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落陽  作者: いっくん
1/6

入学式

 通学通勤時間というのは、人生で一番無駄な時間だと思っている。だから自分が通いたいと思う高校があれば、そのために家を出たって良いと、僕は本気で思っていた。


 しかし幸か不幸か、行きたい高校というものが僕にはなかった。

 成績は普通よりちょっと上、体力はそこそこという、特別何かに秀でている部分のない僕には、大した夢も将来の展望というものもなかった。だから高校も、自宅から一番近いというふざけた理由だけで選んだって、なんら問題はなかった。


 そんな訳で僕は、春から商業高校に通うことが決まった。

 男は工業高校、女は商業高校、というイメージは今でも根強く、僕が商業高校に行くと話したら、同級生は大体珍しいものを見るような目で僕を見た。


 放任主義の両親はともかく、中学の担任は僕の高校の選び方について終始渋い顔をしていたけれど、実際に通うのは僕なのだ。効率を選んで何が悪い、と開き直ることにした。



 そうして僕は今、中学から使い続けてきた学ランを見上げて、明日の入学式のイメトレをしていた。

 商業高校の制服は中学の制服と同じだったので、買う手間が省けたと両親は喜んでいた。大きめのサイズを買っていたおかげで、今後三年間も持ちそうだ。首元に入った刺繍だけが、高校の証。


「やぁ、おはよう!」

「初めまして、これからよろしくお願いします!」

「あ、どーも」

 そろそろ顔が痛くなってきた。布団の上に座っていた身体を後ろ向きに倒して伸ばす。


「なんか嘘っぽい…?」

 スマホをインカメにして、自分の笑顔を映してみる。自分ではにこやかに笑っているつもりなのに、そこはかとなく胡散臭い。

 スマホを投げ、長く息をつく。

 ほとんどは女子だけど男子だって最近は多いと聞く。数少ない男子はもちろん、女子とだって今後の高校生活を円滑に運ぶには関係は良好でいたい。別に恋愛とかはしなくていいから。


 また、長い息が出る。さっきより重い。認めたくないけどため息だ。

 メンタルは強い方だと自覚しているが、プレッシャーには弱い。明日を上手く乗り越えられるか、多分今、全国の新高校生が頭を抱えていることだろう。そう思うと少しだけ気が楽になる。


「にーちゃーん!!」

 大声と共に、ドアを開けて闖入者が飛び込んでくる。今春から保育園の年長になる弟だ。

「なに…」

 のろのろと身体を起こす。何度言ってもノックが出来ないから、最近は諦めている。


「かーちゃんがリンゴたべよーって! たべる?」

 意味もなく布団の周りを駆け回って、弟は元気に声を響かせる。能天気さが羨ましい。

「リンゴね、はいはい食べる食べる」

 どっこいしょと立ち上がる。気にしてもしなくても明日はやってくる。ならば弟のように、能天気にリンゴのことだけを考えよう。

「リンゴーリンゴー♪」

「なんの歌?」

「リンゴのうた!」

「そっか」


 部屋を出る直前、弟は勢いよく振り返った。突然の動きに、僕の身体はびくりと跳ねる。

「にーちゃん、さっきなんでへんなかおしてたの?」

「…変だった?」

「うん!!」

 満面の笑みが、心に深く刺さった。



 入学式の朝は、眩しく晴れていた。公立の商業高校というだけあり、校舎には年季が入っていて汚れも目立つ。とはいえ朝の光と点在する桜の樹のおかげで、古臭さは多少軽減されているようにも感じる。


