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落陽  作者: いっくん
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速記部

 二十時から観ていたクイズ番組が終わった。CMの後、次は別のバラエティ番組が始まる。国内外の事件をドラマ仕立てで紹介するドキュメンタリー系の番組で、毎週家族で観ている。


 とはいえ二十一時といえば、下のチビ二人は寝る時間だ。寝かしつけ担当の父がチビたちを寝室へ連れていき、寝かせてからリビングに戻ってくるまで、大体三十分くらいかかる。だから父は、途中から番組を観て、終わったらそのままあらかじめ録画しておいた同じ番組を最初から観なおすという、なんとも気持ちの悪い視聴スタイルを採用している。


 今日もそうなるだろうと思っていたのに。

「きょうねー、あおちゃんとねるのぉー」

 ワンピースタイプのパジャマの裾をひらひらさせて、妹がご機嫌に笑う。

「え」

 ソファーに凭れかかっていた僕は、驚いて身を起こす。


 肩までのツヤツヤした黒髪を散らし、妹はくふくふ笑みを零す。かわいい。

「パパと寝なくていいの?」

 向かいのソファーに座る父に視線を向ける。

 父はかわいそうなほど表情を失くし、固まっていた。


 父のショックなどよそに、妹は短い腕を僕の腕に絡ませる。

「きょうはあおちゃんがいーの」

 ダメ? と大きな目をうるうるさせる妹に、拒否など出来ようか。

「うん、いい…」

(こずえ)!」

 父が声を張って立ち上がる。父の隣でそれまで面白そうに僕らを眺めていた母が、身をのけ反らせる。


「今日は大地お兄ちゃんが先に寝ちゃったから、パパと二人で絵本読めるよ」

 猫なで声のなかに必死さを滲ませ、父がこちらに向かってくる。僕の隣で本を読んでいた飛鷹が、引いた目で父を見ているのが居たたまれない。


 大地はクイズ番組の最中、リビングの隅でミニカーを走らせていたが、途中で寝落ちしてしまっていた。その大地を先に寝室に運んだ父が、今日は自分を独り占め出来るぞと妹に迫っている。見ていて切なくなるのはなぜだろう。


 父の必死のアピールも空しく、妹、梢は父に向けていた顔をぷいと逸らした。

「やだー。きょうはあおちゃんがいー」

 愛娘からの拒絶に、父はまるで大きな石が頭上に落ちてきたかのような顔になる。


 向かいでは母が口元に両手をやり、肩を震わせている。時おり空気の洩れる音がして、笑いを噛み殺せていない。僕も飛鷹も居たたまれない気持ちでいるのに。


 息子の僕が言うのも変だけど、父はかなりの美形の部類に入る。授業参観などで学校に来ると毎回同級生からイケメンだと騒がれるし、街を歩けば見知らぬ他人、大抵オバサンによく声を掛けられている。

 身内の顔面などあまり正確に批評出来るものではないけれど、そういう実績があるから僕も父には一目置いている。


 そんな父が、今やぼろぼろだ。

「と、父さん…」

 立ち上がって、父と相対する。僕の目の高さには、すっきりとしたラインの父の顎がある。

「なんだ?」

 低っくい声…!

 僕を見る父の目は、敵意で満ちていた。そんな目、絶対に息子に向けたらいけないと思う。


「どうせ今日だけだから、そんな気にしないでよ」

「あおちゃんがいーのぉ」

 ちょっと黙っててくれ。


 父はぐっと目を閉じて、何やら考えごとをするような間を置くと、

「そうだな…。最後にはパパが一番って気付くんだ」

 自分に言い聞かせるように、声を絞り出した。


「必死過ぎでしょ」

 飛鷹がぼそりと呟く。ちょうど父に聞こえるか聞こえないかの、絶妙な声量だ。

 だけど僕は、一種の既視感のような感覚を覚えていた。

 昼間、学校で一条が辻井に向けて放った言葉。それを聞いた時の、辻井の表情。今もまだ、ありありとそこへ浮かべることが出来た。

『もっと余裕持たねぇと。本妻の余裕ってヤツ』

『ここで待ってる』

 父の台詞と重なって、なんとなくモヤモヤとした気持ちにさせられる。


『今夜の驚きのニュースは!』

 仰々しい音と共に、毎週お馴染みの声が横から飛んできてハッとする。

 番組が始まったのだ。

「じゃ行こっか、こーちゃん」

「うん!」

 小さな手を取り、ゆっくり歩く。父の横を通る時、顔は見られなかったが、「じゃあおやすみ、梢」と落ち着きを取り戻した声を聞いた。梢は「おやすみなさい!」と元気に返した。


 母のそばを通ると、母はようやく笑いの渦から抜け出して神妙な顔を作っていた。

「青葉、絶対こーちゃんに一人で階段使わせないでね」

「分かってるよ」

「朝は起こしに行くから、待っててね」

 来なくていいとは思ったけど、心配性の気がある母にはその方が安心なのだろう。

 母は僕が頷いたのを確認すると、梢に目を合わせて、

「こーちゃん、一人で階段使っちゃダメだよ? 夜中にトイレ行きたくなったら、あおちゃん起こすんだよ」

 念を押すように強く言い聞かせた。梢に母の真剣さが伝わっているのかは判らないが、梢は素直に「はーい」と返事をした。


「じゃあ、ママたちにご挨拶して」

「おやすみなさーい!」

 梢の元気な挨拶に、母と飛鷹が「「おやすみ~」」と返す。父は「おやすみ…」と手を振りながら、最後まで無念そうに梢を見つめていた。



 梢の手を引いて、まずは両親の寝室を目指す。

 一階の奥にある部屋が両親の寝室となっていて、大地と梢もそこで寝ている。

「大地兄ちゃん寝てるから、静かにな」

 人差し指を口に当てて言うと、梢も真似して短い人差し指を口元に持っていく。

「しー?」

「そう、しー」

 僕が頷くと、梢はふっくらした頬を可笑しそうに揺らした。


 よく笑う、素直な性格の梢は我が家のアイドルだ。年が離れている分、余計にかわいく見える。

「今日はなに読むの?」

「おひめさまっ!」

 ぱっと笑顔が咲く。大地と梢は寝かしつけに毎晩父に絵本を読んでもらっていて、梢はお姫様が出てくる話をよく好む。大地は怪獣とか、とにかく大きなものが活躍する話が好きだから、幼児でも男女の差がはっきり出ていて面白い。


「なんのお姫様がいいの?」

「おひめさまぁ~」

 僕の腕に絡み付き、語尾を伸ばす。かわいい。けどこれじゃあ判らない。


 両親の部屋に到着し、そろそろと襖を開ける。広い和室は真っ暗で、電気を点けようと天井からぶら下がった電灯に手を持っていきそうになる。しかし、その手はすんでで止まった。

 

