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落陽  作者: いっくん
3/6

眠り姫

 朝起きたら、隣で弟が寝ていた。

「…またか」

 大きく息をついてみるも、弟に起きる気配はない。


 時々、上の弟は自分の部屋がある癖に、僕の部屋に来て、僕の布団に潜り込んで眠っていることがある。嫌なことがあったり、単に人恋しくなったりと、理由は些細なものだ。最近はなかったから油断していた。

 起きている間は生意気なのに、こういう時だけ弟ぶるというか素直というか、つまりは現金なのだ。


 寝息を立てる度に、長い睫毛が揺れる。本人は女顔だとコンプレックスを感じているようだけど、身内のひいき目無しに見ても、綺麗な顔立ちをしていると思う。顔だけでいえば、まさに両親の良いところだけを受け継いでいる。寝ていれば天使なのだ。

 起き上がり、布団を引っぺがす。それでも弟は身体を丸めるばかりで、一向に起きそうにない。

「おい、起きろ」

 身体を強めに揺らすと、弟はようやく目を薄く開けた。

「…なに」

 じとりと、恨みがましい目が僕を射貫(いぬ)く。


 なぜこんな顔を出来るのだろう。

「なに、じゃないだろ…」

 僕の方が被害者なのに。またため息が出そうになる。だけど朝から何度もため息なんかつきたくない。諦めて、着替えを始めることにする。


 僕の着替えが終わる頃、弟ものそのそと起き出した。父よりも赤みが強い赤茶色の髪は母譲りの癖っ毛で、あちこちに跳ねている。それが窓から射し込む朝陽を反射させていて、見る者の目をもれなく攻撃する。


 なるべく頭を見ないようにして弟の動向を観察していたら、弟は大きなあくびをひとつして、部屋を出て行った。

「…勝手だなぁ」

 はー、と息を長く吐く。あ、ため息。



 洗面所に寄ってから居間へ行くと、下の弟と妹が朝食を食べていた。

「にーちゃん! おはよー」

 ぶんぶん手を振られ、僕も「おはよう」と手を振り返す。

 上機嫌の弟と比べ、妹は涙混じりにフォークを(くわ)えている。

「おはよう、こーちゃん」

 妹はちらりと目だけを僕に向け、

「おはよー…」

 消え入りそうな声で、力なく返した。


「どうしたの? なんで泣いてんの?」

 僕が訊いても、妹はべそべそ言いながら機械的にふりかけご飯を口に運んでいる。泣いていてもご飯はしっかり食べるのが、夏木家の人間らしい。

「あのねー、パパが行っちゃったからかなしーんだよ」

 納豆をぐるぐる混ぜながら、弟が教えてくれた。


「そうなの? パパがお仕事に行っちゃったから泣いてたの?」

 確認したら、妹は重心の大きな頭を落とすように振った。

 妹はパパっ子だ。それというのも、待望の娘ということで父が溺愛しているからである。妹はその大きすぎる愛に応えるように、父に酷く懐いている。


「でもそんなのいつものことじゃ…」

 父が出勤する時、妹はまだ寝ているか起きた直後だ。別れを惜しむ暇さえない。何を今さら、と首を傾げていたところへ、母がお茶の入った水差しを持ってやって来た。

「あら、おはよう」

「ああ、うん。おはよう」

 母はいつも先に朝食を食べてから、まだ小さな子供たちの食事を見守りながら、家事をこなしている。


「なんでこーちゃんこんな泣いてんの?」

「あー、パパが今日遅い出勤だったから、いつもより長く構ってもらったのよ。それの反動」

 気にしないで、と片手を振って母は子供たちのコップへ茶を注いでいく。


「ふーん」

 こんなに泣いてもらえて、さぞ父は嬉しかっただろう。自分を恋しがって泣かれるのは胸が痛むけど、同時に誇らしい気分にもなる。一昨日、僕も体験したばかりだ。いつもはクールな父の、やに下がった顔が目の奥に浮かぶ。


「ほら、あんたも早くご飯食べちゃいなさい」

「あ、うん」

 母に急き立てられ、僕は朝食を取りに行くべく、台所へ向かった。


 台所では、身なりを完璧に整えた上の弟が朝食の用意をしていた。

「あ、僕の分もやってよ」

 黒縁眼鏡を掛けた弟は、レンズの向こうの目を嫌そうにすぼめた。

「自分でやってよね」

 ぶつくさ言いながらも、弟は僕の分のおかずもレンジで温めてくれた。


 布団を貸してやったんだから、これくらいいいだろう。

 そう思っても言ったところで適当にかわされておしまいだ。僕は「ありがと」と言うにとどめ、米をよそった。


 先に朝食の用意を終えた弟は、居間には行かず、台所のテーブルで食べ始めた。

「あっちには行かないのか?」

「あっちは大地(だいち)が納豆食べてるから」

 納豆が嫌いなので、極力近付きたくないらしい。執念を感じ取り、「そ、そうか」と苦い笑みしか浮かばない。


 じゃあ僕もこっちで食べよう。

 自分の分の朝食を弟の向かいに並べる。弟はこちらを一瞥しただけで、特に何も言ってこなかった。

「ていうかおまえさ、僕の布団に入ってくるのいい加減やめろよな」

「別にたまにだからいいでしょ。兄さんを追い出してるわけじゃないし」

 至極当然の顔で、弟は滑らかに反論する。我が家では一番口が達者なのだ。


「そういう問題じゃない…。じゃあせめて自分の布団持ってこいよ」

 箸を強く握り締め、僕も言い返す。精一杯の譲歩だ。枕は持参してくるくせに。

「面倒だからヤダ。兄さんの布団大きいんだからいいでしょ」

 だけど弟の鉄壁の守りを崩すことは、僕には出来なかった。


 布団は普通の大きさだ。だから弟が入ってきたらきつきつだというのに。

「おまえなぁ…」

 兄がわなわな震えていても、弟はつんと澄まして食事を進めていく。幾ら顔が整っていようが、性格は生意気以外の何物でもない。

 とはいえ弟がわざわざ僕の布団に潜り込むことには、弟なりの理由があるのだ。それがどんなに些細な理由であろうと、弟には大事なことなのだろう。

 そう思うと、強くは出られない。


 諦めて、僕も朝食を食べ進める。おかずはスクランブルエッグと炒めたウインナー。大根とワカメの味噌汁にたくあん。おかずとたくあんは僕の弁当にも入っているのだろう。

 今日の卵は甘い。下の弟、大地が甘い卵が好きだからよく出るのだ。


「今日はゆっくりなんだな」

 時計を確認すると、僕と登校していた頃は、とっくに家を出ている時間だった。

 たくあんを咀嚼していた弟は、それを飲み込むと口の端を皮肉げに歪めた。

「兄さんが早かっただけだよ。もう合わせる必要は無いから、今後はもっとゆっくりすることにするよ」


 イラッ。

 頭の中で、脳細胞の一部が瞬時に沸いた。

「あ、そう…。別に僕に合わせてくれなくても良かったけど?」

「側に付いていないと兄さんはすぐ危ない方に行くから見張っとけって、お母さんに言われてたんだよ」

「嘘だ…」

「嘘だと思う?」

 にいっと口を横に広げる。妙に様になっているのがムカつく。弟は、こんな顔が一番似合う。


「ああそう。僕のお世話をしなくて済んで良かったね」

 ムカつくに任せて、おかずを噛み砕く。ウインナーがバリバリと口の中で割れる。

「そういうこと。高校は中学校より近いから安心だし」

「お気遣いアリガトウ…」

 僕なりの皮肉に弟はにっこりと笑ってみせると、立ち上がって食べ終えた食器を洗い出した。夏木家では年上の者たちは食器を各自で洗うことになっている。


「じゃあね、兄さん」

 食器を洗い終えると、弟は僕と同じ学ランを翻し、台所を出て行った。

「…行ってらっしゃい」

 朝から調子が狂う。


 残りの朝食を掻き込んでいると、母がドタドタと台所に入って来た。

「あら、まーだ食べてんの? 飛鷹(ひだか)はもう行っちゃったわよ」

「もう食べ終えるよ」

 母の後ろには妹がくっついていた。さっきまでの泣きっ面はどこへやら、にこにこと満面の笑みだ。

「あのね~こーちゃんねぇ、たまごのふりかけすきなの~」


「美味しかったんだ。良かったね」

「うん!」

「ちょっと青葉、悪いんだけどこーちゃんたちの食器洗っといてくれない?」

 空になった食器を持って立ち上がった僕に、母が手刀を切る。

「えぇ?」

 反射的に渋ったら、母の目が見る間に吊り上がっていく。

「これくらい手伝ってくれてもいいでしょ!? お母さん、この後洗濯物干して、この子らを保育園に連れてって仕事に行かなきゃなんないのよ!? それとも洗濯やってくれる!?」


