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落陽  作者: いっくん
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委員会

 ゴールデンウィークが明け、僕らはまた学校に通い始める。教室の窓からはからりと晴れた青空が顔を覗かせていた。


 ホームルームが始まるのを待つ朝の時間、僕はそんな空をぼんやり眺めていた。ある一つの思いとともに。

『青葉は、恋したことある?』


 つい昨日、夕闇の中、辻井が僕に投げた問い。辻井のあの震えた声が、今も僕の心の中で響いていた。

 初恋、か。

 机には読みかけの本が開いてあるのに、ページは全く進まない。

 それもこれも、辻井がいきなり変なことを訊くからだ。


 だけど考えてみれば、僕はちゃんとした恋愛をしたことがない。可愛いな、とかいい子だな、と女子に対して思ったことはあるけれど、好きになったかと訊かれたら首を傾げざるを得ない。

 だから同級生の恋愛の話を聞いていても、僕には他人事だった。いつかきっと、という思いが微かによぎる程度で。


 教卓に視線を流せば、辻井が女子たちと喋っている。辻井の話にみんなが笑い、彼女らの発する言葉に辻井もまた笑っていた。朗らかな笑顔に、昨日の陰りはない。


 昨日の問いに、僕は咄嗟に『分からない』と答えた。その答えが辻井を満足させたかどうかは、『そっか』と眉を下げて笑った顔からは読み取れなかった。

『おまえはどうなんだ』と訊くことは出来なかった。あの時、辻井は破裂寸前の風船のようだったから、下手につついてはいけないと思った。

 

 いずれ、僕は訊くのだろうか。辻井のこれまでの恋を。あの時の問いの理由を。


 ぐるぐると考えていた僕の頭上へ、「夏木」と声が落ちてきた。


 見上げると、岡と小林が立っていた。

「あぁ、おはよう」

「おはよう」

 小林は目の前の席、辻井の席に腰を下ろした。「おはよう」と岡がその傍らに控える。


「俺、部活決めたよ」

 小林が、小さいが誇らしげな声で笑う。

「へぇ、そうなんだ」

 やりたいことがなく、自分に自信を持てていなかった小林は、そんな自分を変えようと色々な部活を見学して回っていた。


「そっか。部活希望調査、今日で締め切りだもんな」

 二週間の体験入部期間が昨日で終わり、僕らの部活がついに決定する。希望人数と定員数にかなりの差でもない限り、希望通りの部活になるはずだ。僕と辻井は、連休前に既に提出している。


「どこにしたんだ?」

「吹奏楽部」

「へぇ! それは意外というかなんというか…」

 部活動紹介での、吹奏楽部の演奏が脳裏に広がる。大小様々な楽器を用いた合奏は、目にも耳にも迫力があった。

「この身体を生かして、大きな楽器を使いこなしてみせるよ」

 広い胸を張る小林に、部活動紹介の前、『自分には取り柄がない』と弱音を吐いていた面影はない。

「頑張れよ」

 心からの祝福と応援を送ると、小林は「うん」と丸い顔いっぱいに笑った。


「夏木は辻井と速記部だよな」

 岡が辻井を目の端で見る。

「うん、まぁ」

 速記なんて珍しい技術を、他のみんなはどう見なしているだろう。希望者が多すぎてあぶれたりしたらどうしよう、なんて心配が少しだけよぎる。


「宮前は、ほんとに野球部に入るの?」

 小林が丸っこい目をくりくりさせる。その目の先は、僕の後ろで安眠する宮前に繋がっている。

「さぁ…」

「もちろん! 俺が朝イチで提出してきたからな!」

 僕の声を遮って、岡が断言する。


「え、岡が出したのか?」

 聞き捨てならない返事に、思わず背筋を伸ばして岡を見上げる。

「おう。朝教室に着いてから、真っ先に宮前のとこ行って調査票書かせた。まぁほぼ俺が書いたけど、宮前はそれでいいって言ったから」

「へ~…」

 小林と視線を交わす。彼の目は『いいの?』と戸惑っている。絶対に寝ぼけていたと思われるが、一応宮前本人も入部には前向きだったから良しとしよう。僕は無言で顎を引く。


「池田先生いた?」

「まだ。あの人遅いんだよな。ちょうど良かったけど」

 そりゃあ本人じゃないヤツが書類出してきたら、さすがの池田先生も訝しむだろう。無理やり入らされたと思うかもしれない。あながち間違ってはいないけれど。


「アイツはどうすんだろな」

 岡の顔が、未だ空席の一番前の席に向けられる。ホームルームまでもう五分もないので、そろそろ来る頃だろう。

「アイツも結構いろんな部活に顔出してたもんな」

 お気楽に笑う一条の顔を思い出す。連休を挟んだことで、顔の造形は記憶が薄れつつある。へらへらした笑い声は、耳障りなほど耳の奥に残っているのに。


「みんな、希望の部活に入れるといいな」

 小林がにっこり笑う。いかにも人畜無害な笑顔に心が和んだが、遠くからドタドタドタ!! と駆けてくる足音が聞こえてきて、苦笑が零れた。



 ホームルームで池田先生が最初に話したのは、部活動希望調査票の未提出者があと数人いるということだった。

「帰りのホームルームまでには出せよ~」

 水色のシャツに濃い青のネクタイ、ズボンまでもが青みがかっている、全身青色コーデで池田先生は言う。


 休み明けでも変わらず一条はホームルーム直前に飛び込んできたため、彼の希望の部活を今も訊けていない。『女子にモテたい』と公言していた一条が一体どんな部活に入る気なのか、僅かながら興味があった。