「いい天気で良かったわね~」

 車から降りた母が、腕を広げて大きく伸びる。広い校庭には車が何台も連なり、学校関係者と思しき人たちが声を張り上げて誘導している。

 校庭から校舎に向かう、新しい同級生とその保護者たちの群れに、僕と母も加わる。

「うん…」

 亀の如き歩みで先を目指す。誰とも目を合わせたくないのに、目線は落ち着きなくあちこち動いていた。


「しっかりしなさい!」

 ばしん! 高らかな音を鳴らして、母が僕の背中を叩いた。

「いった…っ!!」

「昨日イメトレしてきたんでしょ? ならばっちしでしょ!」

 親指を立ててウインクする母は、自信たっぷりだ。この人のポジティブさというかおおらかなところに、ずっと助けられてきた。


「うん…」

 布団でイメトレしていたのを弟がばらしたおかげで、昨夜はリンゴを食べている間散々弄られた。あの時間さえ、無駄には出来ない。

「あ、見て! 男の子居るよ!」

 僕の背中をバンバン叩いて、母がはしゃいだ声を上げる。


「ちょっ、痛いって」 

「どうする? 声掛けてみる?」

 僕の声など聞こえないのか、母はしげしげと前方の彼らを見ている。

 仕方なく、僕も前を歩く二人へ視線を投げる。


 僕らの数歩先を進む二人は、確かに男子高生と保護者の女性だった。僕と違って制服は新調したのだろう、陽の光を吸い込み、学ランは艶々と黒光りしていた。

 反対に、髪はオレンジに近い茶髪だった。猫みたいな色は地毛とは思えないけど、隣の保護者の髪も似たような色合いなので断定は出来ない。


「ね、どうする?」

 母が興奮した顔で僕を見る。

「どうするって…いいよ別に」

「えー? ここで仲良くなっといたら、後々便利でしょ。貴重な男の子じゃない」

「言い方なんかやだな」

 打算的な性格を隠しもしない。こういう開けっ広げなところは長所とも短所とも言える。


 どうせ今後どこかで会うのだから、わざわざ声など掛けなくても…という思いが半分。もう半分は、正直に言ってしまえばビビっているのだ。初対面の人間に声を掛けるという凄技を、僕は所持していなかった。

 しかし母と言い合っていた僕の目に、前方の彼がふっと体勢を崩したのが見えた。


 ん? と思った直後、彼は後ろへひっくり返った。

 どちゃっ、と盛大な音を立てて、彼が尻餅を付く

「わっ」

 僕の驚いた声と彼の盛大な音で、母も前へ視線を戻す。


「あら~」

 保護者が手を差し伸べ、彼を起こそうとしている場面へ、母はなんの躊躇いもなく飛び込んでいった。

「大丈夫ですか~?」


 周りの他の新入生と保護者が、ちらちらと母たちを見ている。注目を集めるのは苦手だ。知らん顔で通り過ぎるという案が脳裏をよぎったけれど、さすがに人としてどうなんだと思いとどまる。

 小さくため息を零し、僕も三人の元へ向かった。


「すみません、この子そそっかしくて…」

 母に応える女性は、随分と若い。母も同級生の親と比べると若い方だけど、この人はそれよりずっとずっと若い。というか二十代に見える。もしかしたら母親ではないのかもしれない。

