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落陽  作者: いっくん
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辻井想一

 入学式の翌日から、当たり前だけど僕は自力で登校することになる。


「行って来ます」

 玄関を出て、顔だけ振り向ける。

「いってらっしゃーい」

 保育園児の弟が小さな手を一生懸命に振る。あまりの満面の笑みに、僕まで笑いそうになる。


 その弟の後ろから、泣き声が近付いて来る。

「やーだー! あおちゃんいかないでー!」

 顔をぐしゃぐしゃに泣き濡らして、今年三歳になる妹が両手を広げて走って来る。

 長い春休み中、毎日のように朝から遊びに付き合っていたものだから、妹はまだその習慣が抜けないでいる。幼い妹には、まだ学校とか春休みとかが判らない。


 昨日の入学式は朝から祖父母が家に来て妹の世話をしていたから、僕の不在に気付かなかった。

 今日からは、そうもいかない。

「あおぢゃんんんんー!!」

 ゴジラみたいな激しい雄叫びを上げて、妹が玄関を飛び出そうとする。


「危ないっ、」

 僕が抱き止めるより早く、母が後ろから妹の脇を両手で掴み上げた。

「こらっ! あおちゃんは学校! こーちゃんは保育園でしょ!」

「やぁだぁあ!!」

 母の腕の中で、妹が身体を捻って暴れる。


「こーちゃん、おれとほいくえんいくんだよ!」

「ほいくえんいかないいいっ!!」

 ぎゃんぎゃん泣き喚く妹を見ていると、可哀想になってくる。けれど母が『行け』と目で合図を送っているので、僕は行かなくてはいけない。

「じゃあまた帰ったら遊ぼうな」

 手を振り、門扉を開けてそそくさと家を出る。弟の「いってらっしゃいー!」と妹の「あおぢゃんんんー!!」が朝の空に木霊(こだま)した。



 歩いて十五分の通学路を、僕はのんびりと行く。桜の樹が、朝の光が、飼い主と散歩する犬が、僕の目には全て新鮮に映った。

 慣れたら惰性で歩くようになる。景色など楽しむことも忘れるのだろう。だから今日は、意識してのんびり歩く。


 一軒家の表札の名前を片っ端から読んでみたり、側の道路を走る車の運転手の顔を覗いてみたり、我ながらずいぶん子供っぽい歩き方をしている。一人じゃないと出来ないことだ。

 学校に近付くにつれて、ちらほら同じ高校の生徒が見えてくる。先輩なのか同級生なのかは判らないから、顔は見ないでおく。たまに現れる男子に、心が浮き立つ。


 僕の通学路の、学校を挟んだ反対側には駅がある。駅から学校は大体徒歩二十分の距離だから、歩く者と自転車を使う者が居る。バスもあるとは思うが、学校の近くにはバス停が見当たらないため、利用する者は少なそうだ。


 校門付近で、僕の通学路から来た生徒と反対側から来た生徒が混ざり合う。このるつぼのような場所に、僕も加わる。

 校舎に取り付けられた時計を見上げると、最終登校時間の十五分前。そのせいか生徒の数が多く、校門前はセーラー服と少しの学ランでひしめき合っている。彼らの笑い声が青空に吸い込まれるのを聞きながら、校門をくぐる。


 昇降口で靴を履き替え、三階へ上る。朝から三階分も階段を上るのは億劫だけど、いずれ慣れるのだろうか。

 

 教室へ入ると、辻井が隣の女子生徒と喋っている。もう女子とも仲良くなったのか。改めて、彼の社交性に舌を巻く。

「あ、青葉おはよー!」

「うん、おはよう」

 辻井の隣の席の女子も、「おはよう」と笑顔で言ってくれた。気恥ずかしいのを堪えて、僕も「おはよう」と返す。いい子そうだ、とひとまず安心する。


 他の男子は来ていないのかと思ったけど、岡と小林は教室の隅の方で談笑していた。気が合うのだろう。その輪に入る勇気は無いので自席へ向かう。

「……」

 無意識に眉間が力む。僕の後ろの席では、宮前がまた突っ伏して寝ていた。規則的に上下する背中が腹立たしい。


 ここは気にしないのが一番だ。ため息が出そうになるのを堪え、着席する。

 学校指定の鞄から筆記具を出していると、

「また寝てるね、宮前くん」

 隣から、声が掛かった。僕の隣の席の女子が、頬杖を突いて僕を見ていた。正確には、僕と宮前を。


「あ…うん。そうだね」

「私が来たのって結構早かったんだけどさ、もう寝てたよ」

 名札には小川とある。首に掛かる程度の髪は外側に跳ねていて、目は吊り目がち。一見すると気が強そうだけど、声色は優しげで人を安心させる作用があった。昨日、二人の女子と喋っていた光景が思い浮かぶ。

 今は一人のようだ。隣の席ということで若干の緊張を感じながら、「そうなんだ」と無難に応えておく。


「ずーっと寝てるよね。病気なの? ってくらい」

「病気…あり得るかもね」

 背後をちらりと見る。意思とは反対に、眠り込んでしまう病気があることは知識として知っていた。宮前がその患者である可能性は十分に考えられる。宮前によく似た、美しい母親の心配そうな眼差しは、まだ瞼に焼き付いていた。


「私さぁ、昨日見てたよ」

「え?」

 小川の目が、意味深に光る。

「入学式の間、ずーっと宮前くんに寄り掛かられてたでしょ」

 心臓が、大きく弾む。

「…見てたんだ」

「そりゃあ私、夏木くんの後ろだったしね」

 可笑しそうに喉を鳴らす。

「まぁ後ろに居た人たちはみんな見てたよ」

 身体をずらし、小川は後ろの席の女子にね、と

同意を求めた。

「あぁ、うんうん。すごい面白かったね」

 小川の後ろの女子は、元々僕らのやり取りを見ていたのか、突然話を振られても大して驚きもせず、小川と一緒になって笑った。


「僕は大変だったけどね…」

「だろうねぇ」

 小川が可笑しいとばかりに囃す。後ろの、名札から加藤という女子も面白がっていたが、「でも」と口先を尖らせた。

「すごいイケメンが隣だからラッキーって思ったけど、寝てるんじゃつまんない」

 どうにかして顔を覗こうと隣へ首を伸ばす。その姿が滑稽で、僕は小川と笑ってしまう。


「や、でもね」

 ひとしきり笑った後、小川は表情を引き締めた。そして僕に指を差し、

「私には見えるよ。この先、宮前くんのお世話係になるのは夏木くんだって」

 世にも恐ろしい予言を突き付けた。

「うちにも見えるわ」

 加藤は腹を抱えて笑ったが、僕は気が気でなかった。


「いや、それは困るんだけど…」

「諦めな」

 小川の哀れみの目がレーザーの如く胸を深く抉る。冗談じゃない。もう昨日みたいなのはごめんだ。


「なに? なんの話してるの?」

 僕の悲鳴じみた声を聞き付けた辻井が振り返る。一緒に喋っていた隣の女子もこちらを見る。

「夏木くんが宮前くんのお世話係になるって話~」

 小川が無責任に告げる。「え?」と辻井の目が大きく開く。

「ならないならない!」

 僕が必死に否定しても、小川と加藤が話を進めていく。辻井の隣の女子は吹き出していたが、辻井は困ったように首を捻っていた。


 僕らが大声で喋っていても、チャイムが鳴る一分前に一条が教室に滑り込んで来て、みんなの拍手を貰っている間も、宮前に起きる気配はなかった。



 宮前がようやっと目を覚ましたのは、朝のホームルームを終え、身だしなみ検査で体育館に向かう時だった。

 重そうな足取りで僕の後ろを歩いていた宮前は、体育館の床に腰を下ろした途端、またかっくりと首を落とした。


 身だしなみ検査は六クラスを半分に分けて、一組からと三組から、順番に教師が見ていく。それぞれ三人ずつ居るから相当厳しくチェックされるのが予想される。僕らのクラスを担当するのは生活指導の主任だという狸みたいな体型の男と、やはり生活指導担当の逞しい体型の男、一組の担任の女性だった。スカートの丈、髪の色、耳にピアス穴が開いていないかなど、チェック項目は多岐に渡る。