 そういえば大地が寝てるんだった。

 起こしてはまずいので、廊下からの明かりを頼りに畳の上を移動する。

「こーちゃん、しーな」

「しー」

 足を踏み入れた途端、しんとした空気が身を包む。リビングの会話やテレビの声はここまでは届かず、世界から隔絶されたような心地になる。微かに空気を震わして聞こえる呼吸音は、大地の寝息か。夜の匂いを鼻に感じながら、廊下の明かりと次第に暗闇に慣れてきた目で本棚を探す。


「だいちゃん、ねてるー」

 大地のそばに寄り、梢が声を揺らす。ちゃんと小声で話せていることに、軽く感動してしまう。

 僕も顔を覗き込むと、大地は身体を大の字に広げ、薄く口を開けて、深く眠り込んでいた。丸っこいお腹がテンポよく上下する様は、いつまで見ていても飽きない。


「そうだね。こーちゃん、絵本は?」

「えほんっ!」

 あっと思い出したように跳ね、暗闇の中を自在に歩く。さすが毎日使っているだけあって、部屋を知り尽くしている。


「これー」

 部屋の片隅でごそごそしたかと思えば、梢は縦長の絵本を引っ張り出して、両手に抱えていた。

「それね、はいはい」

 梢の背中を押し、忍び足で部屋を出る。ここまで慎重にならなくても大地は起きないだろうけど、一応念のため。


 梢を抱き上げ、階段を上る。まだ三歳にもなっていないのに、ずっしりとした確かな重みがある。

「絵本落とさないようにね」

「だいじょぶよー」

 絶対落とさないように、足元を注意しながら、普段の何倍も時間を掛けて上る。腕の中でゆらゆら揺れる髪からは甘い香りがして、くすぐったい。腕にすっぽり収まる小さな身体は、ふにゃふにゃと柔らかい。この柔らかさが、まだまだ生きるのに人の手が必要だと訴えているようで、意識すると、肺が圧迫されるような息苦しさを感じた。


 半開きになっていたドアを開け、電気を点けて梢を下ろす。枕を持ってきていないことに気付いたけど、僕のを貸せばいいかと布団を押し入れから出す。

「はい、こーちゃん、お布団入ってー」

「はーい」

 絵本を受け取り、梢を布団に収める。僕も布団に入ったが、幼児といえどさすがに枕を二人で共有するのは難しく、僕の頭は半分下にずり落ちてしまった。


 僕の部屋に梢が入ったのは数えるほど。前に入った時のことなど忘れているだろうに、梢は僕の部屋にさほど興味を示さない。早く絵本を読みたくてうずうずしている。

「えほんー」

「はいはい」

 僕はこんなにも新鮮な気分でいるのだけど。僕の部屋に、僕の布団に、小さな妹がいるのがどうにも変な感じだ。

 

 二人であお向けになると、僕は梢が持ってきた絵本を開いた。

 タイトルは『豆の上で眠ったお姫さま』。

 

 なかなかマニアックだな。

 僕も小さい頃絵本を読み聞かせてもらっていたから知っているけど、この話は、一般的にあまり知名度がある方じゃない。

 確かベッドに豆を一粒置いて、その上に布団を幾重にも重ねて、何も知らないお姫さまを寝かせる話だ。次の日、お姫さまは『身体が痛くて眠れなかった』と言って、みんながびっくりする。(いわ)く、些細な違いにも気付けるなんて本当のお姫さまでしかあり得ないということだけど…。


 絵本を読み聞かせていくにつれて、だんだん細部も思い出してくる。

 大きめの絵本だから絵も字も大きく、小さな子にも読みやすい。手が疲れるというのが難点か。

 水彩画で描いたような絵は淡くも華々しく、お姫さまの物憂げな横顔などは、美しいを通り越して神秘的でさえある。ここまで気合いの入った絵だと、逆に幼児には解りにくいのではないかと思うけども、梢は真剣な顔で見入っている。本を選ぶ際、特に迷う様子もなかったから、お気に入りの話なのかもしれない。


 読み聞かせ用の絵本は、毎週母がチビたちを連れて図書館で借りてくるけど、気に入ったら本屋で買っている。この絵本には図書館のバーコードが付いていないから、母か梢のお気に召したらしい。この様子だと梢だろう。


 お姫さま一人の話だと記憶していたが、これは元々王子さまが結婚相手を探す話だったらしい。王子はせっかく結婚するのなら本当のお姫さまがいいと願っていたけど、なかなか見つからない。しかしある雨の晩、城にやってきた女性が自分は本当のお姫さまだから泊まらせてほしいと乞う。それなら、と豆を仕込んで例のテストをこっそり試してみたところ、見事お姫さまはテストをクリアするのだ。


「『本当のお姫さまを見つけた王子さまは喜び、二人は結婚しました。めでたしめでたし』」

「おひめさま~」

 花嫁姿のお姫さまを指差し、梢は満足そうに笑う。

 一体、梢はこの本のどこに惹かれたのだろう。


 些細な違いに気付くというのは、高貴な生まれの人であれば当たり前の資質なのかもしれないが、それをわざわざ人に言うのはどうなのだろう。

 大体、人様に布団を借りておいて文句を付けるなんて、失礼ではないのか。

 初めて読んだ時も、なんとなく違和感を抱いたのを覚えている。


 童話に文句を付けても意味はない。釈然としないものを感じつつも、絵本を枕元へ置く。

「もう寝る?」

「んー」

 目をこしこし擦り、梢は右へ左へ身じろぎする。ひとしきり転がり終えると、僕の身体にしがみついた。

「あおちゃーん」

「うん、こーちゃん」

 かわいい。しかし頭を撫でながら、脳裏にはいつか動物園で見た猿の親子がちらついていた。


「こーちゃん、電気消す?」

 いつもどうしてるんだっけ。父の寝かしつけをあまり気にしたことがなかったから、勝手が判らない。

 梢はもぞもぞ動いては「んー」とか「あー」とか唸るだけで、答えてくれない。

 

 まぁこのままでいいか。面倒くさいし。

 このまま寝かしつけることにし、背中を一定の調子で叩く。

「こーちゃん、保育園楽しい?」

 梢はんー、と唸りながら、

「たのしぃい~」

 顔を上に向け、満面の笑みを見せてくれた。


 かんわいい。

「そうかぁ、良かった」

 今年の四月から、梢も大地と同じ保育園に通い出していた。迎えに行っている母によれば楽しく過ごせているそうだけど、こうやって本人から改めて楽しいと教えてもらうと安心する。