 肩までの明るい髪を散らし、女性は恥ずかしそうに身体を縮めている。

「いえいえ、男の子はそんなもんですよ」

 母が軽快に笑う。そこで、地面に尻餅を付いていた彼がやっと腰を上げる。


 母の隣に到着した僕は、彼とまともに目が合った。

「いや~また転んじゃった…。恥ずかしい…」

 頭を掻いて苦笑する彼は、僕と目線がほぼ同じだった。垂れた目に反して、眉は太く凛々しい。小さな鼻は丸っこく、こういう時の癖なのかひくひくと動いている。


 犬みたいだな。

 後ろ姿からは猫を連想していたけど、顔立ちや全体の印象としてはむしろ犬に似ている。それも地面をころころ転がる、雑種の中型犬という感じ。


「怪我はしてない?」

 母が訊くと、彼は「全然大丈夫です!」と元気良く答えてみせた。

「もー気を付けなさいよね。なんであんな、なんにもないとこで転ぶのかしら」

「ごめんごめん…」

 口を尖らせる女性に、彼はへらりと笑う。女性の年齢、そしてこの二人の間の空気感はやはり親子というよりも…。


「もしかして、ご姉弟(きょうだい)ですか?」

 母が直球で訊いていた。初対面でよくそんなぐいぐいいけるなと呆れながらも、僕も同じことを感じていたから目の前の二人をじっと見つめる。


「そうなんです。今日は仕事が忙しい親に代わって、姉である私が付き添ったんです」

 にこり、と音が聞こえそうなほど女性は柔らかく微笑んだ。

 美人だ、と思った。女性の美醜に疎い僕でもはっきり判るくらいだから、彼女は相当な美人だと言えた。僕よりは低いものの、女性にしては背はすらりと高い。同じく高身長の母と並んでも遜色無い。白いワンピースが、均整の取れた身体によく似合っていた。


 そんな美しい女性を姉に持つ彼もまた、顔立ちは整っていると言えるのだろう。だが如何せん、先ほどの転びっぷりと犬のイメージのせいで素直に格好良いとは思えなかった。

「まぁ、いいお姉さんですね。こんなしっかりしたお姉さんなら親御さんたちも安心ですね」

 母の如才ない褒め言葉に、女性はいえいえと細い首を振った。


 けれど僕は、この姉弟の顔から一瞬笑みが消えたのを見逃さなかった。

 親、は触れられたくない分野なのだな。

 

 ひとつ理解した僕は母の腕を引いた。

「あのさ、そろそろ行こうよ」

「あぁそうね。せっかくだし一緒に行きません?」

「ええ、ぜひ」

 余計なことを…。母が誘ったせいで、母と女性は並んで歩き出し、必然的に僕はその後ろを付いて行くしかなかった。隣にドジで犬っぽい彼を連れて。


 女性二人が会話を楽しむ後ろで、僕はひたすら前を向いていた。隣を見られなかった。僕は初対面の人間とすぐに打ち解けるほどコミュ力を持ち合わせていない。


 なのに。

 横から視線を感じる。見られている。彼が僕を凝視しているのだ。どうしよう。首をちょっと動かせば彼がどんな顔で僕を見ているのか判るのに、小心者の僕にはそれさえ出来ない。

 彼の雰囲気から、悪いヤツじゃないし話しやすいヤツだとも判っているのに、今ひとつ一歩を踏み出せない。どうしよう。早くしないと校舎に着いてしまう。

 せっかく彼が話しかけたそうにしているのに、まるで壁を作っているみたいだ。これではダメだ。今日から高校生なのだ。勇気出せ、僕。

「あの、」


「ね、名前教えて!」

 僕が首を動かすよりも早く、彼がずいと顔を近付けた。迫り来る整った顔面に、息を呑む。

「あ、えっ…」

「嬉しいなぁ、商業高校だから男子は少ないって聞いたけど、早速会えるなんて。友達になってよ!」

 なんて明るい性格なのだろう。僕には眩しくて目がチカチカしてしまう。


 羨ましくて、嬉しいと感じてしまう。頭の芯が痺れるくらい。

 だけどなんだか照れ臭くて、僕は小さく「…うん」と頷くしか出来なかった。


 内心とは裏腹に鈍い反応をする僕を気にする風もなく、彼は満面に笑みを浮かべた。

「やったー! 俺、辻井(つじい)想一(そういち)! キミは?」

 彼、辻井の勢いに押されながら、僕はたどたどしく応えた。

夏木(なつき)青葉(あおば)

「へー! 爽やかな名前だね!」

「名前だけはね」

 コンプレックスというほどではないが、僕は自分の名前に自信がない。気に入ってない訳ではないけども、どう考えても名前負けしている。


 僕の複雑な心境など辻井には分からないのだろう、相変わらず高いテンションで話し続けている。

「同じクラスになれたらいいね! あ、でも違ってても仲良くしてね」

「うん…」

 こんな明るい人間…いわゆる陽キャが、僕みたいな陰キャと仲良くしている構図が思い浮かばない。きっと僕なんかよりもっと気の合うヤツを見つけて、僕のことなんか秒で忘れるのだ。