 スカートを折っていた女子たちが慌てて丈を直している。一条などは中学校の卒業記念で耳に穴を開けたらしく、もう減点が確定したと項垂れている。


 僕は基本的には大丈夫、なはず。ただ一つ、懸念材料があった。

「青葉の髪って地毛?」

 前に座る辻井が、身体を後ろ向きに回転させる。

「おまえがそれ言うの…」

 オレンジ色の髪がわんぱくな犬のようにあちこちに跳ねている辻井に言われると、つい渋い顔になってしまう。


「俺は地毛だよ~。青葉も?」

 口をいっぱいに広げ、辻井が大きく笑う。この後のことを思うとため息が出そうになる。

「地毛だよ…」

「へー! すっごい茶色い! 栗色ってやつ?」

 辻井の目が興味津々に光る。


 一度も染めたことはないし、水泳に励んでいたわけでもない。なのに僕の髪は昔から茶色かった。光の加減によっては赤みを帯びて見えることもある。辻井の言う栗色は、言い得て妙な表現といえた。

「父親が茶色いからかな」 

 母は黒髪だけど、父は赤茶色の髪をしている。僕よりも赤みが強くて明るい。

「辻井も? 姉ちゃんも同じ色だったよな」

 膝を崩して、軽くあぐらをかく。長い順番待ちで、生徒たちはみなだらけた姿勢になっていた。


「あー。まぁ…俺は爺ちゃん…かな?」

「かな? って言われても…」

 辻井の気まずそうな顔を見て、しまった、と思った。辻井に家族の話はタブーだと、昨日学んだばかりなのに。

 かといって全く触れないでいるのも不自然だ。辻井だって、気を遣われ過ぎるのもイヤだろう。


 話題を変えようかと悩んでいたら、前方で空気の流れが変わったのを感じた。

 目線を向けると、不貞腐れた顔の一条が三人の教師に囲まれていた。

「あ、うちのクラス始まったね」

 僕の動きに合わせて顔を振り向けた辻井が、のんびりと言う。

「…そうだね」

 体育館へ移る前に嘆いていた通り、一条はピアス穴について注意を受けていた。髪を短く刈り上げた女性教師が、ボールペンの頭をしきりに一条の耳へ向かって振っている。彼女も二人の男性教師も、みな険しい顔だ。よほどピアス穴がお気に召さないらしい。

 一条の耳に開いた、点のような小さな穴が瞼の裏に蘇る。あんな些細なものに、あそこまで目くじらを立てているのなら、僕や辻井の髪色はどうなるんだろう。


 入試の日の記憶が、頭で揺れる。人生で大事な局面となるこの日、僕は頭を黒く染めて臨んだ。中学の担任教師からそう勧められたのだ。地毛だと言っても信じない面接官もいるだろうから、と。

 釈然としない気持ちもあったが、担任の意見は尤もだと思ったから、前日に自宅で黒髪にした。染めている間、父は苦笑していたけど母は複雑そうな顔をしていた。

 不自然なほど黒くなった髪は、僕を落ち着かなくさせ、ただでさえ緊張で潰れそうだった心をさらに追い詰めた。


 あの時の、鉛を呑み込んだような気持ちが、胸の内で立ち上る。

「辻井はさ、入試の時に髪染めた?」

 辻井が顔を僕の方へ戻す。

「ううん、染めてない」

 何が可笑しいのか、辻井の顔に笑みが広がる。柔らかそうな髪を搔き撫で、

「これは地毛です、って姉ちゃんに一筆書いてもらって提出したからね」

 得意満面に言う。

「そうなのか…」

 僕もそうすれば良かったのだろうか。いや、でも、だとしても目立ちたくないから、胸にもやもやした気持ちを抱えたままみんなと同じ色になることを望んだだろう。


「じゃあ今回も提出したのか?」

 ならコイツは安心か、と思ったのに、辻井は笑顔で「ううん、してない」と言ってのけた。

「え、なんで」

 驚いて前のめりになった僕に、辻井は軽い口振りで続ける。

「んー、めんどくさかったから? あと…また姉ちゃんに守ってもらうのは違うかなって思って」

「え…」

「だって悪いことしてないんだから堂々とすればいいじゃん。俺はただ、誰にも否定されず俺のままでいたいだけだから」


 胸を突かれ、言葉を失う。口を半開きにして見つめてしまう。辻井の屈託のない笑顔が、急に大人びて見えた。

 あの時感じたのは、こういうことだったのか。形にならなかった僕の不満が答えを貰って、胸の中の、あるべき場所に収まる。

「そうか、そう…だな」

 かっくりと頷いた僕に辻井はもう一度笑って、立ち上がった。


 ああ、と頭上を仰ぐ。辻井の番がとうとう来た。

 

 平常に戻っていた三人の教師の顔が、辻井の髪を見て再び険しくなる。

「辻井、髪は染めたのか?」

 刈り上げの女教師がボールペンを顎に当てて訊く。

「地毛です」

 飄々とした態度で辻井は答える。


 狸体型の生活指導主任が分厚い唇を震わせる。

「証明出来るものはあるか?」

「ありません。必要ですか?」

 不思議そうに訊き返す辻井を、周りの生徒が唖然とした顔で注目する。僕もまた、目が離せないでいた。


 狸主任の顔が一層険しくなる。臨戦態勢に入ったのを感じ取り、まだ順番のきていない僕まで身構えてしまう。

 だが今にも口から火を吐きそうな狸主任を、刈り上げ女教師が手をかざして止めた。

「辻井、小さい頃の写真を持って来なさい。一枚でいい」

 辻井の顔が、笑みから驚きへと変化する。

「辻井が嘘をついているとは思わない。だけど信じきれない人もいる。その人たちのために、持って来てほしい」

 刈り上げは生徒に対してというよりも、一人の大人に懇願するように、真剣な顔で言った。


 辻井の顔も、真剣なそれになる。

「…はい」

 

 辻井の返事を受け取った刈り上げは、目線をこちらに落とした。

「夏木、あなたも持ってきなさい」

「は、い」

 気圧されたかの如く動けない僕を、刈り上げは素通りした。僕の身だしなみ検査を省略したことに、二人の男性教師は怪訝そうにしていたけれど、刈り上げに倣って僕の横をすり抜けていく。


「宮前、起きろ」

「あー…はい」

 背後で宮前の検査を聞きながら、僕は知らず、安堵の息を吐いていた。


「青葉」

 辻井が僕に身体を向けて座る。

「なんとか突破したね」

 ピースサインを作って、辻井は何事もなかったように朗らかに笑う。

「突破…したか?」

「したした! 話の分かる先生で良かったー!」


「そう…か? まぁそう、だな」

 刈り上げの指示は確かに納得のいくものだった。規律の厳しいこの高校で、あの人はかなり譲歩してくれたのだと思う。それにあの真剣な口調も、僕らを一人の人間として認めてくれているように感じられた。

「そうだよ!」

 嬉しそうに笑う辻井に、僕も薄く笑い返した。



 長い身だしなみ検査が終わり、教室に戻って少しの休憩の後、クラス委員決めのホームルームが始まった。

「はぁーい、私が委員長やりたいでーす」

 教室の真ん中の列に座る、背の高い活発そうな女子が右腕を垂直に伸ばす。

「他にいないか~?」

 池田先生が教室を見回すが、他に手を挙げる者はいなかった。委員長なんていう面倒な役割、みんなやりたくないのが本音だろう。ご多分に洩れず、僕も自ら立候補した酔狂な女子を他人事のように眺めていた。