 火を吹く母に詰められて、反抗など出来ようはずがない。今しがたの弟の発言について訊きたかったけれど、もはやそれどころではない。「はい…すみません」と流しへ向かう。

「かーちゃんー、お茶こぼしちゃったー」

 大地がけたたましく駆け込んで来る。「なんですって!?」と母が悲鳴を上げる。

「あのねぇこーちゃんね、たくあんもすき~。ぽりぽりでねぇ、おいしいの~」

 夏木家の朝は、騒がしい。



 教室に入ると、辻井は隣の席の女子と喋っていた。

「あ、青葉だ。おはよ~」

 僕は朝からこんなに爽やかな挨拶を出来る気がしない。息を少し吸い込んで、なるべく笑顔で「おはよう」と返した。


 辻井の隣の女子も「おはよう」と応えた。そういえば彼女の名前を把握していないことに気付く。名札を見れば江間(えま)とある。髪は茶色っぽく、肩のところで緩くウェーブがかかっている。辻井と同じ垂れ目で、優しそうな雰囲気があった。


 江間にも挨拶を返し、僕は席に着くと鞄から一冊の文庫本を出した。

「辻井、これ。この前言ってたヤツ」

 本を差し出すと、辻井の笑顔に輝きが増した。

「え! 早速持ってきてくれたんだ! ありがとう!!」

「SFの短編集だから読みやすいと思う。結構頭使うけど」

 辻井に持って来たのは、僕が読書初心者に最初に貸すことにしている短編集だった。どの話も短いのにオチがしっかりついていて、皮肉が効いている。読解力が少々求められるが、辻井なら大丈夫だろう。


 辻井は大事そうに本を胸元で抱え、目尻を限界まで下げて微笑んだ。

「ありがとう。大事に読むね!」

「うん」

 教室は三分のニほど集まっていて、朝の賑やかで眩しい活気に満ちていた。

 隣の席の小川は二人の友達と喋っている。入学式の日と同じで、小川本人は椅子に座っていて、二人が机を囲んでいる。その二人の背は決して高くないとはいえ、首をずっと伸ばしているのは辛くないのだろうか。


 後ろの宮前は相変わらず、身体を丸めて眠り込んでいる。その隣の席は確か加藤だった。けど鞄が机に置かれているだけで、持ち主はどこかへ行っているようだった。

 同じ男子の岡と小林は今日も隅っこで談笑している。あの二人は相性が合うようだ。一条はまだ来ていない。

 窓の外へ目をやる。雲の少ない空は深い青色に彩られていた。暖かくなりそうな、いい天気だった。高校に入って、四日目の朝だった。



 今日から授業が始まる。商業高校らしく、専門教科も多い。といっても、最初なので基本的には教科の説明や自己紹介などで終わる。今はまだちんぷんかんぷんだけど、いずれ理解するようになるのだろう。

 その中で唯一の例外は、体育だ。


 抜けるような晴れ空の下、僕らは体操服に着替えて整列した。

「君たちの体育担当の、長谷部(はせべ)です!」

 白い体操服に青いハーフパンツを着た、五分刈りの男性教師が吠えるように名乗る。四十代くらいだろうか。目が小さく、顎に髭がうっすら生えている。色黒で、なんとなく栗を連想させる顔かたちをしていた。


「こちらは同じ体育担当の、早乙女先生と新見(にいみ)先生です!」

 長谷部先生に紹介された二人の教師が軽く会釈する。

 昨日一昨日で世話になった、刈り上げ頭の早乙女すみれ先生は体育教師だったのか。担当教科なんて気にしていなかったけど、言われてみればそれっぽい。

 新見先生、と紹介された男の先生は真っ白な頭で眼鏡を掛けていた。六十代に見えるが、そんな歳でもまだ体育を教えていることにちょっと驚いてしまう。


「今年一年間、君たちの体育は五組と六組の合同で行います!」

 横へ視線を流すと、六組の生徒たちもちらちらとこちらを気にしている。まだ自分のクラスさえよく判っていないのに他クラスと合同なんて、と僕を含め、誰もが緊張を感じていた。


 六組にも男子がいた。というより、男子がいるから六組が合同相手なのだろう。一年生は五組と六組が男女クラスとなっている。


「えー今日は、体力テストを行います。事前に言ってありますが、ボールペンは持って来ましたか?」

 ジャージの後ろポケットに突っ込んだボールペンを触って確認する。うん、ちゃんと入っている。

「グラウンドのあちこちで先生と体育係が待機してますので、各自順番を決めて体力テストを行なってください」

 高校生ともなると、体力テストも自分で記録するのか。改めて、中学校との違いを実感する。


 長谷部先生が前列の生徒へ記録表を渡し、後ろへ回していく。生徒から生徒へ用紙が渡っていくのを目で追いながら、長谷部先生は説明を続ける。

「項目の上に星マークが付いている所は武道場でやります」

 星マークは全体の半分ほどの項目に振ってあった。刈り上げ頭の早乙女先生が、「あそこが武道場です」と校庭の隅へ指を差す。


「この体力テストはペアで行ないます。記入はペアの子にお願いしてください。なお、持久走は次回、全員で一斉に行ないます」

 ペア、と言われて相手は誰だろうとみなが目線を回す。恐らく男子は男子同士だろう、と目の前で風に揺れるオレンジ髪を眺める。


 こういう時のペアというのは、大概が出席番号の前後だ。ということは。

「ペアは出席番号の前後で決めます。体育係は折を見て先生が記録を取りますので、体育係の二人を抜かしてペアを作ってください」

 五組の体育係は女子だ。だから僕の相手は順番通りとなる。呻き声が出そうで、ぐっと堪える。

「…よろしく」

 背後へ身体を回して声を掛けたら、思ったより低い声が出た。気持ちが抑え切れなかったらしい。もちろん良くない意味で。


 宮前は切れ長の目をぱちくりと見開いて、「うん」とかっくり首を落とした。

 大丈夫だろうか。僕の不安をよそに、長谷部先生は「じゃあまずは準備体操!」と号令を掛けた。



 準備体操を済ませると、二人一組となった五組と六組の生徒はテスト地点へと三々五々散っていった。

「全て終わったら、近くの先生か体育委員に記録表を提出して教室に戻って自習!」

 長谷部先生の言葉に、生徒たちは分かりやすく浮き立った。

「じゃあさっさと終わらせよー」「めんどいの先にしよ」「もうテキトーに書いちゃダメかな?」


 あちこちから聞こえてくる話し声に、僕は果たしてこの方法は本当に合理的なのか? と首を傾げたくなった。

 体力テストという、重要な記録を生徒自身に書かせるなんて不正のし放題ではないか。それに今日の体育は三、四時間目連続だが、二時間で全員終わるのだろうか。


 数々の疑問に頭を悩ませていたら、

「夏木」

 宮前の整った顔面が、至近距離に迫っていた。

「わっ!!」

 驚いて飛びすさった僕を見て、宮前は不思議そうな顔になる。

「行かないのか?」

「い、行くよ!」

 気を取り直して、辺りへ目を走らせる。どこが()いているだろうか。


「青葉~!」

 声のする方へ顔を向けると、少し離れた所で辻井が大きく手を振っていた。

「辻井、と小林」

 辻井のペア、小林が小さな目を眩しそうにしばたたいている。名前に似合わず大きな身体のせいで、辻井と並ぶと熊と猟師みたいだ。いや、辻井はのほほんとしていて猟師っぽくないから、熊に襲われそうになっている若者といった感じか。


 僕が内心で失礼な空想をしているとは思わず、辻井はにこにこと良い笑顔だ。

「お互い頑張ろーね」

「うん、頑張ろう」

 元気だなぁ、とぼんやり思う。今日は気温が高くて暑いくらいなのに、辻井は全くそれを感じさせない爽やかな笑顔だ。出会った時からそんな風に笑っていたから、辻井は陽キャなのだと勝手に決め付けていた。