 背中を叩きながら、「友達できた?」とさらに質問する。寝かさなきゃいけないのに、ついつい気になって訊いてしまう。

「うん。たっくんとぉ、よーくんとぉ、りりちゃん」

 僕の胸に顔を埋めて、梢は楽しそうに声を弾ませる。

 男の子多いな。ちょっとだけ、大人げない感情が湧く。


「あおちゃんは、がっこーたのしい?」

 大きな目で、梢が僕を見上げる。

 黒々とした目に、虚をつかれた僕の顔が映っていた。


 高校生活が始まって、数週間が経過していた。クラスにも新しい授業にも慣れてきたつもりだけど、楽しいかと問われると…考えたことがなかった、というのが本音だ。

 主に人間関係が濃い。一つ一つのエピソードは大したことはないけど、確実に脳の大部分を占めていっている。

 その中心人物である辻井や宮前の顔が、思い浮かぶ。最近衝突しがちな二人。今日の昼間も、よく解らないことで衝突していた。

 …いや、違う。本当は、あの二人の衝突の原因が僕自身にあることを、知っている。


 でもまさか、僕を取り合っているなんて思えないから、認めたくないだけだ。目を、逸らしているのだ。

 僕に縋る辻井の目にも、僕を頼る宮前の目にも。

 どうすればいいのか、解らないから。


 今日の部活動紹介で、僕は速記部に入ることを決めた。辻井も、同じ部活を選んだ。

 いいのだろうか。この先、辻井ともっと関係を深めて。

 一条の『本妻』という呼び方。それをすんなり受け入れた辻井。何かが、変わり始めている。

 階段の踊り場で宮前が見せた表情だって、変化の気配がする。何かが、形作られていく。


 まだ悩みというほどじゃない。でも近い将来、頭を抱える僕が見える。

 心の真ん中に、ぽつんと浮かぶ小さな黒い点。その点が大きくなっていきそうな予感が、胸を支配していた。


 でも、それでも。

「うん、楽しいよ」

 やっと声を絞り出した時には、梢は僕の胸で眠っていた。


 梢の顔を離し、呼吸しやすいように上向ける。お腹辺りの布団が、浮いては沈む。単調なその動きを見ていたら、僕も眠くなってきた。

 明日の用意も終わっている。テレビは録画してある。

 ああ、電気を消さないと…まぁいっか。意識が、深いところへ吸い込まれていく。



 夢から浮上するような感覚と共に、うっすらと目を開ける。体質なのか、夜中に目を覚ますことはそう珍しいことじゃない。おまけに今日は梢が一緒だ。電気も消していなかった。普段と違うことが多くて、眠りが浅くなっているのだ。

 目の前では、暗闇の中で、天井に向けて寝息を立てる梢の姿があった。

 そこで、おや、と違和感を抱く。


 電気を消さずに寝たのに、なぜ部屋が真っ暗なのだろう。

 そろそろと辺りを見回していたら、背中に感触があることに、今さら気が付く。

 寝返りを打ちながら、背中の方を見ると、飛鷹が僕の後ろですうすう寝息を立てていた。


 呆れを通り越して、もはや何も感じない。またかと思うだけだ。

 飛鷹が持ってきた枕が、半分僕の頭にある。梢に枕を貸していたから、僕の頭はずり落ちてしまっていたけど、飛鷹が自分の枕をあてがってくれたらしい。それだけは感謝してやってもいい。


 起きたついでに、トイレに行こうと布団から這い出る。ここに大地もいたら兄弟全員揃うな、とくだらないことを考えながら、部屋を出た。



 部屋に戻って、声が出そうになった。

 飛鷹が、布団の上で座っていたのだ。

「…トイレ?」

 闇を、探るような声が漂う。

「…うん」

 前屈みになって、布団に近寄る。


「おまえ、また僕の布団に入ってきたな」

「別にいいでしょ」

 ()め付けるようにして、飛鷹が見上げる。

 なんでコイツがこんな顔出来るの?

 

 この話は不毛だと悟り、布団の中へ入る。

「おまえが電気消したの?」

「ううん、父さん。様子見に行ったら、二人して寝てたから電気消したって言ってた」

「あぁ…」

 身体を横たえ、情景を想像する。確かに父さんなら、見にきてもおかしくない。


 僕が横になったというのに、飛鷹に動く気配はない。

「…寝ないのか?」

 闇の中で、飛鷹がこちらをじっと見下ろしているのが判る。

「…寝る」

 倒れるように、飛鷹が布団に横たわる。いきなり振ってきた重量に、眠気が飛ぶ。


「なんだよ…」

 隣へ顔を向けるも、横向きになった飛鷹は顔を隠すように俯いていて、表情が見えない。見えたところで、この暗闇では大して判らないだろうけど。

「兄さんさ、学校どう?」

「…学校?」

 数時間前の、梢との会話が思い出され、声が喉の奥でつっかえた。


 梢との会話を聞いているはずはない。こいつも兄の高校生活が気になるのだろうか。

「…まぁ、楽しいよ」

 色々と思うことはあるにせよ、楽しいは楽しい。正直な気持ちで言うと、飛鷹は「ふーん」と興味の薄そうな声を返した。


 おまえが訊いたくせに。

「おまえこそどうなんだよ。学校うまくやってんのか?」

 神経質な気のある飛鷹は、昔から対人関係に気を揉むことが多かった。人への警戒心が、他人より強いのも原因だろう。

「…ふつう」

「普通って…。特に問題はないってことか?」

「ないんじゃない?」

「なんで他人事…」

 小さなことで悩んだりすることもある弟は、家族にもあまり悩みを相談しない。中学二年生になって、クラス替えも担任替えもあって、思春期真っ只中の彼らは心の動きも日々変わっていく。本当に何もないなんてこと、ないのではないか。