 自分だって仲良くしたい気持ちはある癖に、そんなことを考えてしまう卑屈さが嫌になる。

 

 そうこうしている間に、ついに僕らは校舎に辿り着いた。

「クラス表貼り出されてるみたいよ」

 母に促され、僕と辻井は昇降口を目指した。


 新入生たちがわらわら集まって、昇降口に貼り出されたクラス表を覗き込んでいる。人波を掻き分けて、表から自分の名前を探す。女子ばかりだからちょっと背伸びすれば、簡単に表が見えた。それに男子は表の最初に書いてあるから探しやすい。


 なかなか無いなぁと探していたら、「あ!」と辻井の声が隣で上がった。

「俺たち同じクラスだ! しかも前後! やったー!」

 万歳する辻井に「どこ?」と訊くと、六枚並んだ表の端の方を指差した。

「五組!」

 辻井の言う通り、一年五組のクラス表には『辻井想一』と『夏木青葉』の名前が並んでいた。


 クラスを確認し終えると、僕らは母たちの元へ行った。

「姉ちゃん、俺ら五組だったよ」

「一緒だったの? 良かったね」

 ぱっと顔を輝かせた辻井の姉に、母はすかさず「今後ともよろしくお願いします」と頭を下げた。

「こちらこそ! 青葉くん、弟をよろしくね」

 美人な女性にお願いされてしまったら、『はい』以外の返事は出来ない。僕は母に倣い、「はい、こちらこそお願いします」と頭を下げておいた。


 先に体育館へ向かう母たちと別れ、僕らは教室へ足を進めた。壁に貼られた案内表示に従い、階段を登る。

「三階か~、毎日階段登るのめんどいなぁ」

 辻井が足元へ向けてため息を吐く。

「四階よりはマシだろ」

「そりゃあ四階よりはね」

 一年生は全クラス三階らしい。渡り廊下やトイレを挟んで、クラスが横に並んでいる。


 階段を登り切り、廊下を進むと、一年五組の教室が見えた。辻井が「あったー!」と声を弾ませ、早足になる。つられて僕も早足で教室を目指す。

 そこかしこの教室と違わず、五組も喧騒で満ちていた。入るのに躊躇してしまうくらいに。


 だけど辻井は迷わず入って行く。僕も意を決して足を踏み入れた。

 恐らく同じ中学校だった者同士なのだろう。到底初対面とは思えぬテンションで、幾つもの小さなグループが話し合っている。

 数少ない男子の出現に、女子が『おや?』と視線を向ける。それが居た堪れず俯いてしまう。前を行く辻井の背中だけを追う。


 黒板には座席表が貼られていた。それによれば僕は窓側の前から五番目の席で、辻井はその前の席になる。男子は六人在籍しているようだが、今のところ席に座っている男子は先頭と一番後ろ、つまり僕の後ろだ。

