第34話 もう1人の変異体
初めて足を踏み入れた研究所は、ひどく殺風景だった。一面が白壁とコンクリート床で、観葉植物のひとつもない。そこに薬品じみたツンとした臭いも乗る。普段なら厳粛な雰囲気に満ちていただろう。
しかし今は混迷の真っ只中だ。
――うわぁ! ゾンビがこんな所にまで!
通路に座り込んでいた避難民たちが騒ぎ、そこかしこの部屋に逃げ込んだ。彼らの逃げた後には、高そうなジャケットやらストールなどが散乱していた。
僕はそれらを避けもせず、踏み越えてゆく。目指すのは遠くを逃げるアイザックだ。
(あいつ、迷いなく走り続けてるな。何かアテがあるんじゃないか?)
アイザックはこちらを振り向きもせず、ただ前だけを見ていた。左右に枝分かれする通路を通り過ぎ、しばらくして左手に曲がった。
単純に逃げ回っているのとは違う。何か確信があって、逃走しているようだった。
「この先に逃げたのか、地下室かな……?」
金属製の下り階段。あたりの照明は十分で見通しがきく。しかし階段を足で踏みしめた時、得も言われぬ寒気がして、動きを止めてしまった。
アイザックはすでに下りきっている。2フロア分ほど先を行くようだった。
「ボヤボヤしてる場合じゃない、追いかけなきゃ」
段差を2つ飛ばしで駆け下りる最中、ピピッという電子音が聞こえた。すると、けたたましい警報とともに、何かが動く音がする。
その正体を知ったのは、僕も階段を降りきった時だ。大小のコンテナがひしめく部屋の壁には、横スライド式の大きな扉があった。
スライドドアが閉まる。その向こう側で、アイザックが肩越しに振り向く姿が見えて、それから消えた。
「クソッ、待て!」
全力で駆けたが、ドアは無情にも閉じられてしまった。取っ手はない。開閉するにはカードリーダーを使う仕組みらしい。
「やられた! このままじゃ見失っちゃう!」
ヤケになってドアを蹴った。すると、そこだけベコりとへこみが出来た。信じられない気分になるが、力を込めて体当たりしてみる。
すると部屋全体が揺さぶられ、空のコンテナが渇いた音を響かせ、そしてドアが大きく歪んだ。フチの端からかすかに向こう側の様子も見て取れた。
「なんか分かんないけど、やれそうだ!」
ドアから大きく距離をとり、勢いよく駆けた。いける。突破できる。あとは何も考えない。自分なら出来ると信じた。
ドオンと、巨像でも暴れた音が響く。ドアは。壊れていないがひしゃげた。炙ったチーズのように大きく湾曲しており、ドアと天井の間に小さくない穴ができた。
「よし、あとは穴を広げれば! んぎぎぎ……!」
しかし今度は思うようにいかなかった。歪んだドアは、どんなに力をこめても形状を変えなかった。
しかたなく、このまま突破することにした。ドアの歪みに足をかけ、穴のフチに指を這わせて、身体全体を引っ張り上げた。
隙間から頭は通る。肩で一度つっかえて、身動ぎして角度を調整したら、それも抜けた。
「やった、通れた!」と喜ぶのも束の間で、腹を過ぎたあたりでバランスが崩壊。無様にも頭から床に落下してしまった。
「ふぅ、ふぅ、アイザックはどこに――ッ!?」
ドアの先はまた光景が変わった。その部屋は2階分の高さがある吹き抜けの構造で、上階から窓越しに見下ろす事のできる造りだった。
そして室内にはガラス製の大きな容器がいくつも並ぶ。液体で満たされたそれらの中には、動物の身体が浮かべてあった。さながら標本のようだ。
中身は多種多様。ネズミ、犬、熊、人間の男女、果てはゾンビまでもある。いずれも全身ではなく、腰から上のみとか、半身があるだけ。恐らく生きている者は無いだろう。
僕が呆気にとられて部屋の中をさまようと、不意に声が響き渡った。
――バイオ研究所へようこそ。私の言葉は分かるかね? それとも君は血肉を追い求めるだけの、哀れなる下等な獣だろうか?
スピーカー越しの声だ。僕があたりを見渡すと、男は満足げに言った。
――よろしい。どうやら知的生物らしい。君から見て左上方向。
言われたとおりに顔を向けると、そこには2人の男が並んでいた。1人は迷彩服のアイザックで、その隣に立つのは白衣を着た白髪頭。初めて見る顔だった。
――紹介が遅れたが、私はここで研究員として活躍するゾンビ研究第一人者の、早瀬という。お見知り置きを。
早瀬は今、研究と口にした。ロッソの聞いた噂に信憑性が出たと分かり、胸がはずんだ。
――君は理知的で、かつ変異した存在のようだな。その身体は頑強な一方でしなやかだ。弾丸を弾き、人をたやすく引き裂くだけでなく、鋼鉄の扉を破ることすら可能とする。いやはや。果たしてこんな化物を、人類は太刀打ちできるのか。甚だ疑問だねぇ。
早瀬はそう言いつつ、わざとらしく頭を振った。本心の言葉ではない。
――しかしね、私も研究者として1つの成果を手にしたよ。アイザック・レアボイル氏からゾンビ村での戦闘をヒアリングして、私はピンときたんだ。これまで仮説止まりだった論理に、裏付けをプレゼントされた気分さ。それからは早かったよ。
それから早瀬は身震いしてみせると、興奮したように早口になった。
――実はこれまでの実験で分かったことがある。ゾンビと一括りに言うには、実に多様な生物であると。損傷の修復が早いもの、血が凝固しやすいもの、いろいろだ。何が明暗を分けているのかと言うと、それはもちろん、感染前の身体の性質に依存するのだが……もっと重要な事実が存在する事を君は知ってるかね、えぇ?
早瀬はここまでワンブレスで言い切った。そして深く息を吸い込んでは、持論を叫んだ。
――そう、感情だ。ゾンビウィルスは感情に、とりわけゾンビ化する瞬間の感情に大きく左右される事がわかった。ありえるか。宿主の心持ちによって変化するウィルスなど、かつて存在しただろうか? もしかするとゾンビは人類の進化した姿かもしれない。どう思うかね。変異種の力を得たデッドウォークよ、えぇ?
ここで、しびれを切らしたのか、隣のアイザックが口を挟んだ。苛立ちを感じさせる声だった。
――早瀬、さっさとやれ。御託なら全てが終わってから存分に語れ。
――つれないですね。まぁやりますとも。そのかわり、あの変異種を献体していただく約束をお忘れなきよう。
――好きにしろ。あれを倒せるなら何だっていい。
――と、いうわけだ。理知的な変異種よ。講義はこれまで。あとは君を無力化してから、ジックリと続けようか。じっくりとねぇ……。
そのとき、部屋の片隅でガラス管が動いた。内側に満たされた液体は周囲に溢れ出し、それも白い煙となって消えた。
白煙の中で赤黒い何かが蠢く。人型だ。白濁した瞳、黒く炭化した肌に無数の赤い筋が走る。
僕は思わず自分の手足を見た。眼の前のゾンビと酷似していた。
――さぁやれ! 殺し合え! どちらがより優れているか、ここで観察させてもらおうじゃないか!
早瀬がスピーカー越しに叫ぶと、新手のゾンビも高らかに吠えた。その声は、憤怒に満ちていた。