 ホームルームが、提出書類の話から次の話題に移る。僕を含め、自然とみんなの背中が伸びる。

「明日からテスト期間だから、職員室は入室禁止だぞ」

 教室のあちこちから悲鳴が上がる。

「ついにテストかぁあーっ!」

「やっばー」


 高校に入って初めてのテストに、クラス中が揺れ動く。僕自身も時期的にそろそろとは判っていたけど、改めて突き付けられると、緊張なのかなんなのかそわそわしてしまう。

「まぁ最初だから、そんな難しいのは出ないだろ」

 池田先生が他人事のように笑う。

「英語も?」

 クラスの端から質問が上がる。池田先生の担当教科は英語だ。

「いや、今回テスト作るのは俺じゃないから」

 無慈悲に池田先生は首を振った。再び、悲鳴が上がる。

「え~! 池田先生ならいけると思ったのに!」


「どういう意味だ?」

 首を捻る池田先生だけど、発音が良く、明朗快活な話しぶりが解りやすいと評判なこの担任なら、テストもそう難しくないと少なからずみんなは期待していた。

 池田先生じゃないとしたら、と他クラスの英語教師を思い返す。とはいえまだ一ヶ月ほどしか経っていないから、授業を受けていないと誰がなんの教科担当なのか皆目判らない。

 みんなもそうらしく、「英語の他の先生って誰?」とひそひそ相談を交わす声が聞こえる。


「テストについてはまた授業で話があるとして、もう一個大事な連絡があるぞ」

 教卓に置いていた書類を一つ拾い上げ、池田先生は「えーっと…」と読み始める。

「この前決めた委員会あったろ? 今日の放課後に委員会の打ち合わせがあるから、委員の人はそれぞれの教室に行ってくれ」


 委員会を決めたのはまだつい最近なのに、ずいぶん昔のように思えてくる。それだけ色々あったということだろう。

「集まる教室はここに書いてあるから、それぞれ確認して行ってくれ。裏に地図も印刷されてるから、ちゃんと確認しておけよ」

 プリントをひらひら振りながら、池田先生は黒板の隅に磁石で貼り付けた。


 僕は図書委員なので図書室だろうと思われるが、一応後で確認しておこう。それに図書室の場所もまだ知らない。

「じゃあホームルーム終わり! 今日も一日頑張れ!」

 高らかな声を残し、池田先生は教室を出て行った。



 一時間目の授業が終わり、僕はさっそく委員会の場所の確認に行った。

 羅列された委員会の名前から図書委員を探し出すと、やはり図書室だった。プリントの裏を返し、図書室を探す。

「青葉ー、委員会の場所探してるの?」

 後ろから辻井に声を掛けられ、僕は地図に目を落としたまま「うん」と返す。

「やっぱ図書室?」

「そう。図書室どこだ?」

 地図は校内図を印刷しただけなので、数多ある名前の教室から図書室を見つけるのは困難だった。もともと方向感覚が良い方ではないので、地図を読むのにも苦手意識があった。


「そんなん判る人に訊けばいーよ!」

「え?」

 目を上げると、辻井は教卓で授業の後片付けをしていた先生に「水島先生~」となんとも気安い調子で話し掛けていた。

 呼ばれた現代文担当の水島先生は、「なーに?」とふくよかな頬を持ち上げた。


 そっか。現代文の先生なら図書室も知ってそうだ。

 教師だから、というより担当が国語系だからという偏見に満ちた思いで、僕も水島先生のもとへ行く。

「図書室ってどこにあるんですか?」

 辻井が訊ねると、水島先生は「図書室?」と首を傾げた。

「僕図書委員なんですけど、今日委員会で行かなきゃいけなくて」

 辻井の隣で僕が答える。


「あぁ、夏木くんが図書委員なの」

 そっかそっかと水島先生は小刻みに頷く。眼鏡の奥では、目が柔和に細められている。僕らの母親世代のこの先生は、ふくよかな体型とこの温かな雰囲気で、生徒から慕われている。