「ね、青葉はなんか委員会やる? それとも係?」

 辻井が身体を真横にずらし、僕の机に片肘を乗せて訊く。

「んー…。特になんでもいいけど…」

 各委員会は一人ずつ、教科係は二人ずつで担うことになる。それ以外の生徒は無所属となるが、後期では優先的に役割を課される。

 黒板に書かれた委員会や教科係の名前を目でなぞっていく。

「強いて言うなら図書委員会…かな?」

「へぇ。青葉って本好きなの?」

「うん、よく読むよ。図書館ばっかだけど」

 父親が本好きな影響で、僕も小さな頃から本を読んでいた。本を開くと、それまで知らなかった世界が目の前に広がる感覚が好きだった。


「へぇ! 家にもあんの?」

「うん。図書館で借りて気に入ったら本屋で買ってる」

 僕が頷くと、辻井の目がぱっと光った。

「じゃあ俺にお薦めの本貸してよ! 俺もちょっとは読む方だからさ」

「そうなんだ。じゃあ辻井もなんか貸してよ」

「あー、俺持ってないんだよね。図書館とか店に行って読んでたからさ」

 辻井の、髪よりは淡い色の眉がすまなそうに下がる。

「ふーん。欲しいとかは思わないんだ?」

 何気なく訊いたつもりだった。それとも欲しいと思えるほどの本にはまだ出会っていないのかな、と頭の片隅で思った程度だった。


 だけど辻井の顔が一瞬だけ、苦しげに歪むのを見て、僕はまた間違えたことを知った。

 唐突に、拍手が湧き起こる。クラス委員長が決まったのだ。他に立候補者はいなかったようで、挙手した女子で無事に決まったらしい。席から立って照れ臭そうに挨拶する彼女を、辻井も顔を逸らして見る。

「親が厳しかったからねぇ」

 意識して平気そうに笑う横顔に、酷く胸が締め付けられた。


「そっか…」

 委員長が決まって、次は委員会を決めていく。順番に挙げられていく委員会の名前に、手が挙がったり挙がらなかったりする。図書委員の順番を待ちながら、辻井の横顔に目がいってしまう。

「ね、青葉」

 辻井の顔がぐるりとこちらに向き、油断していた僕はのけ反りそうになる。

「な、なに?」

「今日さ、俺の家に来ない?」

「へ?」

 いきなりどうした? というかなぜ今?


 疑問が顔に出ていたのだろう、僕の顔を見て、辻井はぷっと笑った。

「そんなに驚かなくても」

「いや、だって急過ぎて…」

「写真を持ってこいって言われたじゃん?」

 辻井の顔が、また横を向く。委員会決めは保健委員まで進んでいた。図書委員はまだ先だ。


 教室はうるさいほどではないけれど、それなりに賑やかだった。その中で、辻井だけが、楽しそうにしているみんなとは違う世界にいるように見えた。

 初めて見る静かな顔で、辻井は息を潜めるようにして続ける。

「アルバムを見るの、俺、結構勇気いるから、青葉に(そば)にいてほしいんだ」


 遠い遠い場所から、叫んでいるような声だった。必死に居場所を伝えているような。

 必死な声が、僕の胸を打つ。

「…お姉さんに見てもらえば?」

「ダメだよ。姉ちゃんも、アルバム見るの辛いから。巻き込みたくない」

 苦笑する声は、作り物めいていた。


 今僕は、辻井の、心の繊細な部分を見ている。唐突に悟って、肩が重くなるような、息がしづらいような気持ちになる。

 だけどどうしようもなく、辻井の側に行きたいと思った。


「辻井…」

「あ、次図書委員だよ。青葉、手挙げなきゃ」

 今まで話していたことなんてまるで些細なことだったかのように、辻井は元の無邪気な笑顔に戻って言った。

「あ、ああうん」

 戸惑いながらも、僕は池田先生の合図に合わせて手を挙げた。


「お? 夏木だけか? じゃあ図書委員は夏木で決まりな~」

 池田先生が、黒板の図書委員の欄に僕の名前を書く。あまりにもあっさり決まって、拍子抜けしてしまう。

「良かったね、青葉」

 辻井がにっこりと微笑む。「うん…」と返す僕は、図書委員に決まった嬉しさよりも、辻井の誘いの方が気になっていた。



 昼休みになり、みんなが持参した弁当を取り出し、気の合う級友と机を引っ付けて食べ始める。

 さすがに初日から一人で食べる者はおらず、僕は勝手にほっとしてしまう。別に一人でも本人が平気なら問題などないのに、一人で食べる人は可哀想という世間の感覚は、僕にも少なからず染み付いているようだ。


 僕ら男子はというと、一条が空いていた僕の隣の席に来た以外は、席を移動する者はいなかった。

「ピアスの穴、塞いでこいって言われたんだよ? んなすぐに塞がるワケねーじゃん」

 弁当を搔き込みながら、一条が身だしなみ検査への不満を語る。

「そーなの? でもそんな大きな穴じゃないからわりと早いんじゃない?」

 身体を横にして食べている辻井が、あははと笑う。膝に乗せている弁当は彩り豊かで、さぞかし写真映えしそうだ。


「言われたのはピアス穴だけなのか?」

 僕が訊くと、一条は初めきょとんとしたけど、僕が彼の針山みたいな頭を指差すと、「ああ」と合点がいったように頷いた。

「まぁこれもすげぇビミョーな顔してたけど、あっちにとっては耳の方が重要みてぇだな」

 やれやれという顔で髪先を弄る。


「まぁパーマとか掛けてる子もいるらしいしねぇ」

 辻井がのんびりと米を粗食する。

「へぇ…」

 僕とずっと一緒にいるのに、辻井はどこでそんな情報を手に入れてくるのだろう。見れば判るものなのだろうか。昨晩の夕飯の残りの肉団子をつつきながら、頭の半分で思う。


 給食じゃないというのは変な感じだ。温かいご飯が食べられるというのは、とても幸せなことだったのだと思い知る。雑だが味は良い、母の弁当は温めたらきっともっと美味しいはずだ。

「塞がったらまた見せにこいって言われたんだぜ!? ダルいわマジでー」

 辻井の前の席で弁当を食べていた小林と岡に、一条はなぁ!? と意味のない同意を求める。いきなり振られた二人は「そーだな」「自業自得だろ」と苦笑するよりほかない。


「疑問なんだけどさ」

 僕が切り出すと、一条が「ん?」とこちらに意識を向ける。

「なんで一条は、こんな校則の厳しい学校校に来たの? もっと校則が緩くて入りやすい高校なんて、この辺他にもあるだろ」

 商業高校自体校則が厳しいものだけど、ここ浦風(うらかぜ)商業高校は特に厳しい。そのおかげか県内での就職率は常に上位で世間の評判も良いので、効果はあるのだろう。


 一条はふっ、と不敵に口角を上げた。

「そりゃあもう、女子が多いからに決まってんだろ!?」

 腕を広げ、品のないことを宣う。

 男子列の隣の席の女子はみな散ってしまっているので、女子に一条の台詞が聞こえていないのがせめてもの救いか。


「女の子好きなんだぁ」

 辻井が可笑しそうに笑って一条に指を差す。

「そう! ここで俺は恋愛して青春する!!」

 燃える一条に「頑張れ…」ととりあえず言っておく。


「辻井は新しいことしたいって言ってたじゃん? 夏木は? なんでここ入ったの?」

 一条に訊かれ、僕は間髪入れずに「近いから」と即答する。

「それだけ?」

「だけ」

「マジかよぉおお!!」

 あり得ないと驚く一条。女子目当てに選んだヤツに言われたくない。

「おまえよりはマシだと思うけど」

「似たようなもんだろ~」

 僕に箸を差してきたので「行儀悪い」と眉をひそめれば、辻井がけらけら笑った。


「んで、宮前は? なんでここなん?」

 僕の後ろでもそもそとおにぎりを食べていた宮前が、ゆっくりと顔を動かす。

 ホームルーム中ひたすら寝ていた宮前は、昼休みが始まった途端、起きておにぎりを食べ始めた。寝ている間に、余っていた『生物係』を池田先生に押し付けられていたけど、ちゃんと把握しているのだろうか。


 宮前は暫くなんと答えようか考える顔をしていたけど、おにぎりを食べ終えると口を小さく開いた。

「この学校の近くに親戚が住んでて、帰りに寄って昼寝出来るから」

 僕も一条も、辻井まで絶句してしまう。そんな理由で…?