 ぼうっと座席表を見ていた僕を置いて、辻井はずんずん進んで行く。僕が気付いて振り返った時には、辻井は先頭の席に座る男子に話し掛けていた。


 ここは便乗しておこうと辻井の背後に立つ。数少ない男子同士、同盟を結んでおかねば。

「へー、一条っていうんだ。カッコいい名前だね。どこ中?」

「西中~。お前は?」

 一条という名前の男子と目が合う。会釈する僕に、明るい髪をツンツン逆立てた彼はへらっと笑ってみせた。チャラそうだけどいいヤツそうだ。


「俺ね~、私立だったから知らないかも」

 そう言って辻井が名前を挙げた中学校は、県下でも名の知れた名門中だった。

「え!」

 驚いて口をぽっかり開けた僕に、辻井は恥ずかしそうに笑う。

「まぁ落ちこぼれだったけど…」

「そんな凄いとこなの?」

 一条が、細く整えられた眉を興味深そうに上げる。


「僕もあんまり知らないけど、まぁ凄いとこだと思う…」

「すげぇじゃん! なんでここに?」

 一条の称賛に、辻井は眉を下げてえへへと笑った。

「まぁ近いし…なんか新しいことしたかったんだ」

「へー!」

 一条は素直に納得しているけど、僕は辻井の台詞が全くの真実だとは思えなかった。

 嘘ではないのだろう。でも真実だけでもない。先ほどの両親のくだりといい、辻井には何か特殊な事情がありそうに見える。


 もちろん、そんなこと僕には関係が無い。

「じゃ、僕、席行くね」

「うん!」

 辻井はまだ一条と話すつもりのようだ。僕と違って辻井も一条もコミュ力があるから、盛り上がることだろう。僕にはこれ以上喋る体力はないので早々に離脱する。


 そういえば僕の後ろにも男子は居たはず。話し掛けた方が良いだろうか。迷いながら席に行くと、後ろの席に座る彼は突っ伏して寝ていた。

 朝陽が燦々と、丸い後頭部を照らしている。虫眼鏡でも当てたら黒い髪が焦げてしまいそうだ。その光景を想像したらちょっとおかしい。


 寝ているなら話し掛けなくても良いか。僕はほっとした心境で、自席とあてがわれた椅子に腰を収めた。

 辺りに視線を巡らせる。かつての友人とはしゃぐ者、新しい友人と親睦を深め合う者、所在なさげに席で身を潜める者、みな、新生活に色めき立っていた。


 隣へ目をやる。隣の席の女子が友人二人と楽しげに声を上げている。一風変わっているのは、二人の女子は立っているのに対して、彼女は座ったままだということ。首を上げ続けるのは辛くないのだろうか。


 あんまり見てても怪しいか。僕は目線を窓の外に替えた。春の空はうららかに青く澄んで、窓越しに暖かな光を教室へ送り込んでいる。僕の新しい机には、暗い茶色の部分と金色に光る部分が半分ずつできていた。

 金色の部分をそっと触れてみる。暖かい。緊張しっ放しの心が、ほんの少し緩む。


「青葉~!!」

 辻井の声が響いて、緩んでいた心が跳ね上がった。

 隣の女の子たちが、僕と辻井に目を向けるのが判る。隣を見ないようにして、席を立って辻井のところへ行く。


「なに?」

 もう名前呼びか。陽キャは距離の詰め方が強引だ。

「残りの男子も来たよ!」

 辻井と一条の間には、二人の男子が立っていた。


 一人は百八十センチはありそうなほどの身長で、がっしりとした身体付きに似合わず素朴な顔立ちをしていた。もう一人も大柄で、相撲取りみたいな豊かな体格をしていた。なのに小さな目は、気弱そうにしょぼしょぼしている。