「じゃあちょうどいい先生に訊いたね」

 手を口元に添え、上品に笑う。


 水島先生の意味深な笑みに、僕と辻井はきょとんと先生の顔を見つめた。

「何を隠そう、図書委員会の顧問はこの私なのです」

 腰に手を当て、先生はえっへんと胸を張る。


「えー! すごい偶然!」

 辻井がはしゃぐと、水島先生はますます胸を反らせた。

「あー…じゃあ、これからよろしくお願いします」

 軽く頭を下げる僕に、先生も「はいお願いします」と快活に応じた。


「それで図書室だったわね」

 先生の指がぴっ、と上を向く。

「この上の奥! 階段上がって真っ直ぐ行けば、突き当たりにあるよ」

 つられて僕と辻井は天井を見上げた。

「この棟だったのか…」

「隣だと思ったね~」


「生徒たちがすぐに行けるように、ってこの本棟に造られたの」

 僕たちの気持ちを汲んで、水島先生は机の上に広げていた本を閉じながら、由来を説明した。

「近くて良かったね、青葉」

 辻井が無邪気に笑い掛ける。僕も「そうだな」と笑い返す。


「夏木くんみたいな真面目な子が、図書委員になってくれて嬉しいわぁ」

 水島先生に微笑まれ、恥ずかしいような照れ臭いような気持ちになる。

「ど、どうも…」

「なに話してんのー!?」

 突然割り込まれ、唖然と見つめた先には楽しそうな笑顔の一条。


「いきなり大声出して来るなよ」

 しかめっ面で言うも、コイツには効果がない。

「図書室の場所教えてもらってたんだよ。そしたら水島先生、図書委員会の顧問だったんだ~」

 辻井がにこにこで答える。

「マジ!? さっすが国語の先生!」

「顧問が国語の先生なのは、私だけなんだけどね」

 大袈裟にはしゃいでいた一条だが、直後「あ」と口を開けた。


「だから、新聞部の顧問なんスか?」

 一条の言葉に、僕と辻井の頭上にハテナマークが浮かぶ。

「そうなんですか?」

 辻井が訊くと、水島先生は、

「だから、ってこともないんだけどそうだよ」

 そうそうと頷いた。


「なんでおまえが知ってんだ?」

 図書委員会と新聞部の顧問…まさに国語担当の教師という立場にぴったりの肩書きに苦笑しつつ、一条に尋ねる。

「実はな~」

 身体を揺らす、勿体ぶった一条の仕草がいちいち鼻につく。

「俺、新聞部に入ることにしたんだ~」

 両手を広げ、へらりと笑う。


「えー意外!」

「あら、そうなの」

 辻井と水島先生が揃って目を丸くする。しかし僕は胡散臭い目で一条を見た。

「新聞部? おまえが?」

「なんだよその目~」


「新聞部、綺麗な女の先輩たちいっぱいだったもんね」

「そうなのよ~、キレイなお姉さまいっぱい」

 意図はないのだろうが辻井に誘導され、一条はあっさり思惑を吐いた。

「一条くん?」

 水島先生の額に青筋が浮き上がる。この先生が怒るところなど見たことがないから、もしかしたら貴重なシーンを見られるかも、なんて好奇心が顔を出す。


「そんな不埒な動機で選んだの?」

「いやいやそれだけじゃないッスよ。みんなをあっと言わせるような記事とか書いてみたいな~とか」

 水島先生に弁解する一条に、焦りの様子はない。これくらいでうろたえるヤツではないのだ。

「あっと言わせるねぇ。変な新聞作らないでよ」

「もちろんもちろん! 任せてくださいよ」

 勢いよく胸を叩く。こんなちゃらんぽらんのヤツに、まとまな新聞など書けるのだろうか。


 前に小林が見学に行った時は、みんな喋ってばかりで、入って行ける雰囲気ではなかったと言っていた。コイツならどんどん入って、自分のしたいことを成し遂げそうだ。

「まぁ…面白い新聞楽しみにしてるよ」

「おう!」

「インタビューいつでも受けてあげるよ!」

 辻井の台詞にみんなで笑う。

「部活も委員会もだけど、テストもしっかり頑張ってね」

 腕時計を確認し、水島先生は教科書類を持って教室を出て行った。


「そういや一条は、なんか委員会入ってたっけ」

 何気なく訊くと、一条はくるんと身体を回し、舞台役者のように両手を大きく広げた。

「俺がそんなメンドーなことすると思う?」

 こっちはイメージ通りだった。

「そうだな…」

 呆れた口調で言う僕の隣で、辻井がけらけら笑った。




 放課後を迎え、にわかに廊下は騒がしくなる。教室から流れ出る人波に合流し、目的地へ向かう。


「委員会っていつ終わるの?」

 鞄をぶらぶら振りながら、辻井が上目で僕を見る。

「さぁ…三十分くらいじゃないか?」

 全く根拠のない予測に、辻井はため息を吐いた。

「そっか…じゃあ俺は先に帰るね」

 階段に差し掛かり、手を軽く上げる。なんの未練も残さない、そのあっさりとした態度に意外というよりもいささか拍子抜けしてしまう。


 コイツのことだから、『終わるまで待ってる!』とか『図書室まで一緒に行く!』とか言うかと思ったのに。

 考え過ぎだろうか。いや、そんなことはない。今までだったら絶対そうしていた。

 そうしないのは、


『青葉は、恋したことある?』

 あの時の辻井の声が、表情が、僕の目の前に現れる。


「辻井」

「…ん? なに?」

 薄茶色の目が、僕を真っ直ぐ見つめる。その目に、なんであんなこと訊いたんだ、と問いたくなる。

 なのにどうして。

「なんでもない。また明日な」


「うん、また明日! 委員会どんなだったか教えて!」

 手を軽く振って、辻井は階段を降りて行く。人混みの中でも目立つはずのもオレンジ頭は、すぐに見えなくなってしまった。


 どうして、訊けなかったんだろう。


 違和感が、全くなかったわけではない。今日一日の、僕を見る時の、辻井の目の動き。『青葉』と僕に呼び掛ける時の、声の調子。ほんのわずかな、ずれを感じた。どう違うのか説明は出来ないけど、今までとは違う何かを感じた。

 昨日の、あの質問がきっかけだったのか。あの時、辻井は何を思っていたのか。今、何を考えて、躊躇いを覚えているのか。


 あんなこと訊いたのは、宮前の叔父が宮前の母親を好きだと言ったからだ。

 初対面の、しかも甥の同級生に何言ってるんだ。不快感が増す。


 というか、辻井は誰かに恋しているのか?