 だけどこの二日で宮前がどれだけ寝ることに命を懸けているのか知ったから、そんな理由でも納得出来てしまう。


「おまえさぁ、なんでそんな寝るの? なんかビョーキとか?」

 一条が、思わずという調子で訊く。ついに訊いた! と、僕もドキドキしながら宮前の様子を窺う。


 しかし宮前は、少しの無言の後、

「まぁ…色々」

 と、目玉を明後日の方へ回して答えをはぐらかしてしまった。

 答えたくないのか、と僕らは宮前の意向を汲んで、それ以上探るのをやめた。

 ただ、宮前が寝続けること、教師がそれを黙認していることには、やはりなんらかの理由があることは知れた。



 弁当を終え、ホームルームを済ませると、もう下校となる。明日からは授業が始まるので、ゆっくり過ごせるのも今日までだ。明日の持ち物を確認していた僕の頭上に、ぬっと影が落ちる。

「青葉」

「あ、辻井」

 辻井の誘いに返事をしていなかったことに、今になって気づく。


 元より答えは決まっていた。だけど辻井の顔が真剣で、僕は少しだけ躊躇してしまう。

「…ダメ?」

 真剣な顔が、飼い主に縋る犬のようになる。それが可笑しくて、口元が緩む。

「行くよ。僕も辻井の家、行ってみたい」

 辻井の顔に、光が満ちる。初めて会った時と同じ、太陽みたいな笑顔。

「ありがとう!」

 鞄を肩に引っ掛け、僕らは教室を出た。


 門を出て、駅を目指す生徒が作る群れの後に続く。朝より人数が少ないのは、部活や何かの理由で学校に残っている生徒もいるからだろう。

 家路とは反対方向の道。地元なので全く知らないわけでもないけど、景色が新鮮に見えるのはなぜだろう。

「俺の家はねぇ、電車で一本なの。三十分くらい」

 隣に並ぶ辻井がにこにこと語る。

「へぇ。結構遠いんだな」

「ちょうどいい距離だよ。朝の匂いを嗅ぎながらのんびり歩くの好きなんだ」

「辻井らしいな」

 一分でも通学距離を短くしたい僕とは、根本的に考え方が違う。

「そうかな」

 はにかむ顔に、教室で見せた消えそうな横顔の面影はない。


 辻井の向こう側には車道があって、車が行き来している。駅から近いこともあって、交通量が多い。辻井に視線を流しながら、行き交う車にも目がいく。

 僕の通学路だって車の往来はあるけれど、住宅街に近付くにつれて、車道からは遠のいていく。どんどん賑やかになっていく、辻井の通学路とは正反対だ。この違いを知っただけでも、辻井の家に行くことには意味があったのだと思える。

 辻井の家で他にどんな意味を見出だすのか、僕は微かに緊張していた。


 駅に着くと、辻井は真っ直ぐ改札へは向かわず、コンコースを奥へと進んだ。

「電車乗るんだよな?」

「乗るよ~。でも青葉に見せたいものあるんだ~」

 背を向けたまま辻井は答える。声は浮き立っていて、面白いものがあると期待させる口振りだった。

 浦風駅は僕にとっても最寄駅ではあるものの、普段電車を使うことがほとんどないため、駅に何があるのか想像出来ない。


 バス停へ続く出入り口の手前で、右折して暫く進むと、辻井は身を翻して止まった。

「じゃじゃーん」

 辻井が腕を伸ばして指し示した先には、『うらかぜわくわく園』というカラフルな文字が壁で踊っていた。

「保育園?」

「今年できたんだって。知ってた?」

 作戦が成功したという、得意そうな表情で首を傾げる。


 ガラスの壁の向こうにはオモチャがたくさん転がっている。そのオモチャで遊ぶ、幾人もの幼児たち。二歳くらいの子や五歳くらいの子など年齢はばらばらで、その幼児たちと保育士たちが一緒に遊んでいる。

「そーいえばそんな噂を聞いたような気も…」

 今年に入ってすぐ、母が『駅に保育園できるんだって!』と興奮した声でまくし立てていたのを、今になって思い出す。

 母は妹をそこに入れようか悩んだが、弟と一緒の方が良いだろうと結局諦めていた。

 

 もしかしたら、この中に妹がいたのかもしれない。思い思いの遊びを楽しむ幼児たちを、不思議な気持ちで眺める。

「朝と帰りにここを覗くのが日課なんだ」

 辻井も一緒に眺めて、秘密基地の在りかを教えるみたいに言う。

「不審者じゃん」

「不審者仲間はいっぱいいるから大丈夫」

 辻井が周りに視線を流す。僕もそれに倣うと、僕らと同じように微笑ましそうに保育園の様子を眺める人たちの姿があった。


「こんな丸見えって大丈夫なのか」

 このご時世、子供たちを衆人環視の目に晒すのは問題ないのだろうか。僕が懸念を口にすると、辻井は「さぁ?」と首を捻った。

「まぁ見えるのはこのスペースだけだし、ここまでわざわざ見に来る人も少ないからいいんじゃない?」

 中を見通せるガラスの壁は三メートル程度の横幅だけで、子供たちが遊んでいる部屋は、実際にはもっと広いようだ。奥には別の部屋が続いているようにも見える。

「まぁ…そうか」

 こちらの通路には保育園しかないので、ここまで来る人は保育園に用があるということになる。そういう人間が来ると、保育士が逐次チェックしているのだろう。こうしている間にも、何人かの保育士が時々僕らに確認の目を向けている。


「こういうの見てると、俺にもこんな頃があったんだなぁって思うんだ」

 子供たちを眺めながら、辻井はしんみりと語る。

「辻井もああいうので遊んでたんだ?」

 動物のぬいぐるみ、積み木、ボール。どれも、僕もお世話になっていたオモチャばかりだ。それらのオモチャは弟や妹に引き継がれ、今も頑張ってくれている。


「どうかな。俺、勉強ばっかさせられてたから、あんまりああやって遊んだ記憶がないんだ」

 えっ、と隣へ首を回すと、辻井はにっこり笑って、

「じゃ、行こっか」

 保育園に背を向けて、来た道を歩き始めた。


 辻井は慣れた手付きでICカードを通して、改札口を(くぐ)っていく。カードを持っていない僕は切符を買って、慎重な手付きで改札口に突っ込んで辻井の後を追う。周りを見るとみんなICカードを使っていて、切符を使う僕はなんだか肩身が狭かった。


 ホームには同じ高校の制服を着た学生がちらほらいた。彼らと、どこまで一緒なのだろう。

「あ、来た来た」

 辻井が線路の向こうに首を伸ばす。市内では一番大きな駅なので、電車もひっきりなしにくる。轟音を上げてけたたましく滑り込んできた銀色の電車に、僕らは乗り込んだ。


「この駅からは歩いて帰ってるのか?」

 ロングシートに腰を下ろしてすぐ、僕は切符を手の中で弄びながら訊いた。

「歩いたりバスだったりかな。二十分かかんないくらいだからさ」

 隣に座る辻井は向かいの窓に視線を預けているが、風景など目に入っていないのではないかと思われた。


「どうする? 今日はバスで行く?」

「んー、せっかくだから歩こうかな」

 辻井が通学路で見る風景を、僕も見てみたい。

「おっけ」

 僕に笑い掛ける辻井は頬が緩みきっている。僕を家に招くのがとても嬉しいとでも言うように。

 無邪気なヤツだな。

 そう思う一方で、僕もまた、高校で初めてできた友達の家に遊びに行くことに密かに胸を高鳴らせていた。


 辻井の最寄駅は、名前は聞いたことがあるが一度も降りたことがない、僕にとって未知の場所だった。

 駅の規模はさほど大きくない。チェーンの喫茶店とコンビニが構内に一つずつあるだけ。駅を出てすぐの所には郵便局と鳥居が並んでいる。反対側は田園地帯が広がっていて、その向こうには団地だろうか、同じ形をした白いマンションが等間隔にそびえ立っていた。


「田舎だな」

 思わず口にした呟きに、辻井は「浦風に比べたら全然田舎だよ~」と自嘲気味に笑う。

 浦風市だって中心部を外れれば一気に田舎臭くなる。僕の住む地域も都会よりかは田舎に近いので、バカには出来ない。


 それでも浦風より建物が少ないのは確かなようで、身体に感じる風は障害物がない分、強くて寒ささえ感じる。田んぼに青々と伸びる穂も、風になぶられているかのように右に左に揺れている。


 辻井は「こっちだよ」と、郵便局と鳥居のある道を進んだ。郵便局はまだ開いていて、中にいる人たちの様子がガラス越しに窺えた。その隣の鳥居は、参道が木々に囲まれているため、どんな社があるのかは判らない。