 だけど本人が言いたくないのであれば、せめて家が安らげる場所になればいいと思う。だから僕は、うっとうしいけど布団も貸してやる。

「担任の先生、いい感じ?」

「別に。うるさいオバサン」

「オバサンは大体うるさいもんだろ」

「…お母さんも?」

「母さんに言ったら殴られるぞ」

 ふふっ、と滑らかな陶器を撫でるような声が、飛鷹のいる場所から聞こえた。


 それが、なんだか嬉しいような気がして、僕もつられて笑う。

「部活、もう決めたの?」

「うん、速記部」

「は? なにそれ」

 特別な夜みたいに、僕らの会話はそれからもしばらく続いた。


 次の日から、部活動見学が始まった。

 放課後を迎え、僕と辻井は早速、荷物を持って速記部に向かうことにする。


「お、部活見に行くの?」

 教卓の前を通り過ぎた時、隣の席の女子と談笑していた一条に声を掛けられた。

「うん、速記部」

 どの部活に目星を付けているかは、昨日のうちに男子同士で話し合っていた。もっとも、決まっているのは僕らと岡くらいだ。


「速記部ってどこだっけ?」

「なんか、第二商業実践室って書いてある」

 今朝、池田先生から配られたプリントに目を落とす。そこにはそれぞれの部活が主にどこで活動しているかが、地図と共に印刷されていた。

「は? どこ?」

 一条が目を()く。隣の女子にも「知ってる?」と訊いているけど、彼女、青柳(あおやぎ)もかぶりを振った。

 青柳は大人しそうな女子だが、一条とはよく笑顔で話しているのを見掛ける。隣の席だからというのもあるけど、一条のコミュ力の高さが大きな要因だろう。


「商業棟の四階みたい。ほら、俺らがよく使うのって三階だから」

 辻井が地図を差すと、覗き込んだ一条が納得したように「あー、確かに。上は知らねぇわ」と頷いた。


 移動教室で商業棟を使うことはあるが、大体が三階で、四階はまだ使ったことがない。未知の場所に行くことに、僕は少しばかり期待と緊張を感じていた。


「で、一条はどこに見学に行くか決めたのか?」

 僕たちが話し始めたので、青柳は鞄を持って、教室の後ろの方にいる友達の元へ行った。

 青柳の後ろ姿を視界の端に収めながら問うと、一条は「いや~」と決まり悪そうに首を掻いた。

「まだなーんも考えてねぇわ」

 あっけらかんと両腕を広げる。二週間の猶予が、彼をそうさせるのだろう。


 しかし二週間なんて、あっという間だ。

「うかうかしてたら、何も決まらないまま終わるぞ」

 呆れた視線を送ってやるも、「分かってるって~」と気楽そうだ。


「青葉、行こーよ」

 辻井に急かされ、「そうだな」と話を切り上げる。

「じゃ、明日な」

「バイバイ」

 一条に手を振り、僕と辻井は教室を出た。

「おー! またな~」

 教室に残っている、たった一人の男子はマイペースな調子で手をひらひらさせた。



 廊下を歩きながら、「一条も誘ってみれば良かったかな」と呟くと、なぜか辻井は慌てた様子で顔を振った。

「一条は文化部には興味ないでしょ。昨日も速記なんかって感じだったじゃん!」

 昨日の部活動紹介の帰り、僕と辻井が速記部に入ることにしたと話したら、一条は『へー。なんか大人しそうな部活じゃね』と薄い反応をしていた。

 あれは、彼にしたら大分言葉を選んでいた。きっと、一条は『暗そう』とか『陰キャそう』とか言いたかったに違いない。


「まぁそうか…」

「そーだよ!」

 岡は二週間ずっと野球部に行くと言っていた。小林は一通り見てみると言って、心持ち明るい目をしていた。

 宮前は…何も言っていなかった。一条に訊かれた際も、『まだ決めてない』と心ここにあらずといった様子だった。

 陸上部を睨むようにして見ていた宮前。アイツは、陸上部に入るのだろうか。


「あ、野球やってる。岡もいるかな」

 特別教室棟を抜け、商業棟へ続く渡り廊下に差し掛かった時、辻井が窓から運動場を見下ろして言った。

「いるんだろうけど…全然判んないな」

 僕も見下ろしてみたけど、体操服姿の男子がわちゃわちゃしているとしか見えない。

 運動場にはいろんな部活が活動していて、陸上部やハンドボール部、ソフトボール部がひしめき合っていた。武道場の裏ではバドミントン部がシャトルを打ち合っている。

 三階にいるのに声がここまで届いてきて、どの部活も活気に満ちていた。


「あ、あれ池田先生かな」

 辻井が指を伸ばす。運動場から離れたその先には、テニスコートがあって、水色のユニフォームを着た男女が分かれて動き回っている。今日は比較的暑いから、みんな半袖だ。

「どれ?」

「あそこあそこ。隅っこの…倉庫みたいなのの近く!」

 辻井の説明の通りに目を動かすと、確かに白いジャージを着た男性を発見した。体格的に担任の池田先生っぽくはあるけど、距離があるので僕には確信が持てなかった。


「そう…かも?」

「そーだよ。池田先生、頑張ってるねぇ」

 親目線かよ。苦笑していたら、「あれ?」と辻井が何かを見つけた声を出した。

「どうした?」

「あそこにいるの、小林じゃない?」

 辻井が指で差し示す先には、ラケットを持って素振りをしている二人組がいた。

 片方は小柄で、もう片方は大柄な男子だ。


「そう…だな」

 一年男子で、小林に並ぶ大柄な奴はいない。二、三年生にはいるかもしれないが、僕には一生懸命素振りをしている彼が小林だと、すぐに信じることが出来た。

「色々見たいって言ってたけど、初日はテニスなんだな」

「ねっ。楽しんでるといいね」

 やりたいことがないのだと、不安げにしていた小林。この二週間で、入りたい部活が見つかるといい。

 小林に内心で『頑張れ』と声援を送り、その場を後にした。



 商業棟の三階に入ってすぐ、簿記の授業で使っている教室が目に入った。不自然でない程度に覗けば、十人くらいの女生徒がいた。一部の生徒は幾つかグループを作って談笑しており、また一部は机とにらめっこしている。ここもどこかの部活だろうかと思っていたら、僕の思考を読んだように辻井が地図を広げた。

「ここは珠算部だって」

「珠算…っていうと、電卓とかそろばん?」

「そうそう。一条が地味って言ってたヤツ」

 珠算部の人たちに聞こえないよう声を抑え、辻井が悪い顔で笑う。

「あー…そうだったな。性格悪いよな、アイツ」

「でも面白いよね」

「それはまぁ否定しないけど」

「あはは」

 角度的にスカーフの色は見えないが、真剣に机と向かい合っている人たちのなかに、僕らの同級生はいるのだろうか。体験入部として課題を与えられているのかもしれない。珠算部を横目に、階段を上る。



 階段を上って着いた四階は、短い廊下と教室が三つあるだけだった。三階の奥にも階段はあったから、あちら側も同じような構造になっていると思われる。もしかしたら奥の教室で繋がっているのかもしれない。