 でもあんなの、恋している顔じゃない。少なくとも、幸せな恋なんかじゃない。


 まぁいいや。とりあえず行こう。

 息を一つ吐いて、切り替える。

 

 階段を下っていくみんなに背中を向け、流れに逆らうように上っていく。四階は三年生のクラスなので、下りてくる先輩たちのセーラー服のスカーフはみんな真っ赤だ。たまに男子も紛れているけど首元の校章は相変わらず見えづらい。

 会話の中に「わー」とか「きゃー」とか鳴き声のような奇声が混じるのを耳にしながら、四階を目指す。


 本棟の四階には来たことがないから、上がった途端、異世界に紛れ込んでしまったような居心地の悪さを感じる。


 奥…奥ってどっちだっけ。

 角度が変わるだけで、自分の立ち位置が判らなくなってしまう。教室があっちの方だから…と当たりを付けて歩く。


 三年生の教室を通り過ぎ、使われていない空き教室も通り過ぎ…、


 足を止めたのはどうしてか、自分でも解らない。

 見えたのは、机の上に女生徒が二人、こちらに背を向けて座っているところ。そんなの、大して珍しくない。ありふれた光景。

 だけどどうしようもなく、惹き付けられた。


 ドアは閉まっていなかった。通りすがりを寄り添って、ゆっくり歩きながら、ちょうど真ん中辺りの机に座る背中を眺める。


 後ろ向きだから髪の毛しか見えないけど、左側の人の髪は、セーラー服の襟がやっと隠れるくらいの長さだった。右側はもはや先っぽが見えない。机の下に垂れているのだ。あんなに長い髪も珍しい。

 左側は茶色混じりの、あまり日本人っぽくない髪色をしていた。毛先がくるんと跳ねていて、癖っ毛なのが窺える。右側の長い髪は、漆を塗ったように真っ黒で、光沢のある綺麗な色をしていた。


 ゼロ距離で寄り添う二人は何か喋っているのか、時折肩が揺れる。その度に互いの肩が触れ合う。

 教室を通り過ぎてしまう直前、左側の人の顔が見えた。屈託なく笑い、隣の人を見上げるようにして覗き込む。


 その顔が、幸せな恋をしているように見えたのは、辻井との一件があったからか。

 目を細め、頬をとろけさせ、口は薄く開いて。

 まるで花が咲くような、幸せそうな笑顔。元々の顔立ちが整っているせいもあるだろうけど、顔いっぱいに溢れるその幸福感が、その人をいっそう美しくさせていた。

 仲の良い友人同士。そう見なす人の方が大半だろう。

 でも僕にはどうしても、恋人を見つめる顔に見えてしまった。


 見てはいけないものを見てしまった気がして、足早に通り過ぎた。


 そういえば体力テストの時、僕も誰かに『見てはいけないものを見てしまった』と言われた。ペアの相手が宮前で、二人で何かを話していたのだ。誰に言われたのかは忘れてしまったけど、きっとその人は今の僕と同じ心境だっただろう。


 突き当たりが見えてきた時、その手前にあった階段から人が上ってきた。

 ふくよかな体型、穏やかな微笑。水島先生だ。


「あれ、夏木くん」

 小花模様のトートバッグを提げた水島先生は、僕を認めると目を丸く開いた。


「あ、どうも」

 水島先生は目を丸くしたまま、こちらへ向かってきた。

 ん? こっちへ来ている?


 図書室はあっちでは…と疑問に思い始めた僕の目の前で足を止めると、水島先生は指を僕の背後へ向けた。

「図書室にいくところよね? 図書室、あっちだけど」

「えっ」

 振り返る。遥か先の突き当たりに、ドアが見えた。


「…もしかして夏木くん、方向オンチ?」

 苦笑気味に言われ、僕は顔から火が出そうになった。

「…そう、かもしれません」

「あはは。まぁ一年生だし仕方ないよ」

 ここで会えて良かった。水島先生に導かれるようにして、引き返して反対方向へ歩く。


 そうなるとさっきの教室をまた通ることになる。まだいるかと、あの二人がいた教室へ目をやった時、ちょうどドアが開いた。

「あ、水島先生」

 女生徒が一人出てきて、こちらを見た。髪が、膝丈のスカートの下辺りまである。右側にいた人だ、とすぐに判る。真ん中で前髪が分けられているから、つるりとした額が露わになっている。目が大きくて鼻が丸っこい。スカーフが赤いから三年生のはずだが、顔立ちに幼い少女のような面影があった。


「あら、そんなとこにいたの」

 水島先生が応えた後、二人目が教室から出てきた。

 二人目はこちらに気づくと、軽く頭を下げた。そうして、上げた顔が僕と向かい合う。


 先ほどのような甘やかな顔ではない、教師を前にしたよそ行きの顔。日本人離れした、色が白くて、くっきりとした彫りの深い顔付き。澄ましていると一見怒っているようにも見えるけど、空き教室での横顔を見ている僕には、作り物めいた印象しかない。

 二人並んでいると、さっきのやり取りを思い出してしまい、気まずくなって僕は不自然でない程度に目を逸らした。


「もう委員会始まるわよ。行きましょう」

 水島先生の呼び掛けに、髪がより長い方の先輩が「はい」とにっこり笑って応えた。


 彼女は隣の先輩に小言で何かを告げ、ドアを完全に閉めると僕らに向き直った。

「じゃ、行きましょっか」

 軽やかに言うとその軽やかなまま、隣に手を振った。


 振られた方の先輩は無言で手を振り返す。だがその顔には笑みが広がっていた。空き教室で見たのよりは半分くらい控えめな笑顔。きっとその半分は、大好きな恋人と引き離されてしまうことへの寂しさだ。