 でもそうではないことを、僕はもう知っている。

 

 辻井たちが去ってから、「さて」と気合いを入れる。僕にとっては相手が相手だけに余計頑張らねばならない。

「宮前はなんか順番に希望とかある?」

「んー…」

 首を横へ落とし、宮前は考え込む。何か考えがあるのかと待っていたら、数秒後、

「特には…ない。任せる」

 首を戻して、眠そうな顔で気だるげに答えた。僕はがくりと肩を落とす。


「そーかよ…。じゃあ近くのあそこ行こう」

「うん」

 特に何も考えず、僕らが最初に向かったのは五十メートル走だった。


 長い白線が引かれた校庭の一角には十数名の生徒が列をなしていた。男子ペアも一組いるが、見覚えがないので六組だろう。

 列の最後尾に並び、順番を待つ。

「宮前は運動出来るの?」

 待っている間無言もおかしいか、と適当に話を振る。


「まぁ…身体動かすの、好きだったから」

 宮前は尚も気だるげに返す。背丈は百八十センチこそないものの、百七十センチちょうどの僕よりも数センチは高い。僕よりも高いところで、宮前のつやつやした黒髪がなびく。

「へー…。今は?」

「今は…寝てる方が好き」

 吐息のような声で言い、宮前は薄く目を閉じる。立ったまま寝ないように僕は話を続ける。

「身体動かすより寝る方が好きになったのって、なんか理由あんの?」


 横目で見ていたら、宮前の頬の筋肉が波打つようにぴくりと動いた。

 地雷だったかも。

 一条に寝続ける理由を訊かれた時、曖昧に濁していた。あの時みたいに、宮前にとっての核心に触れてしまったのだと気付く。


「あー…ごめん。言いたくないなら別に…」

「理由は…ある」

「え」

 横を向けば、宮前は薄目で遠くを見ていた。

 体育係の合図で、二人ずつ走り出す。晴れた空の下、青春の一ページみたいな情景がくっきりと浮かび上がる。今日は暑いから、ジャージを着ていない生徒が多い。白い体操服と青いハーフパンツが、光の中で踊る。


 でも、男子で唯一ジャージを着ている宮前には、きっと違うふうに見えている。

「寝る方が好きになったから…寝るしかなくなったから、運動とか、出来なくなった…ん?」

 ぽろりと零れ出た本音に、宮前自身が戸惑っていた。自分で言った直後に、あれ? とでも言いたげに目が泳ぎ、口がもごもご動いている。

「まぁ…そういうこと」

「ふっ、」

「?」

 

「なんだよ…その顔」

 笑い事なんかじゃないのに、可笑しくて声を抑えられなかった。あまりにも、宮前の表情の変化が面白かったから。

「ふ、ふふっ、悪い…」

 宮前は、僕なんかの想像じゃ及ばないほどの苦労をしてきたのだろう。宮前のことなんか何一つ知らないけど、それだけは判る。

 なのに、笑いが止まらない。普段寝てるか眠そうな顔しかしていない宮前の、初めての年相応な顔に、僕は可笑しさとささやかな感動を覚えていた。


 笑いの波がようやく去り、「悪かったな」とそろそろ顔を上げた。怒っていたらどうしよう。

 けれど予想に反して、宮前は無表情で僕を見ていた。

「…宮前?」

 もしかして、怒ると表情が消えるタイプ?

 宮前は、僕をじっと眺めると、

「…なんでもない」

 すっと顔を逸らした。


 怒っているわけではない? 気になって、宮前の顔を追い掛ける。

 そうして、僕は目を見張った。

 

 宮前は、斜め下を向いて穏やかに微笑していた。

 端整な顔立ちの彼がそんな顔をすると、まるで映画のポスターみたいで、僕は、自分がどこにいるのか判らなくなる。目は伏せ気味で、口の端はゆるりと上がり、どこか影のある微笑に、男の僕でも言葉を無くして見惚れてしまう。

 嬉しそうだ。

 そんな気持ちが伝わってくるようで、僕まで胸の中心が温かくなる。


「宮前…?」

「なんでもない。でも、」

 宮前がこちらに向き直る。少しだけ上から、宮前の微笑が降ってくる。

「夏木は、いいヤツだな」

「…は?」

 勝手に一人で納得して、宮前はうんうん頷いている。ますます判らない。


 途方に暮れる僕だったが、さっきから空気が変わっていることに気付く。

 人の気配は変わらずあるのに、声が聞こえないのだ。しん、と静まり返っている。何かあったのかと周りへ視線を走らせた。


「…!」

 声が、喉の奥で詰まる。情けない悲鳴を上げずに済んだ。

 僕らの前後に並んでいた同級生たちが、一様に僕と宮前を凝視していた。


 ぽかんとした目に、敵意はない。悪いことをしてしまったのではないとひとまず安心する。

「ど、どうしたの?」

 宮前は他人の視線など気にならないのか、我関せずという調子で大きなあくびを放っている。


 僕のすぐ前にいた、六組の女子がペアの子と顔を見合わせる。ちらちらと目線はくれるが、答えてくれる気はなさそうだ。

「あの…」

「いけない場面を見ちゃった気になったの」

 後ろから不意に声が上がり、身体を回す。


 後ろには、同じクラスの女子ペアがいた。会話をしたことはないが見覚えはある。廊下側の席に居た記憶があるから、出席番号は後ろの方なのだろう。

 黒いおかっぱ頭を揺らし、彼女は猫目を細めて言う。

「夏木くんたちのやり取り、ちょっと前からみんな見てたんだよ。そしたら夏木くんが大笑いするし、宮前くんまで笑うし。そりゃあ見ちゃうって。こんなイケメンたちのやり取りなんて」

 手を口元に持っていき、彼女はくすくすと洩らす。大人しそうなペアの子も、控えめながら頷いている。

 顔が熱くなっていくのを、感じた。


「見てたの? いや、ていうか宮前はともかく、僕はイケメンじゃないし…」

「まぁ夏木くんはイケメンってかキレイ系だよね」

 猫目女子に言われ、それにもいやいやと首を振る。

「ていうかいけない場面って…」

「夏木、次俺ら」

 宮前に呼ばれ、「あ、うん」と前へ体勢を戻す。いつの間にか僕らはスタート地点まで来ていた。六組の体育係の女子が気まずそうに僕らを待っている。


「すんません」

 体育係に謝り、準備に入る。後ろからまだくすくす聞こえるが無視を決める。

「記録表はここに置いてね」

 体育係が背後を指差す。スーパーに置いてあるようなプラスチックの大きめのカゴに、言われた通りに白紙の記録表を放り込む。

「私がスタートって言って手を上げたら走ってね。あの線を越えるまで減速しちゃダメだよ」

 

 あの線、と言われ目線を合わせる。紺のジャージを着たすみれ先生が手を上げている。五十メートル走はペアで競い、先生がタイムを測るらしい。多分この仕組みは、今までのみんなのやり方を見ていれば自然と理解出来るものだ。だけど僕らがくだらないやり取りをしていたものだから、一から説明してくれているのだ。それが解ってしまい、居た堪れなくなる。

「分かりました…すんません」

 話、というより宮前に夢中になっていた僕が悪い。隣を見ると、宮前はすんとした顔で体勢に入っている。宮前は悪くないと承知していても、少しイラッとした。


「じゃ、位置について…よーい」

 スタート、と体育係の高い声が耳で弾けたと同時に、僕らは駆け出した。


 運動はさほど得意ではないけど、嫌いでもない。中学の体育の成績は並、よくて並の上。部活はやっていなかったが、弟妹の遊びに付き合って公園を走り回ることが多いから身体は動く。