「この駅を使ってる浦商生(うらしょうせい)は、他にもいるのか?」

 浦風商業高校の生徒だから、浦商生。入学説明会で校長先生が口にしていた時は正直ダサいと思ったが、いざ使ってみると案外しっくりくる。


「んー。今んとこは見たことないなぁ。他の学校の制服なら見掛けるんだけど」

 辻井が挙げた高校は、ここの駅からは浦風市とは逆方向の路線となる市に存在する進学校だった。

「へぇ…」

 不意に、辻井が通っていたという、名門中学の名前が過った。

 あの中学にいたのなら、大抵の進学校には余裕で入れただろう。辻井が浦風商業を選ばず、進学校に通っていた未来だってあり得たのだ。そう考えると、今こうして辻井と並んで歩いていることに不思議さを感じた。


 辻井の通学路には幾つか店があったが、遅くまで営業している店は少ないという。それでも駅に近いからか車の往来は激しいので、暗くなると通行人は点在する街灯と車のヘッドライトを頼りに歩くことになる。

「でも車からは歩いている人なんて碌に見えないでしょ? だから事故が多いんだよね」

 今年に入って、既に二回交通事故が起きているのだと、辻井は悼むように目を伏せる。そのうち一回は、死亡事故だった。


「だから青葉、帰りは気を付けてね」

 本当に心配そうにして、辻井は僕を見つめる。その目の純真さに、息が詰まる。

「…大丈夫だよ。そんな暗くなる前に帰るから」

 軽い口振りを心掛けて言うと、辻井は「そうだよね」と目元を和らげた。


 家々が密集して並ぶ一帯の外れで、辻井は足を止めた。

「ここだよ」

「え…」

 その家が視界に入った時から、まさかとは思っていた。見ないようにしていた表札に、目線を合わせる。

 昔ながらの情緒を残す日本家屋の表札には、紛れもなく『辻井』と彫られていた。


「マジか…」

 唖然として見上げる。

 隣のブロックを参考にして当てはめてみると、普通の家が六軒分くらいは入りそうなほど大きい。威風堂々とした佇まいは、やって来る者を簡単には入れさせまいという強い意思を感じさせる。


「辻井って…すごいお坊っちゃんだったんだな」

 邸宅の威容に圧倒されながら言うと、辻井は透明な笑みを浮かべた。

 はっとして、口を間抜けに開く。けれど言い繕うための言葉を探そうとあたふたする僕を気に止めることなく、辻井はポケットから鍵を取り出して、門の鍵を開けた。


 軽やかに中へ入る辻井を、ぼんやり眺める。住む世界の違いを、肌で実感していた。

「青葉ー?」

 身体を捻って、僕を待つ辻井の目は、来る途中に心配そうに僕を見つめた時と同じ目をしていた。

 ぐっと奥歯を噛む。ここを越えたら、後戻りは出来ない。僕は辻井の心に触れる覚悟を決めた。

「ごめん、今行く」


 背の高い松の木、泳げそうなほど広い池、長い縁側。典型的なお金持ちの家だ。僕には物珍しくて、端から見ればみっともないくらいきょろきょろしてしまう。

「どーぞ」

 鍵を開けていた辻井が引戸を引いて、腕を広げる。

「お邪魔します」

 戸を潜る前に、辺りへ視線を巡らす。辻井邸をぐるりと囲む高い高い塀。その上には尖った槍が無数に並んでいた。忍び返しだ。侵入者を拒むためのそれは、来訪者を閉じ込めるための凶器にも思えた。


「俺の部屋は二階なんだ」

「へー」

 広い玄関には靴棚が二つ。その上には花やら蛙の置物やらが並んでいて、壁には満月とうさぎの日本画が飾られている。玄関一つとっても、僕の家とは大違いだ。


「誰もいないのか?」

 玄関から見えるのは二階へとく階段と、板張りの廊下。部屋の入り口が幾つか見えるが、どこからも人の気配は漂ってこない。

 代わりに漂ってくるのは、人の家の独特の匂い。古い家だからか、木の湿った匂いが強い。頬を撫でる風も、すきま風が通るのかひんやりと冷たい。

「うん。婆ちゃんは習い事で姉ちゃんは仕事。お手伝いさんは今日は来ない日だし、今は俺らだけ」

 辻井は茶目っ気を見せるように歯を零すが、僕の受けた衝撃はそんなものじゃ相殺されない。


「お手伝いさん!? そんなのまでいるのか?」

 噛み付かんばかりの勢いで訊いたら、辻井はそれを避けようと身を引いた。

「週に三回だけね。でもおばちゃんだよ」

「でもってなんだよ…」

「さぁ早く行こー!」

 眩暈まで起こしそうになってきた僕の腕を引いて、辻井は階段を上っていく。踊り場の壁にも山と鶴が描かれた日本画が飾られていて、視線が縫い止められる。


 二階も広く、部屋は無数にあるように感じられた。もちろんそんなことはないのだろうけど、どれがなんの部屋なのかは覚えられる気がしない。

「上は俺の部屋と姉ちゃんの部屋と、後は物置になってんの」

「ふーん」

 物置になっている部屋、一つ僕にくれないかな。口から出そうになるのを堪え、「俺の部屋こっち!」と辻井に引っ張られるまま付いて行く。


 ドアにはなんのプレートも下げられておらず、ドアだけで辻井の部屋を判別するのは難しそうだった。

「ようこそ!」

 辻井がドアを開け、中に入る。「お邪魔します…」と僕も中へ足を掛ける。今後こそ、もう後戻りは出来ない。


「適当に座って~」

 辻井の部屋は十畳ほどの洋間になっており、奥から学習机、ベッド、低い本棚が並んでいる。広さはともかく、置かれているのは普通の男の子が持っていそうなものばかりで、ここが金持ちの家だと忘れそうになる。僕はドアに近く、全体を見渡せる位置にちょこんと正座した。


「机とお茶持ってくるから待ってて~」

「あ、うん。お構いなく」

「お構いなくって」

 ぷっと吹き出して、辻井は部屋を出て行った。


 一人になって、改めて部屋の全体を見渡す。僕の部屋二つ分はありそうだ。ベッドを置いても窮屈感がないのが羨ましい。僕は部屋が狭くなるのが嫌で、布団を毎晩敷いて寝ているのに。

 低い本棚にも目を凝らす。持っていないと言っていたが、たくさん持っているじゃないか。

 偉人伝、ルポルタージュ、歴史書、図鑑…。小説が一つもなくてがっくりしてしまう。ノンフィクションは勉強になるし面白いとも思うけど、僕は人の想像力だけで練り上げられた小説が好きだった。

 辻井の『持っていない』とは、小説を持っていないということだったのか。辻井の、なんとも言えない横顔が、頭の端っこで揺れる。


 座り直して、辻井を待つ。祖母も姉も今はいないと言っていたけど、両親は一緒に住んでいないのだろうか。それとももう故人なのか。どこまで突っ込んで訊いていいものか悩む。辻井はアルバムを一緒に見てほしいと言っていたから、その流れで訊けるだろうか。辻井も話したがっているように見えたのは、僕の勘違いだろうか。


「おまたせ~」

 折り畳み式の丸テーブルを抱えて辻井が戻ってきた。

「これ広げといて~、お茶持ってくるから」

「わかった」

 部屋の真ん中にテーブルを広げる。表面がすべすべしていて、触り心地が好い。四人までなら楽に使えそうだ。


「お茶とお菓子の到着~」

 鼻歌混じりに辻井が盆を持ってくる。テーブルに置かれた湯呑みからは熱い湯気が出ている。自分で淹れたのだろうか。お茶の淹れ方なんて、僕には分からない。

「緑茶だけど大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 大丈夫じゃない場合のため、普通は淹れる前に訊くべきではないか。そう思ったけど、わざわざ言うほどでもないと呑み込んでおく。