 図書委員ではない先輩が、僕らの横を通り過ぎて行く。甚だ疑問なことに、彼女は僕らと完全にすれ違うまで、僕の顔を注視していた。こちらが気圧されるくらい、真剣な顔で。

 僕が二人の仲睦まじいシーンを覗き見していたことに、この人が気づいているとは思えない。だけどどうにも居た堪れなくなって、僕はまたしても目を逸らしてやり過ごした。


「あ、もうこんな時間。急がなきゃ」

 腕時計を確認した水島先生が、足を早める。先に歩いていた長髪の先輩も早歩きになる。

 すれ違った先輩に気圧されていた僕も、急いで二人を追い掛けた。



 図書室に入ると、委員らしき人たちは既に集まり、各々三つ並んだ長机のどこかしらの席に着いていた。


 図書室とはいえ教師のいない空間はどこも同じで、みな誰かと談笑したり内職に勤しんだりと、同級生だけの教室ほどではないにせよ、それなりに気の抜けた空気と音で満ちていた。


「はーい、お待たせ。じゃあ始めようか」

 初めて入った図書室をきょろきょろ見回す僕を置いて、水島先生が奥のカウンター前に立つ。

「まずは席割りだね。こっちの机に三年生、真ん中に二年生、そっちに一年生、で座り直してくれる?」

 先生の指示で、みんながガタガタ席を立っていく。上級生とは違い、まだ他クラスと打ち解けていない一年生は同級生同士で固まっても、よそよそしい空気が漂っていて、それはもちろん僕も同じだった。おまけに一年生の中で男子は僕だけなので、余計に肩身が狭い。


 座る位置までは指示されていないので、クラスばらばらに座ることになる。僕も五組だけど流れで先頭に座った。一番端の、本棚を背にした席だ。持ったままだった鞄も、みんながそうしているように本棚の(そば)に置いておく。向かいには髪を胸元まで垂らした、大人しそうな女の子が所在なさげに視線をあちこち走らせていた。


「はーい、じゃあ新年度最初の委員会を始めます」

 水島先生が自己紹介して頭を軽く下げると、ぱらぱらと拍手が起こった。僕もそれに合わせて拍手をする。


「図書委員会へようこそ。二、三年生の中にはもう何回も図書委員やってる子もいるね。一年生はそもそも図書室が初めてかな」

 水島先生の柔らかな声に、二年生の誰かが「私も図書室初めてでーす」と応え、笑いが起こる。


「みんなにはぜひ、当番の日じゃなくても図書室を活用してほしいと思うの。それでクラスのみんなにも図書室を勧めてね。ここはたくさん、いい本が揃ってるから」

 水島先生が手を広げる。僕たち一年生もちらりちらりと辺りを窺う。幾つも並んだ本棚には、当たり前だけど本がぎっしりと詰まっていて、それぞれの世界が広がっていることを伝えていた。


 すっと鼻を吸う。木と紙の匂いがした。この匂いは中学校の図書室も町の図書館も変わらない。


「あっちの部屋は図書準備室ね。私含め、図書室担当の先生が作業をしてます」

 水島先生が示したカウンターの奥はガラスになっていて、二人の先生が席に座って作業をしている。どちらも見たことがない先生だ。カウンターの隣にドアが付いているから、そこから出入りするらしい。


「じゃあまずは図書委員長を決めましょう。三年生の中から立候補してくれる人はいる?」

 三年生の島で話し合いが始まる。長引くかと思いきや、暫くしないうちに手が上がった。

 

 水島先生は上がった手の先を見て、ふわりと相好を崩した。

「あぁやっぱり、トウドウさんか」

 手を上げた三年生が、椅子を引いて立ち上がる。


 長い長い黒髪をなびかせて、胸を張って凛と立つその人は、間違いなくさっきの空き教室の三年生だった。

 彼女は一番端の列の先頭の席に座っていたから、反対側の端の列に座る僕の真正面になる。


 目を凝らしても彼女の胸元の名札の漢字が見えないから、「トウドウ」が「東堂」なのか「藤堂」なのか、はたまた全く違う漢字を使うのかは判らなかった。

 とにかくそのトウドウさんは、大きな目を見開かせて、輝きを放つように笑った。

「はい、私が委員長やります」


「みんなもトウドウさんでいいのね?」

 水島先生に訊かれた三年生たちはうんうん頷いたり、「さんせーい」と手を上げたりした。

 その中で、誰かが「シオリは図書室のヌシだもんね」とからかい混じりにいった。


 トウドウシオリさんは、「いやぁ」なんて恥ずかしそうに自分の頭を撫でている。どうや、彼女にとっては褒め言葉らしい。


 僕たちにはその言葉の意味が解らなかったけど、水島先生と三年生の間には、それを当然のように受け入れている空気があった。(すなわ)ち、トウドウシオリさんは「図書室の主」だという。


「じゃ、図書委員会の委員長はトウドウさんに決定ね」

 水島先生に合わせて、みなでトウドウさんに拍手を送る。トウドウさんは礼儀正しく頭を下げた。


「次に役割分担ね。図書委員には、大きく分けて二つの当番があります。一つがカウンター係。もう一つが広報係」

 全員が全員カウンターをするわけではないのか、と水島先生を見上げる。

「カウンター係はその名の通り、週に一回ここのカウンターに座って、みんなの貸し出し手続きをしてあげます。

 広報係は、不定期に開催される図書室のイベントを企画してもらいます。カウンター係にも当番の日には手伝ってもらうけどね」


 二年生の島から、「不定期ってどれくらいのペースなんですか?」と質問が上がる。

「まぁ学期ごとに一回ずつ、って感じかな。でももっと増やしてもいいよ。いっぱいイベント考えて盛り上げて」

 あちこちで目配せや小声での相談が始まる。他クラスとの交流が浅い僕たち一年生の島では、お互いに顔色を窺う程度で、視線だけが交差している。

 