 風を切る感触が、頬に、腕に、足に伝わる。遥か先に見えていた白いラインが、ぐんぐん近付いてくる。見える景色は前と、隣。

 隣を走る宮前が、僕の先を行く。陸上に全く詳しくはないけど、フォームが綺麗だなと呑気に思った。


 夢中でラインを駆け抜け、減速する。地面を踏み締め、息を整える。

「夏木、七秒七!」

 すみれ先生の声を聞きながら、宮前を捜す。宮前はもう記録表を取りに行っていた。


 僕もスタート地点まで戻り、宮前に追い付く。

「宮前、タイムなんだったんだ?」

 まだ浅く息をついている僕と違い、宮前は平然としている。

「六秒、五」

 宮前はカゴから記録表を拾い上げると、僕の記録表も手渡しながら、感情のない声で答えた。


「ろ、六秒って…めちゃめちゃ速いんだな…」

 寝てばかりの宮前にそんな脚力があったなんて。あまりの衝撃に、意識が遠のきそうになる。自分の記録表を皺になるまで強く握り込んで、宮前を呆然と眺める。


 宮前の方は褒められているというのに、顔を背け、よそよそしい態度で、

「…陸上やってたから」

 そっけなく答えた。

「え、陸上?」

 宮前がしていた運動とは、陸上のことだったのか。言われてみて、さっきの綺麗なフォームにも納得がいく。経験者だったのか。


 五十メートル走のタイムを記入し終えると、僕らは次のテスト場所へ向かった。

「すごいじゃん。今はやってないんだろ? それでまだそんなに速いなんて」

 宮前はどこか浮かない顔で、「そうか? たまたまだ」なんて言ってのける。


 足が速い人が格好良く見えるのは中学生まで、と言われるけど、速い人はいつまでも格好良いものだ。羨ましくて、「すごいな」と連発してしまう。


 宮前の足が、止まる。ハーフパンツから覗く白い足に、目で見て判るような筋肉はなかった。

「今は…すごくない。俺の…唯一の特技だった陸上は…この体質のせいで潰れた」

 宮前が俯いて吐き捨てた台詞には、初めて強い感情が乗っていた。

「もう…俺には、なんにもない」


 その声が辛そうで、僕まで胸が苦しくなった。

 でもそれ以上に、悔しかった。

「なんにもないなんて、言うなよ」

 気付けば拳を握っていた。


「僕もおまえも、まだ高校生になったばっかじゃん。まだなんでも出来るだろ。なんでもう勝手に諦めてんだよ」

 空は青くて、走った後の風は涼しくて、足はまだ運動したそうに(うず)いている。

 なんにもないわけ、ない。

 なんにも出来ないわけ、ない。


「おまえが、なんか理由あって出来なくなったことがあったとしても、やったこともないことまで目を逸らすなよ。それに今だって、十分速かっただろ。それだけでもう、僕よりおまえはもう持ってるものがあんだよ」

 なぜこうもムキになっているのか、自分でも不思議だった。僕は宮前のことなんか、何も知らないのに。


 でも高校生になって、みんながこれからに胸を弾ませているなか、宮前だけがそっぽを向いているのは、酷く悲しいことだと思った。

 辻井は言っていた。僕と友達になりたいって。これからたくさん本を読むって。

 宮前にも、これからを見てほしかった。


 宮前の顔が上がる。長めの前髪が張り付き、表情はよく見えない。けど、いじけた顔を想像した。

「なんでそんな、マジになって怒ってんだよ」


 言われて、顔が熱くなる。

「いいだろ、別に。なんかムカついたからだ」

 急激に恥ずかしさが込み上げてきて、目線を地面へ落とす。


「俺、ビョーキとかじゃないんだ」

「…は?」

 目を戻す。宮前は遠くを見るような目付きで、同級生たちを眺めていた。

「強いて言うなら、精神病? 治療薬とかもなくて、いつか治るのを気長に待つしかないんだって」

「…四六時中寝てるアレ?」

「うん」

 ちらりとこちらを見て、宮前はまた向こうを見やる。


「うち、親が長いこと不仲で…まぁ父親が荒れてて。中学ん時が一番荒れてた」

 唐突に明かされる宮前の過去に、怯んでしまう。辻井の時のような心の準備が出来ていない状態で傷口を見せられても、目を逸らさないでいる自信がまるでなかった。


「そう…なのか」

 それでも、弱気になっている心を叱咤して耳を傾ける。今聞かないと、二度と宮前の心を掬い上げられない気がした。

「巻き込まれないように、父親が荒れ出したら俺は自分の部屋に引っ込んでて…でも、声とか暴れる音は聞こえてて…。それが嫌で…寝ることにした。寝てれば聞こえないし、起きたら大抵終わってるし…」

 体力テストの真っ最中なのに、僕と宮前だけは違う世界にいた。

 喧騒から遠く遠く離れた二人きりの世界で、僕は宮前を見つめる。


「そういう日が続いて…ある日、部活中に急激に眠くなってぶっ倒れた。それから一日中眠くなって…病院行って相談したら、ストレスだって」

 そんなの分かりきってる、と自嘲するように口元を歪め、息をつく。当時も、宮前はそんな顔をしていたのだろうか。だとしたら、宮前の怒りの矛先はどこへ向かったのだろう。


 息子を心配そうに見守っていた、宮前の母親。宮前の過去を知ると、あの表情にも違う意味を感じてしまう。


「それがきっかけで、やっと親は離婚した。でも父親は出て行ったけど…俺の過眠は治らなかった」

 かみん、という言葉に最初仮眠をあてがい、すぐに過眠だと考え直す。まさしく宮前の症状だ。最初は自分の意思で。だけどやがて身体が眠りに蝕まれていく。自分を守ってくれていた眠りが、呪いになる。

 まるで眠り姫だ。歪めながらも、なお美しい顔に童話の姫を重ねる。


「起きててもずっともやがかかっているみたいに、現実感がないんだ。だから色んなことがどうでもよくなった」

 けど、と宮前が顔を向ける。濃い睫毛に縁取られた目の中で、髪と同じように艶々と光る瞳が、僕を真っ直ぐに見ていた。


「なんか今は…すごくスッキリしてる。久しぶりだ、この感じ」

 ふっ、と淡く笑う。長い眠りから覚めた眠り姫が、王子を見つけたかのように。とっくに昼が近いのに、真上に昇った太陽が朝焼けのように宮前を照らす。

 僕は光に包まれた宮前を、硬直した身体で眺める。

「…良かったな」

 それだけ言うのが、精一杯だった。


 話し終えて、言葉の通りすっきりした顔で宮前は「次行こう」と歩き出した。

 すっかり忘れていたけど、今は体力テスト中だ。二人だけだった世界から、現実へ戻るべく僕も「そうだな」と後を追う。


 次に来たのはハンドボール投げだった。小さな円に収まった生徒が威勢の良い掛け声と共に投げていく。

 円とコースは二つあるので、同時に二人ずつ出来る。人数は五十メートル走より多いけれど、男子はいなかった。

「やぁああ!!」

「どっせい!!」

 気合いの入った声とハンドボールが、空に吸い込まれる。


 コースには一メートル間隔でラインが引かれているので、ペアの相方が飛距離を測る仕組みらしい。

 体育係もしくは先生はいるのかと周りを見渡すと、六組の女子がライン引きを携えて記録の様子を注視していた。


 彼女の眼差しを見て、心臓がドキリと跳ねる。

 長い髪を後ろで一つに束ねた背の高い彼女は、驚くほど真剣な眼差しでみんなを見ていた。

 まさに鬼気迫る表情、という言い方がしっくりくる。

 彼女は、生徒がボールを投げる度に擦れていくラインを引き直す役目を担っていた。

 

 他に体育係らしき生徒や先生はいない。自分一人でハンドボール投げを見ていなければならないから、気を張っているのだろうか。でもたかだか線を引くだけの作業に、それほど深刻になる必要があるのか僕には分からなかった。


「夏木、並ばないのか」

 宮前の声にはっと我に帰る。

「ごめん、並ぼう」

 並ぶ、といっても実際に並ぶのはペアの片方だけで、片方が投げて記録を取ったらそのまま交代して、もう片方が投げる…という仕組みらしい。

 確かに、距離を測っていた相方が、今度は自分が投げるためにまた並び直すのは非効率だ。

 そのため列は長いが回転は速い。うかうかしてはいられないと最後尾に宮前を置く。

「僕が最初に距離を測るから、まずは宮前が投げてくれ」

 宮前は素直に「分かった」と首を縦に振った。


 宮前から記録表を受け取り、列から離れてライン近くに寄る。相方の順番を待つ数人の生徒の群れに僕も身を置く。

「お、知ってる顔があると思ったら、夏木くんじゃないのー」

 飄々とした声と共にやって来たのは、岡を連れた一条だった。


「あぁ、一条たちはどこまで終わった?」

「外のはここで最後!」

 一条が胸を張り、白い歯を零す。体力テストが始まる前は逆立っていた髪は、今やくしゃくしゃに乱れていた。雰囲気が変わって、これはこれで似合う。

「一条、その髪も似合うよ」

「マジ? 実は結構みんなにも言われてんだよね。今後どうしよー」

 大袈裟に嘆く一条の背後で、岡が列を指差す。

「片方が測るみたいだから、俺並んでくるわ」

「おぉ! よろしく!」

「頑張れよ」

 自然と零れた見送りの台詞に、僕自身も岡もびっくりした。


 別に恥ずかしくなる内容ではないのだけど、あまり話したことのない相手に気安くし過ぎたかと固まる。

 しかし学年で一番高いのではという身長ながら、威圧感を与えない穏やかさで岡は応えた。

「おう」

 