 階段から見て右側の奥にある教室は、第二総合実践室となっている。第一は見当たらない。四階のあちら側にあるのか、見逃しただけで別の階にあるのか。

 どこでもいいか、と今は気にしないことにする。左側の手前にあるのが、第二商業実践室だった。

「あ、いるね、人」

 廊下に面した窓は閉まっているが、ガラス越しに複数の人影がいるのを、先に辻井が発見した。


 第二総合実践室にも、奥の第一商業実践室にもひと気はない。地図を見ても、部室として現在使用されているのは、手前の部屋だけらしい。


「なんか…緊張してきた」

 胸に手を当てると、心臓の鼓動が伝わってきた。昔から、すぐ緊張する性質なのだ。

「えぇ? 青葉って意外と小心者なんだなぁ」

 辻井が面白そうに眉を上げる。

「別に意外ではないだろ…」

「意外だよ~」

 くすくす笑ってから、辻井は「俺はね」と改まった表情をした。


「青葉がいれば、なんだって平気。どこへだって行けるよ」

 深い眼差しに見つめられ、僕の心臓は違う音を上げた。

「大げさなんだよ…おまえは」

「ホントだもん」

 光を浴びたように笑うと、辻井はドアに手を添えた。


「じゃあ俺が最初に入るよ」

「う、うん…」

 速記部に入ると言い出したのは僕なのに、結局頼ってしまっている。自分を情けなく感じながらも、ありがたく頼む。

 辻井は全く気負うこともなく、軽く拳を握るとスライド式のドアを二、三度叩き、ゆっくりと開いた。

「すみませ~ん。体験入部に来ました~」


 辻井は当たり前のことをしているだけなのに、感動してしまう。否応(いやおう)にも、昨日の昼休みの宮前の暴挙が重なるから。


 辻井の肩越しに中を覗く。呆気に取られた顔をした女生徒が三人窓際に立っていて、僕らを凝視していた。

「あの~、体験入部に来た一年生なんですが」

 辻井が重ねて言うと、真ん中に立つ、茶色い髪を胸の辺りまで垂らした女生徒が「あ、はい」と先に反応した。三人共、スカーフの色からして三年生だ。

「ごめんね、びっくりしちゃって。どうぞ入って」

 こちらに歩み寄り、中へ促す。頭が僕の鼻くらいまであるから、女性にしては身長が高い方だ。


「はーい。お邪魔しまーす」

「どうも…失礼します」

 辻井と二人で中へ入る。この先輩も、窓際で控える二人の先輩も昨日の紹介にいたか記憶を辿るも、全く思い出せない。


 僕らが日々使っている教室の三分の二ほどの広さの部室は、奥に黒板、手前に机と椅子が四列並んでいた。机同士は二列がくっついていて、真ん中を通路としてあけている。それぞれの席はざっと見たところ、廊下側の二列が五席、窓側の二列が六席ずつあった。

 

 窓側の列で座っているのは、一番前の席で二人。どちらも驚きを隠そうともしない表情で、口を半開きにして僕らを見ている。部活動紹介で速記していた人と文章を読んでいた人だ、とこちらは記憶が鮮明だった。

 廊下側に座っているのは、真ん中の席で一人だけ。大きな目で、これといった表情もなく僕らを眺めている。

 その顔を見て、あっとなる。


 体力テストのハンドボール投げで、ライン引きをしていた六組の体育係。みんながボールを投げていく様子を、鬼のような形相で睨み付けていたあの子。

 あの女の子が、速記部の部室にいる。


 インパクトが強すぎて僕は覚えていたけれど、彼女の方はそうでもなく、僕らの動向を無言で見守っている。

 一年生は彼女だけらしい。この子も速記部に入るつもりなのか。別に嫌とかではないけど、あんな顔を見てしまっているだけに緊張する。今も、全く反応らしい反応がない。


 しかしここでも、辻井が先導してくれた。

「わー! キミも速記部に入るの?」

 一歩前に出て、笑顔を太陽みたいに照らす。体育係のあの子は、その眩しさに意表を付かれたように目を(またた)かせた。


 彼女が何か言う前に、茶色い髪の先輩が辻井と彼女の間に立った。

「体験入部に来てくれたんだよね? じゃあこっち来てくれる?」

 先輩に促され、辻井が「はーい!」といい返事と共に廊下に近い方に、僕は前へ向き直った彼女の後ろに座った。体力テストの時と違って、今日は下ろしている長い黒髪が、僕の目の前で揺れている。


「ちょっと待っててね」

 彼女にひと声掛けて、先輩は僕らの前にプリントを置いた。

「ここに名前とクラス書いてくれる? 一応ふり仮名もお願い」

 部活見学に来た生徒の記録を取るらしい。鞄から筆箱を取り出し、シャーペンで記名する。

 先に書かれていた名前は、一番上の欄にひとつだけ。

吉川(よしかわ)早矢(はや)

 一年六組というクラスの後に書かれたこの名前が、前に座る彼女のもの。姿勢正しく座る彼女、吉川の背中につい目がいってしまう。


 僕と辻井が名前を書いている間に、窓際にいた二人の先輩も来ていた。

 名前を書き終えたプリントを茶髪の先輩に渡す。先輩が確認する脇から、二人の先輩も覗き込む。

「夏木くんと辻井くんね」 

 茶髪先輩がよし、と頷く。

「爽やかな名前だね~」

 茶髪先輩の右隣の先輩が感心するように言う。この人も髪色が薄い。耳元までの髪が内側にくるんと巻かれている。ふわふわした話し方で、仕草もおっとりしていて、良家のお嬢さまみたいだ。


「まぁ名前だけは…」

 昔からあまりに言われ続けてきたことなので、返し方もすっかり固定化している。息を吸うように返すと、先輩らは「そんなことないって~」とくすくす笑った。


「じゃ、申し遅れましたが、私は小泉(こいずみ)です」

 茶髪先輩が右の胸元の名札を手で示す。近くで見ると、毛先だけ緩くパーマを掛けているのか、先輩の胸の下辺りで波打っている。

「はーい、私は三笠(みかさ)でーす」

 ふわふわ先輩が片手を目の高さまで上げる。

 そして、それまで黙ってやり取りを見ていた三人目の先輩が「どうも、(さかき)です」と硬い声で挨拶した。ボーイッシュな短髪と(ふち)のない眼鏡が特徴的だ。


「よろしくお願いしまーす」

 辻井がにこにこと挨拶する。僕らは席に座ったままだけど、誰も気にする気配はないので、僕も座った状態で「お願いします」と頭を下げる。


「三年生はあともう一人いるんだけど、今日は用事があっていないんだよね」

 そう言うと、小泉先輩は窓際の席で喋っている二人を手で示した。

「あの二人が二年生。昨日舞台で速記を披露してた子たち。二年はあの二人だけね」

 自分たちを紹介された二年生が振り返る。目が合うと、軽く会釈された。辻井は明るく「お願いしまーす」と言ったが、僕は会釈にとどめた。

 三年生四人に二年生二人。ずいぶんと少ない。これでもし僕らしか入部しなかったら、三年生が引退したあとは四人だけになってしまう。

 いや、もう一人いたか。前の席で書き物をしている吉川に視線を動かす。


「じゃあ始めようか。まずは今日は来てくれてありがとう」

 小泉先輩が言った後、三笠先輩も「ありがと~」とふわふわ笑った。

「二人には今もう一人の子が先にやってる、これを書いてもらいます」

 僕らの机に、小泉先輩はプリントを一枚ずつ置いた。


 プリントにはあいうえおの五十音が縦に書かれていて、それぞれの横に長短も向きも様々な線が振り分けられていた。

 これは、もしかしなくとも昨日舞台で見せていた速記ではないか。


「うわ~、すごい! これ速記の文字ですか?」

 辻井がプリントを掲げ、感嘆の息をつく。

 後輩の無邪気な反応に、三人の先輩は一様に満更でもない顔を浮かべた。辻井の人なつっこさが、ここでも発揮されている。

「そう! これは速記文字といって、それぞれがあいうえおを表してるの。君たちには、これを一文字ずつなぞってもらいます」

 小泉先輩が僕の表を指差しながら説明する。五十音表の下にはがぎぐげごなどの濁音もあった。どの速記文字にも、ご丁寧に書き順が添えられている。これを作ったのは先輩たちなのだろうか。