 胸元の名札を見て、互いに名前を確認する。

「あ、えっと…よろしく」

 がっしりとした身体の、岡という男は「ああ」と首を引っ込める動作をした。相撲取りみたいな男、小林も太い首を「うん」と小刻みに動かす。


 見た目に反して大人しそうな二人に、ほっと胸を撫で下ろす。これなら平穏に学校生活を送れそうだ。

「これで男子は全員揃ったなー!」

 一条が大きく口を開けて笑う。

「うん、よろしく~」

 辻井がノリ良く応じ、岡と小林も目配せし合うと、笑みのようなものを零した。


「あのさ、僕の後ろの席のヤツは…」

 僕の言葉に男たちは、ん? と一番後ろの席へ目を転じた。

「…寝てるね」

 辻井が見れば判ることを言う。

「顔見た?」

 僕たちより早く教室へ来ていた一条に問うと、彼は「うんや」と首を左右に振った。

「来た時から寝てたよ。起こすのもアレかと思って、ほっといた」

 それはそうか。僕だって、知りもしない人が寝ているのをわざわざ起こそうとは思わない。


「あの人とも仲良くなれるといいなぁ」

 辻井が平和そうに頬を緩める。なんというか彼は底抜けに素直な性格らしい。見ているのが恥ずかしくなるくらい。

 でもそんなところがちょっとだけ凄い、とも思う。


「そうだね」「うん」

 僕らが口々に話していると、開けっ放しのドアから教師と思われる男が入って来た。

「はーい、みんな揃ってる~? これから入学式だから体育館に集合!」

 スーツをかっちり身に着けた姿は大人っぽいのに、どこかお仕着せのような感じがする。きっと普段はスーツなど着ないのだろう。

 よく通る声をのんびりと伸ばして、男は意外にも手際よく生徒たちを廊下へ誘導し、並ばせていく。

「男子が前な~」

 

「行こう、青葉」

 辻井がにこやかに僕を呼ぶ。一条たちはもう廊下で列を作っている。「うん」と僕も行こうとしたのだが、背後が気になって振り返ってしまう。


 彼は相変わらず自席で寝こけていた。定期的に身体が上下していることから、生きてはいるのだと読み取れる。

 でも、起きない。


 既に女子たちもほとんど並び終えている。辻井も行ってしまった。僕も行かなければならないのに。

「おーい、そいつ起こしてやってくれ」

 どうしようかと悩んでいた僕に、廊下から先生が叫ぶ。


 道を指し示してもらえた僕は、「あ、はい」と今気付いた風な声で応えて、未だ眠り続ける彼の席へ寄る。

「なぁ、入学式始まるぞ」

 声を掛ける。起きない。そりゃそうだ。声なんかで起きるなら、とっくに起きている。


「なぁ」

 躊躇いはあったが、肩を揺することにする。彼の肩に手を起き、揺らそうと動かした時、

 ぱっと彼が顔を上げた。


 心の中で、『へぁ…』と声を出していた。実際に口は開いていた。

 顔面が、びっくりするくらい整っていた。切れ長の目に短くも濃い睫毛、すっと通った鼻筋、薄い唇。花瓶に飾られた一輪の花を思わせる、凛とした美しさが、小さな顔に満ちていた。


 動揺を悟られないよう、用件を口早に伝える。

「あのさ、入学式始まるから行こう」

 彼は眠そうに目をしばたたかせていたが、やがてゆっくり意識が浮上してきたのか、

「…あぁ」

 なんとも気の抜けた声を漏らして、立ち上がった。


「やっとお目覚めか~? 式では寝るなよ~」

 教師に弄られても、彼は「はぁ…」とため息のような声でおざなりに返すだけだった。

 けれど彼の顔を見たクラスメイトたちは、一様に目を見張っていた。

「めっちゃイケメンおる」「すご~」「どれ?」

 ざわつくクラスメイトになど目もくれず、彼は僕の後ろを眠そうに付いて来た。


 

 広い体育館では椅子が用意されていた。

 姿勢良く椅子に座り、学校関係者たちのありがたい言葉に僕はきちんと耳を傾けていたのだが。


「ね、青葉」

 左隣に座る辻井が小声で話し掛けてくる。

「うん」

 舞台を向いたまま、僕も小声で返す。

「凄いことになってんね」

「…うん」

 驚く辻井に対して、僕は弱った声しか出ない。


『式では寝るな』

 教師に釘を刺されたというのに、彼は椅子に座った途端、眠り込んでいた。

 僕の右隣で、僕の肩に頭を預けて。


「大変そうだね」

 労りの言葉を述べておきながら、辻井の口調には面白がっている響きがあった。

 きっと僕も、辻井の立場だったら同様に面白がっていただろう。

 でも当事者となってしまったらそうはいかない。

「なんとかしてくれない?」

 思っていた以上にげんなりした声になっていた。肩が重いし、全然式に集中出来ない。何より、人目が恐ろしい。


 あちこちからくすくす…と囁き合うような笑い声が漏れ聞こえてくる。顔から火が出そうだ。

「あっち側に押しちゃえば?」

 辻井の案は自分でも思い付いていた。反対側の、誰も居ない空間に押し返してすっ転んだら。

 でもそれは可哀想か。どうしてもそう思ってしまい、実行に移せなかった。

 