 返ってきたのはたった一言。だけど、胸の内で暖かく響いていた。

 こういう、他愛もないやり取りを繰り返して、僕らは友達になっていくのか。

 むずむずした気持ちで、岡を見送る。


「なーんかさ」

「ん?」

 一条はくしゃくしゃの頭を掻き回しながら、ハンドボール投げのラインを見ていた。


「あそこのライン引いてるヤツさ、怖くね?」

「怖い?」

 一条の視線の先では、六組の体育係がラインを引き直している。さっき、やけに真剣な眼差しでボールの行方を追っていた女子だ。

「すげーむっつりした顔でみんなを見てたもん。こーんなん」

 一条が自分の顔で再現した彼女の表情は、僕が見た時より迫力が増していた。一条が大袈裟なだけなのか、本当にそれくらい迫力のある顔だったのか、今ひとつ決めかねた。


「あー…。僕もさっき見たよ。やけに真剣に見てるなぁって思ったけど」

 黙々とラインを引いている彼女は、今は迫力は鳴りを潜め、普通の顔付きだ。

「体育係の仕事、やりたくないんかね? もったいねーよな。笑えば可愛いのに」

 こういう歯が浮くような台詞を平然と言えるのが、一条の凄いところだ。

「そう…だな」

 多少距離はあるが、涼しげな目元に尖った鼻梁、細い顎が美人の特徴を掴んでいるといえた。今はひっつめている黒髪をほどいて流せば、立派な日本美人が出来上がるだろう。

 笑った顔を想像してみる。確かに、可愛いかもしれない。


「あ、今想像した? 想像した? やーいムッツリ~」

 一条に指を差され、僕はついついムキになって、

「うるさい! ムッツリじゃない!」と吠えてしまう。

「やっぱり夏木も男なんだな。俺は嬉しいよ」

「だからそんなんじゃない!」

 ぎゃあぎゃあ言い合っていたら、


「夏木、俺投げるから見てて」

 また宮前に呼ばれ、僕ははっとする。


「あ、うん。ごめん」

 今日は宮前に呼ばれてばかりだ。

 つい昨日までは、僕が呼んでばかりだったのに。


 プリントを回しても寝ているから回す度に声を掛け、授業の前後の挨拶も起こしてやり、先生に当てられたら何を訊かれているのか教えてやりもした。


『宮前のお世話係』という小川の不吉な予言を認める気は断じてないが、実際に世話を焼いているところはあった。席が前後というのは、こんなにも距離が近いのかと愕然としたものだ。


 その宮前に、今日は僕が引っ張ってもらっている。

 これではいけない。気を引き締め、宮前を見据える。

「いいぞ!」

 僕の合図に宮前は頷き、ハンドボールを持った右手を振りかぶった。


 野球選手のような美しいフォームで、宮前がハンドボールを放つ。ボールは宙で大きく弧を描いて遠く遠くへ飛んでいく。

 列に並んでいる人たちからも、見守っている人たちからもどよめきが上がる。

「わー、すごい」「やっぱ男子はすごいね」


 宙を飛び続けていたボールが、地面へ落下する。ぼすん、と重い音が立ち、土煙が舞う。

「お、落ちた」

 一条が身を乗り出す。

「四十メートルはあるなぁ」

 額の辺りに手をかざして呑気に言う。


 ハンドボール投げまで得意なのか。僕の中での宮前のイメージが、またひとつ変わる。

 落下地点まで行き、正確な距離を測ると、四十二メートルだった。みんなも気になっているだろうから、大きな声で言ってやる。

「四十二メートル!」

 あちこちで、また「お~!!」というどよめきが起こる。


 宮前の記録表に記入しながら、宮前と交替するべく計測位置へ向かう。

 ふっと顔を上げた時、息を呑む。


 体育係の彼女が、こちらを見て立っていた。

 厳しい顔で唇を噛み、目を力ませて。

 まるで仇を見つめるような表情に、緊張が走る。

 

 けれど視線が交錯した時、彼女の力んだ目の奥に、とても必死に何かを抑え付けているような強い感情を見つけ、僕は堪え切れず、口を開いた。

「どうしたの…?」


 しかし僕が声を発した瞬間、彼女は弾かれたように肩を跳ねさせ、身を翻した。

 置いてかれた僕は、小さくなっていく背中を呆然と見つめた。


「夏木ー」

 一条が手を振っていた。僕はまだ夢から覚めていない感覚で、ふらふらと足を進める。


「宮前が待ってんぞ~」

 一条が親指で示す。

「あ、うん」

 ぽつんと立っている宮前の元へ急ぐ。

「あの女の子と何喋ってたんだよ?」

 僕の背中に、一条がニヤニヤした声を飛ばす。

「いや…なんか睨まれた」

 顔だけ振り向けて答えたら、「ぶはっ」と吹き出された。げらげら笑う一条を放って走る。


「悪い、じゃあこれ頼む」

 宮前と僕の記録表を手渡す。宮前は自分の記録表を眺め、

「どうだった?」

「どうって?」

 口ごもりながら「俺の…記録」と小さく言った。


「え? ああ凄いな。おまえ、肩も強いんだな」

 素直に褒めると、宮前の目がぐっと大きくなった。

「…そうか」

 黒目を横へ寄せ、息を吐き出すように呟く。心なしか嬉しそうだ。


 褒められて喜ぶなんて、宮前にも可愛いところがあるんだな。

 ほのぼのした気持ちで、「僕も頑張るよ。記録よろしく」と宮前を送り出す。

「うん」

 二人分の記録表を大事そうに抱え、宮前はさっきまで僕がいた場所へ行った。


 わー、と歓声が上がり、隣へ目をやる。

 岡が投げた直後らしい。一条がボールの落下地点へ駆けていく。

「四十八メートル!」

 再び歓声が上がる。


「凄いんだなぁ、おまえ」

 僕がため息混じりに言うと、岡は照れ臭そうに顔をくしゃりと崩した。

「野球やってたから」

「そうなの? 凄いな」

 

 この後にやるのはハードルが高い。逃げたくなる心を叱り、僕も振りかぶる。後ろで順番待ちをする女子たちの期待の目を背中で感じながら、ボールを放った。


 宮前が駆けていく。見方に自信がないのか、体育係の子に指南を施してもらっている。そこまでして測るほどの長さじゃない。

「三十三メートル」

 決して悪くはないのだけど宮前たちには劣る。後ろの女子たちが「まぁ普通こんなもんだよね」と呟く。僕は逃げるように計測位置を出た。


「お疲れ」

 宮前から記録表を受け取る。意外に伸びやかで綺麗な字で記入されていた。

「ありがとう。宮前たちは凄いな」

 ピク、と宮前の片方の眉が上がる。

「宮前…たち?」

「ん? 岡も凄い飛んでただろ。四十八メートルだって」

「…へぇ」

 宮前の眉間に縦皺が刻まれる。急激に顔も曇っていく。


「宮前…?」

 なんで機嫌が悪くなってんだ?