「長さとか濃さとか、注意してしっかりなぞってね。終わったら、一番下に自分の名前を速記文字で書いてみて」

 小泉先輩は僕らに説明を終えると、「終わったら呼んで」と言い添え、僕の前の席へ二人の先輩を連れて移動した。


「吉川さん、終わった?」

 訊かれた吉川が「あとは自分の名前だけです」と答える。初めて聞いた彼女の声は、川の清流のような澄んだ音色をしていた。


「これ覚えたら、俺たちも速記が書けるんだね」

 隣では辻井が表を掲げ、まだ見ぬ未来を夢見ている。

「そうだな。入部したら、まずはこれを覚えなきゃなんないんだな」

 一文字ずつなぞっていく。横に一本引くだけで『か』、それを少し長く書くと『こ』になる。『く』は短くて濃い縦の線、それを薄く書けば『ち』になる。一見法則があるようでない文字を覚えきれるのか、今から不安になってきた。


「ねーねー」

 僕の抱く不安など、微塵も共感出来ないであろう辻井が、例の彼女の肩を後ろから叩いた。

 え、なにしてんのコイツ。

 三人の先輩は窓際に戻っていた。辻井に叩かれた細い肩が、小さく跳ねる。


「は、はい…?」

 吉川が身体ごと振り返る。戸惑った表情は、同じクラスの同級生たちと変わらない、年相応の見た目をしていた。

「吉川さんっていうんだね。俺辻井! こっちは青葉!」

 辻井がなんの気負いもない顔で自己紹介を始める。勝手に紹介された僕も「どうも…」と軽く頭を下げる。


「あ、どうも…」

「吉川さん一人? 速記部入るの?」

 辻井のぐいぐいいける性格は美徳だが、今はハラハラしてしまう。僕は固まって二人のやり取りを見守った。

 

 吉川も固まっていたけれど、辻井の裏表のない笑顔に、次第に表情が緩やかになっていった。

「一人で来たよ。まだ決めてはないけど…一応、候補には入ってるかな」

 固さの抜けた吉川の笑みは柔らかく、僕が勝手に彼女に抱いていた怖いイメージを一新させた。

「そうなんだ! 俺はね、青葉が入るって言ったから、便乗したんだ。でも俺も入りたいって思ったんだ。だって昨日の実演、すごかったもん! ね、青葉!」

 急に話を振られ、「う、うん」とぎこちない相づちしか返せなかった。


 吉川は僕に目線を合わせて、「そうなんだ」と微笑んだ。体力テストのことなど、全く覚えていないという感じで。

「うん…あんな風に出来たら、カッコいいって思って…」

 対して僕はまだ緊張が抜けない。低姿勢になりながら言うと吉川の顔に、ぱっと光が差した。

「私も! あんな風に書けたら人に自慢出来るって思ったんだ。私、特技とか大してないから」

 明るい表情で話す吉川は、本当にただの高校一年生の女の子にしか見えなくて、あの時僕が見た鬼のような顔は幻覚だったのかとさえ思えてくる。もしくは別人か…いやいや、絶対この子だった。


「俺も特技とかないから、速記が出来たら特技って言えるかな~」

「辻井くんは、もうそういうコミュ力あるとことかが立派な特技じゃん」

「えーそうかな…なんにも考えてないだけだよ」

 吉川に褒められても自分ではピンと来ないのか、辻井は自信なさそうに、オレンジの眉を曇らせた。


「そうだな、僕も辻井のその明るいとことかコミュ力の強さは特技だと思うよ」

 自然に零れた僕の言葉に、辻井は大きく目を広げた。

 変なこと言ったかな?

 疑問に感じていたら、辻井の顔に笑みが満ちた。深く安心したような、安らかな表情に僕はドキリとする。

「そっか、ありがとう。嬉しい」

 

 あんまりにも辻井は愛おしむように言うから、先ほどの僕の発言が、実は愛の告白だったのかと勘違いしそうになる。

 でもどう反芻したところで、やはり普通の発言だとしか思えない。

 吉川の様子を見たら、彼女も辻井の大げさな反応に驚いた顔を晒している。


 そうだよな、驚くよなと納得する。しかし見ていると、吉川の驚きようも少々大げさなのではと思えてくる。

 それは辻井の大きな反応にただ驚いただけというよりも、何かとてつもない発見をして呆然となっているという感じを受けた。


 辻井は嬉しそうににこにこと笑い、吉川は驚いたまま固まり、僕はどうしたものかと困っていたら、

「終わった~?」

 小泉先輩が、救出してくれた。


 亜麻色の髪を揺らして近付いてくる先輩に、僕も辻井も「「まだです!」」と声を揃えた。

「私は終わりました」

 吉川が書き終えたプリントを手渡す。


「はーい、お疲れさま」

 三笠先輩も榊先輩も集まって覗く。

「じゃあ、あとは年間の予定とか話したいんだけど、夏木くんたちが終わってからでもいい?」

「大丈夫です」

 

 待たせることを申し訳なく思い、僕らは急いでシャーペンを動かした。

「頑張れ~」

 三笠先輩がのんびりと応援する。何も言わないけど、榊先輩が覗いているのも感じる。


 濁音は、基本的に同じ五十音の文字を濃くするだけらしい。ぱぴぷぺぽといった半濁音は、は行の文字の横に一つ短い線を加える。ん、はただの○。

「を、はないんですね」

 気になったので、つい顔を上げて訊いてみたら、すぐそばにいた榊先輩が口を開いて、目を真ん丸にしていた。

 一歩身体を引かれ、そんなにびっくりするのなら近くにいなきゃいいのに、なんてつい思ってしまう。


「あ~、なになにをする、の『を』だね。あれはねぇ、また違う書き方をするから、そこには書いてないんだぁ」

 硬化した榊先輩に代わって、三笠先輩が指を上げて説明する。

 違う書き方ってなんだろう。

 昨日の実演でも、明らかに一文字ずつ書いている様子ではなかった。もっと線同士が繋がっていて、少ない文字で表していた。

 これから知っていくのだろう。

「分かりました」

 頷いて、作業に戻る。


「はいはーい、俺も質問ー!」

 元気に手を上げた辻井を、小泉先輩が「はい、辻井くん!」と指差す。二人共楽しそうで何より。

「『く』も『ぐ』も『ぢ』も全部一緒なのはどうしてですか?」

 該当の文字を指差し、辻井が首を傾げる。辻井が動く度、オレンジ色の髪がふわふわと踊る。

 辻井が挙げた三つの文字は、どれも短くて濃い縦線だった。


「イイ質問だね!」

 小泉先輩が生き生きとした目で、辻井に向けて指を差す。

 吉川も興味を持ったらしく、横に立つ小泉先輩の方へ身体をずらし、話を聞く姿勢に入った。


「同じ文字を使っているのは、文脈でどの文字か判断出来るから!」

 小泉先輩に自信たっぷりに言い切られ、僕らはそれぞれ似た単語を思い浮かべてみた。

 