 お茶と一緒に置かれたお菓子は、僕でも知っている煎餅だった。少々意外に感じながらもほっとする。あんまり高級なお菓子だったら食べにくい。

「これうちの定番。婆ちゃんが好きなんだ」

 個包装の袋を開け、早速辻井が齧り付く。バリバリと小気味好い音が響く。

「僕も好きだよ」

 辻井に倣って、僕も齧る。慣れ親しんだ味が胸に沁みる。

「そっか」

 辻井は、不思議なほど嬉しそうに破顔した。


 緑茶を啜る。口の中が一気に緑の香りで満たされ、少しの苦味と一緒に喉を通っていく。

「三人暮らしなのか?」

 お茶にふぅふぅ息を吹き掛けていた辻井は、「そーだよ」と自然な様子で答えた。

「辻井の表札が掛かってたってことは、父方?」

「うん。まぁ女でも辻井姓を選ぶことが多いね」

「ふーん」

 金持ちだから? 地元の名士というやつか。


 想像して勝手に納得していたら、お茶を飲んでいた辻井が、

「うち、医者の家系だからさ」

 さらりと言った。

 意識して作ったような言い方だった。不自然というほどではないけど、自然とは言い難い。

 核心部分なのだ、と瞬時に理解する。


「…じゃあ姉さんも?」

「ううん、姉ちゃんは経営の方。なんかちっちゃい時から細かい性格だったから、そういう方向に進ませようってなったらしーよ。姉ちゃんも性に合ってるみたい」

「すごいな」

「うん、すごい」

 齧っていた煎餅を食べきって、辻井は立ち上がった。

「俺とは大違い」

 吐き出すように言って、部屋の端にある押し入れを開け、下の段の奥へ身体を突っ込む。ついにアルバムを出すようだ。


「あったあった」

 辻井が抱えてきたアルバムは、胸元をすっぽり覆うくらいの大きさで、淡い水色をしていた。

「見ることなんて、もうないと思ってたんだけどね」

 テーブルに置いて、静かに息をつく。辻井はまだ座らず、立ったままアルバムに目を落としている。その目が、とても遠い。


「…でも捨てなかったんだな」

 僕の言葉に、辻井ははっと顔を上げた。それから顔をくしゃりと崩した。

「うん、なんでだろうね」


 先程と同じ、僕の向かいに辻井は腰を下ろした。

「親は医者やってんの?」

「うん。父親は脳神経外科で、母親は内科医。俺の家がやってる病院で働いてる」

「両親とも医者なのか…」

 医者の息子、と聞くと凄い秀才を連想してしまうのは短絡的だろうか。でも実際、辻井は名門中学にいたのだ。


「研修医時代に知り合ったらしいよ。まぁ今となってはどうでもいいけど」

 アルバムに薄目を晒して、辻井は投げやりに言う。

「どうでもいいって?」

「親、別居してるから」

 両親が別居しており、子供たちもその親とは離れて暮らしている。家族バラバラなのか、と物悲しくなる。

「まぁその別居も、俺のせいなんだけど」

 机に顎を乗せて、寝そべるような体勢で息と共に吐き出す。辻井のその台詞に、どきりとしてしまう。


「…なんでそう思うんだよ」

 辻井は僕の質問に答えず、手を伸ばしてアルバムを開いた。

「これが、俺が生まれた直後」

 一ページ目に、布にくるまれた新生児の写真が貼られている。目を閉じて、顔は皺だらけだ。弟が生まれたばかりの時、猿みたいだと思ったけど、辻井もやっぱり猿みたいだった。

 ふさふさと生えている髪の毛に目がいく。今よりは若干薄いオレンジ色をしていた。


「で、これが俺が退院した後にみんなで撮った写真」

 どこかのスタジオで撮ってもらったのだろう。辻井が指差した写真には、家族四人が真面目な顔で映っている。薄桃色の壁を背景にしているのに、暗いイメージが湧くのは表情のせいだろうか。

 まず赤ん坊の辻井に注目する。それから唯一椅子に座っている、辻井を抱く母親へ目線を移す。目、鼻、口など、顔のパーツの一つ一つが存在を主張していて、全体的に派手な顔立ちという印象を受ける。この顔をもう少し薄くして、幼くしたのが隣に立つ辻井の姉だ。


「この時、姉さんは幾つなんだ?」

 黒いワンピースを着て、じっとカメラを睨み付ける少女は、今の辻井の姉とは結び付かないほど硬い顔付きをしていた。緊張しているだけなのだろうか。カメラから離れれば、この少女も今のようにおっとりと笑うのだろうか。

「小学…六年生かな? 俺とは一回り違うから」

 頭の中で計算しているのか、目玉を上へ回し、辻井は眉間に皺を寄せた。

「結構離れてるんだな」

「なかなかできなくて、最後には人工授精に頼ったからね」


 およそ日常生活では聞かない言葉に、ぎょっとして辻井を見てしまう。幸い、というべきなのか、辻井は家族写真を見ていて、目が合うことはなかった。

「やっとこさ俺ができた時でも、夫婦関係にはもう亀裂が入ってた。だからこの写真も、示し合わせたワケじゃないけどみんな喪服みたい」

 言われて、最初に抱いた暗いイメージの理由が判った。待望の息子が生まれて最初の家族写真だというのに、全員の服が黒いのだ。

 

 辻井の母親は黒いスリーピースを着ていた。胸元の白い花のブローチだけが、この女性に色を与えている。黒いワンピースの姉は、ロングヘアが鮮やかなオレンジ色をしているおかげで、そこまでの喪服感はない。

 姉の後ろに立つ父親は、黒いスーツに黒いネクタイ。彼だけが、同じ日に葬式でもあったのかと突っ込みたくなるくらい、完璧な喪服だった。


「なんでこんな暗い服を着てるんだ?」

 辻井は父親似なのだろう。太い眉、丸い小さな鼻。垂れた目は、貫禄を出すためなのか真っ直ぐに引き締めている。顔のパーツは似ていても、表情が違うと全然辻井と印象が変わるものだ。

「たまたまって言ってたけどね。もともとうちの礼服って、冠婚葬祭のどれにでも着ていけるように黒が多いんだよ。仕事柄葬式に出ることも結構あるし」

「あぁ…まぁ一理あるな」

 同意してみるが、頭の大部分は昨日の入学式に思いを馳せていた。

 辻井の姉が着こなしていたのは、辻井家の慣習と対照的な、目が覚めるような白いワンピースだった。そこに何かの意図を感じ取ってしまうのは、穿ち過ぎだろうか。


「姉さんの髪、今より大分明るいな」

 辻井は反応を示さない。喪服だらけの家族写真をじっと眺めているのだ。

「辻井?」

「あ、ごめん。そっか髪の毛ね」

 取り繕うような笑顔が空々しい。無理をしているとひと目で判ってしまう。

「それでアルバム見てるんだろ。…なぁ辻井、アルバム見るのが辛いって、家族を思い出すから?」


 辻井は瞼を閉じ、数秒後、決意を改めるように力を込めて開いた。

「俺ねぇ、落ちこぼれなんだ。そのせいで、家族が壊れちゃった」

 なんでもない口調を意識して、それでも零れてしまう水滴を落とすみたいに語る。


「勉強はまぁできたよ。親に小さい頃から教育されたから。あんだけみっちり詰められたら、そりゃあできるようになる」

 外で、カラスが鳴いている。カァー、カァー、と尻すぼみに鳴く声は、きっと辻井には聞こえていない。

「小学校もいいとこに入らされたけど、親はそれじゃあ満足出来なかったみたいで、わざわざ遠い名門中を受けるように言われた」


「で、受かったんだな」

「うん。まぁ親のプレッシャーが物凄かったからね」

 煎餅を齧り、辻井は困ったふうに肩をすくめる。

 僕も煎餅を齧る。暫く二人分の咀嚼音が部屋に響く。

「でも、そこで燃え尽きちゃった」

 へらりと笑う。昨日から何度も見ている顔なのに、胸が刺されたように痛んだ。


「入ってからも頑張り続けなきゃいけない。周りの子も追い落とされないように必死だし。せっかく入った中学は、楽しいとかなくて、ただ頑張らなきゃって」

 煎餅を食べきって、辻井は指に付いたカスを払う。僕はその、男にしては細い指先を見つめた。

「で、だんだん苦しくなって、毎日体調崩すようになった」

 一番苦しかった日々を思い出し、辻井の眉間にきつく皺が寄る。


「何日も学校に行けない日が続いて…。このままじゃ退学になるって先生に言われて、卒業はちゃんとしたかったから、なんとか行くようになった。親ももう、俺のこと諦めてたからプレッシャーが大分減って、楽になったってのもある」