 どうして教師は注意しに来ないのだろう。周囲に視線を配るが、体育館の両端に立つ教師たちの目は大体が舞台に向けられている。そうでない者は床だの明らかに何もない空間だのを見ていて、僕らに気付く様子はなかった。

 こんなんで良いのか、この学校は。

 早くも高校選びを間違ってしまった気がする。


「おい、起きろって」

 頭が乗っかっている肩を揺すってみるも、彼は太平楽に寝息を立てている。

 落ち込む僕に、辻井はぽつりと言った。

「いいなぁ」

「え?」

 首を回し、まじまじと辻井の顔を見る。辻井は悪戯がバレた子供みたいな顔をして、ふふっと笑った。


 入学式が終わると、そのまま始業式に移り、担任発表となった。

 一年一組から順番に発表される担任に、この学校の教師を一人も知らない僕ら新入生は淡々と聞いていた。その時は、在校生たちの方がよっぽど騒がしかった。


「えぇ~!」「あの人一年行くの!?」

 女子が多いから、ざわめく声も黄色い声が多い。来年には僕もあんな風に驚いたりショックを受けたりするのだろうか。想像が出来ない。


 五組の担任は、さっき僕らを体育館へ誘導した男だった。白い歯を光らせ、にかりと笑う。後ろでひときわ大きな声が上がった。人気教師なのだろうか。


 予定されていた式が全て終わり、各々が教室へ戻る。帰りは列を作らなくて良いらしい。

「おい!」

 もう憚る必要は無いので思いっきり肩を上げてやる。彼はびくりと頭を跳ね起こした。

「あ…?」

「あ? じゃない。式中ずっと僕の肩で寝て…」

「あー…」

 まだ覚醒しきっていないのか、頭を掻く彼の顔はまだ夢うつつだ。名札を見ると、『宮前(みやまえ)』とある。


 傍らでは辻井が楽しそうに見ている。ここはちゃんとしなければと宮前を睨んでやると、

「あー…悪かった」

 ぼそりと謝ると宮前は大きなあくびをひとつして、椅子から立ち、去って行く。僕よりは少しばかり高い背が、ゆらゆらと体育館を出て行く。

「なんだあれ…」

 憤然と立ち上がる。辻井は「お疲れ」とけらけらと笑った。

「行こ」

「うん…」

 僕の思い描いていた平穏な学校生活に、早くも暗雲が立ち込めていた。


 教室に戻ると、後ろでは保護者が集まっていた。母や辻井の姉の姿もある。手を振ってきた母に目顔で返し、席に着く。宮前はやっと覚醒したのか、つんとした顔で黒板を見ていた。

 

 全員が着席したのを確認して、教卓に立った担任が口を開く。

「はい改めて、僕がこのクラスの担任になった池田です。一年間よろしく」

 池田の快活な笑顔に、保護者らから拍手が起こる。僕らもすべきなのだろうか。クラスのみんなも迷っていたようだったが、池田が「はい、ではね~」と話を続けたので、問題は消えた。


 今後の学校生活について、この後の手続きについて、池田が流れるように説明していく。

 歳は三十代の始めだろうか。爽やかな顔立ちで、スポーツでもやっているのか胸板は厚い。滑舌が良く、はきはきと喋るので声が聞き取りやすい。担当教科は英語だという。体育っぽいと思っていたから意外に感じた。