 僕もどうしようかな、と数秒考える。

 カウンター係だと毎週当番がある。その分、部活やら休み時間やらの時間を削られることになる。しかし僕にイベントの発想が出来るとは思えない。みんなで集まって作業、というのも得意ではない。どちらがいいだろうか。


「カウンター係は週に一回、昼休みと放課後ね。放課後は二十分くらいかな。部活ある子は、悪いけど係の仕事が終わってからになるね」

 僕らが悩んでいる間にも、水島先生の話は続く。全員の人数を確かめてから、

「各学年に六人ずついるから全員で十八人だね。カウンター係は二人でやってもらうから、月曜から金曜で十人必要なのね。残った八人が広報係です」

 にっこりと笑顔を見せる。


「もうどっちか決めてる子はいる?」

 まだ決めかねているのと、トップバッターを誰が行くかで、お互いの顔を気まずげに見比べる人がほとんどの中で、上がる手があった。


「トウドウさん、決まった?」

 手の主は先ほどと同じ人だった。水島先生に訊かれ、トウドウさんは立ち上がる。


「カウンターがいいです」

 水島先生の顔をまっすぐに見つめ、トウドウさんは凛と答える。

「そう、カウンターね」

 手元の書類に水島先生が書き込むのと、トウドウさんが指を横に伸ばすのがほぼ同時だった。


「ペアの相手は、あの子がいいです」

 トウドウさんの伸ばした指は三年生を飛び越え、隣の机の二年生をも飛び越えた、ように見えた。まさかと思った僕と、トウドウさんの目がかち合う。

「一年生の、そこの男の子」

 子供っぽい、無邪気な顔でトウドウさんは笑った。そうやって笑うと、余計に少女っぽさが際立つ。


 固まる僕。ざわつくみんな。目を白黒させながらトウドウさんと僕を見比べる水島先生。

 おかしな空気に満ちた図書室で、トウドウさんは両手を後ろに組んで、楽しそうに身体を揺らす。それに合わせて長い髪が揺れるのを、僕はただただ見つめた。


「えーっと…」

 戸惑いの目で、水島先生が僕を見る。

「トウドウさんはこう言ってるけど、夏木くんはどうする?」


 どうすると言われても。

 なぜこの人は僕を指名したのか。廊下で会ったことがきっかけなのは確実だ。僕が二人を覗き見していたことに気付いていたから、腹いせに?


 でも当番の相棒に指名することに、どんな腹いせの効果があるのだろう。僕を混乱させたいのか。それとも係を一緒にやる時にしつこくいじめる気なのか。嫌な想像ばかりしてしまう。


 だけど。

 楽しそうに笑っているトウドウさんに、悪意を感じ取ることは出来なかった。もしかしたら本当に、僕を混乱させて楽しんでいるだけなのかもしれない。


 トウドウさんの目を見る。重なった視線に、心臓を掴まれる。無意識に、唾をのみ込んでいた。


 この時の僕の心情は、昨日の、宮前の叔父に誘われた時と似ていた。警戒心を強く持ちながら、芽生えた好奇心。怖いもの見たさ。


 水島先生が「断っても全然…」と言い掛けた声に被さるように、

「大丈夫です。やります」

 トウドウさんの目を真っ直ぐ見つめ、僕は答えていた。


 みんながやっぱり驚きの顔をするなか、元凶であるトウドウさんは、にっと歯を見せて笑った。 


 残りの人たちがカウンター係と広報係を決めると、次はそれぞれの係に分かれて今後の予定を決めていく。


 二年生の使っていた長机が広報係の打ち合わせに使われることになり、一年生の長机に、カウンター係が集まることとなった。

 

「よろしくね」

 トウドウさんはやって来ると、僕を覗き込むようにして、にっこりと笑みを浮かべた。空き教室の笑顔とは根本的に種類が異なるそれに、「…お願いします」と僕も見上げて応える。


「夏木くんっていうんだね」

 僕の学ランの胸の名札を見て、トウドウさんは頷く。

「はい…藤堂、さん」

 僕もセーラー服の名札を確認し、先輩が『藤堂さん』であることを知る。


 藤堂さんがどうして僕を指名したのか、やはり本人の口から理由を聞きたかった。けれど水島先生がやって来て、

「カウンター係の子は何曜日を担当するか決めてね。藤堂さん、ここをお願いね」

 藤堂さんに場を託してしまったために、この件は先送りとなった。


「じゃあみんな、何曜日がいいとか希望ある?」

 長い髪を揺らして僕らの前に立つと、藤堂さんは場を見回して訊いた。


 ざっと見たところ、カウンター係は一年生が多いようだった。というより一年生は全員カウンター係にいた。二年生と三年生のほとんどが広報係を希望したためだ。必然的に、どちらか決めかねていた、あるいは上級生に遠慮した一年生がカウンター係に回ることになった。