 頬杖を突いて、薄く目を閉じる。僕はまた、辻井のそんな顔を見つめる。

「学校の先生は、そういう辻井の事情とか知ってたのか? 親身になってくれたのか?」

 会ったこともない辻井の担任に、怒りが湧く。自分の生徒が大変なのに、ただ『退学になる』と脅迫めいたことを言うなんて。


 けれど辻井は「ダメダメ」とかぶりを振った。

「ああいう進学校ってね、俺みたいにメンタル病む生徒が多いんだよ。競争社会の弊害だね」

 辻井自身も苦しんでいたのに、訳知り顔で他人事みたいに語る。そう話せるようになるまで、たくさん自分を律してきたのだ。辻井の笑顔の向こうで、辛い現実に耐えようと歯を食い縛る顔が見える気がした。


「親は、俺を医者にすることで辻井家の中心になりたかったんだ」

 目線をずらし、辻井は声をぼそりと落とす。

「中心?」

「うん。辻井家の病院の経営陣に姉ちゃんをうまく加えられたから、現場には息子を入れて、一族の中で自分たちの発言力を強めたかったんだと思う」

 あまりに違う世界の話で、辻井の言葉を理解するのに時間が掛かった。一族での権力争いなんてフィクションでは使い古された設定だけど、現実に、本当にあることなのだ。


「でも俺が出来損ないだったから、目論見は外れた。親は俺のことで喧嘩が絶えなくて、そんな家庭環境だからますます俺のメンタルもやられて…引きこもりみたいになってた」

 小さくなっていく、辻井の声を、僕は一言も聞き洩らすまいと耳を澄ませた。

 正直こんなに重たい話を聞かされて、僕には荷が重かった。だけど僕に聞いてほしいと思って一生懸命話す辻井に、応えたいと思った。


「で、そういう俺を見かねて、大学生になってからこっちに住んでた姉ちゃんが、俺を呼んでくれた。なんとか三年生に上がれて…じきだったかな」

「じゃあほぼ一年前か」

「そうだね。もう…一年になるね」

 辻井の淡い笑みに、光が差す。この家に来たおかげで、辻井がこんな風に笑えるようになったのなら、辻井の姉の決定は正しかったといえる。

 そのおかげで、僕も辻井に出会えた。


 ぺら、と辻井がアルバムを捲る。開いたアルバムの次のページに、写真は一枚きり。

「残りは捨てちゃった。まぁほとんど義務で撮った、作り物の写真だから」

 中学校の校門前で、桜の舞う中、四人が並んでいる。背後に立て掛けられた看板には、墨で入学式と書かれていた。めでたい日なのに、やっぱりみんな硬い顔付きで、服も黒っぽい。だけどダークスーツを着た父親のネクタイは、背景と同じくらい澄んだ青色だった。


「これはなんでか、捨てられなかった」

 顔を上げると、辻井と目が合った。どうしてか、泣きそうになる。よく見れば、辻井の薄茶色の目にも透明な膜が張っていた。

「だから、俺の写真はこの三枚だけ」

 余白ばかりが目立つアルバムを、辻井の手がそっと撫でる。厭うように、愛おしむように。


「先生に出す写真、これでいいな」

 ページを戻して、生まれた直後の写真を指で差す。辻井は僕の指を目で追って、ふっと笑った。

「うん、そうだね」


「親のことは、嫌い?」

 辻井は淡いオレンジ色の眉を寄せ、曖昧に首を揺らした。

「わかんない。嫌いってはっきり言えたら楽なんだけどね。まぁ…苦手、かな」

「苦手、か。うん、家族ってそういうもんだよな」

 家族というのは、好きとか嫌いとか、簡単に区別出来る対象じゃない。ただ、大事な存在だ。

 でも辻井に親は大事かと問えば、ますます困ってしまいそうだ。


「姉さんは、親とはどうなの?」

 僕の母親が親について触れた時、辻井と揃って表情を消していた。入学式に付き添うほど辻井を大事に思っているあの人が、弟を苦しめた親に対して、良い感情を持っているとは思えない。


 思った通り、辻井は苦い笑みを洩らした。

「姉ちゃんはねぇ…もうはっきり嫌ってるね、両親とも。職場が一緒だから顔を合わせることもあるみたいだけど、全然喋んないって。まぁ姉ちゃんもそれなりに厳しくされてたからね」

「そうか…」

 あのおっとりとした女性が、それほどまで峻烈な感情を向けるとは。相当、辻井家の溝は深いらしい。


「あ、でも俺と姉ちゃんは仲いいよ!」

「そうだろうな」

 昨日のやり取りを脳内で再現して思わず笑うと、辻井も歯を見せて、にぃっと笑った。

「あと、婆ちゃんとも。だから、俺の家族はこの二人!」

「そっか。爺ちゃんは?」

 多分もういないのだろう。僕の予想に違わず、辻井は「うん。俺が生まれる前に病気で死んでる」と特に感情の無い顔で答えた。


 しかし個人的にはさほど重くない死だったとしても、祖父の死は、違う意味で辻井を苦しめていた。

「爺ちゃんは死ぬ前、跡継ぎを俺の父親の兄…伯父さんに指定してた。でも父親はそれが気に食わなくって。俺の方が出来がいいのに! って」

 頭をぽりぽり搔いて、辻井はまたなんでもない態度を装って言う。

「だから息子を作って、その次の後継者に仕立て上げたかった。あの人たちは、俺を切り札にしたかったんだ」

 辻井の両親が息子を作ることにした、打算的で、欲深い理由。


 昔、母親と道を歩いていて、見かけた大きな家に興奮して『こんな家に住みたい』と僕が言った時、母親はにべもなくこう返した。

『この人たちには、この人たちなりの地獄があるのよ』

 地獄という強烈な言葉に恐ろしくなり、僕は何も言えなくなった。とはいえ心の片隅では、体よく僕をあしらうために適当なことを言っているのだとも思った。


 今は、その言葉の意味が解る。

 改めて、辻井の背負うものの大きさに、圧倒される。

「姉さんは? 経営に関わってるんだし…」

「あくまで経営陣の一人として、だよ。そんなんじゃ満足出来ないのがあの人たちだから」

「ふーん…」

 親を他人のようにあの人、と呼ぶ。家族なのに、家族じゃないみたいだ。


 二枚目の煎餅を齧りながら、そういえば、と疑問が湧く。

「その髪って遺伝なんだろ? 先祖に外人でもいるの?」

 湯呑みを両手で支えて飲んでいた辻井は、悩ましげに鼻先を上げる。

「んー。それがわかんないんだよねぇ。家系図には外人はいないらしいけど…。うちの家系、結構な割合でオレンジ髪生まれてんだよ」

 輝くようなオレンジ色の髪を搔き上げる。

「死んだ爺ちゃんもそうだったらしいし、伯父さんも今は黒に染めてるけど元はオレンジ色だし」


「へぇ。ルーツは不明だけど、遺伝なのは確かなんだな」

 辻井家の、四人での初めての家族写真へ目を落とす。

「父親は普通に黒だな」

 両親は揃って黒髪で、こうして見ると、辻井姉弟と両親との間に生じる摩擦を暗示しているように思えてならない。

「俺と姉ちゃん、伯父さんの子だったりして~」

 返答に困り、真顔で辻井の顔を凝視してしまう。

 

 辻井はそれがいたく気に入ったのか、けらけら笑っていた。


「じゃあ僕もアルバム引っ張り出さなきゃだから、そろそろ帰るよ」

 茶を飲みきって立ち上がる。辻井も「えぇー」と残念そうに声を伸ばしながらも、アルバムを閉じて腰を上げた。


「ごちそうさまでした」

「いいえ~」

 窓の外はまだ明るい。けれど太陽の光が柔らかく、夕方の気配が近付いているのを感じられる。


 もうすぐ、辻井の髪と同じ色に空が染まる。前を歩く、辻井の夕方色の髪に目を細める。

「明日さ、青葉の写真も見せてよ」

 階段を下りながらこちらに首を傾け、辻井は無邪気に言う。

「まぁ…いいよ」

「楽しみだなぁ」

 