「それじゃあこの後は教科書販売だな。各自教科書を買ったら、今日はそのまま帰って良し。お疲れ様」

 池田の合図と共に、みなが立ち上がり、保護者と共に教室を出て行く。

「お疲れ~」

 母が早速やって来る。

「まだあるけどね」

「さっさと終わらせましょ」


 流れで辻井姉弟と一緒に目的地を目指す。僕と辻井の後ろで、母と辻井姉はすっかり意気投合したのか楽しげに喋っている。

「あ」

 辻井が声を上げる。「ん?」と僕が訊くと、辻井は前方に指を差した。


 指の先に、宮前が歩いていた。隣に母親らしき女性を連れて。

「あれがお母さんか~」

 辻井が何を納得しているのか首を振っている。

「母親とは限らないかもだけどね」

「確かに」

 姉を保護者として連れて来ている辻井は、あははと笑う。


「でもお母さんっぽいよ。美人そうだし」

「顔は見えなくない?」

 完全に後ろ姿だし距離もある。宮前たちだと認識するので精一杯だ。

「雰囲気で判るって」

「ふーん?」

 そんなもんかな。

 半信半疑だったけれど、その後教科書販売でどうにか顔を確認した時、確かに宮前の母親と思しき女性の美貌は保護者たちの中で群を抜いていた。宮前は間違いなく母親似なのだろう。

 辻井の姉も相当な美人だが、彼女の場合は若さという優位性があるので単純に比較には出来ない。


 宮前の手付きを心配そうに見守る眼差しが、やけに印象に残った。



 無事に全ての手続きを終え、僕らは校舎を後にした。

「じゃあね、青葉。また明日」

 真昼の太陽の下で、辻井が大きく笑う。

「うん、また明日」

 太陽と辻井の笑顔の眩しさに目を細めながら、僕も手を上げて応える。

 辻井は、何がそんなに嬉しいのか手をぶんぶん振り回した。その隣で辻井の姉が会釈し、母も「またね~」と手を振る。


 辻井姉弟と別れた僕らは、校庭に停めていた車に乗り込んだ。

 大量の車が校庭を脱出するにはそれなりの時間が掛かる。一台ずつゆっくり校外へ出て行くのを気長に待つ。

 辻井たちの車がどれなのか探してみたところで、見つかりはしないだろう。それでも僕は窓の外を眺めていた。大量の車が並ぶ、圧倒的な景色を目に焼き付けたかったのかもしれない。


「どうだった? イメトレの成果は」

 ハンドルを握る母が問う。

「…別に。まぁ意味なかったよ」

「そうでしょーね」

 可笑しそうにけたけた笑う。運転に集中してほしいけど、まだ前の車に動く気配はない。


「でもいい友達できて良かったじゃない」

「んー…そうだね」

 辻井の太陽みたいな笑顔を思い出す。人懐っこくて取っ付きやすい、気のいいヤツだ。この学校で最初に出会ったのが彼で良かった。


 ようやく前の車が動き出す。母の車も唸り声を上げてゆっくり前に進む。太陽の光が弾け、眩しくて僕は目を眇める。

「辻井さんとこ…色々複雑みたいだから、想一くんが悩んでたら力になってあげるのよ」

 母の横顔を覗く。母はまるで世間話をしているみたいに、いつもと変わらぬ顔付きだった。


「…そんな感じ、するね」

 入学式に親ではなく姉が同行していたこと、名門中学を出ておきながらこんな田舎の商業高校に入ったこと、親の話を、避けたがっていたこと。

 半日関わっただけでも、辻井が何か重いものを抱えているのが判った。その重いものを、僕が知る日は来るのだろうか。


 開け放たれた校門の手前で、誘導係が母の車を止める。そのタイミングで、母が僕をジト目で睨む。

「分かった?」

「うん…分かった」

 辻井のことも、今後のことも、今はまだよく判らない。けれど、

『友達になってよ!』

 あの時辻井想一がくれた言葉は、確かに僕を安心させ、感動させた。だから辻井が望むなら、僕は幾らだって力を貸してもいい。


 誘導係が合図を出し、母の車が校門から車道へ移る。

 助手席から校舎を振り仰ぐ。そびえ立つ、白い棟が僕らを見送る。多少のハプニングはあったものの、明日から本格的に始まる高校生活に、僕は静かに胸を高鳴らせていた。


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