 藤堂さんの質問に対し、答える者はいなかった。特に希望はないのだろうか。あるいは答えにくいか…。

「あの…」

 か細い声で、おずおずと挙げる手があった。


 僕の向かいの席からだった。

「はいどうぞ。いつがいい?」

 藤堂さんが微笑みかける。すぐ隣から顔を向けられて緊張しているのか、彼女は藤堂さんに目を合わせないよう、うつむき加減で口を動かした。


「月曜と木曜は塾があるので…火曜日か、水曜日か、金曜日で…お願いします」

 消えそうな声でやっと言うと、彼女、名札によると篠崎…しのざきさんだろう、は完全にうつむいてしまった。


 藤堂さんはぽかんとした顔で二度まばたきした後、にっこりと深い笑みを浮かべた。

「うん、分かった。火曜と水曜と、あと金曜ね」

 他の人は大丈夫? 藤堂さんの呼び掛けに、ちらほら手が上がり、各々何曜日がいいだとか悪いだとか希望を伝えていく。みんなが意見を言えるようになったのは、篠崎さんがきっかけなのは言うまでもない。


 水島先生から貰ったプリントにみんなの意見をまとめていった藤堂さんは、やがて一人で何度も頷いて、

「おっけー、ペアが決まりました」

 満足そうに言ってのけた。


 仕事が速い。みんなが希望を言い出して、まだ五分も経っていない。頭がいい人なのか、とちょっとだけ藤堂さんを見る目が変わる。


「じゃあ発表しまーす」

 椅子を立ち、藤堂さんはメモを片手にみんなの周りを優雅に歩いていく。

「きみときみが、月曜日」

 真ん中辺りと端に座る一年生の女子らが、藤堂さんに背後から肩を叩かれてびくりとする。


「きみときみが、火曜日」

 続いて藤堂さんは僕の左隣の一年生女子と、その対角線上に座る二年生女子の肩を叩いた。学年の異なる組み合わせに、二人は目を丸く見開いている。


 その調子で、藤堂さんは次から次へとペアと曜日を告げていく。

「で、金曜日が私と夏木くん」

 最後に僕の肩を叩いて、藤堂さんはみんなを見回した。

「とりあえずこんな感じだけど大丈夫?」

 不満を述べる者はいなかった。誰もが気後れしたような表情で藤堂さんを見上げていた。


「よし」

 満足そうに、にっこり笑う。

「じゃあここにクラスと名前書いてってくれる?」

 藤堂さんは胸ポケットからボールペンを取り出し、さらさらとプリントに記入すると、ボールペンと一緒に篠崎さんに手渡した。受け取った篠崎さんは目を書面に走らせてから、ボールペンで記名して隣へ渡した。


 最後に僕に回ってきたプリントには、月曜日から金曜日までの曜日とそれぞれ二人分が記名出来る枠が印刷されていた。

 金曜日の二つ目の枠に、僕も記名する。一つ目には藤堂さんが最初に書いた彼女の名前が載っている。

 藤堂紫織。しおり、と読むのだろうか。


 名前を書き終え、プリントを藤堂さんに返す。藤堂さんは内容を確認した後、プリントを水島先生に持って行った。

「水島先生、出来ました」

「もう? 早いのね~」

 広報係に説明していた水島先生は藤堂さんからプリントを受け取ると、感心の声を漏らした。


「じゃあみんな、昼休みと放課後お願いね。どうしても用事があって来られない日は、代わりを立てるかペアの子に一人でやってもらえるようお願いしてね」

 僕たちが頷いたのを確認して、水島先生は「じゃあカウンター係の子は帰っていいよ」と、僕たちだけに委員会終了を告げた。


 広報係がまだ帰れないのに先に帰るのは気が引けたけど、藤堂さんがさっさと帰ろうとするので、僕は慌てて鞄を取った。


 そんな僕の背後で、「あの…」と小さく声が聞こえた。


 振り返ると、女生徒がおずおずと水島先生に手を挙げているところだった。

 篠崎さんだ。気弱そうながら、自分の事情をきちんと藤堂さんに伝えていた彼女は、水島先生にも何かを伝えようとしていた。


 藤堂さんを追いかけたいのに、僕の足は動かない。それどころか意思とは無関係に、耳を澄ましてさえいた。目も、二人に釘付けで動かせない。

「明日からテスト期間ですけど…その間も当番はあるんですか?」


 あ、と鞄を落としそうになる。朝のホームルームで、確かに池田先生は言っていた。

『明日からテスト期間だから、職員室は入室禁止だぞ』

 通常、テスト期間は部活動も停止となる。だとしたら図書室は、図書委員の当番は、どうなるのだろう。


 篠崎さんから質問を受けた水島先生は、解りやすいほど顔を驚きで染めていた。

「そうじゃない! 大変、忘れてた」

 両手に口を添え、帰り支度を進めるカウンター係の生徒たちに向けて、声を張る。

「みんな~! 明日からテスト期間だけど、昼休みは当番来てね~! 放課後はどっちでもいいよ~!」


 どっちでもいい、が一番困る。他の同級生たちも、困ったように立ち竦んでいる。

 藤堂さんはどうするだろう。訊きたいことが一つ増えた僕は、鞄を持ち直して図書室を出た。



 図書室を出た、廊下の先に藤堂さんの後ろ姿があった。


「藤堂さん!」

 小走りで近づきながら呼ぶ僕の声に、藤堂さんは存外に勢いよく振り返った。それに置いて行かれまいとするかのように、長い髪も大きく(なび)く。


「夏木くん」

 どうしたの、と言いたげに藤堂さんは首に角度を付ける。髪が斜めに流れていくのを、つい目で追う。


 向かい合う藤堂さんの表情は今いちぴんときていない。僕としてはなぜ判っていないのか謎だった。

「あの…なんで僕を選んだんですか?」

「ん?」

 本当に判っていないのか? 前髪のないすっきりとした額に、やけにイラッとしてしまう。


「その…カウンターのペアの相手に、です」

 そこまで言って、ようやく藤堂さんはあぁ、と合点がいった顔をした。


「だって夏木くん、見てたでしょ」

 顔を傾けて藤堂さんは僕を見上げる。身長は僕よりは低いものの、女性としては決して低くはない。僕の鼻の辺りでふ、と笑う。その笑い方は図書室で水島先生や後輩たちに見せていたものとは、本質的に違っていた。