 あまりに突然の変化に、僕は混乱してしまう。


「俺の方が凄い」

「へ?」

「次は勝つ」

 宮前の身体から火が燃え上がった、ように見えた。煮え滾る湯のように、めらめら燃えている。


 岡に負けたのが悔しかったのだろうか。

 理由はなんであれ、やる気が出るのは良いことだ。闘志を燃やす宮前の背中を押して、次へ進む。


 外種目最後の立ち幅跳びでも、宮前は二百七十五センチという驚異的な数字を出した。距離を測った新見先生もしきりに感心していたので、学年でもトップクラスに入るのだろう。

 二百二十六センチの僕は、宮前を連れてそそくさと武道場へ足早に向かった。



 武道場に入ると、真っ先にオレンジ頭が目に入った。

「辻井」

 距離にして二メートルほど。聞こえるか聞こえないかくらいの声量で試しに呼んでみたら、辻井はパッと振り返った。

「青葉!」

 途端に弾ける笑顔が眩しい。


 うきうきと駆け寄ってくる。相棒の小林も一緒だ。

「外のは終わった?」

「うん、後はここだけ」

「そっか~。俺たちは逆にあと外だけ」

 ね、と辻井が隣の小林へ目線を送る。小林は肉厚の顎を揺らして小さく頷いた。


「そっか。もう全部終わったペアもいるのかな」

「ちらほらいるみたい。今ここでやってる人たちなんかは、青葉たちみたいに外を終わらせてきた人が多いから」

「へぇ」

 辺りへ目を配ると、確かに外種目で見たことのあるペアが何組かいた。


「じゃーね! 早く終わらせよー!」

 僕の両手を取り、辻井はぶんぶん振った。どうも彼はスキンシップが多いようだ。これも陽キャの特徴の一つだろうか。

 いやいや、辻井を陽キャだとレッテルを貼ってはいけないと決めたばかりだ。僕は内心で頭を振る。


「そうだな」

 辻井に手を振られるがままに任せていると、がしりと腕を掴まれた。


「「うん?」」

 辻井と二人で腕を掴んだ主を見る。


 眉間を険しく絞った宮前が、黒いオーラを出していた。

「み、宮前?」

 驚く僕とぽかんと口を開ける辻井、小さな目を精一杯見開く小林。

 三人の視線を一身に受けているというのに、宮前は僕の腕を掴んでただ一人を睨んでいた。


「なんでそんな怖い顔してんの?」

 睨まれている辻井の声には、困惑しながらも微かに尖ったものが混じっていた。

 辻井が怒るのを初めて目の当たりにした僕は、一触即発の気配を感じ、宮前と辻井の顔を見比べた。


「どうしたんだ、宮前?」

 宮前は何も言わず、掴んだ僕の腕を引っ張った。その拍子で僕の両手は辻井の手から離れ、引っ張られた右手が宙に停止する。


「…宮前、何がしたいの?」

 辻井の声が完全に尖る。怒気に当てられた僕と小林は情けなくもビビってしまう。

 辻井に睨まれた宮前は、僕の腕を掴んだまま、無言で睨み返している。何か喋ってくれないか。


 宮前と辻井の仲は悪くないはずだ。会話をするのは昼食時くらいだが、当たり障りなくやり取りをしていた。そもそも宮前が人に関心を示してこなかったので、仲が良くなることも悪くなることもなかった。


 初めての宮前からの意思表示。それは級友にとって喜ばしいことだ。

 ただ、その意思を誰も読み取れない。


 いや、辻井は正しく読み取っている気がする。

 だから、怒っているのだ。

「いい加減、手、離したら? 青葉困ってんじゃん」

 聞いたことのない辻井の冷たい声に、宮前の鼻の上に皺が乗る。イケメンはこんな顔をしてもイケメンだな、と場違いにも感心してしまう。


 ざわざわと喧騒が耳の側で聞こえる。視線を素早く回すと、同級生たちが心配そうに、あるいは面白そうに僕らを見ていた。

 ヤバい。

「ちょっと落ち着けよ。宮前、手、離してくれ」

 宮前は渋々といった体で僕の腕を離した。


 だけど辻井と宮前は尚も睨み合っている。

「おい、やめろって」

 二人の間に割り入って取りなすが、剣呑な空気は消えない。小林は大きな図体の割に揉め事は苦手のようだ。あわあわと泡を食っている。


「おーい、どうした?」

 長谷部先生だ。騒ぎを聞き付けて様子を見にきたのだ。僕は咄嗟に、

「なんでもないです!」

 声を張り上げ、「な!」と宮前と辻井の顔をそれぞれ見た。


「いや、なんでもない訳ないだろ」

 明らかに信じていなさそうに、長谷部先生は胡乱げな目で僕らを見回す。

「や、ちょっとあったけど…でも解決しました!」

 もう一度、「な!」と宮前たちに念を押す。小林もほとんど顎で埋まっている首を振って加勢した。


 辻井と宮前は納得していなさそうだったが、僕の気持ちが伝わったようで、「はい…」「まぁ…」と大人しく頷いた。


 長谷部先生は周りに集まっていた生徒たちにも視線を回していたけれど、彼女らが何も説明する気がないのを見て取ると、仕方なさそうに息を吐いた。

「さっさと測定終わらせろよ」

 元いた場所へ戻っていく長谷部先生の背中に「はい、すみません」と頭を下げておく。


 先生がいなくなると、ギャラリーもこちらを気にしながらも散っていった。彼女らが先生に余計なことを言わないでくれて良かった。

「どうしたんだよ、おまえたち」

「別に…」

 辻井はむくれて宮前を見ないようにしている。辻井はこんな風に怒るのかと新たな発見をした気分だ。


 キーンコーンカーン。

 チャイムが武道場内のスピーカーから鳴り響く。そういえば武道場に来た時にも鳴っていた。ということは今から四時間目になる。


 早く体力テストを終わらせなければ。

「とりあえず続きをやろう。じゃあな辻井、小林」

 僕が足を踏み出すと、宮前は付いて来た。辻井はまだむくれていたが、「うん…じゃあね」と名残押しそうに手を振った。

 それに振り返してから、僕らは一番近い長座体前屈にやって来た。


 ここは先生も体育係も常駐しておらず、各自器具を使って計測するらしい。

 四つある器具は一つ余っていた。早速そちらへ向かおうとすると、

「夏木…さっきはごめん」

 後ろから、か細く謝られた。

 身体を後ろに回すと、しゅんとした顔で宮前が俯いている。

 その表情に、胸がぐっとなる。こんな顔に、僕は弱い。


「なんか…ムカついて、そしたら勝手にやってた」

「ムカついたって…何に?」

 一番大事な部分を訊いているのに、宮前は言いにくそうに口をすぼめた。

「それは…まぁ」    

「なんだよ」

 言いたくないらしい。これ以上訊くことは諦め、器具の元へ行く。


「よく分かんないけど、あの感じだと宮前が悪いみたく見えたから、辻井に謝っとけよ」

 宮前は梅干しを食べたような顔をしたが、反省はしているようで、重そうに顎を引いた。

「よし、じゃあやるか」

 どうせこれにも負けるのだろう。僕は諦めの境地でいたのだが、


「三十三センチ!」

「疲れた…」

 器具に覆い被さって、宮前は肩で大きく息をした。

「おまえ…身体固いんだな」

 記録表には高校生の平均値が紹介されている。それによると高校一年生の男子の平均は四十七センチ。

 宮前は背が高いので長座体前屈は有利だと思っていたが、結果は平均を下回っている。五十センチの僕よりもずっと短い。


「初めて…勝った」

 拳を握ってガッツポーズをする僕に、宮前は意外そうな目をくれた。

「そんなに嬉しいんだ」 

「うん、嬉しい」

 長座体前屈ごときで、と分かっているけど勝てるのは嬉しいものだ。堪らず大きく笑ってみせると、宮前は黒曜石のような瞳をゆっくり細めた。


 次に来たのは上体起こしだった。

 同じクラスの体育係の女子が、ストップウォッチで計測を担っている。


「あ、噂の二人だ」

 にっと白い歯を見せる。眼鏡を掛けた背の高い彼女、服部(はっとり)が言っているのは、当然さっきの僕らのやり取りだ。

「噂って…大したことじゃないよ」

「えー、そう? 宮前くんがあんな主張するなんて意外だなーって思ってた」

 服部に目で示された宮前だが、相手をする気がないのかふい、と目を逸らした。


「おい宮前…っ」

「やっぱ夏木くんじゃなきゃダメかぁ」

 無視されたのに、服部は納得顔で笑っている。

「え? 何が?」

 僕じゃなきゃ、という台詞の意味を問うと、

「えー? 夏木くんは宮前くんのお世話係なんでしょ?」

 服部は聞き捨てならない一言を放った。


「は? 何それ??」

「え? 優衣(ゆい)が言ってたよ。さっきの見て、ウチ確信したし」

 優衣…小川優衣?