 たとえば『鼻血』という単語の場合。

 誰々が鼻血を出した、という文章の時、『はなぐ』や『はなく』と読むよりかは、やはり『鼻血』と読むだろう。

 たとえば『家具』という単語。

 家具を買う、という文章でも、『かく』を買う、『かぢ』を買う、ではおかしいとすぐ気付くだろう。消去法で『かぐ』、すなわち家具と発想出来る…はずだ。


「ホントだ~!」

「確かにそうかも…?」

「まぁ判る…か?」

 辻井はすぐに納得したが、吉川と僕はまだ半信半疑だった。きっとこれも、いずれ実感出来るのだろう。


「他には質問ある?」

 小泉先輩が期待の込もった目を僕らに注ぐ。

 しかし特に訊きたいことはなかったので、断って辻井と作業に戻る。


 それから数分後、僕らはたどたどしいながらも速記文字で自分の名前を書き上げることに成功した。

「どれどれ…うんうん、イイ感じ」

 三人の先輩方は満足そうにプリントを眺めたあと、

「これを、さらに省略した速記文字で書くと、こうなります!」

 小泉先輩の合図で、プリントの一番下の空いている欄に、三笠先輩と榊先輩がさらさらと揃いのシャーペンを走らせた。


「わ~すごい! 速記っぽい!」

 三笠先輩の書いた名前に、辻井がはしゃぎ声を上げる。

 僕もまた、榊先輩の書いた名前に目を見張る。

 自分で一文字ずつ、速記文字でたどたどしく書いた名前と違い、先輩方の書いた名前は文字数が少なく、全ての線が繋がっている。

「すごい…」

 零れたため息に、榊先輩は照れたように目を逸らした。


「ね、吉川さんのも見せて!」

 辻井がねだると、吉川は「うん、いいよ」と自身のプリントを見せてくれた。

「吉川さんのは、私が書いたんだよ」

 得意そうに、小泉先輩が鼻先を上げる。


「すごいねぇ」

「うん、すごい」

 どれも線がくるくる描かれているだけなのに、これを文字として読める人がいる。今まで聞いたことがなかったのが不思議なくらい、すごい技術だ。


「君たちもここに入ったら出来るようになるよ」

 小泉先輩が腕を広げて言う。


「ここの部活は毎日あってね、といっても土日は休みね」

 そのまま部活動の説明が始まる。僕らも居住まいを正す。

「大会は年に四回。夏の大会でいい成績を残せば、全国大会にも行けます」

 全国、という響きに唾を飲み込む。

「ちなみに去年も一昨年も行ってるから、君たちも頑張ってね」

 手を口元に当て、小泉先輩は誇らしげに、煽るように微笑した。


 僕たちのなかで、先輩方への尊敬の念が厚くなった頃、三笠先輩が「でもねぇ~」と口を挟んだ。

「競技人口が少ないから、わりと簡単に全国に行けるんだぁ」

 そうなのか…。ガッカリという訳でもないけど、拍子抜けしてしまう。僕らの間に、『なんだ』という空気が漂う。


「でも行けないよりは行った方がいいでしょ!? 全国大会出場! なんてカッコいいじゃん!」

 小泉先輩が拳を突き上げる。「そうだねぇ~」と三笠先輩が拍手し、榊先輩も続いたから、僕らも倣う。

「大会が近くなったら夏休みでも練習はあるけど、他の部活ほど大変じゃないと思うから、ぜひ入ってほしいな」

 にっこりと、音が聞こえそうなほど小泉先輩は営業スマイルを披露した。目がくっきりと二重で大きいから迫力がある。知り合いでもなければ近付きにくい、派手なタイプの美人だ。

