められない。

「青葉だって解ってるでしょ」

 トレーの上でごみをまとめ、優夜は教師が生徒を教え諭すように言う。

「付き合い方は考えた方がいい。特に青葉はすぐ人を引き寄せちゃうから。良くも悪くも」

「引き寄せてなんか…」


「引き寄せてるよ。俺らもそう」

 ね、と優夜は仁に目線を送る。仁は軽く首を縦に振った。

「性格も生活環境も全然違うのに、俺らが友達なのかその証拠」

 軽く発された言葉。だけど優しい微笑みが、優夜にとって凄く大事な気持ちから出た言葉なのだと伝えていた。


 そしてその言葉は、僕の中にも静かに染み込んでいった。

 野球部のエースとして、中一の頃から活躍していた仁。神童と呼ばれ、テストでは常にトップの成績を誇っていた優夜。

 二人と知り合ったのは、中学最初のクラスが同じだったから。その後、親睦を深めたのはそれぞれひょんな理由からだった。

 僕にとっては本当に些細なきっかけだったから、それ以降も関係が続くとは思わなかった。

 だから、僕は当時から時々、なぜこの二人は僕と友達でいてくれるのだろうと不思議に感じていた。


 そんなことこっ恥ずかしくて訊けなかったけど、今の優夜の言葉から理由を推し量れた。

「僕が…引き寄せていた」

「そう。青葉は無自覚に人を救ってるんだ」

 頬杖を突いて、覗き込むように優夜が僕を見つめる。真ん中で分けられた長い前髪が、優夜の目の端に掛かった。


「俺も仁も、青葉に救われた。高校でもそうだろうと思ってたけど、やっぱり人を救ってるんだね」

 声に、誇らしげな響きがする。優夜が指している出来事は、僕にもピンときた。

 まばたきの度に揺れる長い睫毛が、あの時は涙で濡れてふるえていた。


 普段の穏やかな言動からは想像出来ないような激しさで、怒声を張り上げていた優夜に、僕はなんと言ったかよくは覚えていない。

 あれが、優夜を『救った』ことになったのなら。


「僕は…特別なことなんて言ってない。誰でも言える、当たり前のことを言っただけだ」

 目線を落として小声で言う。自分の能力以上に祭り上げられている気がして、どうにも居心地が悪い。

「そうだね。でも、俺には必要だった」

 そっと目を閉じて、睫毛を震わせる優夜の顔が視界の端に映る。

「ほんっと自覚がないよね、青葉は」

「だな」


 二人に呆れた口調で言われても、こんなの自覚がある方がイタい奴じゃないか。

 口を尖らせてみて、子供っぽいとすぐにやめる。

 くすっ、と笑みが落とされる。


 目線を上げると、優夜が穏やかに笑って僕を見ていた。

「俺は嬉しいよ。高校生になっても、青葉は青葉で」

「あっそう…」

 チョコシェイクを音を立てて吸い上げる。恥ずかしいような照れ臭いような。


「でもホントに気を付けてもらわないとね。いつ襲われるか判ったもんじゃない」

「コイツぼーっとしてるからな」

「ぼーっとなんかしてない! あと襲われるってなんだよ!?」

 叫ぶ僕を、優夜と仁は哀れみの混じった目で見た。


 二人に無駄な反論をする代わりに、僕は今度家に遊びに来る予定のワンコ、もとい辻井に向かって、頭の中で『おまえのせいだぞ!!』って叫んでやった。





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