 隣の席の女子の、悪戯っぽい笑顔がくっきりと脳に浮かぶ。

『私には見えるよ。この先、宮前くんのお世話係になるのは夏木くんだって』


「違う!!」

 焦って大声が出てしまった。さすがの宮前も肩を跳ねさせたし、直接ぶつけられた服部は「は?」と目が点になっている。


 周りの視線が一気に集まる。それでも僕は誤解を解くのに必死だった。

「そんなんじゃない! たまたまだ!」

 教室で世話を焼くのは僕が困るし、席が前後ということで先生に頼まれることが多いだけで、宮前のお世話係に就任した覚えは一切ない。

 そんな役ごめんだ、と抗弁を重ねようとしたら、頭上から「おい」と低い声が降ってきた。


 頭のてっぺんから爪先まで冷たいものが走り抜けるのを感じながら、僕は掠れた声で「…ハイ」と答えた。頭上を振り仰ぐ勇気はなかった。


「いい加減にしろよ。遊ぶんだったら帰るか?」

「…いえ、すみません」

「全く」

 長い鼻息を吐いて、長谷部先生は離れていった。僕も口から息を吐き出す。


「わー…。ドンマイ。てかなんかゴメン」

 服部の同情の眼差しに僕は力なく首を振った。

 そもそも宮前がことの発端なのだ。恨みがましい目で宮前を睨んでみる。…首を捻っている。なんにも分かっちゃいない。

「早くやろう…」

 とっとと終わらせて、宮前とのペアを解消しよう。

 

 僕がマットの上に座ってからも、服部は辺りをきょろきょろしていた。他に生徒が来ないか確認しているのだ。用意されているマットは四つあるので、同時に四組計測出来る。


「来ないね。じゃあやっちゃおっか」

 服部がストップウォッチを掲げる。


「もう座っちゃったけど、僕が先にいいか?」

「うん」

 しゃがんで僕を見下ろしている宮前に、「僕の足を持って」と頼むと、片足を掴み上げられた。何をやっているんだ。


「ぶはっ! ゴメン…っ」

 服部が後ろを向いて背中を震わせている。僕は痛みそうな頭を掻き、立ち上がった。

「先に宮前やろう」

「うん…?」

 不思議そうにしている宮前をマットに座らせ、向かいに腰を下ろす。


 宮前の両膝の裏へ腕を回す。と、宮前の足が片方跳ねた。

「どうした?」

 まさか初めてではあるまい。いきなり触ったからびっくりしたのかと顔を見てやったら、宮前はこれでもかというくらい目をいっぱいに見開いていた。


「宮前? 上体起こし知らない?」

「あ…いや、知ってる。ごめん」

 やっと思い出したのか、倒れるようにして宮前は背中をマットに付けた。


「じゃあいくよ~」

「お願いします」

「スタート!」

 服部の合図の後、宮前が上半身をリズミカルに上げていく。


 生白い足を抑える僕の目の前に、宮前の端整な顔が迫る。男に迫られたところで嬉しくはないが、顔が整っているだけに、ついつい目が引かれる。


「二十八、二十九…」

 とっくに疲れてもおかしくないのに、宮前は顔色一つ変えず、淡々と回数を重ねていく。この男、身体は固いくせに腹筋は強い。


「三十五…」

「ストップ!」

 背中を倒し、宮前が上半身を伸ばす。ふー、と長く息を吐いているので、それなりに疲れてはいるらしい。


 宮前の記録表に記入し、立ち上がる。

「じゃ、交替な」

「…うん」

 宮前と場所を替わり、膝を立てて身体を横たえる。宮前はおっかなびっくりで僕の足を抑えた。

「そんなビビらなくても…」

 思わず苦笑するも、宮前は生真面目な顔付きで、ハーフパンツから生えた僕の足を凝視している。


 そんなに見たって面白いものではないだろう。それとも絶対に間違えないように数えなければという、強い決意の表れだろうか。

 どっちでもいいか。服部が「スタート!」と声を発し、僕は上体起こしを始めた。


「ストップ!」

「あー、疲れた」

 ごわごわしたマットに身体を沈ませ、天井を仰ぐ。

「二十八回だ」

 言いながら、宮前が僕の分の記録を書いていく。

「そっか…」

 そこそこ良い記録ではあるけど、今回も宮前に勝てなかった。この後残されている種目を考えても、勝てる見込みはなさそうだ。天井に向けてため息をつく。


 そろそろ行くかと身体を起こす。しかし足が動かない。見ると。宮前がまだ僕の足を抑えていた。

「宮前…? 終わったからどいていいぞ」

 宮前はまだ僕の足を凝視していたが、僕に言われてやっと気付いたかのように急いで手を離した。

「悪い…」

「いや、いいよ」

 宮前と立ち上がり、服部に礼を言うと、ニヤニヤした顔で「お疲れ~」と言われた。


 なんでそんなに笑っているのか気になったけど、訊いたところで欲しい答えは返ってこなさそうだったので、僕らはその場を後にした。



 驚いたことに、握力で僕は宮前に勝った。

「やった…!」

 数キロ程度の差ではあるけど、勝ったことは勝った。宮前から受け取った記録表をほくほくと眺める。


「夏木って意外と握力あるんだな」

 宮前が半信半疑の目で僕を見る。

「そんなに大した数字ではないけどな」

 全国平均から見ても僕の握力は普通程度なので、あまり威張れない。

「ふーん」

 すっと宮前の手が伸びる。なんだ? と思う間もなく、手を握られる。

 

 腕を握られた時の比じゃないくらいにぎりぎりと握り潰され、悲鳴が出る。

「痛ぁっ!? なに!?」

 僕が悶えているさまを見て、宮前はけらけら笑った。宮前がこんな開けっ広げに笑うのは初めてで、僕は涙目になりながらも宮前から目が離せなかった。


「…やーめーろっ!」

 勢いをつけて、宮前の手から逃れる。宮前は僕の手を握っていた自分の手を、まだ薄い笑みを残したまま見つめていた。

 その姿がCMのワンシーンみたいに決まっていて、僕はまた、目が離せない。


「俺…」

 宮前が、ぽつりと零す。

「うん?」

「この学校に入って良かった」

 春の日差しのように、宮前は微笑む。


 宮前がこの高校を選んだ理由は、親戚が近くに住んでいるから。宮前自身が、そう言っていた。

 本当にそれだけが理由なら、宮前は高校生活になんの期待もしていなかったことになる。


 だけど、そんな宮前が、この学校に入ったことを喜んでいる。

 その喜びに僕も一役買っているのなら、こんな嬉しいことはない。

 

 溢れ出る嬉しさを噛み締め、僕は「そうか」と笑い返した。


 握力での勝利も束の間、本日最後の種目となる反復横跳びでは宮前に二十回近く差をつけて大敗という、なんとも忸怩(じくじ)たる結果となった。


 時間を計っていた我がクラスの体育係と、見回っていた長谷部先生は揃って宮前のフォームが美しいと僕を放って絶賛していた。別にいいんだけど、なんか悔しい。



 持久走を除く、全ての体力テストを終えた僕と宮前は更衣室代わりとなっている空き教室へ向かった。

「あ、五組男子の最後~」

 席で寝そべっていた一条が僕らに指を差す。


「みんなもう終わってたのか」

「俺らもさっき来たとこだけどね」

 辻井がワイシャツのボタンを留めながら笑う。その笑顔に、宮前と対峙していた時の剣呑さはない。


 教室には他に六組男子もいるが、そちらの人数はまだ半分のようだ。四時間目が終わるまで、後十分ほど。この分なら全員終わりそうだ。最初の心配は杞憂だったか。

「戻ったんなら自習してろよ」

「やるワケねぇーだろぉ? 俺は疲れてんの~。休ませてくれよぉ~」

 椅子をガタガタ引いて、一条は口を尖らせた。一応番号順に席は振り分けられているけど、着替える時は適当だ。疲れた疲れと連呼している一条は、僕の前の席にいた。

 疲れたのはみな同じようで、真面目に自習をしている生徒は皆無だった。


 まぁそれもそうか。

 僕も疲れたしちょっと休もう。緩慢な動作で体操服を脱いでいく。

 一条がぶーぶー言っているのを、小林も岡も笑って見ている。隣の席で、辻井も笑っている。

 

「なぁ宮前」

 後ろでのろのろ着替えている宮前に、そっと耳打ちする。

「ん?」

 瞼が降りかかっている。充電が切れそうだ。


「辻井にちゃんと謝っとけよ」

 武道場での一件を忘れていたらしい。なんのこと? と問いたげに瞼をひくひく動かしていたが、少しして思い出してくれた。

「あぁ、うん」

 こっくり頷いて、宮前は上だけ着替えた状態で辻井の元へ寄った。着替え終わってからで良くない?