 そうして僕の胸の中では、ざわざわと音が聞こえてきそうなほど、心臓が騒いでいた。


「見た…というのは」

 僕の背中では、図書室から出てきた生徒たちの足音が聞こえている。彼らはこちらには来ず、すぐそばにある怪談を下りていく。

 そういえば、なぜ藤堂さんはそばの怪談を使わず、廊下を歩いていたのだろう。


「私と、あの子が一緒にいるとこ」

 藤堂さんの声が、秘密を共有する共犯者のように潜められる。

「…えっと、まぁ…ちら、とは見ました」

 気づかれていた。僕の心臓の音が、さらに騒がしくなる。


「どう思った?」

「どう…とは」

 目線がずれていく。まずい、と思いつつも、目が動くのを止められない。

「仲がいいんだな、としか」

「うそつき」


 すっと通った藤堂さんの声が、僕の心臓を突き刺す。


「…嘘、とは」

「夏木くん、私とあの子がそういう仲だってこと、気づいたでしょ」

 確認ですらない、断言する物言いに、僕は何も言えない。何を言ったって、この人は信じない。


 諦めて、目を向ける。これから毎週金曜、昼休みと放課後を共に過ごす先輩へ。

 藤堂さんは笑っていた。空き教室で恋人に見せていたのとも、図書室でみんなに振り撒いていたのとも違う、一番この人を表している笑い方で。

 綺麗だな、と場違いに思う。


「…なんで、そう思うんですか」

「私たちと目が合った時、気まずそうにしてたから。あとは…直感?」

 首を傾げてみせるが、その直感こそを、藤堂さんは信じているのだろう。目には確信が込もっていた。


 顔だけなら少女みたいで、体つきは年相応で、だけど目だけが大人びて、老人のようでさえあった。深い理知の海に染まった、透き通った目。

 どれだけの経験を詰んだら、こんな目になれるのだろう。そうしたら、僕も辻井に面と向かって、気まずいことも訊けるのだろうか。


「僕が気づいたことが、どうして僕をペアの相手に選ぶことに関係するんですか?」

 精一杯、虚勢を張って問う。老成した目は、なんの経験も積んでいない後輩を思いやっているようにも、面白がっているようにも見えた。


「んー、キミと話したいな、と思ったから、かな」

「…なんですかそれ」

 あっけらかんと言われ、肩がずり下がる。

「キミ、なんかいろいろ背負ってるみたいだし」

 胸の辺りに指を差され、一歩後ずさる。


「その荷物に、私のも加えてもらおうと思って」

 伸ばしていた指を戻し、両手を組む。その手を、胸の中心に添え、藤堂さんはおねだりのような格好になる。

「二人だけじゃ、持ちきれないから」


 僕へと転がした藤堂さんの目は、淡く、切実に光っていた。その光を浴びて、僕は思う。この人たちが背負う荷物って、一体なんなのだろう。


「きっと夏木くんは、誰かがいらないって投げ捨てた荷物も、大切に拾ってくれる人だから」

 藤堂さんの口調には確信が込もっていて、どうして今日会ったばかりの僕にそんなに期待するのだろう、と甚だ疑問だった。


 僕と藤堂さん、二人分の声しか響かない細い廊下で、いつしか僕らは真剣な顔で向かい合っていた。

「藤堂さんは良くても…あの人が、許さないんじゃない、ですか」

 硬い顔で僕を見ていた、藤堂さんの大切な人。藤堂さんのことが大好きだ、って全身で伝えていた人。


 藤堂さんは迷うように「んー」と唸った後、

「かもね」

 無責任にへらり、と笑った。


「え」

 固まる僕にお構いなく、藤堂さんは身体を揺らして笑う。

「でも大丈夫。きっと解ってくれるよ」

「いや…それは…」


「じゃあね夏木青葉くん。金曜日よろしく」

 僕の肩を叩き、藤堂さんはゆったりと微笑む。悔しいけど、今日見た中で一番美しい笑顔だった。


 僕に背を向けて、藤堂さんが歩き出す。気づけばその背中に、問うていた。


「藤堂さんは…恋を、しているんですか」


 細い、藤堂さんの腰だけが振り返る。不思議そうな顔をしていた。後輩の突然の質問に、意図を探っているのだろうか。


 構わず、僕は続ける。

「恋って、どんなものですか」

 辻井に提出出来る答えが欲しかった。僕は今まで、恋をしてきたのか。


 長い髪が、肩からさらりと落ちる。藤堂さんの口元がふっと緩む。

「恋ってね、いつのまにか落ちてるものなの」

 夢見るようにそう言って、藤堂さんは前へと向き直って、今度こそ歩いて行ってしまった。


 僕はただ、歩調に合わせて揺れる髪を眺めるしかなかった。

 頭の中では、藤堂さんの解るような解らない言葉と、辻井の泣きそうな顔が渦巻いていた。




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