 玄関まで来て、辻井が身体をくるりと回す。

「俺ね、学校が楽しみなの初めて。青葉のおかげだ」

 眩しい笑顔に、たじろぎそうになる。

「それは…言い過ぎだろ」

「本当だよ。初めて青葉を見た時、この人と友達になりたいって思ったもん」

「…そっか。ありがとう」

 僕を見ていた、興味津々の辻井の顔。あの時、そんな風に思ってくれていたのか。


「駅まで送ってくよ」

「いいよ別に」

「いーからいーから」

 辻井と靴を履いていたら、玄関の引戸が開いた。


「ただいまぁ」

 小柄で丸っこい、雰囲気の柔らかそうな老婦人が現れる。

「あ、婆ちゃん。お帰り」

「あれま、想一、お友達?」

「そう! 高校の友達!」

 辻井の顔に笑みが弾ける。その笑顔に胸がくすぐったくなるような、変な気分にさせられる。


「夏木青葉です。お邪魔しました」

 僕が頭を下げると、辻井の祖母は目元を限界まで下げて、辻井に似た柔らかい笑みを浮かべた。

「夏木くんね。いいえ、孫と仲良くしてくれてありがとうね」

 首に少しかかる程度の内巻きの髪は、白髪交じりの黒髪で、老いた丸顔によく似合っていた。

「いえ」


 辻井の祖母が、ひたと僕の目を見据える。

「孫を、これからもよろしくね」

「…はい」

 僕の神妙な返事に、辻井の祖母は目を糸のように細める。


「じゃあ青葉を駅まで送ってくから」

「はいはい、行ってらっしゃい。気をつけて」

「うん、行ってきます。行こ、青葉」

 引戸に片手を掛け、辻井はもう片手で僕の右手首を掴んだ。

「うん。お邪魔しました」

「またおいで」


 夕方に近付く風は冷たくて、うなじの辺りが心細くなる。

「辻井はさ、なんで僕にあの話をしたの」

「え?」

 僕の隣を歩く辻井は、不思議そうに目を大きくした。


「親のこととか…まだ会ったばっかの僕に」

 教室で見せた、切実そうな目。思い返すだけで、胸が締め付けられる。

「まぁ…誰かに聞いてほしかったから、かな」

 辻井は目を薄め、風を感じるようにオレンジの髪をそよがせる。

「じゃあ誰でも良かったのか」

 たまたま僕が最初に友達になったから。たまたま僕が後ろの席だったから。

 納得するような、少し投げやりなような気持ちで言うと、辻井は「それは…違うかな」と首を捻った。


「え?」

 辻井が足を止める。僕も止まり、一歩分後ろに立つ辻井と対峙する。

「青葉は、なんか全部聞いてくれそうな気がしたんだ。全部…受け止めてくれるって思えた」

 辻井の背後の空がピンク色に染まっていた。夕方が、近付いてくる。

「なんだよ…それ」

「一目惚れなんだ」

 音を立てて、風が吹き抜ける。飛び込んできた風で閉じそうになった瞼を、力を込めてこじ開ける。


「は…?」

 驚きで間抜け面になってしまった僕を、辻井はあははと笑う。

「変な意味じゃないよ。さっきも言ったじゃん。友達になりたいって」

「あ、ああ…そういう」

 肩からずるりと力が抜ける。そういう意味だったらどうしようと、半ば本気で狼狽えていた。


「青葉といると安心するんだ。初めて会った時も、隣にいるのがすごく心地好かった」

 真っ直ぐに言う辻井に、照れ臭くなる。僕にそんな魅力があるなんてあまり信じられないけれど、嬉しくないわけがない。


「そっか」

「うん。だからこれからもよろしく!」

「うん、よろしく」

 再び、二人で歩き出す。辺りにはもう、夕闇が降りてきていた。


「今度…僕の家にも遊びに来いよ」

 人を誘うのは苦手だ。前方へ顔を固定させていても、だんだん恥ずかしくなってきて、最後は蚊の鳴き声みたいに小さくなる。

 てっきり辻井は元気に返事をするものだと思ったけど、存外静かな声で応えた。

「うん、絶対行く」

 噛み締めるような声だった。どんな顔をしていたのか、確かめることは出来なかった。


 夕陽に照らされた駅が見えた時、ふと辻井の部屋の本棚が頭に引き出された。

「本棚にあった本って、親が選んだの?」

 唐突な問いに、辻井は記憶を探るように首を回した。

「ああ、そうだね。親がフィクション嫌いだったから。現実の方が大事だって言って、ああいう本ばかり買ってきたんだ」

「あぁ…まぁいるよな、そういう人も」

 作り話に価値などないと、バカにする人は一定数いる。人の想像力こそ素晴らしいと、僕は思うのだけど。


「婆ちゃんちに住むことになった時、物はほとんど置いてったんだけど、本はちょっと持ってきたんだ。親の趣味全開だけど、俺が好きになったのもあるし。本に罪はないからね」

 言い訳めいた口調は、誰に対してなのだろう。親の息がかかったものを、全て切り捨てられなかった自分に対してだろうか。

 写真も、本も捨てられなかった。僕はそこに、辻井のやりきれない感情を垣間見た気がした。


「じゃあ今度、辻井の一番好きなの貸して」

「うん! 青葉のイチオシの小説もね」

「いっぱいあるよ」

 本棚に並ぶ、宝物たち。どれも辻井に薦めたいものばかりだ。

「いっぱい? じゃあ俺もいっぱい好きな小説見つける! これからは小説もいっぱい読むんだ」

 拳を天高く上げ、辻井は声を弾ませる。その姿が、なんだか無性に嬉しい。


 駅に着いて、辻井は僕の制止も聞かず、僕の帰りの切符を買った。

「帰りくらいは払わせてよ」

「でも…」

「いーって、いーって。今回は俺がお願いしたんだし」

 切手を胸元で握り、辻井は祖母に似た柔らかい微笑を口元に湛える。

「青葉は、俺の初めての友達だから。これは、その記念」

 恭しい手付きで差し出されたそれを受け取るのに、躊躇してしまう。とてもとても大事なものを渡されていると思ったから。


「…ありがとう」

 結局、僕は受け取った。右手の中の紙切れが、とても重たく感じられる。

「記念としてはささやかだな。すぐに無くなるし」

 照れ隠しに言った台詞に、辻井は「大事なのは形じゃないんだよ」と口をすぼめた。それが可笑しくて、つい笑ってしまう。辻井も笑った。

 ぱらぱらと通る疎らな利用客の目も気にせず、僕らは券売機の前で、二人だけの世界に浸るように笑い合った。

 


 次の日、僕らは写真を手に生活指導室へ向かった。

「青葉と僕とじゃ、僕の方が大きいね」

 僕の写真を覗き込んで、辻井は悪戯っぽく笑い声を立てる。

「そんなに変わんないだろ。それに今は同じくらいだ」

 手を頭上に翳してみせる。辻井は「俺の方が一センチは大きいね」と嘘か本当か判別しにくいことを言う。


 昨夜、居間に仕舞っていたアルバムを引っ張り出したら、家族がわらわら集まって盛り上がってしまった。何しろ兄弟が多いせいで、写真が大量なのだ。語りたい思い出もたくさんある。


 騒ぐ家族を押し退けて取り出した写真には、母の隣で生まれたばかりの僕が寝かされていた。出産直後で疲れきっていながらも、母の汗まみれの顔には笑みが溢れていた。

 長い黒髪を方々に散らした母と、栗色の髪を小さな頭にぺったり貼り付けた僕。髪色の遺伝をもたらした元凶の父こそ映っていないものの、これなら文句はないだろう。


 生活指導室の前には、同じような目的を持った生徒たちが並んでいた。昼休みが終わるまでには戻れるだろうか。


「ねぇ青葉、生活指導の先生で、一組の先生の名前知ってる?」

 長い列の最後尾に着いて、辻井が小声で言う。廊下ではあるが、生活指導室の前ということで、みんな声を潜ませていた。

「刈り上げ頭の?」

「そう」

「さぁ…鬼塚とか?」

「ハズレ。全然違うんだよ」

 辻井はとっておきの秘密を打ち明けるみたいに言った。


「早乙女すみれ、だって。すみれはひらがななんだよ」

「…意外だな」

「でしょ」

 廊下の片隅で、僕らは声を押し殺して笑った。





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