 着替えを終えた辻井は、脱いだ体操服を鞄に仕舞っていたが、宮前に気付くと身構えるような姿勢を取った。

「なに?」

 声に警戒心が滲んでいる。辻井はしっかり覚えていた。


「その…さっきは悪かった」

 目を伏せ、口を小さく動かしながら、宮前は素直に謝った。

 辻井は珍獣を見つけたような目付きで目をぱちぱちさせていたが、ちょっと不貞腐れた格好の宮前を見て、口元を緩めた。

「いいよ。俺もムキになってたし」

 ね、と僕に笑い掛ける。確かにあの時の辻井は普通じゃなかった。曖昧に笑い返す。


「なになに? なんかあったのん?」

 辻井と宮前という、珍妙な組み合わせの喧嘩に興味を示した一条が、椅子に座ったまま身体を後ろに捻る。

「なんでもないよ」

 辻井がからかうように歯を剥き出す。宮前はもう仕事は果たしたとばかりに、席に戻って着替えを再開している。


「なんだよそれ~」

 一条のブーイングが鳴る。実際、あの時何が起こったのか、何が理由だったのか、僕も宮前自身も解っていないように思えた。

 辻井だけが、正確に理解している…と思う。


 今にも寝落ちしそうな緩慢さで学ランを羽織る宮前を、ちらっと見る。

 ただの体力テストだったはずなのに、色々あった。こんなに疲れているのは、何もテストのせいだけではない。

 それでも、宮前のことを前より知った。


『俺には、なんにもない』

 寂しげだった横顔が、今の眠そうな宮前と重なる。

 宮前がもっと、この学校に入って良かったと思えるようになってほしい。なんにもないはずがない、と宮前自身も思えるように。

 心がふわりと浮き上がるような、不思議で、でも心地好い気分のなか、僕は着替えを終えた。



「俺さぁ嫉妬してたんだよね」


 そんなことを、辻井がふっと漏らしたのは、帰りのホームルームを終えてみんなが帰る頃だった。

 早く帰って寝たいのか、宮前は学校が終わるとさっさと帰って行く。今も、もう後ろの席は空っぽだ。


 ガタガタと椅子を鳴らしながら、クラスメイトが少しずつ教室を出て行く。この後の予定を話しながらはしゃぐみんなをよそに、僕らはまだ席にとどまっていた。

「嫉妬?」

 机に乗せた藍色の鞄に顎を埋めて、目だけを上げる。窓の外では運動部の掛け声やら、帰宅する人たちの騒ぎ声やらが響いているけど、海の向こうにいるみたいに遠く聞こえる。

 あの時みたいだな、と辻井の家に行った日のことを頭の片隅でぼんやり思う。鳴いているカラスの声も、車の走る音も、何もかもが遠かった。

 向かいに座っていた辻井だけが、確かな存在だった。


「そう、嫉妬」

 横向きに座る辻井が、誰もいない隣の席へ向けて顔を崩す。

「青葉とペアになった宮前が羨ましかった。替わってもらおうかと一瞬考えたけど、小林に悪いかなと思ってやめたんだ。小林とやるのも楽しかったし」

 ペアを替えてもらおうなんて、全く思い付かなかった。そういえば明らかに番号の繋がりがないペアは何組かいた。女子ならあるだろうけど、男でそれをするのはいささか行き過ぎな気もする。


「そっか」

 結果的に、替わらなくて良かったと思う。ペアになったから宮前のことを知れたし、それなりに楽しかった。辻井と宮前が喧嘩したり、先生に怒られたりもしたけど。


「だからさ、武道場で会った時、結構ショックだったんだよね。なんか二人がすごい自然で。もうずっと前からの親友みたいな感じが出てて」

「なんだそれ」

 思わず吹き出してしまったが、辻井はいたって真面目に話している。横顔も、なんだか寂しげだ。


「そんで、俺は青葉に会えて嬉しかったのに、宮前に邪魔されて…。宮前に『青葉は俺のだ』って牽制された気がして」

「そんなワケ…」

 まさか、と頬を引きつらせる僕に、辻井は「俺にはそう感じたんだ」と静かに言う。


「だから青葉が取られちゃう、って怖くなった。ちょっと見てない間に宮前、すごく青葉に懐いてたし」

「取られるって…何言ってんだ。でも懐いてたか?」

「懐いてたよ。信頼してた、でもいい」

「へー…」

 そんな風に見えてたのか。胸の辺りがこそばゆい。宮前の嬉しそうな顔が、遠くに浮かぶ。


「何があったのさ」

 辻井が、じとっとした目を僕に向ける。今日は辻井の色々な顔が見られる日だ。


「や、大したことは…」

「ウソ。絶対なんかあった」

 辻井の目の暗さが増す。こんなにどんよりした目を向けられると、心が揺らぐ。

 宮前の個人的な話を、僕が勝手に人に話して良いものだろうか。


「えー!! 絶対そうだってー!」

 教室の端で、ひときわ大きな声が上がる。教室に残っているグループは僕らを入れて三組ほど。女子特有の甲高い声に、辻井が反射的に視線を流す。どんよりでも暗くもない、素の表情で。


 辻井の、そんな無防備な顔を見ていたら、口から勝手に零れ出ていた。

「宮前が『自分には何もない』って言ったから、そんなことないって言ったんだ」


 え、と辻井が顔を振り向ける。僕は顎を鞄に埋めたまま、話し続ける。

「そしたらアイツ、家のこととか話し始めて…。やたら寝るようになったのも家の事情が関係してるんだって」

 鞄に吸い込まれていくかのように、声がくぐもって聞こえる。ちゃんと辻井に届いているのか不安なくせに、顎を上げようとは思わなかった。少しでも動けば、この空気が壊れそうに思えたから。


 辻井の茶色の目が、覗き込むように僕を見ている。僕は視点が定まらなくて、目があちこちへ動く。

「まぁそれで…アイツの中で距離が縮まった…のかもしれない。僕は聞いてるだけだったけど」

 話を断ち切るように、「そんだけ」と添えて口を結ぶ。

 

 辻井はしばらく何も言わず僕を見ていたけど、息を吐くようにして「そっか」と呟いた。

「それじゃあ宮前が懐くのもしょうがないね。俺と一緒だ」

 一人で納得しながら、辻井は横へ顔を戻した。その横顔に、さっきまでの暗さや寂しさはなかった。


「一緒って?」

「ヒミツ」

 にっと屈託なく笑う。気になるけど、こうなると教えてはくれないだろう。


「でもやっぱり妬けるなぁ。宮前まで青葉の良さに気付いちゃって…。俺の方が先に青葉を見つけたのに」

 頬を膨らませ、足をぶらぶらさせる。子供みたいな拗ね方が可笑しい。

 でも大事な宝物を取られたくなくて、必死になっているみたいにも見えたから、どうにか慰めてやりたくなった。


「じゃあ連絡先、交換しよう」

 こんなことが慰めになるかは疑問だったけど、辻井なら喜んでくれそうな気がした。

 勢いよく、辻井の首が回る。目がいっぱいに開かれた顔は、驚きに満ちていた。

「…連絡先?」

「うん。番号とかIDとか」

 メッセージアプリの名を告げると、辻井の顔が光が射したみたいに明るくなった。


「する! 俺、友達と連絡先交換とか初めて!」

「僕も高校に入ってからは初めてだ」

 校内で携帯電話は使えないので、ノートの隅を破って切れ端に電話番号とアプリのIDを記す。

「はい。帰ったら掛けて」

「うん!」

 僕が渡した番号のメモを、辻井はとてもとても大事そうに受け取った。


 いつのまにか、教室は他に誰もいなくなっていた。二人きりとなった教室で、僕らは向かい合う。

「ありがとう、青葉」

 窓からの午後の光が、辻井の顔を照らす。オレンジの髪が、溶けそうな笑顔が光り輝く。

 抱いた嫉妬や羨ましさを、素直に認められる人間は少ない。辻井の素直さが、僕には羨ましい。

 僕は眩しさに目を細めながら、「いいよ」と笑い返した。



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