「そうそう。まぁゆる~い部活だから、気楽に入ればいいよ~」

 自身もゆる~く、三笠先輩が言う。


 視線を回すと、二年生の先輩はまだ二人で談笑を続けている。確かに緩そうだ。

「普段は自分たちで読み合いして練習してるんだよ」 

 あそこに文章のファイルがあるのだと、三笠先輩が教室の後ろを指差す。後ろにはガラス戸で仕切られた棚があって、その中にはファイルやら書類やらが所狭しと並んでいた。

「先生が教えたりはしないんですか?」

 いるはずのない顧問を探すかのように、辻井が教室に視線を巡らせる。


「あ~それはないかな。うちの顧問、速記に関してはからっきしだから」

 小泉先輩が顔の前で手を振り、乾いた声で言う。

「まぁ他もからっきしだけど~」

 一見無害そうな三笠先輩が笑顔でさらりと言うものだから、人は見掛けによらないことを再認識する。


「ほんとなんであの人顧問やってんだかね」

「商業科でもないしねぇ~」

 先輩二人が顧問の愚痴を吐き始めた時、それまで沈黙を保っていた榊先輩が「私は」と声を発した。

 みんなの視線が端で俯く彼女に集まる。


 俯いたまま、榊先輩は口を小さく動かした。

「私は…まぁまぁ好きだけど。授業とか解りやすいし、なんだかんだ一生懸命やってくれるし」

 呆気に取られ、僕らは榊先輩をぽかんと見つめた。二年の先輩も、珍しそうに先輩を遠巻きに眺めている。


 止まったようだった部室の時間を再び動かしたのは、小泉先輩だった。

「ごめんごめん! るぅはあの人好きだもんね」

 けらけらと明るく笑う。三笠先輩も微笑ましそうな目を榊先輩に向けた。

 そんな榊先輩は「好きは好きだけど、変な意味じゃないから!」と赤面するが、三人の中で一番背が低いから、からかわれているようにしか見えない。

 三年の先輩たちのじゃれあいを、僕らはただ眺めているしかなかった。


「まぁそんなわけで顧問には期待しないで。練習は自分たちでやると思ってね」

 笑い終えた小泉先輩が話を戻す。

 まぁそんなものかと僕らは頷いた。技術的なことは先輩が教えてくれるだろうし、部活の顧問が未経験というのは珍しいことでもない。



「また遊びに来てね~」

 三年生の先輩たちに見送られ、僕らは部室を後にした。二年の先輩とは、結局最後まで言葉を交わさなかった。


 吉川は自転車通学だと言うので、駐輪場まで、自然と三人で足が向かっていた。

「どーする? 入る?」

 辻井が、誰にともなく尋ねる。

 僕は青空に大きな雲が流れていくのを見ながら、「んーまぁ、入るかなぁ」と答えた。


 先輩たちは優しいし、雰囲気も良さそうだ。速記部に決めてしまっても良いかもしれない。

「じゃあ俺も入る!」

「おまえなぁ…」

 呆れた視線を送るも、辻井は満面の笑みを崩さない。

「俺も入りたいって思ってるよ! 速記すげぇ面白そうだし! 今日も楽しかった!」

 眩しくなるくらい真っ直ぐに言われ、僕はこれ以上とやかく言うのをやめた。速記への意欲も本物なのだろう。


 代わりに、辻井を挟んで向こう側にいる吉川に話を振る。

「吉川は? 速記部入る?」

「私は…」

 やや俯き加減に、吉川は言葉と足を止めた。


 駐輪場に着いたのだ。校庭の横に伸びる通路沿いに、一年生の駐輪場はあった。

 なのに吉川に、自転車を出す素振りはない。

 押し黙ったまま自分の爪先に、視線を落としている。


「吉川…どうしたの?」

 体力テストの時のことを思い出し、僕は自然と身構えていた。

 今にも切れそうに、張り詰めた空気を纏っていたあの時の姿。

 表情こそ違うものの、あの時と同じ、張り詰めた空気が今の吉川からも感じられた。


 もしかしなくても判った。吉川は、

「迷ってるの?」

 僕よりも先に、辻井が問うていた。


「…うん」

 俯いた口から落ちた声は、周囲の喧騒に搔き消されそうなほど弱く頼りなかった。

「五歳の妹がいてね、見てあげなくちゃいけなくて。家のこともしなきゃダメで。母親があんまり家にいない人だから」


 辻井と顔を見合わせる。家の事情を出されると、勝手なことは言えない。

 でも、だからといって何も言うべきでないとは限らない。

 僕の気持ちを読み取ったように、辻井が温かな笑顔で頷いた。


「…相談したらいいんじゃないかな」

 吉川が頭を上げる。黒い瞳が、不安げに揺れていた。

「家のためになんでも諦めるのは、もったいないよ。そんなの当たり前じゃないんだ。お母さんに、相談したら?」

 誰でも言える月並みな意見。なのにそばで聞いている辻井は、嬉しそうに頬を盛り上げている。

 吉川の顔にも、変化が生じた。


 揺れていた吉川の瞳が、大きく膨らむ。

「そうなの? …当たり前じゃないの?」

 強い語調にたじろいでしまう。そのまま詰めよってきそうな勢いだ。僕は身体を半歩引いた。 

「そ、そりゃあ家族で助け合うのは必要なことだけど、自分を犠牲にしすぎるのも違うんじゃないかな。ましてや親じゃなくて子供が」

 中学の時、梢が生まれててんてこ舞いだった家のため、僕は部活を辞めた。部活に未練はなかったからなんとも思わなかったけど、僕がもし部活を好きだったら。


「吉川は、部活やりたいの?」

 改めて質問すると、吉川は目線を下げ、恥ずかしそうに手を前で組み合わせ、忙しなく動かした。

「うん…速記、やってみたい」

 再び、辻井と顔を合わせる。辻井の笑顔が、もう一段階上がる。


「じゃあ、一緒にやろう。妹は保育園行ってんの?」

「うん…」

「なら部活終わるまで見ててもらえばいいじゃん」

「でも…家のこと…。妹も…早く帰りたがるし…」

 吉川の顔に、また不安そうに影が差す。なんだろう、うじうじしているみたいで苛立ってしまう。


「協力してもらえばいいよ! 吉川が家族を助けてるみたいに、家族にも吉川を助けてもらえば」

 つい声が大きくなってしまった。吉川の顔が驚きに染まる。

「…私を、助けてもらう」

 ゆっくりと言葉を呑み込んでいく。初めて食べる料理の味を確かめるかのように。


「…うん、やってみる」

 表情を和らげ、吉川は淡く笑った。

「頑張れ!」

 辻井が口に両手をあてがい、高らかに励ます。隣からの大声に僕はびくっとしたが、僕もさっき大声を出したからおあいこだ。

「頑張れ、吉川」

 僕も応援すると、吉川の笑顔が眩しく光った。

「うん、ありがとう」



 校門を出たところで、吉川は手入れの行き届いた黒い自転車にまたがった。

「じゃ、今日話してみるね。妹にもお母さんにも」

「うん、頑張れ」

「またね~!」

 辻井が手を振ると、吉川も「うん、またね」と振り返した。僕も軽く振る。


 黒い自転車が走り出す。家は駅方面らしく、駅へ向かう生徒たちを次々抜き去って、吉川のセーラー服の背中はすぐに見えなくなった。


「あの子さぁ~」

 吉川の行った先を見つめ、辻井が間延びした声を出す。

「うん?」

 僕も視線を向こうへ預けたまま応じる。

「体力テストの時に、ずっと怒ってた子だよね」


 首を真横へ回し、僕は大口を開けて、そののんびりした横顔を凝視した。

「気付いてたのか?」

「そりゃあ気付くよ~。あんなにずっと怒ってたらね」

 くすくすと声を転がし、辻井は笑いながら言う。

「部室で最初に会ったとき、また怒ってたらどうしようってちょっとだけ緊張したけど、全然そんなことなくて良かったよ~」

 

 思いもよらない単語に、思わず「緊張? 辻井が?」と訊いていた。

 辻井は「そりゃあ俺だって緊張するよ~」と緊張とは無縁そうな声で反論する。


「あの時怒ってた理由訊けるかなって思ったけど、それどころじゃなくなったしね」

 ね、と辻井が僕に視線を向けて笑い掛ける。能天気そうに笑っている癖に、人をよく見ているヤツだ。

「隙があったら訊くつもりだったのか」

 僕は訊こうとは全く思わなかった。怖かったし、訊いたりしたら彼女の大切な部分に触れてしまいそうだったから。


「まぁ教えてくれるとは思えないけどね~」

 空をつと見上げ、然して残念でもなさそうに辻井は肩を揺らす。

 駅方向から、夕方の気配が迫ってきていた。もうすぐ、空が辻井の髪と同じ色に染まる。耳を澄ませば、校舎のどこかから楽器の音がした。彼ら彼女らの部活は、まだ続くようだ。


「だから、吉川が家のこと話したのは意外だったな」

 空に向けて、辻井は呟いた。

「…まぁ、知り合ったばっかの僕らによく相談したなとは思うけど」

「あはは、そうだね。でも、きっと相手が青葉だからだよ」

 空から僕へ、辻井の視線が移る。薄茶色の目がどこまでも透き通っていて、僕は目が離せない。

「どういう、意味だよ」


「さぁね~」

 こっちの気も知らないで、辻井は可笑しそうな声を立てる。なんなんだ、一体。

「罪な男だよ、青葉は」

 やれやれとため息まで()かれた。ますます意味が解らない。


 僕は不可解なままなのに、辻井は話を切り替えるように空を見上げた。さっきよりも夕方色に染まった、西の空を。

「三人で、速記部に入れるといいね」

 しみじみとした、優しい声だった。その優しさに押されるように、僕は力強く言った。

「入れるよ、絶対」

 嬉しさだけでできた「だよね!」と笑う声が、隣で弾けた。





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